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2020年04月08日
“コロナ疎開” で困惑 !? 長野県の地名
“コロナ疎開” は感染リスクを拡散するだけ
昨日、緊急事態宣言が出されて、いよいよ日本も切迫した状況となってきました。
東京を中心とする首都圏で感染者が増加する中、“コロナ疎開”という言葉がトレンドに上がっています。
東京近郊に在住する人が感染リスクを恐れるあまり、まだ感染者の少ない地方へ続々と避難する傾向のことです。
実際、長野県の軽井沢などではいつもならあまり見かけない今の時期に、東京ナンバーの車が異常に多いようです。
この動きに長野県知事は首都圏からコロナウイルスが持ち込まれることで、県内で感染爆発が起きるのではないかと懸念しています。
ここで、「緊急事態宣言は来月6日まで」という意味をもう一度考えてみましょう。
政府としてはこの「来月6日まで」、つまり“ゴールデンウィークが終了するまで”という期間に大きな意味を込めたと考えられます。
すなわち、政府はゴールデンウィークに都市部にいる多くの無自覚感染者が観光地に行き、その地で感染を拡大させてしまうのを防ぐのが狙いというわけです。
僕も旅行好きのアウトドア派なので外出自粛は苦痛に感じますが、露骨なコロナ疎開はその土地の方々に迷惑を掛けてしまうし、また今は白い目で見られるだけです。
こういう時だからこそ、自分だけでなく周りの方々にもきちんと気遣いすることを心掛けたいですね。
さて、コロナ疎開で話題に上がった長野県ですが、いろいろ調べてみると長野県の観光地にはなかなか面白い地名の由来があります。
僕は甲信越地方が好きでよく旅行に出掛けるのですが、今は自粛しなければなりません。
なので、有名観光地の地名の由来を知ることで、今後出掛けられる時期になった時の楽しみの一つにしたらどうでしょうか。
というわけで、今回は長野県の観光地名の由来について語りたいと思います。
軽井沢(かるいざわ)
・北佐久郡軽井沢町
軽井沢といえば、日本を代表する高原の避暑地として有名ですが、実はこの軽井沢という地名、意外に多いのです。
同じ長野県内の長野市や上田市にも存在し、他県にも秋田県や神奈川県、静岡県ほかで多く見られる地名です。
地名の由来は諸説あるのですが、この付近には峠が多く、峠を登る時には馬から荷物をおろして自分で背負わなければならなかったため、荷物を背負うことを地元の方言で(かるう)と言ったことから、(かるうさわ)となり、これが(かるいさわ)に転じたと考えられています。
さらに、この(かるいさわ)が、明治以降外国人が多く訪れるようになったことにより、外国人にも発音しやすい(かるいざわ)になったといわれています。
他にも、枯井沢(かれいさわ=水の枯れた沢)から転じたという説もあります。
また、軽井沢の特徴の一つといえるのが「南軽井沢」や「中軽井沢」のような、〇軽井沢という地名が多いことです。
これは、中山道の宿場町であった旧街道周辺を「旧軽井沢」、現在の駅周辺を「新軽井沢」と分けたことに始まり、その他の「〇軽井沢」は全て別荘地開発以降につけられた地名です。
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上高地(かみこうち)
・松本市
上高地 河童橋付近
「大正池」や「河童橋」などの景勝地で知られる日本有数の山岳リゾートですね。
上高地はあまりの人気で混雑が激しくなり、昭和五十年(1975年)から夏場はマイカー規制されるようになったほどです。(平成八年(1996年)以降は通年マイカー規制)
上高地の名は、古くは穂高神社の祭神「穂高見命」(ほたかみのみこと)が穂高岳に降臨した「神降地」に由来するといわれています。
その後、「神降地」が土地の地形に則して「神河内」と書かれるようになりました。
河内とは、(山間の渓流にある小さな平地)という意味です。
さらに、江戸時代中期ごろから(梓川上流にある山岳地帯の高地)ということで「上高地」となりました。
上高地の自然を世界に紹介したのは、明治時代のイギリス人宣教師ウォルター・ウェストンです。
上高地では毎年6月にウェストンの功績を称えて「上高地ウェストン祭」が開催されます。
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白骨温泉(しらほねおんせん)
・松本市
白骨温泉は上高地の松本側入り口に近く、「乳白色の湯」として知られる県内屈指の名湯です。
白骨温泉は「三日入ると三年は風邪をひかない」ともいわれています。
地名の由来は、栃ノ木の大きな丸太を湯船として使用し、その内側が温泉の石灰成分により白くなったことから、古くは「白船」と呼ばれていました。
あるいは、湯船に落ちた倒木の枝が温泉の成分で白く染まり、人骨のように見えたので「白骨」と呼ばれることもありました。
その後、中里介山の長編小説『大菩薩峠』の中でこの温泉が「白骨」と表現されたことで現在の呼称が定着するようになりました。
白骨温泉といえば、平成十六年(2004年)に共同浴場などで入浴剤を入れていたことが発覚し騒動になったことがあります。
これは、白骨温泉のウリである「乳白色の湯」が一時期源泉の一部で薄くなっていたため、客足が遠のくのを恐れ、入浴剤を入れて偽装しようとしたのがその理由です。
当時は批判に晒されましたが、天然温泉は条件によって多少色が変化することもあり、温泉の色が薄くなっても効能に変わりはないそうです。
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まとめ
- 軽井沢
→荷物を背負うことを地元の方言で(かるう)と言ったことから - 上高地
→「神降地」に始まり、さらに「神河内」から転じて梓川上流の山岳地帯の高地から - 白骨温泉
→温泉の成分により白く染まった枝木が人骨のように見えたことから
ちなみに、芥川龍之介の小説『河童』は上高地および河童橋を題材にしたものです。
2020年04月06日
あの“名言”は創作 !? 板垣退助遭難事件
「自分は大丈夫」と考える人の勘違い
新型コロナウイルスの感染拡大が拡がる一方、ついに政府の緊急事態宣言が明日にも発令されることとなりました。
しかしこの期に及んでも、未だに「自分は大丈夫」と思っている危機意識の希薄な人がいるのには驚きます。
これはどうやら中高年の人に多いのですが、店に買い物に行くと、マスクもせず無雑作に品物を物色している人が少なくありません。
またそういう人に限って、レジでは必要以上に前の人に接近する。
こういう方々に声を大にして言いたい。
マスクは自分が感染しないためよりむしろ、周りの人に感染させないために着用するのです。
すると、「じゃあ、自分は感染してないから心配ない」と考えるのでしょうが、それは単に自覚症状が出ていないだけで、本当はとっくに感染しているのかもしれないのです。
僕はこのブログで人を批判するようなことを書くつもりはありません。
ですが、世の中これだけ大変な事態になっているのに、まだ「自分には関係ない」と周囲の人に気遣いさえできない無神経な人には、正直怒りすら覚えます。
1.周囲に人がいる場所では必ずマスクを着用
2.周りの人とは常に一定の距離(できれば1.5〜2b以上)を保つ
外出しなければならない時は、この二つを徹底するだけで確実に感染リスクは抑えられるはずです。
さて、今日4月6日は板垣退助が暴漢に襲われた岐阜事件が起きた日です。(明治十五年 1882年)
板垣退助は明治時代の政治家で、幕末の戊辰戦争で活躍し、明治維新後は国会開設に尽力し自由民権運動の旗頭となった人物です。
明治十四年(1881年)日本初の政治政党・自由党を結成して党首となった板垣が遊説中に遭難した岐阜事件。
この事件で特筆すべきは、事件そのものより“ある名言”が世間に広く知れ渡ったことです。
というわけで、今回は岐阜事件で有名になった名言の真相について語りたいと思います。
事件の経緯
明治十五年(1882年)春、前年10月に自由党を結成し党首となった板垣退助は東海地方で精力的に遊説を行なっていました。
板垣は静岡、浜松、名古屋と西へ進み、4月6日に岐阜の神道中教院で演説を行ないました。
午後6時半、板垣が中教院での演説を終えて帰途に就こうとした時、突然「将来の国賊!」と叫びながら暴漢が襲ってきたのです。
暴漢は刃渡り27aの短刀を振りかざして襲い掛かり、揉み合いの末、板垣は刺傷を負ってしまいます。
そこへ板垣の秘書をしていた内藤魯一(ろいち)が暴漢を取り押さえ、犯人は現行犯逮捕されました。
岐阜事件の様子を描いたもの
犯人は相原尚褧(なおぶみ)という自由党を敵視していた小学校教員でした。
板垣は両胸や手など全身に7ヶ所の傷を負ったものの、幸いにも命に別状はありませんでした。
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“あの名言” で板垣は人気者に!
この事件の際に板垣が叫んだといわれるのが
「板垣死すとも自由は死せず」
という言葉です。
板垣は(たとえ自分が死んでも、我々が志す自由民権の精神は消えることはない)と唱えたのです。
この名言は4月11日付の大阪朝日新聞に初めて掲載されて一躍有名になりました。
自分の命が狙われた大事件にも関わらず、それでも民主主義を訴えた板垣にたちまち称賛の声は高まります。
板垣の評判があっという間に世間に広まったことで板垣人気は沸騰、板垣が演説会を開くと板垣見たさに多くの民衆が殺到したといわれています。
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実は創作 !? 名言の真相
しかし、人々に語り継がれているこの名言、実際に板垣が叫んだ言葉とは違うといわれています。
実はこの言葉を叫んだのは、暴漢を取り押さえた内藤魯一らしく、内藤の機転で板垣が叫んだことにしたというのが真相のようです。
あるいは、刺された直後に駆け寄ってきた党員たちに板垣が「自分が死んでも自由は亡びぬ」と言ったのを、後に党員が「暴漢に向かって叫んだ」と新聞記者に説明したという説もあります。
実際の板垣は、襲撃直後に土佐弁で「痛いがぁやき、早よう医者を」(痛い!早く医者を)と叫ぶのが精一杯だったそうです。
後に板垣自身も
「(襲撃時には)アッと思うばかりで声も出なかった」
と、回想しています。
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まとめ
- 岐阜事件とは、自由党党首の板垣退助が遊説中に岐阜で暴漢に襲われた事件
- 板垣は襲われた時「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことが評判となり称賛された
- しかし、この名言は自由党員や新聞記者による創作と考えられている
この名言がマスコミによって創り上げられたものと知り、僕は元近鉄・加藤哲郎氏の「巨人はロッテより弱い」発言を思い出しました。(笑)
2020年04月03日
剛力無双の弓の使い手 源為朝
日本各地に残る為朝伝説
4月6日は源為朝が亡くなった日です。(嘉応二年 1170年)
源為朝は教科書などにはその名前がほとんど出て来ないのでわからない方も多いと思いますが、平安末期の伝説の武将として知られています。
為朝が伝説の武将といわれる理由として、武士がようやく頭角を現わし始めたばかりの平安末期にあって、その圧倒的な強さで数々の武勇伝を残しているためと思われます。
また、為朝は甥の義経にも通じるところがあり、天才的な戦上手であったにも関わらず悲劇的な最期を遂げてしまったのも共通していて、“判官びいき”な日本人に親しまれる所以です。
義経の伝説が日本各地に残っているのと同様に、為朝も各地にその名や伝説を残しています。
大分県には為朝を祀る「為朝神社」があり、「タメトモハゼ」や「タメトモユリ」など為朝の名を冠する動植物がいたり、その武勇にあやかって為朝の子孫と名乗る武将が何人もいます。
義経自身、本当は八男だったが、叔父の為朝の武勇に遠慮して八郎ではなく「九郎」を名乗ったとさえ言われています。
というわけで、今回は源為朝について語りたいと思います。
驚異的な体格を誇る生粋の荒武者
源為朝 保延五年(1139年)〜 嘉応二年(1170年)
為朝は源氏の棟梁・源為義の八男として生まれます。兄は義朝(頼朝・義経の父)。
為朝は身長が七尺(約2b10a)もある大男で気性も荒く、生まれついての乱暴者だったといわれています。
為朝といえば、まず剛弓の使い手として有名なのですが、為朝の剛弓伝説を裏付ける逸話があります。
為朝の体は弓を支えるため前に突き出す左腕が弦を引く右腕より12aも長く、まさに弓を引くために生まれてきたような特異な体つきをしていたのです。
13歳の時、為朝はあまりに乱暴が過ぎたため、父に勘当され九州に追放されてしまいます。
しかし、為朝は九州でも仲間を集めて暴れ回り、わずか3年で九州全土を制圧、かの地で鎮西八郎と名乗りました。
朝廷は為朝に召還命令を出しましたが、為朝がこれに従わなかったため、父の為義が官職を解任されてしまいます。
これを知った為朝は父のためにやむなく都に戻りました。
やがて都では、朝廷や摂関家が分裂して争う保元の乱が起こります。
為朝は父為義と共に崇徳上皇方につき、後白河天皇方についた兄の義朝や平清盛(2月3日付ブログ参照)と戦うことになりました。
ここで為朝は得意の弓さばきをいかんなく発揮し、次々と敵将を射抜き奮戦しました。
為朝の放った矢は鎧を着た敵将の体ごと射抜き、さらにその矢は後ろにいた武者の鎧の袖まで貫いたという逸話が残っています。
しかし為朝の善戦虚しく、総大将であった父為義が降伏したため上皇方は敗れました。
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流人となっても武人魂は衰えず
戦後、為朝はその武勇を惜しまれて命は助けられましたが、二度と弓を引けぬよう肘の筋を切られてしまいます。
つまり、それほどまでに為朝の剛弓が恐れられていた証拠といえるでしょう。
その後、伊豆大島に流罪となった為朝ですが、筋を切られた腕の傷が癒えると再び動き出し、あっという間に大島を征服してしまいます。
その勢いでさらに周辺の島々にも渡り、大島に流されてから約10年で伊豆諸島を完全に制圧しました。
しかし、島の代官が上洛して為朝の乱暴狼藉を訴えたため、朝廷は為朝追討軍を派遣しました。
朝廷の追討軍が攻めて来るのを知った為朝は、多勢に無勢であることを悟って諦めます。
それでも為朝は武人としてせめて一矢だけでも報いたいと考え、敵船に得意の剛弓を放ち、なんと一発でその船を撃沈させたのです。
こうして為朝は思い残すことなく、潔く自害して果てました。
為朝の自害をまだ知らない追討軍は為朝の武勇を恐れるあまり、なかなか大島に上陸できなかったそうです。
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為朝は死なず琉球へ渡った !?
実は為朝には、大島で自害せず琉球(沖縄県)に渡り、琉球王国の祖になったという伝説があるのです。
為朝生存説を一般に広めたのは、為朝を主人公とした小説『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)を書いた江戸時代後期の作家・滝沢馬琴です。
伝説によると、為朝は追討軍の追手を逃れ、大島を脱出して八丈島に渡り、そこから九州方面に向かい琉球に辿り着きます。
そして琉球において土豪の娘と結婚し、生まれた子が後に琉球の国王・舜天王(しゅんてんおう)になったというのです。
もともと為朝生存説は、馬琴が『椿説弓張月』を書くきっかけとなった琉球王国の正史『中山世鑑』(ちゅうざんせいかん)に由来します。
しかし、この『中山世鑑』が書かれた当時、琉球は日本と中国に両属するという複雑な事情を抱えていました。(11月1日付ブログ参照)
つまり、『中山世鑑』は琉球の日本帰属を正当化させるための口実として、為朝の子が国王になったと創作したのではないかと考えられるのです。
また、源義経生存説(11月11日付ブログ参照)と同じように、為朝ほどの英雄を死なせたくないという庶民の願望が生み出した産物という要素もあるでしょう。
まとめ
- 源為朝は身長が2bを超える大男であり剛弓の使い手として恐れられた
- 保元の乱で敗れた為朝は伊豆大島に流されたが、流刑地でも武勇を誇示し伊豆諸島を征服した
- 為朝には大島で死なず琉球に渡って琉球王国の祖になったという伝説がある
伊豆大島では今でも為朝が親しまれていて、島の女性と結婚して移り住んできた本土出身の男性を、為朝にあやかって「ためともさん」と呼ぶそうです。