2016年01月10日
感謝や挨拶は親から強要されてするものではない。
私は小さい頃から挨拶をするということが苦手な方だった気がします。
挨拶が苦手?というと何も言えなくなってしまうように感じるかもしれません。
でも、そういうわけではありません。言葉としてはもちろん言うことは出来ます。
なんと表現するのが適切なのかわかりませんが、プライベートで挨拶するときは、
なんかもごもごって感じの挨拶になってしまうんです。
子どもの頃は、これがなんなのか分からないまま、大人になってからも
続くんですね。社会人となり、ビジネスマナーなどを学んでいるうちに、
仕事上での挨拶は、上手く出来るようになりました。しかしプライベートは
相変わらず…なにか潜在的には恐れ見たいのが感じるんです。
よくよく考えると、挨拶だけでなく、感謝する言葉なども同じような感じです。
真面目に心を込めて挨拶や感謝の言葉を伝えているつもりなのですが、
どうしてももごもごっとハッキリ言えないようなことが多く、真意が相手に伝わり
づらいといいますか…
最近になってその理由がなんとなく分かってきた気がするんです。
現在は、もちろん昔に比べて表面的には、スムーズにもごもごせずに
挨拶も感謝もできるのですが、何か引っかかっていたんです。
数年前に実家に帰って何泊かしたときがあったのですが、朝の挨拶や、
夜の挨拶をするのに、なぜかすごく違和感を感じたのです。
自分の親に挨拶をするのに抵抗があるんですよ。
「おはよう…ございます」
「おやすみ…なさい」
親子なのだからもっと気軽にいえばいいだけなのですが、
丁寧な言葉を使わないとという感覚がどこかにあって余計に
ぎこちない挨拶になってしまうんです。
そのときに、はっと気づいたのですが、小さい頃から良く言われたんです。
「挨拶ぐらい大きな声でハッキリ言いなさい!」
「お礼をきちんと大きな声で言いなさい!」
「おはよう…」と眠さと面倒くささで小声でそんな感じで答えました。
しかし、そんな態度がやる気がないようにみえたのでしょう。
母親の逆鱗に触れてしまった挨拶をしてしまったようで、
「そんな挨拶ならする必要ない!」
「親に挨拶をするなら、おはようございますと丁寧に言いなさい!」
と、怒鳴るようにだめ出しをするんです。
どこの家でもありがちな風景ですが、私にとっては抑圧された出来事だったのでしょう。
親としてももちろん、きちんと挨拶やお礼を言えるような子どもにするための
しつけの一環であることは明白です。その気持ちは痛いほど今なら分かります。
しかし、挨拶する大切さやお礼をする大切さがこのしつけで伝わるかというと
幼い子どもにはダメなんですね。私の心に残ったのは、母親が喜ぶような挨拶、
母親が怒らないような挨拶という悲しい結果です。
何でも親のせいにするのはどうなの?といわれるかもしれませんが、
種を植え込んだのは、親なのです。だからといって私は親を責めて
復讐しましょうと言うことではありません。
しかし、そのぐらい、親の影響は子どもにとっては甚大なものなのです。
ちょっとした決意ぐらいで、この因果は断ち切ることができません。
なぜかと言えば、今現在私が親として、同じようなことを自分の子どもにやって
しまっているからです。
そもそも、挨拶やお礼や感謝などは親に強要されてするものではありません。
「ちゃんとお礼を言ったの?」「挨拶ぐらいしっかりしなさい!」
これは無償の愛ではありません。自分の子どもは世間的にきちんとした挨拶や
お礼ができる子どもに育て上げた親という評価が欲しいという潜在的な欲求も
乗っかってしまっているんです。
挨拶もお礼も本人が本当にしたいと思ってしないことには、いつになっても
その本当の重要性は理解できないでしょう。
私にとって挨拶やお礼は、いつでも母親に認められるようなものでないといけない。
ということが脳裏で潜在的に縛られすぎていて、本当の意味で挨拶や俺ができていない
ことが、私にとっての違和感として大人になるまで残っていたような気がします。
私が出来る事は、自分のために親として、こういう連鎖を断ち切ることなのだろうと思います。
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挨拶が苦手?というと何も言えなくなってしまうように感じるかもしれません。
でも、そういうわけではありません。言葉としてはもちろん言うことは出来ます。
なんと表現するのが適切なのかわかりませんが、プライベートで挨拶するときは、
なんかもごもごって感じの挨拶になってしまうんです。
子どもの頃は、これがなんなのか分からないまま、大人になってからも
続くんですね。社会人となり、ビジネスマナーなどを学んでいるうちに、
仕事上での挨拶は、上手く出来るようになりました。しかしプライベートは
相変わらず…なにか潜在的には恐れ見たいのが感じるんです。
よくよく考えると、挨拶だけでなく、感謝する言葉なども同じような感じです。
真面目に心を込めて挨拶や感謝の言葉を伝えているつもりなのですが、
どうしてももごもごっとハッキリ言えないようなことが多く、真意が相手に伝わり
づらいといいますか…
最近になってその理由がなんとなく分かってきた気がするんです。
現在は、もちろん昔に比べて表面的には、スムーズにもごもごせずに
挨拶も感謝もできるのですが、何か引っかかっていたんです。
数年前に実家に帰って何泊かしたときがあったのですが、朝の挨拶や、
夜の挨拶をするのに、なぜかすごく違和感を感じたのです。
自分の親に挨拶をするのに抵抗があるんですよ。
「おはよう…ございます」
「おやすみ…なさい」
親子なのだからもっと気軽にいえばいいだけなのですが、
丁寧な言葉を使わないとという感覚がどこかにあって余計に
ぎこちない挨拶になってしまうんです。
そのときに、はっと気づいたのですが、小さい頃から良く言われたんです。
「挨拶ぐらい大きな声でハッキリ言いなさい!」
「お礼をきちんと大きな声で言いなさい!」
「おはよう…」と眠さと面倒くささで小声でそんな感じで答えました。
しかし、そんな態度がやる気がないようにみえたのでしょう。
母親の逆鱗に触れてしまった挨拶をしてしまったようで、
「そんな挨拶ならする必要ない!」
「親に挨拶をするなら、おはようございますと丁寧に言いなさい!」
と、怒鳴るようにだめ出しをするんです。
どこの家でもありがちな風景ですが、私にとっては抑圧された出来事だったのでしょう。
親としてももちろん、きちんと挨拶やお礼を言えるような子どもにするための
しつけの一環であることは明白です。その気持ちは痛いほど今なら分かります。
しかし、挨拶する大切さやお礼をする大切さがこのしつけで伝わるかというと
幼い子どもにはダメなんですね。私の心に残ったのは、母親が喜ぶような挨拶、
母親が怒らないような挨拶という悲しい結果です。
何でも親のせいにするのはどうなの?といわれるかもしれませんが、
種を植え込んだのは、親なのです。だからといって私は親を責めて
復讐しましょうと言うことではありません。
しかし、そのぐらい、親の影響は子どもにとっては甚大なものなのです。
ちょっとした決意ぐらいで、この因果は断ち切ることができません。
なぜかと言えば、今現在私が親として、同じようなことを自分の子どもにやって
しまっているからです。
そもそも、挨拶やお礼や感謝などは親に強要されてするものではありません。
「ちゃんとお礼を言ったの?」「挨拶ぐらいしっかりしなさい!」
これは無償の愛ではありません。自分の子どもは世間的にきちんとした挨拶や
お礼ができる子どもに育て上げた親という評価が欲しいという潜在的な欲求も
乗っかってしまっているんです。
挨拶もお礼も本人が本当にしたいと思ってしないことには、いつになっても
その本当の重要性は理解できないでしょう。
私にとって挨拶やお礼は、いつでも母親に認められるようなものでないといけない。
ということが脳裏で潜在的に縛られすぎていて、本当の意味で挨拶や俺ができていない
ことが、私にとっての違和感として大人になるまで残っていたような気がします。
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