2015年09月04日
AC回復のきっかけになる、幼少期の自分との対峙、両親との対峙は想像以上にハードルが高い。
〇自分の幼少期の記憶を引き出す嫌悪感。
アダルトチルドレンの治療というか回復というか、
気づいた後にのしかかってくるのが、幼少期の自分自身や
親とどのように接していたかという回顧。
今でも幼少期に嫌だと思ったことは書きとめておくようにしていますが、
当時は、潜在的に回顧することが嫌だったのでしょうね。
振り返るのがなぜか気が向かないにもかかわらず
「別に自分は両親にそこまで不満はなかったと思う。」
と言う風に思っていたのです。
ACと気づいてホットしたのか、もう自分は大丈夫だと思ったのか
自分自身に嘘をついて、自分を誤魔化そうという防衛意識が
出てきたのです。
「先生、もう何も不満がないのだから幼少期のことは良いじゃないですか」
「今が回復すれば良いのですから、どうしたら良いのか教えて下さい」
見たいな。
なんでそんな虚勢を張って先生にまで自分を強く見せようと
するのかよく分かりませんでしたが、潜在的に振り返りたくない、
開けたくないパンドラの箱が心の奥底にあったというのは言うまでもありません。
〇パンドラの箱は今でも開け続けている状態。
心療内科に通っていたにもかかわらず、AC回復のポイントになる
幼少期の回顧に向き合うことはなかなか出来ず、何となく先生と話をして
睡眠薬や抗うつ薬などを処方されかえって来るという時期を2年ぐらい
過ごしました。
当時はこんなことやっていて無駄な時間だとしか思えないときもありましたが、
この期間が良かったのだと思います。私は基本的に病院の先生を信頼してないんです。
ですから心も開かない。長い年月でしたが、無理ヤリにこうした方が良いとアドバイスを
するような先生でもなかったため、十分に話を聞いて少しずつ私の心がほぐれたのだと
思います。
そんな過程を経て、幼少期を思い出すことに少し抵抗がなくなったのでしょう。
〇子供の教育に無関心な父
平日も休日も仕事で家に殆どいることがない父親。
私が物心が付いてから、大学進学のため上京するまでは、不思議な関係でした。
自分の父親ながら、なかなか顔を合わせることがないのと、たまにあったとしても
子供の教育は全て母親に任せた!みたいな人でしたから、自分から進んで
子供と遊ぼうとしたり、話で盛り上がるという事がない。
とはいえ、父親と喧嘩なんてものもしないし、怖くて恐ろしいという
タイプでもありませんでした。本人が聞いたら悲しむでしょうが、たまに
食卓を一緒に囲むときにいると、自分の父親ながら、
「どこか知らないおじさんと一緒にご飯を食べている感覚」があったのです。
昔ながらの人だからか、そう言う性格なのか、相当疲労していたからか
わかりませんが、中身のある会話ってしたことがないんですよね。
「醤油とってくれる?」
「ちょっとチャンネル野球にしてよ」
覚えている父の言葉はこれ^^
しかも、私の名前を兄の名前と間違えることが多いんです^^
父親は頭ごなしに怒ったり、殴ったりはありませんでしたが、私からすると、
父親がいない時の方がなんだか気楽でよかったのです。
今思えば、身を粉にして働いてくれた口うるさくないマイペースな父親だと思えますが、
子供ながらに、自分に関心を向けない人、自分の名前を間違うぐらいにしか
気にしていない人と寂しい思いはあったのかもしれません。
子供って結構「えっ!?そんなことで傷つくの?」と言うところで
傷ついていたりするのです。
つづく。
離婚問題でお困りの方へお近くの専門家をご案内します
アダルトチルドレンの治療というか回復というか、
気づいた後にのしかかってくるのが、幼少期の自分自身や
親とどのように接していたかという回顧。
今でも幼少期に嫌だと思ったことは書きとめておくようにしていますが、
当時は、潜在的に回顧することが嫌だったのでしょうね。
振り返るのがなぜか気が向かないにもかかわらず
「別に自分は両親にそこまで不満はなかったと思う。」
と言う風に思っていたのです。
ACと気づいてホットしたのか、もう自分は大丈夫だと思ったのか
自分自身に嘘をついて、自分を誤魔化そうという防衛意識が
出てきたのです。
「先生、もう何も不満がないのだから幼少期のことは良いじゃないですか」
「今が回復すれば良いのですから、どうしたら良いのか教えて下さい」
見たいな。
なんでそんな虚勢を張って先生にまで自分を強く見せようと
するのかよく分かりませんでしたが、潜在的に振り返りたくない、
開けたくないパンドラの箱が心の奥底にあったというのは言うまでもありません。
〇パンドラの箱は今でも開け続けている状態。
心療内科に通っていたにもかかわらず、AC回復のポイントになる
幼少期の回顧に向き合うことはなかなか出来ず、何となく先生と話をして
睡眠薬や抗うつ薬などを処方されかえって来るという時期を2年ぐらい
過ごしました。
当時はこんなことやっていて無駄な時間だとしか思えないときもありましたが、
この期間が良かったのだと思います。私は基本的に病院の先生を信頼してないんです。
ですから心も開かない。長い年月でしたが、無理ヤリにこうした方が良いとアドバイスを
するような先生でもなかったため、十分に話を聞いて少しずつ私の心がほぐれたのだと
思います。
そんな過程を経て、幼少期を思い出すことに少し抵抗がなくなったのでしょう。
〇子供の教育に無関心な父
平日も休日も仕事で家に殆どいることがない父親。
私が物心が付いてから、大学進学のため上京するまでは、不思議な関係でした。
自分の父親ながら、なかなか顔を合わせることがないのと、たまにあったとしても
子供の教育は全て母親に任せた!みたいな人でしたから、自分から進んで
子供と遊ぼうとしたり、話で盛り上がるという事がない。
とはいえ、父親と喧嘩なんてものもしないし、怖くて恐ろしいという
タイプでもありませんでした。本人が聞いたら悲しむでしょうが、たまに
食卓を一緒に囲むときにいると、自分の父親ながら、
「どこか知らないおじさんと一緒にご飯を食べている感覚」があったのです。
昔ながらの人だからか、そう言う性格なのか、相当疲労していたからか
わかりませんが、中身のある会話ってしたことがないんですよね。
「醤油とってくれる?」
「ちょっとチャンネル野球にしてよ」
覚えている父の言葉はこれ^^
しかも、私の名前を兄の名前と間違えることが多いんです^^
父親は頭ごなしに怒ったり、殴ったりはありませんでしたが、私からすると、
父親がいない時の方がなんだか気楽でよかったのです。
今思えば、身を粉にして働いてくれた口うるさくないマイペースな父親だと思えますが、
子供ながらに、自分に関心を向けない人、自分の名前を間違うぐらいにしか
気にしていない人と寂しい思いはあったのかもしれません。
子供って結構「えっ!?そんなことで傷つくの?」と言うところで
傷ついていたりするのです。
つづく。
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