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2020年04月15日

“孤児根性” が生み出した名作 川端康成

日本人初のノーベル文学賞

緊急事態宣言から一週間が過ぎ、気になるニュースを耳にしました。

食品スーパーでは、品薄や欠品、混雑などに対するお客のクレームが増加し、かなり苦慮しているといいます。

そして、お客のクレーム対応に疲弊した従業員からの退職相談が相次いでいるそうです。

外出自粛などでストレスの溜まったお客が増えているのも原因の一つでしょうが、ストレスのはけ口をこんなところにぶつけるのは許されるものではありません。

ただでさえスーパーの従業員の方は人手不足による過重労働、さらにはコロナ感染の恐怖と闘いながら働いているのです。

その上、心無いお客からクレームばかり浴びせられたら辞めたくなるのは当然です。

もし、この状況に嫌気がさした従業員の方々が辞めてしまい、多くのスーパーが閉店に追い込まれてしまったら・・・・私たちの生活はどうなりますか?

スーパーに限らず、生活必需品を販売する店は私たちの生活を支えてくれている大切なライフラインなのです。

その意識を心に留め、せめて店員さんに対しては気持ち良く接することを心掛けたいですね。


さて、明日4月16日は作家・川端康成が亡くなった日です。(昭和四十七年 1972年)

川端康成は昭和を代表する作家の一人で、昭和四十三年(1968年)に日本人初のノーベル文学賞を受賞した人物です。

川端康成の他にノーベル文学賞を受賞した日本人は、平成六年(1994年)に受賞した大江健三郎氏のみです。

代表作『伊豆の踊子』は何度も映画化され、美空ひばり、吉永小百合、山口百恵など、その時代を彩るヒロインが主役を務めました。

また、伊豆半島を走る特急電車にもその名称が採用され(踊り子号)、今なお親しまれています。

というわけで、今回は川端康成について語りたいと思います。

肉親に恵まれなかった少年時代

川端康成 明治三十二年(1899年)〜 昭和四十七年(1972年)
川端康成.jpg

川端康成は大阪府大阪市の開業医の家に生まれます。

しかし、康成がわずか1歳の時に父が結核で亡くなり、翌年には母も同じ病気で亡くなってしまいます。

幼くして両親を失った康成は祖父母の家に引き取られますが、7歳の時に祖母が亡くなり、10歳の時にはたった一人の姉弟であった姉も亡くなってしまいました。

やがて祖父も亡くなり、康成は15歳にして完全に孤児となってしまったのです。

多感な少年時代に次々と肉親を失い孤児となったことで、康成にいわゆる“孤児根性”が強く植え付けられ、これがその後の人生と文学作品に大きな影響を与えたといわれています。

孤児となった康成は伯父に引き取られ、地元の旧制中学を卒業後、上京して一高(第一高等学校=現・東京大学)に入学しました。

一高卒業後に東京帝大(東京帝国大学=現・東大大学院)文学部に進学しますが、中学時代から小説家を志していた康成は学生時代には執筆活動に没頭しました。

そして、大学卒業後に横光利一らと文学雑誌『文藝時代』を創刊します。

康成は(新しい生活、新しい文芸とは何か)を主張し、新感覚派と呼ばれました。

その後、『伊豆の踊子』、『雪国』、『山の音』、『眠れる美女』などの作品を世に送り出し、康成は作家としての地位を確立します。

戦後には日本ペンクラブの会長に就任するなど、日本文学の復興にも尽力しました。

こうした実績が世界に認められ、昭和四十三年(1968年)日本人初のノーベル文学賞を受賞したのです。

ノーベル文学賞受賞から4年後の昭和四十七年(1972年)4月16日、康成は仕事場にしていた神奈川県の逗子マリーナのマンションでガス自殺を遂げてしまいました。(享年72歳)

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冒頭の風景描写が印象的な代表作

康成の作品で特徴的なのは、作品冒頭の巧みな描写がとても印象的で読者にインパクトを与えることです。

ここでは冒頭の描写が特に印象的な作品を二つ紹介します。


『伊豆の踊子』の冒頭

「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た」

あらすじ:傷心旅行で伊豆に訪れた東京の大学生が旅芸人の一座と道連れになり、素朴で純情な若い踊子と触れ合ううちに、学生は人の温かさを感じ取ることができるようなる

これは康成自らが一高時代に体験したことを綴った作品であり、康成は「自己を憐れむ自分を厭う念(孤児根性)を振り払うために出掛けた徒歩旅行だった」と回想しています。


『雪国』の冒頭

「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった」

あらすじ:雪国の温泉に訪れた島村はそこで働く芸者・駒子と出会い、自らが報われることを求めず、純粋な心で物事に打ち込む駒子の姿に次第に魅かれてゆく

これも『伊豆の踊子』同様、康成が旅先で出会った経験から生まれた作品で、「長いトンネル」とは上越国境の清水トンネルのことであり、舞台は新潟県の湯沢温泉となっています。



“ギョロ目” が生んだエピソード

康成の風貌を見て最も印象に残るのは、何と言っても「大きな目」ですね。

彼はその大きな目で人を長くジロジロと見つめる癖があったらしいのです。

若い女性編集者が初めて康成を訪問した際、ただジロジロと見つめられるばかりで何も話してもらえず、女性はついにその雰囲気に耐えかねて泣き出してしまったといいます。

しかし、康成にとっては普段からの何気ない癖だったので、突然泣き出した編集者を見て逆に彼自身が驚いてしまったようです。

さらに驚きのエピソードがあります。

ある夜、泥棒が家に押し入り、康成の寝ている寝室に忍び込みました。

その気配に気付いた康成が驚いて起き上がり泥棒と目が合うと、ジッと睨みつけたのです。

すると、泥棒は

「・・・だめですか?」

と、一言だけ言って逃げ出したそうです。

康成の目力に圧倒された泥棒の気持ちがわかるような逸話ですね。



まとめ

  • 日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成は幼い頃に親兄弟を亡くし、生涯“孤児根性”に苛まれていた

  • 康成の作風は『伊豆の踊子』や『雪国』に代表される冒頭の風景描写が印象的

  • 康成の特徴であった「大きな目」は時に人を圧倒し、泥棒を退散させたこともあった


若い頃に『伊豆の踊子』を読むと、男は未知なる出会いに期待して旅に出たくなるものです!(笑)

2020年04月13日

伝説の舞台裏に迫る! 巌流島の決闘

語り継がれる“伝説の決闘”

今日4月13日は巌流島の決闘があった日です。(慶長十七年 1612年)
巌流島の戦い.jpg
 佐々木小次郎(左)と宮本武蔵

巌流島の決闘は、宮本武蔵佐々木小次郎という二人の剣豪による宿命の決闘として語り継がれています。

この“宿命の対決”は、小説家・吉川英治の『宮本武蔵』によって広く知られるようになり、ドラマティックな決闘シーンは何度も映画やドラマで再現されています。

決闘の舞台となった巌流島とは山口県下関市の関門海峡に浮かぶ小さな無人島で、正式な島名は船島といいます。

船島が巖流島と呼ばれるようになったのは、武蔵と対戦した小次郎が“巖流”を名乗ったことからといわれています。

しかし、この巌流島の決闘、実際には伝説のようなカッコイイ決闘ではなかったようです。

その理由として、この決闘には様々な疑惑や謎が囁かれているからです。

というわけで、今回は巌流島の決闘について語りたいと思います。

巌流島の決闘とは?

佐々木小次郎は剣豪・富田勢源(とだ せいげん)に剣術を学んだ後、諸国武者修行の旅に出て、やがて豊前(福岡県)小倉の細川家に仕えます。

小次郎は一般的な刀より長い「物干竿」と呼ばれる大太刀を用い、秘剣“燕返し”の使い手として若い頃から剣術家として名を馳せていました。

一方、宮本武蔵も同じく諸国武者修行で剣術を磨いていましたが、小次郎の名声を聞き及び、小次郎に決闘を申し込んだのです。

当時、小次郎は18歳、武蔵は29歳だったといいます。

決闘の舞台は巌流島、小次郎が仕えていた細川家が二人の決闘に立ち会う公式の試合でした。

慶長十七年(1612年)4月13日の決戦当日、先に巌流島に到着したのは小次郎でした。

しかし、武蔵は決闘の刻限になっても現れず、待たされた小次郎は次第にじりじりとしてきました。

ようやく現れた武蔵は舟を漕いできた櫂を木刀として戦いに臨みます

武蔵の巧妙な“じらし作戦”に平常心を失っていた小次郎は集中力を欠き、木刀で額を打たれたことが致命傷となって敗北、武蔵が見事勝利したのです。

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勝つためには手段を選ばない !? 姑息な武蔵

この戦いを冷静に振り返ってみると、

本当に武蔵は小次郎より強かったのだろうか?

という疑問が湧いてくることがあります。

まず、武蔵が決闘に遅刻したのは偶然ではなく、最初から小次郎の平常心を乱す為の計算だったと思われます。

だとすると、正々堂々まともに戦っては小次郎に勝てないと考えたから、“じらし作戦”を用いたのではないでしょうか?

さらに、この巌流島の戦いには驚愕の事実があるのです。

自らは決戦に遅れて来たものの、武蔵は島に自分の弟子たちをこっそり潜ませておいたのです。

そして、小次郎が額を打たれて劣勢になったところを隠れていた弟子たちが一斉に飛び出して小次郎をメッタ打ちにしてとどめを刺したのです。

これが事実なら、武蔵は「一対一の勝負」という約束を破り、かなり姑息な手段を駆使して小次郎を倒したことになりますね。

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謎に包まれた剣豪・佐々木小次郎

もう一つ、巌流島決戦の事実を揺るがすような驚きの説があります。

それは、小次郎の存在そのものが疑われていることです。

まず、小次郎は生まれた年が不明であり、出生地も越前(福井県)の浄教寺が有力と考えられていますが、他にも近江(滋賀県)、周防(山口県)など様々な説があるのです。

また、小次郎が富田勢源の直弟子だとすれば、勢源の活躍した時代から考察して巌流島の決闘の時に小次郎は既に60歳前後だったともいわれています。

さらに、巌流島の戦いは武蔵の伝記として後世にまとめられた『二天記』に記述されているものの、武蔵自らが著した兵法書として有名な『五輪書』には小次郎の名がどこにも記されていないのです。

武蔵にとって巌流島の戦いは自分の名が世に知れ渡る大きな転機となった出来事のはずなのに、自ら執筆した著作の中に小次郎の名前が一切出て来ないのは不可解と言わざるを得ません。

小次郎の存在が不明とされる根拠は他にもあり、小次郎が仕えていた細川家や、富田勢源の剣術流派・中条流の史料などにも小次郎の名が出て来ない点もその裏付けの一つと考えられています。



まとめ

  • 巌流島の決闘とは、宮本武蔵と佐々木小次郎の二人の剣豪が関門海峡の船島で戦った伝説の決闘

  • 一対一の勝負のはずだったが、武蔵は自分の弟子たちを使い小次郎にとどめをさした

  • 小次郎は年齢や出生地など不明な点が多く、存在そのものを否定する説もある


“皇帝”と称えられた元西ドイツ代表のサッカー選手・ベッケンバウアーは「強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ」という名言を残しましたが、武蔵の行動哲学もこれに通じるものがありますね。

2020年04月10日

甲斐の虎 武田信玄

こんなところにもコロナの影響が・・・

明後日4月12日は武田信玄が亡くなった日です。(天正元年 1573年)

信玄は言わずと知れた“戦国最強”を謳われた甲斐(山梨県)の戦国大名ですが、このブログにおいても川中島の戦いやライバルの上杉謙信に関連して何度か登場しました。

信玄は現在でも地元・山梨県では英雄とされていて、県民の多くは呼び捨てにせず“信玄公”と呼んでいます。

山梨県では毎年信玄の命日前後に「信玄公祭り」を開催していて、この催しは県下最大のイベントとしてかなりの盛り上がりをみせています。

僕も何年か前にこの祭りを見に行ったのですが、昼過ぎくらいから夜まで甲府市内を多くの武者行列が練り歩き、沿道には溢れんばかりの見物客が詰めかけていました。

しかし、今年は新型コロナウイルスの影響で「信玄公祭り」は中止となってしまいました。

県としては、コロナの影響が比較的早い時期に収束すれば、今年の11月頃に開催したい意向があるようです。

それにしても、なぜ信玄は同じく武田家当主であった父の信虎や子の勝頼とは比べものにならないほど県民に人気があるのでしょうか?

というわけで、今回は武田信玄について語りたいと思います。

父を追放して家督を相続

武田信玄 大永元年(1521年)〜 天正元年(1573年)
武田信玄.jpg

信玄は甲斐守護・武田信虎の嫡男として生まれます。幼名は太郎、あるいは勝千代。

15歳で元服した時に12代将軍・足利義晴の偏諱を受けて晴信と名を改め、後に出家してからは信玄と名乗ります。

父の信虎は度重なる戦争と重税によって甲斐の諸豪族や領民の信頼を失い、甲斐の領国経営は困難な状況に陥っていました。

この危機的状況を見かねた信玄は、天文十年(1541年)6月、重臣たちと共謀して信虎を同盟国の駿河(静岡県)に追放し、自らが甲斐国主の座に就いたのです。

信玄が父を追放した理由は、父が信玄を疎んじて弟の信繁を寵愛し、信繁に家督を継がせようとしたからという説もありますが、本当にそうであるならば、戦国時代の風潮からして信玄は父や弟を殺していたのではないでしょうか?

個人的な怨恨がなかったからこそ、信玄は弟を殺すことなく、失政を重ねた父を追放するまでにとどまったと考えられます。

国主となった信玄は、甲斐の金山開発、信玄堤(釜無川の氾濫を抑えるために設けられた堤防)に代表される治水事業など民政家として優れた手腕を発揮します。

さらに、領国統治のために甲斐の分国法である『信玄家法』(『甲州法度之次第』)も定めました。

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現実主義の信玄と理想主義の謙信

外交的には、まず信玄は信濃(長野県)攻略を主眼に置き、有力豪族の諏訪頼重を滅ぼし、信濃守護の小笠原長時を駆逐しました。

北信濃の豪族・村上義清には二度の敗北を喫しますが、最終的には義清の駆逐にも成功します。

そして、義清らに助けを求められた越後(新潟県)の上杉謙信3月13日付ブログ参照)と川中島において宿命の対決を果たすのです。

川中島の戦いについては、9月10日12日付のブログで詳細を語りましたので、ここでは割愛します。

素朴な疑問として、信玄と謙信はなぜ何度も戦ったのでしょうか?

これは、征服した領地を守る為に戦わなければならなかった現実主義の信玄に対し、弱い者を助けることで信玄に“正義とは何か?”を戦いを通して示そうとしていた理想主義の謙信、譲ることのできないお互いの強い信念による激突だったという見方ができます。

要するに、信玄と謙信では戦いに臨むスタンスが根本的に違っていたと考えられるのです。

こう考えれば、川中島合戦後に信玄と謙信がお互い自分たちの勝利を豪語していることにも理解できます。

信玄は最終的に北信濃の領地を死守し、謙信も激闘によって信玄に“正義の戦い”を十分に見せつけた、つまり、両雄はそれぞれの「戦いの目的」を達成したので勝利宣言したのではないでしょうか。

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遅すぎた上洛作戦

五度にわたる謙信との戦いにピリオドを打った信玄は、いよいよ天下取りに乗り出します。

しかし、信玄の行動はあまりに遅すぎました。

まず、「人生五十年」といわれた時代に、持病を抱えた身で50歳を過ぎてから上洛を志したことです。

そして何よりも、謙信と延べ12年も川中島で戦っている間、それまで取るに足りない存在でしかなかった織田信長がメキメキと力をつけ、ついには信玄を上回る勢力にまで成長させてしまったことです。

それでも信玄は、元亀三年(1572年)10月に上洛作戦を開始、12月には三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝します。(12月20日付ブログ参照

しかし、信長との対戦を目前に控えた三河(愛知県東部)野田城を包囲中に信玄の病状が悪化、やむなく武田軍は甲斐へ引き返すことになりました。

そして帰途の途中であった4月12日、三州街道の駒場(長野県下伊那郡阿智村)でついに信玄は息を引き取りました。

死因は労咳(ろうがい=肺結核)と考えられています。

信玄は

「我が死を三年間隠し、領内の備えを固めたら必ず都へ攻め上れ」

と息子の勝頼に遺言したといわれています。

ライバルの謙信は食事中に信玄の訃報に接すると、箸を投げ捨て「惜しい相手を失い残念でならない」と涙を流したそうです。



まとめ

  • “戦国最強”を謳われた武田信玄は父を追放して甲斐国主の座に就いた

  • 川中島の戦いは信玄は征服した領地を死守するため、謙信は正義を示すために戦った

  • 信玄は50歳を過ぎてから天下取りを目指したが、志半ばに病没してしまった


ちなみに、僕が見に行った時の信玄公祭りでは、笑点メンバーがメインゲストとして参加しており、地元出身(大月市)の三遊亭小遊三師匠が信玄役を務めてました。(笑)
プロフィール
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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