2015年10月15日
AC夫の「書いているものを人に見られたくない」心理とは?自己防衛の心
あくまで個人的なことなので、これがイコールACであるという
確証も自負も何もないです。ACを認知してから、自分の幼少期を
向き合うことって、昔ほど嫌なことでは無くなりました。
幼少期をぼんやり思い出すことがあるのですが、そのきっかけに
なるのが、「自分の子供の行動や発言を見て」というのが多いのです。
フラッシュバックとまではいきませんが、デジャヴというのでしょうか、
なんというのか、なんかこんな事、前にもあったなぁと無意識に体が
反応するときがあるんです。
例えば、小学生の息子が宿題をやっているときや、
何か書きもの(絵でも、日記でも、手紙でも)をしているとき、
異様なほどに周りの人からみられることに対して拒絶をするのです。
あからさまに嫌がって隠すっていうことなのですが、この行動を
見た瞬間、「これ自分もやってたなぁ」と……
子供の頃は理由も分からず、ノートをのぞき見されるのが嫌で嫌で、
テストの時とかも、先生が見回っていて、自分の後ろに立って止まられたり
すると、もう嫌で嫌で筆が止まってしまうと言う感じの子供でした。
今思うと、なんだかばからしいなと思うのですが、自分なりに、
当時の自分はどうしていやだったのかを掘り下げてみることにしました。
ほとんどが無意識的な領域でとっさに行動していることだったと思いますね。
今になっても、ちょっとそう言う癖がまだあったりしますが^^
「みられるといやだ」ということは、もちろん「みられたくない」
ということになります。
「みられたくない」理由は何なのか?
・恥ずかしい。
・自信がない。
・馬鹿にされそう。
・実は良くないことをしている。
こんな感じでしょうか。
これがね、よーく思い出してみると面白いもので、
「みられたくない人」と「みられてもいい人」を自分で分別しているんです。
みられてもいい人には、無理して隠そうとしません。
むしろ、見て欲しいアピールをする。
今思うと、恐らく一番は、すでに自分に自信がないんですよね。
そして隠す場合は、相手があまり自分を褒めるような人でない場合には
その行動が顕著になります。
そして、「馬鹿にされたくない」「つべこべいわれたくない」
ものすごく劣等感があることからそんな行動に出ていたのだろうと。
この人はノートをみたら、「字が汚い」というだろう。
この人はノートを見たら、「へたくそな絵だ!」というだろう。
この人はノートをみたら、「そんな漢字もかけないの?」というだろう。
そんな自動思考が、既に小学生低学年の時点で根付いていたわけです。
うちの母親の口癖が「そんなことも知らないの?」だったので、もの凄く
その言葉に傷ついた時期があったのは確かです。
この言葉を言われる度に、「あー自分て何も知らないんだ。普通じゃ無いんだ」
みたいに勝手に自分を全否定されたかのように感じてしまっていたのだと思います。
もうこれ以上傷つきたくないと脳が自己防衛本能を働かせてくれているんです。
そして、ノートを隠して自分が傷つかないように自分を守ってあげようという
行動を自然にしていたのです。
学校で先生に指されたくないときの心理とちょっとにているかもしれません。
わからないし、自信ないし、皆の前で間違って恥を書くのいやだなぁ
「だからどうか私をみないであてないで!」
逆に、ちょっと予習していって知っていて自信満々の時は、
自分から手を上げる勇気はないものの「私を当てて」なんて念じたりしていたきがします。
そういうときに限ってあてられず、「先生はみるめがない」と勝手なことをいったり^^
ちょっとした自信のありなしで同じ自分なのに偉い違いだなぁと。
幼少期から潜在的に不安定な精神状態で生きてきたんだと実感します。
マイナスなレッテルを貼る癖がこの頃から付いているわけですから、
大人になってちょっと頑張ったぐらいではなかなか戻らないわけです。
ゆっくりゆっくり、自分と向きが合い受け入れてあげる時間が必要ですね。
折れない自信をつくるシンプルな習慣 (朝日新書)
確証も自負も何もないです。ACを認知してから、自分の幼少期を
向き合うことって、昔ほど嫌なことでは無くなりました。
幼少期をぼんやり思い出すことがあるのですが、そのきっかけに
なるのが、「自分の子供の行動や発言を見て」というのが多いのです。
フラッシュバックとまではいきませんが、デジャヴというのでしょうか、
なんというのか、なんかこんな事、前にもあったなぁと無意識に体が
反応するときがあるんです。
例えば、小学生の息子が宿題をやっているときや、
何か書きもの(絵でも、日記でも、手紙でも)をしているとき、
異様なほどに周りの人からみられることに対して拒絶をするのです。
あからさまに嫌がって隠すっていうことなのですが、この行動を
見た瞬間、「これ自分もやってたなぁ」と……
子供の頃は理由も分からず、ノートをのぞき見されるのが嫌で嫌で、
テストの時とかも、先生が見回っていて、自分の後ろに立って止まられたり
すると、もう嫌で嫌で筆が止まってしまうと言う感じの子供でした。
今思うと、なんだかばからしいなと思うのですが、自分なりに、
当時の自分はどうしていやだったのかを掘り下げてみることにしました。
ほとんどが無意識的な領域でとっさに行動していることだったと思いますね。
今になっても、ちょっとそう言う癖がまだあったりしますが^^
「みられるといやだ」ということは、もちろん「みられたくない」
ということになります。
「みられたくない」理由は何なのか?
・恥ずかしい。
・自信がない。
・馬鹿にされそう。
・実は良くないことをしている。
こんな感じでしょうか。
これがね、よーく思い出してみると面白いもので、
「みられたくない人」と「みられてもいい人」を自分で分別しているんです。
みられてもいい人には、無理して隠そうとしません。
むしろ、見て欲しいアピールをする。
今思うと、恐らく一番は、すでに自分に自信がないんですよね。
そして隠す場合は、相手があまり自分を褒めるような人でない場合には
その行動が顕著になります。
そして、「馬鹿にされたくない」「つべこべいわれたくない」
ものすごく劣等感があることからそんな行動に出ていたのだろうと。
この人はノートをみたら、「字が汚い」というだろう。
この人はノートを見たら、「へたくそな絵だ!」というだろう。
この人はノートをみたら、「そんな漢字もかけないの?」というだろう。
そんな自動思考が、既に小学生低学年の時点で根付いていたわけです。
うちの母親の口癖が「そんなことも知らないの?」だったので、もの凄く
その言葉に傷ついた時期があったのは確かです。
この言葉を言われる度に、「あー自分て何も知らないんだ。普通じゃ無いんだ」
みたいに勝手に自分を全否定されたかのように感じてしまっていたのだと思います。
もうこれ以上傷つきたくないと脳が自己防衛本能を働かせてくれているんです。
そして、ノートを隠して自分が傷つかないように自分を守ってあげようという
行動を自然にしていたのです。
学校で先生に指されたくないときの心理とちょっとにているかもしれません。
わからないし、自信ないし、皆の前で間違って恥を書くのいやだなぁ
「だからどうか私をみないであてないで!」
逆に、ちょっと予習していって知っていて自信満々の時は、
自分から手を上げる勇気はないものの「私を当てて」なんて念じたりしていたきがします。
そういうときに限ってあてられず、「先生はみるめがない」と勝手なことをいったり^^
ちょっとした自信のありなしで同じ自分なのに偉い違いだなぁと。
幼少期から潜在的に不安定な精神状態で生きてきたんだと実感します。
マイナスなレッテルを貼る癖がこの頃から付いているわけですから、
大人になってちょっと頑張ったぐらいではなかなか戻らないわけです。
ゆっくりゆっくり、自分と向きが合い受け入れてあげる時間が必要ですね。
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