2015年11月20日
「問題が起こったとしても、必ずすべて解決しなくても良い」という心(その1)
皆さんの周りではどんな問題が起きて困っていますか?
少なくともこのブログを見つけて下さり、読んでいただいているということは、
一番困っているのは、パートナーのアスペ無双の日々をどうエンジョイしていけば
よいのかということでしょう^^
さらに、自分自身を見つめ治したいという段階まできているひともいるでしょう。
ただ、なんでもやり過ぎはいけません。頑張りすぎずにに過ごしたいものです。
それでも、問題夫、問題妻の行動や発言は逆行して増えていくばかり。
いったいどうしていけばいいのでしょうか。
■何か問題が起きたら、すぐに消火しないと気がすまない。
これは私の性格上でもあり、AC的な完璧主義的な面でもあります。
アスペ嫁との生活では、連日何かしらの問題が浮上してくるという
問題に埋もれて生活することを余儀なくされているという現実。
「問題が起きたら、早く火種が飛び散る前に消火しなくちゃ!」と、
アスペ嫁の尻ぬぐいをするために生まれてきたのかと思うぐらい、
問題を起こせば、私が解決し、また問題を起こして私が解決しの繰り返し。
私が、自分が解決したいからやっていれば、何も問題ないのですが、
潜在的な要素には他人から、周りから認められて、称賛されていたいという
心理があるのでしょう。どこかで、「やってあげているのに感」が強くあるのです。
しかし、アスペ嫁からすると、私に頼んだわけでもなく、私が先回りして気がついて
行動を起こして解決してしまったようなことは、ほぼ気がつきません。
イライラがつのって我慢をし怒りが続いてしまうと、いつかは
「もう、いい加減にたまには自分で解決してよ!」と私がぶちまけることになります^^
「あー、もー本当にこの人どうにかしてよ。問題ばっかりつくって」
そんなことばかり考えて、頭が何度割れてしまったか分かりません。
ただ、過去に遡って考えてみると、この「問題」に対しての意識は非常に
偏った面があると気がつくことになります。
■幼少期は、問題解決は母親の役目だった。
私の幼少期は、昔ながらの分業制といいますか、家庭のことはすべてが
母親がするのが役目でした。父は人間的には悪い人ではないのですが、
いわゆる仕事人間で、家庭に関しては、1ミリもタッチしません。
ですから、子どもや学校に関しても全部母親です。
今思えば、母親は旦那の経済的な力には依存していたのでしょうが、
精神的な支えがないなかで、よく育児や家事、学校、パート、その他もろもろ、
こなすことが出来たなぁとお世辞抜きに感心します。
生活をしていれば、大なり小なり何かしら問題なんて生まれてきます。
あと、問題というのは、受け手の考え方によっても変わると言うこともあります。
私や母親のようなAC完璧主義的だと、すぐに「なんとかしなくちゃ」と頑張ってしまうんです。
そう言う姿を見ていたからか、何か起これば、なんとか解決る糸口を見つけよう!とか、
どうすればもっと良い方法があるかなど無意識のうちに考えるようになっていたのです。
とはいえ、小さい頃は、自分で出来る事は限られるため母親に依存しているわけですが、
成長と共に自分でも色々と考えたり、行動したりが出来るようになってきます。
これらの問題を解決したいという原動力は、私の場合、すっきりしたいため!という
わけではなく、目の前の不安を早く払拭したいという焦燥感からの行動です。
ですから、自分が動く源泉となっているものって、不安感とか焦燥感なのです。
「楽しいからやる」「気持ちいいからやる」ということではないので、解決しても
安堵感はあるものの、あまり満足感を得ると言うことはありません。
これが結構幸せの感じ方と直結しているということが、最近、自分の頭の中でつながったような
気がしました。
つづく
脳には妙なクセがある (扶桑社新書)
少なくともこのブログを見つけて下さり、読んでいただいているということは、
一番困っているのは、パートナーのアスペ無双の日々をどうエンジョイしていけば
よいのかということでしょう^^
さらに、自分自身を見つめ治したいという段階まできているひともいるでしょう。
ただ、なんでもやり過ぎはいけません。頑張りすぎずにに過ごしたいものです。
それでも、問題夫、問題妻の行動や発言は逆行して増えていくばかり。
いったいどうしていけばいいのでしょうか。
■何か問題が起きたら、すぐに消火しないと気がすまない。
これは私の性格上でもあり、AC的な完璧主義的な面でもあります。
アスペ嫁との生活では、連日何かしらの問題が浮上してくるという
問題に埋もれて生活することを余儀なくされているという現実。
「問題が起きたら、早く火種が飛び散る前に消火しなくちゃ!」と、
アスペ嫁の尻ぬぐいをするために生まれてきたのかと思うぐらい、
問題を起こせば、私が解決し、また問題を起こして私が解決しの繰り返し。
私が、自分が解決したいからやっていれば、何も問題ないのですが、
潜在的な要素には他人から、周りから認められて、称賛されていたいという
心理があるのでしょう。どこかで、「やってあげているのに感」が強くあるのです。
しかし、アスペ嫁からすると、私に頼んだわけでもなく、私が先回りして気がついて
行動を起こして解決してしまったようなことは、ほぼ気がつきません。
イライラがつのって我慢をし怒りが続いてしまうと、いつかは
「もう、いい加減にたまには自分で解決してよ!」と私がぶちまけることになります^^
「あー、もー本当にこの人どうにかしてよ。問題ばっかりつくって」
そんなことばかり考えて、頭が何度割れてしまったか分かりません。
ただ、過去に遡って考えてみると、この「問題」に対しての意識は非常に
偏った面があると気がつくことになります。
■幼少期は、問題解決は母親の役目だった。
私の幼少期は、昔ながらの分業制といいますか、家庭のことはすべてが
母親がするのが役目でした。父は人間的には悪い人ではないのですが、
いわゆる仕事人間で、家庭に関しては、1ミリもタッチしません。
ですから、子どもや学校に関しても全部母親です。
今思えば、母親は旦那の経済的な力には依存していたのでしょうが、
精神的な支えがないなかで、よく育児や家事、学校、パート、その他もろもろ、
こなすことが出来たなぁとお世辞抜きに感心します。
生活をしていれば、大なり小なり何かしら問題なんて生まれてきます。
あと、問題というのは、受け手の考え方によっても変わると言うこともあります。
私や母親のようなAC完璧主義的だと、すぐに「なんとかしなくちゃ」と頑張ってしまうんです。
そう言う姿を見ていたからか、何か起これば、なんとか解決る糸口を見つけよう!とか、
どうすればもっと良い方法があるかなど無意識のうちに考えるようになっていたのです。
とはいえ、小さい頃は、自分で出来る事は限られるため母親に依存しているわけですが、
成長と共に自分でも色々と考えたり、行動したりが出来るようになってきます。
これらの問題を解決したいという原動力は、私の場合、すっきりしたいため!という
わけではなく、目の前の不安を早く払拭したいという焦燥感からの行動です。
ですから、自分が動く源泉となっているものって、不安感とか焦燥感なのです。
「楽しいからやる」「気持ちいいからやる」ということではないので、解決しても
安堵感はあるものの、あまり満足感を得ると言うことはありません。
これが結構幸せの感じ方と直結しているということが、最近、自分の頭の中でつながったような
気がしました。
つづく
脳には妙なクセがある (扶桑社新書)
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