2020年04月03日
剛力無双の弓の使い手 源為朝
日本各地に残る為朝伝説
4月6日は源為朝が亡くなった日です。(嘉応二年 1170年)
源為朝は教科書などにはその名前がほとんど出て来ないのでわからない方も多いと思いますが、平安末期の伝説の武将として知られています。
為朝が伝説の武将といわれる理由として、武士がようやく頭角を現わし始めたばかりの平安末期にあって、その圧倒的な強さで数々の武勇伝を残しているためと思われます。
また、為朝は甥の義経にも通じるところがあり、天才的な戦上手であったにも関わらず悲劇的な最期を遂げてしまったのも共通していて、“判官びいき”な日本人に親しまれる所以です。
義経の伝説が日本各地に残っているのと同様に、為朝も各地にその名や伝説を残しています。
大分県には為朝を祀る「為朝神社」があり、「タメトモハゼ」や「タメトモユリ」など為朝の名を冠する動植物がいたり、その武勇にあやかって為朝の子孫と名乗る武将が何人もいます。
義経自身、本当は八男だったが、叔父の為朝の武勇に遠慮して八郎ではなく「九郎」を名乗ったとさえ言われています。
というわけで、今回は源為朝について語りたいと思います。
驚異的な体格を誇る生粋の荒武者
源為朝 保延五年(1139年)〜 嘉応二年(1170年)
為朝は源氏の棟梁・源為義の八男として生まれます。兄は義朝(頼朝・義経の父)。
為朝は身長が七尺(約2b10a)もある大男で気性も荒く、生まれついての乱暴者だったといわれています。
為朝といえば、まず剛弓の使い手として有名なのですが、為朝の剛弓伝説を裏付ける逸話があります。
為朝の体は弓を支えるため前に突き出す左腕が弦を引く右腕より12aも長く、まさに弓を引くために生まれてきたような特異な体つきをしていたのです。
13歳の時、為朝はあまりに乱暴が過ぎたため、父に勘当され九州に追放されてしまいます。
しかし、為朝は九州でも仲間を集めて暴れ回り、わずか3年で九州全土を制圧、かの地で鎮西八郎と名乗りました。
朝廷は為朝に召還命令を出しましたが、為朝がこれに従わなかったため、父の為義が官職を解任されてしまいます。
これを知った為朝は父のためにやむなく都に戻りました。
やがて都では、朝廷や摂関家が分裂して争う保元の乱が起こります。
為朝は父為義と共に崇徳上皇方につき、後白河天皇方についた兄の義朝や平清盛(2月3日付ブログ参照)と戦うことになりました。
ここで為朝は得意の弓さばきをいかんなく発揮し、次々と敵将を射抜き奮戦しました。
為朝の放った矢は鎧を着た敵将の体ごと射抜き、さらにその矢は後ろにいた武者の鎧の袖まで貫いたという逸話が残っています。
しかし為朝の善戦虚しく、総大将であった父為義が降伏したため上皇方は敗れました。
クラフトアイスクリーム「HiO ICE CREAM 」
流人となっても武人魂は衰えず
戦後、為朝はその武勇を惜しまれて命は助けられましたが、二度と弓を引けぬよう肘の筋を切られてしまいます。
つまり、それほどまでに為朝の剛弓が恐れられていた証拠といえるでしょう。
その後、伊豆大島に流罪となった為朝ですが、筋を切られた腕の傷が癒えると再び動き出し、あっという間に大島を征服してしまいます。
その勢いでさらに周辺の島々にも渡り、大島に流されてから約10年で伊豆諸島を完全に制圧しました。
しかし、島の代官が上洛して為朝の乱暴狼藉を訴えたため、朝廷は為朝追討軍を派遣しました。
朝廷の追討軍が攻めて来るのを知った為朝は、多勢に無勢であることを悟って諦めます。
それでも為朝は武人としてせめて一矢だけでも報いたいと考え、敵船に得意の剛弓を放ち、なんと一発でその船を撃沈させたのです。
こうして為朝は思い残すことなく、潔く自害して果てました。
為朝の自害をまだ知らない追討軍は為朝の武勇を恐れるあまり、なかなか大島に上陸できなかったそうです。
Insta360°あなたのiphoneをあっという間に360°カメラに
為朝は死なず琉球へ渡った !?
実は為朝には、大島で自害せず琉球(沖縄県)に渡り、琉球王国の祖になったという伝説があるのです。
為朝生存説を一般に広めたのは、為朝を主人公とした小説『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)を書いた江戸時代後期の作家・滝沢馬琴です。
伝説によると、為朝は追討軍の追手を逃れ、大島を脱出して八丈島に渡り、そこから九州方面に向かい琉球に辿り着きます。
そして琉球において土豪の娘と結婚し、生まれた子が後に琉球の国王・舜天王(しゅんてんおう)になったというのです。
もともと為朝生存説は、馬琴が『椿説弓張月』を書くきっかけとなった琉球王国の正史『中山世鑑』(ちゅうざんせいかん)に由来します。
しかし、この『中山世鑑』が書かれた当時、琉球は日本と中国に両属するという複雑な事情を抱えていました。(11月1日付ブログ参照)
つまり、『中山世鑑』は琉球の日本帰属を正当化させるための口実として、為朝の子が国王になったと創作したのではないかと考えられるのです。
また、源義経生存説(11月11日付ブログ参照)と同じように、為朝ほどの英雄を死なせたくないという庶民の願望が生み出した産物という要素もあるでしょう。
まとめ
- 源為朝は身長が2bを超える大男であり剛弓の使い手として恐れられた
- 保元の乱で敗れた為朝は伊豆大島に流されたが、流刑地でも武勇を誇示し伊豆諸島を征服した
- 為朝には大島で死なず琉球に渡って琉球王国の祖になったという伝説がある
伊豆大島では今でも為朝が親しまれていて、島の女性と結婚して移り住んできた本土出身の男性を、為朝にあやかって「ためともさん」と呼ぶそうです。
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9749795
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック