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2019年08月26日
お雇い外国人の軌跡
夏の終わりを感じるものは?
皆さんには”夏の終わり”を感じるものがありますか?
僕は毎年、甲子園の決勝が終わると「ああ、今年の夏もそろそろ終わりだな」と感じて、少し寂しい気持ちになります。
夏の高校野球は早い地区では6月半ばから予選が始まり、7月末までに甲子園大会に出場できる49の代表校が決定、そしてその夏に最後まで一度も負けなかった一校が頂点に立つ。
こうして考えると、僕は高校野球に夏の始まりと終わりの両方を感じているのかもしれません。
さて、実は先週、少し遅い夏休みを過ごしまして、長野や新潟をドライブしてきたのですが、そこで目にしたある人物の軌跡について語りたいと思います。
日本の近代地質学を築く
今回の旅行で僕が見てきたのはフォッサマグナと野尻湖のナウマンゾウなのですが、この2つに大きく関わるのがドイツの地質学者・ナウマンです。
ナウマンは明治八年(1875年)明治政府に招聘された所謂”お雇い外国人”の一人です。
お雇い外国人とは、江戸時代まで続いた鎖国により、諸外国と比べ著しく遅れていた日本の文化を見直すため、明治政府が西洋の学問・技術の導入を目的として政府機関や学校などに雇い入れた外国人のことです。
先週紹介した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)もその一人といえるでしょう。
ナウマンは来日から約10年間にわたり日本列島の地質を調査し、調査のために走破した距離は一万キロに達しました。
そして、列島調査をもとに日本地質図を作成し、フォッサマグナについての研究を『日本列島の構造と起源について』という著書にまとめています。
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フォッサマグナとは?
フォッサマグナとは、ラテン語で「大きな溝」を意味し、日本列島を東西に分断する境目となる地層帯のことで、この分断線を「糸魚川-静岡構造線」と言います。
つまり、新潟県糸魚川市と静岡県静岡市を結ぶラインには本州を東西に分断するほどの大きな溝が存在するということです。
ナウマンはこのフォッサマグナの存在を、長野県南牧村の平沢峠からの眺めで発見したと言われています。
この平沢峠には広い駐車場があり、目の前に八ヶ岳がそびえる絶好のロケーションなので僕も何度か訪れているのですが、何度見ても僕には断層地形などわからないのでナウマンの観察眼の凄さを思い知らされます。
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ナウマンゾウは野尻湖だけ?
長野県の北部、新潟県との県境近くにある野尻湖には「ナウマンゾウ博物館」があって、この野尻湖はとにかくナウマンゾウ推しです。(笑)
ナウマンゾウは40万〜2万年前の日本の氷河時代に生息したゾウです。
最初にその化石が発見されたのは神奈川県の横須賀で、その他にも静岡県の浜名湖や瀬戸内海沿岸地域など日本各地でナウマンゾウの化石は発見されていますが、この野尻湖では最も大量の化石が見つかり、何度も発掘調査が行われたことからナウマンゾウ=野尻湖のイメージが定着したのだと思われます。
ナウマンゾウの名称は、ナウマンが発見したからではなく、ナウマンが日本の地質学や化石の研究に尽力した功績を称えて名付けられたようです。
また、日本に生息していた古代ゾウのうち、北方系のゾウをマンモス、南方系のゾウをナウマンゾウと分けるのが一般的でしたが、近年北海道でもナウマンゾウの化石が発見されたことから、ナウマンゾウはマンモスがいた北方地域にも生息していたと見直されています。
まとめ
- 明治時代のお雇い外国人・ナウマンはフォッサマグナの発見とナウマンゾウで有名なドイツの地質学者
- フォッサマグナとはナウマンが発見した本州を東西に分断する地層帯
- ナウマンゾウは野尻湖で大量の化石が発見された古代ゾウ
実際に現地へ足を運んでみると、いろいろな見聞が深まるのも旅の魅力の一つですね。
2019年08月22日
伝説 .1の人
日本各地にあまたの伝説を残す
本日8月22日は、空海が真言宗を開いた日です。(大同元年 806年)
空海でピンと来ない方も弘法大師といえば納得されるでしょうか。
弘法大師といえば、「弘法も筆の誤り」、「弘法筆を選ばず」のことわざで有名な筆の達人ですね。
お盆休みに各地を旅行された方も多いと思いますが、地方へ行くとこの弘法大師にまつわる伝説がホントに多いのです。
僕も旅が好きなので、日本全国さまざまなところに出掛けますと、弘法大師にまつわる地名や伝説の多さに驚かされます。
今回はこの弘法大師について語りたいと思います。
弘法大師(空海)とは
空海(774〜835年)
宝亀五年(774年)讃岐国(香川県)に生まれる、俗名は佐伯眞魚(さえきのまお)
幼い頃から勉学に勤しむが、19歳の時に仏教を志し修行に励みます。
延暦二十三年(804年)遣唐使の留学僧として、天台宗の開祖・最澄と共に唐へ渡る
大同元年(806年)帰国した空海は真言宗を開く
弘仁七年(816年)高野山に金剛峰寺を開き、ここを真言宗の総本山とする
弘仁十四年(823年)嵯峨天皇より東寺(教王護国寺)を賜る
真言宗は密教といわれ、密教とは呪術的な方法で悟りを開こうと考える神秘的な要素の強い仏教です。
その後、天台宗の最澄も密教に興味を持ち、一時空海に弟子入りしたことで、やがて天台宗も密教化していきます。
なお、「弘法大師」の名は空海の死後、醍醐天皇から贈られたものです。
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怒らせると怖い!? エピソード
弘法大師にまつわるエピソードは日本各地になんと5,000以上もあるといわれています。(ホンマかいな?)
その中からちょっとだけ紹介しましょう。
袈裟丸山(けさまるやま 群馬県東村)
弘法大師がこの山を訪れた際、この山を気に入りここに寺を建てようとした。
しかし、修行する山には千の谷が必要とされていたので、大師は谷の数を数え始めた。
この様子を見ていたこの山の神は「寺などが建てられては毎日大勢の人が訪れて面倒だ」と考え、谷を一つ隠して999個にしてしまった。
そうとは知らず、いくら数えても谷が一つ足りないことに落胆した大師は、山の頂上で着ていた袈裟を丸めて投げつけ去って行ったことから、この山は「袈裟丸山」と呼ばれるようになった。
独鈷山(とっこざん 長野県上田市)
真夏の暑い時、弘法大師が山の麓の村を歩いていると、川で女たちが野菜を洗っていた。
とても喉が渇いていた大師は女たちに「水を飲ませてくれぬか」と頼んだが、弘法大師とは知らぬ女たちは「みすぼらしい坊さんだね、水を飲みたきゃこれで汲んで飲みな」と、ザルを大師に投げつけた。
ザルでは水を汲めないので、大師は悲しげに去って行った。
すると数日後、この付近の川の水が干上がってしまった。川の上流や下流では普通に水が流れているのに、あの女たちが住む村だけ夏になると川の水が干上がってしまうのだ。
この村がある山は、あの時に大師が独鈷(仏具)を埋めたことから独鈷山と呼ばれるようになった。
米神(こめかみ 神奈川県小田原市)
弘法大師がこの地を訪れた時、村人に水を求めたが断られたため、この土地の水を出なくしてしまった。
以来、この村では水で米が炊けなくなり、米を噛んで食べるようになったという。
こうして見ると、水を飲めなかったことに対する恨みが多いですね。(笑)
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なぜこれほどまでに伝説が多いのか?
弘法大師が修行のため諸国を歩いたのは事実でしょうが、一人でこれほど多くの伝説を作れるわけはありません。
各地に残る弘法伝説の多くは、この時代に日本各地を行脚した遊行僧・高野聖(こうやひじり)を弘法大師と同一に考え、さらに大師が幅広い分野において業績を残したことへの尊敬の念が、各地の伝説と結びついて生まれたのではないかと考えられます。
まとめ
- 空海の開いた真言宗は密教として天台宗にも大きな影響を与えた
- 弘法大師の伝説は日本各地に5,000以上もある
- 伝説の多くは弘法大師への崇拝の念から生まれた
今度訪れた場所にも弘法大師の伝説があるか調べてみたくなりますね。
2019年08月20日
” Kwaidan ”はお好き?
夏の思い出
僕が子供の頃、学校では夏になると怪談話が流行っていて、林間学校へ行った時などは話の得意な子が夜ごとクラスの皆を集めて怖い話を披露したものでした。
当時の僕は怖い話が好きなくせに怖がりだったので、話の途中にトイレへ行くフリをして逃げ出したりしていました。(笑)
それと、当時この時期になると、日本テレビのお昼の時間帯に『あなたの知らない世界』という視聴者投稿の怖い話を再現VTRと共に紹介する番組があって、毎年これを見るのを楽しみにしてましたね。
子供心に出演者の新倉イワオさん(放送作家)の顔までコワく感じたのを覚えています。(笑)
時代が変わっても、やはり子供たちは怖い話に興味があると思いますが、情報化・デジタル化が進む昨今、ドライな現代っ子は怖い話に対する”熱量”があるのかどうか・・・。
そんなわけで今回は日本の怪談にまつわる人物について語りたいと思います。
小泉八雲とは?
小泉八雲(旧名:ラフカディオ・ハーン)
アイルランド出身の文学者で、アメリカに渡りヨーロッパ文学を紹介、やがて東洋の文化に興味を持ち明治二十三年(1890年)に来日し、島根県の松江で中学校の英語教師となります。
同年、日本人の小泉セツ(節子)と結婚、明治二十九年(1896年)に帰化し日本国籍を取得、小泉八雲と名乗ります。
八雲の名は、彼が日本で最初に住んだ島根県の旧国名・出雲国の神話で、スサノオノミコトが詠んだ和歌の枕詞「八雲立つ」から拝借したといわれています。
その後、高等学校や大学の講師を務めるかたわら日本の文化を研究し、『知られざる日本の面影』、『心』、『怪談』などを執筆し、海外に紹介しました。
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八雲の名を知らしめた ” Kwaidan ”
数々の執筆を世に送り出した八雲ですが、日本において彼の名を一躍有名にした作品が『怪談』(Kwaidan)です。
これは、妻のセツから聞いた日本各地に伝わる伝承や民話に、八雲が独自の解釈を加えて物語にしたものです。
この中の代表的な物語を紹介します。
『耳なし芳一』
盲目の琵琶法師・芳一は平家の亡霊に取り憑かれ、夜ごと平家の人間が眠る墓地に行き、『平家物語』を琵琶の音色に合わせて弾き語っていた。
これを知った和尚は、このままでは芳一が平家の亡霊にとり殺されてしまうと危惧した。
和尚は芳一の全身にお経を書き、「誰が来ても決して声を上げず、ついて行ってはならぬ」と固く命じた。
その夜、落ち武者の亡霊が芳一を連れ出しに来たが、亡霊が呼んでも答えず姿も見えない。
しかし、亡霊には芳一の耳だけが見えたので、呼びに来た証拠として芳一の耳を引きちぎって持ち去ってしまった。
和尚が耳にだけお経を書き忘れてしまったのだ。
以来、彼は”耳なし芳一”と呼ばれるようになった。
『雪女』
雪深い山里に住む父子がある日猟に出たが、吹雪に遭ってしまい山小屋で一夜を過ごすことになった。
その晩、息子がふと目を覚ますと白い着物を着た女が小屋に入って来て、父親の顔に白い息を吹きかけるとあっという間に父親は凍死してしまった。
息子はあまりの恐ろしさに身動きができずにいると、女は息子の目の前に顔を近づけた。
しかし、女は「お前はまだ若く美しいので今回だけは助けてやる。だが、今夜あったことをもし人に話したら、お前の命はない」と言い残し消えた。
数年後、大人になった息子の家にある夜、一人の美しい娘が訪ねてきた。
娘は「今夜一晩泊めて欲しい」と懇願したので息子は泊めてやることにした。
翌日から二人は一緒に暮らすことになり、やがてたくさんの子宝にも恵まれた。
そうして幸せな日々を過ごしたある冬の晩、外は吹雪になった。
息子はあの夜のことを思い出し、妻にあの夜に起こった出来事をつい話してしまった。
すると、妻の表情が見る見る変わり、あの夜の恐ろしい女になった。
女は「あれほどあの夜のことを人に話してはいけないと言ったのに、とうとう話してしまいましたね。約束通りあなたの命をもらう・・・」
息子は覚悟したが、女は「でも、かわいい子供たちのことを思うと私はあなたを殺せない、もしあなたがこの子たちを不幸にすることがあったら、その時こそあなたの命をもらう」と言って、女は吹雪の中へ消えていった。
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物語は八雲の生い立ちに深く関わっていた
『耳なし芳一』や『雪女』の話は多くの人が知る名作ですが、数ある日本の伝承・民話の中から八雲がこれらを物語にしたのは、彼の生い立ちに関わりがあると思われます。
現在残されている八雲の写真は、上の写真のように左を向いている顔写真が多いのですが、これは八雲が16歳の時、事故で左目を失明してしまったのでそれを隠すため、と言われています。
左目を失った代わりに八雲は聴覚が鋭くなり、「音の世界」に興味を持つようになったので、盲目の法師が琵琶を弾き語る様子を想像し、自分に重ね合わせたのでしょう。
また、八雲の父はイギリス人、母はギリシャ人で、両親は結婚して父の母国であるアイルランドに住んでいたのですが、八雲が4歳の時、父の裏切りにより母は一人ギリシャに帰ってしまいます。
この父の裏切りによって子供たちと別れざるを得なくなった母の心境を、八雲は雪女の物語に託したのではないかと想像できます。
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まとめ
- 日本の文化に興味を抱いたラフカディオ・ハーンは明治時代に来日し小泉セツと結婚後に帰化して小泉八雲と名乗った
- 八雲を日本で一躍有名にした作品は『怪談』(Kwaidan)
- 八雲の描いた物語は彼の生い立ちに深く関わっていた
古くから伝わる怪談話には作者の思いが込められているのですね。