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2019年08月18日
夢のまた夢
ジャパニーズドリームを体現した男
本日8月18日は豊臣秀吉が亡くなった日です。(慶長三年 1598年、享年62歳)
現代と違い、生まれながらの身分が厳格に区別されていた時代にあって、農民の子から天下人へ駆け上がるほどの大出世を遂げた人物は日本史上、秀吉をおいて他にいません。
自由の国・アメリカで幸運と努力によって大成功を収めることを「アメリカンドリーム」というのなら、日本においてまさに夢のような大出世を成し遂げ、天下を取った秀吉は次のような辞世の句を残しています。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」
(まるで露のように何とも儚く、夢の中でまた夢を見ているような一生だった)という意味でしょうか。
今回は稀有なる天下人・豊臣秀吉が大成したその秘訣について語りたいと思います。
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天性の”人たらし”
人たらしとは、多くの人を魅了し好かれる人物のことです。
人に好かれるということは努力だけではどうにもならないものがあります。その点、秀吉にはこの資質が備わっていたと思われます。
さらに言えば、秀吉には生まれつき人に好かれる資質に加えて、他の武将にはできないことができました。
それは、人に好かれるためなら平身低頭、つまり身を低くして、どれだけ頭を下げることも平気だったのです。
これは、元々身分の低かった秀吉だからできたことで、生まれながらに武士として育った人間にはそのプライドが邪魔してできないことなのです。
この秀吉の人間的魅力が竹中半兵衛や黒田官兵衛(3月20日付ブログ参照)といった有能な軍師を惹きつけ、自らの立身出世に貢献してくれました。
秀吉のこの姿勢は若い頃はもちろん、天下を狙える重鎮になってからも変わりません。
徳川家康の重臣だった石川数正が家康の元を去り、秀吉の家臣になったのも秀吉の人たらしの産物といえます。
何しろ、”犬のような忠誠心を持つ”と評された三河武士の数正を寝返らせたのですから大したものです。
数正にしてみれば、秀吉ほどの人物に持ち上げられ頭を下げられたことに、さぞ感動したのでしょう。
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目的を達成するためには金に糸目をつけない
秀吉が天下取りへ最初のチャンスを掴んだのが、史上名高い中国大返し(天正十年 1582年)です。
本能寺での凶報を受けた秀吉が、この時対峙していた毛利氏と急遽和睦し、備中高松城(岡山県西部)から京都までの約200キロの道のりを大軍を率いながらわずか一週間で走破した奇跡の行軍のことです。
この時、秀吉は途中に立ち寄った姫路城において、なんと城内にあったすべての金と兵糧を部下に分け与えてしまいます。
この行為は主君・織田信長が討たれて動揺していた家臣たちの心を惹きつけ、打倒・明智光秀に奮起させるには十分でした。
また、信長の後継者の座をめぐり、柴田勝家と争った賤ヶ岳の戦い(天正十一年 1583年)でも、岐阜城を攻めていた秀吉は、大金を払って岐阜城から賤ヶ岳までの街道沿いの村人を買収し、食糧と松明(たいまつ)を用意させたことでスムーズな行軍が可能となり、勝家を討つことができました。
つまり、秀吉は金や兵糧など戦に負けてしまえばすべて失うものであり、逆に勝てばいくらでも得られる、と考える徹底した合理主義者だったと言えるでしょう。
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豊臣秀吉まとめ
- 天性の「人たらし」は多くの人を味方につけ、出世を可能にした
- 人心を掌握し目的を達成するための”金の使い方”を心得ていた
これは、現代社会でも出世する人間の必須条件かもしれませんね。
2019年08月16日
カミカゼの奇跡
台風10号が西日本を直撃
お盆の真っ只中というのに、超大型の台風10号が西日本に上陸して各地で被害が出てしまいましたね。
JR西日本では台風の備えとして、前日から予告して新幹線を終日「計画運休」するという前代未聞の事態になりました。
地球温暖化の影響で台風の勢力も年々増してきているのでしょうか?
しかし、台風の脅威は天候を全く予測できなかった時代、現代とは比べ物にならないほどの被害をもたらし、人々を恐怖に陥れたと考えられます。
そこで、今回は日本史上、台風がターニングポイントとなった事件、「元寇」について語りたいと思います。
ユーラシア大陸を席巻するモンゴル帝国
1206年モンゴルを統一したチンギス・ハン(成吉思汗)は、その後西方に進出し、アジアからヨーロッパにまたがる大帝国を築きました。
チンギス・ハンの孫・フビライは首都を大都(現在の北京)に移し、1271年国号を元と改めます。
高麗(朝鮮半島)も服属させた元は1268年以降、実に6度にわたり日本に使節を派遣し、朝貢と服属を要求しました。
鎌倉幕府八代執権・北条時宗は元の要求を拒否、元の襲来に備えて九州の御家人(鎌倉幕府直属の武士)に異国警固番役という沿岸地域の警備を命じます。
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蒙古襲来
文永十一年(1274年)文永の役
ついに元は高麗を従えた約3万の軍勢をもって日本征服に乗り出します。
その手始めとしてまず対馬と壱岐に侵攻しますが、元軍の圧倒的な兵力の前に日本の守備部隊は壊滅してしまいます。
この時、元軍は島民の多くを殺し、捕虜(ほとんどが女性)にした者の手のひらに穴を開けて鎖で繋いだと言われています。
勢いに乗った元・高麗の連合軍は博多湾に上陸、これを九州の御家人が迎え撃ちます。
この時代、日本の武士はどれだけ多くの軍勢であろうとも、一人が歩み出て「やあやあ我こそは〇〇である!」と、お互い名乗り合ってから戦う一騎打ちが戦い方の基本でした。
そんな日本の武士道精神など知ったことではない元軍は、武士が名乗りを上げている最中に集団で襲い掛かり、さらには「てつはう」という火薬兵器を使い、さんざんに日本軍を苦しめます。
『蒙古襲来絵詞』
しかしこの時、九州地方を暴風雨が襲い、元の船団に大きな被害をもたらしたため、元軍は撤退します。
弘安四年(1281年)弘安の役
その後、南宋を滅ぼし中国制服を完了(1279年)した元は、改めて日本に服属要求の使節を2度にわたり送りますが、北条時宗はこの使節を2度とも処刑します。
これに烈火の如く怒ったフビライは、今度は14万もの大軍を東路軍・江南軍の二手に分けて再び日本に侵攻します。
しかし、日本軍は水際でよく戦い、元軍の上陸を許さなかったのです。
船団の上陸を阻まれたまま再び暴風雨に遭った元軍は大打撃を被り、撤退しました。
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なぜ元は日本を征服できなかったのか?
元は圧倒的な兵力を持ちながら、日本征服に失敗したのには以下の理由が考えられます。
@連合軍の統制がとれず、士気も低かった
元は服属させた高麗や滅ぼした南宋の兵士を動員したので、言葉が通じないこともあり(元はモンゴル人、高麗は朝鮮人、南宋は中国人)指揮系統が乱れていて、まとまりがありませんでした。
それに第一、高麗や南宋の兵士は元に命令されてイヤイヤ遠征させられていたので、日本と戦う気など元々なかったのです。
A日本軍が団結して予想以上に奮戦した
寄せ集めだった元軍に対して、迎え撃つ九州の御家人たちの団結力は強く、また対馬・壱岐における元軍の残虐性を伝え聞いた武士たちは、もし負けたら自分たちも同じ目に遭うと、それこそ必死で戦ったので大軍に負けなかったと考えられます。
B元は海戦が不得手な上に暴風雨に襲われた
もともと海のない地域から勢力を広げたモンゴル人は、陸上の戦いでは無敵を誇りましたが、海戦の経験は少なく、軍船もりっぱなものではありませんでした。
対する日本は海に囲まれた島国なので、海から攻めてくる敵への対処法を心得ており、大軍が水際で攻めあぐねているうちに暴風雨に襲われたため、元の船団が壊滅的打撃を受けたのです。
なお、二度にわたり蒙古襲来から日本を救ったとされる暴雨風=”神風”ですが、実は台風ではなかった可能性があるのです。
なぜなら、一回目の文永の役が行なわれた時期は今の暦になおすと11月半ば過ぎにあたるからです。
日本が亜熱帯化している現代ならともかく、ちょっと台風とは考えられません。
その点、二回目の弘安の役は真夏に行なわれたので台風だと思われます。
まとめ
- アジアを席巻し大帝国を築いた元は日本征服を目論む
- 元は二度にわたり日本へ侵攻するがいずれも失敗に終わる
- 文永の役の暴風雨は台風ではなかった
台風でなかったにせよ、日本の危機に”カミカゼ”が吹いたことは事実のようですね。
2019年08月14日
真夏の祈り
明日は終戦記念日
毎年8月15日の正午に各地で放送による案内に合わせて1分間の黙祷を捧げるのが日本の夏の風物詩ですね。
僕は高校野球が好きなので、甲子園球場でも正午直前になると試合を中断して、観客も含めグラウンド全体で黙祷する光景を見ると、何かとても厳かな気持ちになります。
今日はこの「黙祷」について語りたいと思います。
黙祷は終戦記念日が起源ではない
そもそも黙祷とは、声を出さずに心の中で亡くなった方に語りかけ、祈りを捧げる行為を表します。
この黙祷という行為が日本で広まったのは、大正十二年(1923年)9月1日に発生した関東大震災(9月1日付ブログ参照)がそのきっかけとされています。
震災の翌年の9月1日に東京で慰霊祭が行われた際、震災発生時刻の午前11時58分に合わせて1分間の黙祷をしたことから、その後日本では事件や事故、自然災害などにより甚大な犠牲者が出た場合、発生日時に合わせて黙祷を捧げるのが習慣になりました。
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終戦記念日はなぜ正午なのか?
終戦記念日に黙祷をする時刻が正午になったのは、終戦当日(昭和二十年8月15日)の正午にNHKラジオで放送された昭和天皇による玉音放送に由来します。
この玉音放送とは、日本が太平洋戦争の敗戦を認め、ポツダム宣言を受諾し無条件降伏を受け入れることを、昭和天皇自らラジオを通して国民に語りかけた放送です。
この玉音放送の様子は、毎年この時期になるとテレビで放映されることが多いですね。
昭和天皇の「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び・・・」の声が流れるラジオを前に、国民が頭(こうべ)を垂れ涙を流している姿を記録した映像です。
黙祷は法律で推奨されている!?
国が黙祷を推奨することに関しては、昭和五十七年(1982年)四月の閣議決定(鈴木善幸内閣)において、「毎年8月15日を『戦没者を追悼し平和を祈念する日』とし、同日に行われる全国戦没者追悼式典の中の一定時刻に全国民が一斉に黙祷するよう勧奨する」とあります。
また、終戦記念日に黙祷を行なうのに推奨される方角があるのをご存じですか?
それは、東京の靖国神社がある方角です。(九段下や日本武道館の近く)
靖国神社は、明治以降日本の戦争において命を落とした兵士・軍人を祀る神社だからです。
まとめ
- 日本で1分間の黙祷を捧げるきっかけになったのは関東大震災
- 終戦記念日の正午に黙祷するようになったのは昭和天皇の玉音放送が行われた時間から
- 終戦記念日の黙祷は政府が推奨している
- 終戦記念日の黙祷は靖国神社の方角に向かってするのが良いとされる
明日は戦没者のみならず、身近に亡くなった方のご冥福もお祈りしたいですね。