2020年01月17日
日本史上最悪の大火災 明暦の大火
あれから25年・・・
今日1月17日は阪神淡路大震災が起きた日ですね。(平成七年 1995年)
淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3、最大震度7を記録した地震で、死者6434人、行方不明者3人、負傷者4万3792人の被害を出した大惨事でした。
この地震、関西に住んでいる方には痛烈な記憶として残っていると思いますが、僕を含め関東の人間にはやや記憶が薄れつつあります。
というのも、関東以北に住む人間には平成二十三年(2011年)に起きた東日本大震災の衝撃が大き過ぎたからです。
しかし、日本は地震大国であり、今後も南海トラフ地震などが予想されているので、過去に起きた大地震の記憶を風化させず、未来に生きるための教訓として忘れてはならないことだと思います。
それにしても、あの大地震から四半世紀も経つとは・・・本当に月日の早さを実感します。
さて、明日1月18日は江戸の町を襲った大火災、明暦の大火が起きた日です。(明暦三年 1657年)
俗に、“火事と喧嘩は江戸の華”という言葉があるくらい江戸の町は本当に火事が多かったのですが、この火事の規模はレベルが違いました。
この火事により江戸の三分の二が焼失、約10万7千人が焼死し、江戸城天守閣までも焼失してしまうほどの大惨事だったのです。(※江戸とは現在の東京23区の中央部)
この火災が起きた当時は前年の11月から80日以上雨が降っておらず、非常に乾燥した状況が続いていたことも火災の規模が拡大した要因と考えられます。
明暦の大火は、西暦64年のローマ大火、1666年のロンドン大火と並んで世界三大火災の一つにも数えられているので、日本では史上最大の火災ということになります。
しかしこの火災、有名になったのは被害の大きさだけでなく、様々な “いわく” があるからなのです。
というわけで、今回は明暦の大火にまつわる話について語りたいと思います。
恋する乙女の怨念が出火原因 !?
明暦の大火は別名“振袖火事”ともいわれます。
そこには恋する乙女の悲しい物語がありました。
浅草に住んでいたお菊という16歳の娘が本郷にある本妙寺に参拝に訪れた際、その寺の小姓に一目ぼれしてしまった。
お菊は小姓が着ていた着物と同じ柄の振袖を作らせ肌身離さず着ていたが、結局その恋が実ることはなく、お菊は恋わずらいの末、明暦元年1月16日に若くして死んだ。
両親はお菊の振袖を供養のため本妙寺に出したが、寺ではその振袖を古着屋に売ってしまった。
すると、お菊と同じ16歳のお花がその振袖を買ったが、今度はそのお花が死んだ。
お菊が死んでからちょうど1年後のことだった。
振袖は再び本妙寺に戻されたが、また古着屋に出されてしまった。
次におたつという16歳の娘がこの振袖を着ることになったが、おたつもやはり1年後の明暦三年1月16日に死んでしまう。
三たび本妙寺に戻ってきた振袖をさすがに不気味に思い、ようやくこの振袖を供養することにした。
おたつが亡くなって二日後の1月18日、振袖供養のための読経を行ない、振袖を火の中に放り込んだ時、火のついた振袖が人の形に燃えて舞い上がり、本堂の屋根に燃え移った。
火はあっという間に燃え広がり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火災へと発展した。
スカパー!
江戸の都市改造計画のために幕府が放火した !?
乙女の恋物語とは一転して現実的に考えられるのがこの説です。
徳川家康が来る以前は小さな田舎の漁村だった江戸ですが、幕府が開かれて以来、飛躍的に人口が増加しました。
しかし、当時の江戸の町は年々膨れ上がっていく人口の増加に対しあまりに規模が小さかったので、住宅は不足し上下水道も不備、道路などの交通網の整備なども全く追いついていませんでした。
このため、幕府は早急に江戸の町の整備を迫られていましたが、既存の家や建物を壊すことを庶民に承知させるのはとても困難でした。
そこで、かなり強引なやり方ではありますが、火事で江戸の町全体が焼失してしまえば、その後スムーズに町作りができると考え、幕府が意図的に放火させたのではないかということです。
実際、この火事をきっかけに新しい江戸の町づくりが進んで区画整理も行われ、さらに火除地が設けられて江戸の町に火消しの仕組みが作られるなどの防災体制も整ったのです。
この火災後の町づくりが、幕府が以前から計画していた通りに進み過ぎていたことからこの疑惑が生まれました。
また、詳細な記録によると、18日に本妙寺から出た火事はその日のうちに一旦鎮火したのですが、翌19日に小石川の伝通院から出た火事がこの大火災の原因になったとされているので、この19日の火事が幕府の仕業ではないかといわれています。
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実は老中の失火が真相 !?
19日の火事が大火災の原因と考えられているものの、この火災の最初の火元はやはり本妙寺です。
当時、火事を出すことは大変な重罪でした。
にも関わらず、不思議なことに本妙寺には全くお咎めがありませんでした。
それどころか、後に寺の格式まで上がっているのです。
これは一体どういうことでしょうか?
このことから、実は本妙寺は犯人の身代わりを引き受けたのではないかと言われているのです。
では、真犯人は誰なのか?
それは、本妙寺の近隣にあった老中・阿部忠秋の屋敷が火元だったとする説です。
もし、幕政の中心である老中の屋敷から出た火事が大火災の始まりになったことを世間に知られたら、幕府は大変なことになります。
そこで、幕府は老中の失態を隠ぺいし、本妙寺に失火の責任を被ってもらったのではないでしょうか?
こう考えた時、初めて本妙寺にお咎めがなかったことに合点がいくのです。
さらに、その証拠とも思えることがあります。
火事の後、阿部家から本妙寺に大火の供養料という名目で毎年米10俵が寄贈されているのです。
しかも、この供養料の寄贈は江戸幕府崩壊後も続き、なんと関東大震災(9月1日付ブログ参照)のあった大正十二年(1923年)まで続いていたのです。
そもそも幕府としてはこの火事の後、供養のために回向院を建立しているので、阿部家が単独で毎年供養料を収め続けているのは不可解に思えます。
つまりこれは、本妙寺に罪を被せてしまった後ろめたさからではないでしょうか?
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まとめ
- 明暦の大火は10万7千人もの焼死者が出た大惨事で、世界三大火災の一つになっている
- 別名“振袖火事”といわれるのは、娘の怨念が乗り移った振袖が火事の原因という言い伝えによるもの
- その他にも幕府の江戸改造計画のための陰謀説、老中屋敷の失火説などがある
明暦の大火は旧暦1月の出来事ですが、冬場は空気が乾燥していて本当に火事が多いので、皆さんも火の元には十分お気を付け下さい!
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