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2020年01月15日

源頼朝の不可解な死の謎に迫る!

幕府が意図的に隠ぺいした !?

前回のブログでは源頼朝の生涯について語りました。

現在では鎌倉幕府の成立年や有名な頼朝の肖像画が違っていたことは意外でしたが、頼朝について最大の謎とされているのが死の真相です。

謎の発端は、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』にあります。

『吾妻鏡』では、建久七年(1196年)12月から頼朝が亡くなった直後の正治元年(1199年)2月まで、二年以上もの記録が欠落しているのです。

つまり、頼朝が死亡した時の状況や葬儀のことなど、頼朝の死に関する記録が全くないのです。

しかも、『吾妻鏡』の中で頼朝の死因についての記録が見られるのは、なんと死後13年も経ってからです。

これは、ちょっと不自然ではないでしょうか?

鎌倉幕府を創設した初代将軍である頼朝の死となれば、幕府にとって間違いなく重大な出来事と思われるのですが、記録上あまりにもその扱いが軽いのです。

まるで、頼朝の死について記録することを意図的に避けたような印象すらあります。

この不自然な記録が、後に様々な憶測を呼ぶことになったのです。

頼朝は一体、何が原因で亡くなったのでしょうか?

というわけで、今回は頼朝の死にまつわる謎について語りたいと思います。

落馬説

一般的に頼朝の死亡原因とされているのが、この落馬による死亡説です。

建久九年(1198年)12月27日、頼朝は御家人の稲毛重成が亡き妻のために架けた相模川の橋供養(落成式)に出席するために出掛けました。

重成の妻は頼朝の妻・北条政子の妹なので、頼朝にとっては義妹にあたる関係でした。

その帰り道、稲村ケ崎付近で頼朝は落馬し、この時の怪我が元で正治元年(1199年)1月13日に死亡したというのが定説となっています。

これは、『吾妻鏡』が建暦二年(1212年)2月にようやく明らかにした記録によるものです。

しかし、頼朝は乗馬の達人といわれていたので、はたして頼朝ほどの達人が大怪我を負ってしまうほどの落馬をするだろうか?という疑問が残ります。

そこで考えられるのが、馬上で脳卒中を引き起こしたため落馬したとする説です。

脳卒中で意識を失ってしまったのなら落馬も仕方ないと考えられるからです。

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怨霊説

頼朝は平氏、弟の義経、奥州藤原氏などを謀略によってことごとく殺しているので、無念の死を遂げた多くの人間たちの怨霊に取り殺されたとする説です。

橋供養の帰り道に八的ヶ原という場所に差し掛かった時、頼朝の前に何人もの亡霊が現れます。

それは、弟の義経をはじめ、頼朝によって命を奪われた者たちの亡霊でした。

頼朝は驚きのあまり落馬してしまいますが、それでも亡霊から逃れるため急いで馬を進めました。

しかし、稲村ケ崎付近まで来た時、今度は海上に小さな男の子の亡霊が現れたのです。

男の子の亡霊は

「我こそは貴様のために命を落とした安徳天皇である。今こそ恨みを晴らしてくれる!」

と叫んで頼朝を追ってきました。

安徳天皇は、源平最後の合戦・壇ノ浦の戦い3月23日付ブログ参照)で平氏が敗れたため、わずか8歳にして祖母の平時子(清盛の妻)と共に海の藻屑と消えた悲劇の天皇です。

何とか亡霊から逃れて鎌倉に戻った頼朝ですが、間もなく原因不明の病にかかり、翌年の1月13日に死亡したとされています。

頼朝落馬.jpg
 神奈川県藤沢市辻堂付近の史跡

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暗殺説

本当に落馬が原因で亡くなったのなら、当時の状況が『吾妻鏡』に詳細に記録されているはずであり、また怨霊説はさすがに非現実的と思われます。

そこで推察されるのが、暗殺によるものだから頼朝の死を意図的に隠したと考える説です。

  • 反幕府派の公家による暗殺
    当時、頼朝は娘を後鳥羽天皇に入内(結婚)させようと画策していました。
    平清盛と同じように、自らの娘が天皇の子を生めば、頼朝は外戚として朝廷にも大きな影響力を持つことができるからです。
    しかし、頼朝が朝廷にまで影響力を持つことだけは何としても阻止したい反幕府派の公家・土御門通親は、落馬によって床に臥せていた頼朝に毒を盛って殺したとする説です。


  • 頼朝の浮気が原因
    浮気性だった頼朝が容姿を変え、愛人の元へ夜這いに行こうとした時、警護をしていた御家人の安達盛長に曲者と間違えられて斬られたとする説です。
    この曲者が頼朝だったと気付いた盛長は責任を感じその場で切腹しようとしましたが、頼朝は盛長を押し止め「急病で死んだことにしておけ」と言い残し息を引き取ったそうです。


  • 妻の政子に殺された
    ある日、頼朝が妻の政子に「御家人の中で一番容姿の優れているのは誰か?」と尋ねたところ、政子は「それは畠山重忠です」と即座に答えました。
    もともと猜疑心の強い頼朝は二人の関係を疑い、それを確かめるため重忠の格好をして夜に政子の寝所に忍び込みました
    すると、政子は曲者が寝込みを襲ってきたと勘違いして近くにあった薙刀で頼朝を斬り殺してしまったというのです。


浮気か政子のどちらかが真実なら、将軍として何とも情けない死に方になってしまいますね。

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まとめ

  • 鎌倉幕府にとって重要事項と思われる頼朝の死について『吾妻鏡』には当時の記録がなかったため、死因については様々な憶測を呼んだ

  • 一般的には橋供養の帰りに落馬したことが原因で死亡したとされている

  • その他にも怨霊に取り殺された、暗殺されたなど多数の説がある


ちなみに、相模川河口付近を「馬入川」というのは、橋供養に訪れた頼朝の乗った馬が雷鳴に驚いて川に入ってしまったことから名付けられたそうです。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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