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2022年03月08日

大人になることは幸せか。

ー目次ー
  1. ドラえもんの言葉”おとなってかわいそうだね”
  2. 大人になるとは”逃げられない終身刑”の受け入れか?
  3. 大人を押し付け合う人たち”いい歳した大人が”
  4. 子どもの欲求を満たしてもらえなかった”子どもっぽい大人”
  5. 大人を強要するのは”親に甘えたかった欲求”を押し殺しているから
  6. 大人が『パパもあまえんぼ』に涙する世界は幸せか?

1.ドラえもんの言葉”おとなってかわいそうだね”

ドラえもんの名作に
『パパもあまえんぼ』というストーリーがある。

のび太のパパが酔っぱらって帰宅。
ドラえもんとのび太は「パパの親に𠮟ってもらおう」と思いつき、
タイムマシンで過去へ行く話。

過去へ着き、
のび太のおばあちゃん=パパの母親と再会したパパは、
おばあちゃんに泣きつき、こう叫ぶ。

「いじわるな部長が僕のことをいじめるんだ」

その光景を見たドラえもんがこう言う。

おとなってかわいそうだね。
自分より大きなものがいないもの。

よりかかってあまえたり、
しかってくれる人がいないんだもの。


『藤子・F・不二雄大全集 ドラえもん 5』”パパもあまえんぼ” より


大人とは何だろう。何をもって大人になるんだろう。

ドラえもんの言うように
”自分より大きなものがいない人”が大人だとしたら、

大人になることは本当に幸せなんだろうか。


2.大人になるとは”逃げられない終身刑”の受け入れか?

大人とは、
年齢を重ねて、外見がそれっぽくなった人だろうか。
「守られる者」から「守る者」になった人だろうか。

それとも、ドラえもんがパパに感じたように
「寄りかかって甘えたり、𠮟ってくれる人がいない存在」
になった人だろうか。

もし大人が

・他人に甘えてはいけない
・弱さを見せてはいけない
・我慢しなければいけない
・誰かを守らなければいけない

ことを強要される存在なら、
僕は一生、大人になどなりたくない。




僕がのび太くらいの年齢だった頃、
まわりにいた”大人”たちはみんな苦しそうに見えた。

家族を養う人も、1人で生活の糧を稼いでいる人も、
みんなみんな苦しそうだった。

僕には彼らが抑えている我慢の”カタチ”が見えていた。
時折、爆発する矛先が、いつ自分に向けられるかと恐れた。

そんな大人ばかり見て育った僕は、
自由を奪われることや、重責を背負うことを極度に嫌うようになった。

僕はこの頃から、家族や子どもを持つことを
「逃げられない終身刑」と捉えるようになった。


3.大人を押し付け合う人たち”いい歳した大人が”

「子どもっぽい言動」をする人に対して、
大人と呼ばれる人たちの反応は冷たい。


「いい歳した大人が」
「大人のくせに」
「我慢しなさい」


たとえば30歳の人が、25年前に同じことをしても、
「仕方ないね」「子どもだからね」で済まされる。

なのに25年後には「いい歳した大人が」と非難される。
この差は何だろう。

きっと、「いい歳した大人が」と言う背景には、
その25年で社会の掟を学んだはずだという期待がある。


そして、「いい歳した大人が」の辛辣さを高めるのは、
その人の「大人とはかくあるべき」という理想像との差分。



外見がそれっぽいというだけで、互いに
”大人でなければ許さない”という同調圧力をかけ合っている。

ただ25年の時間が流れただけ、というのも許されず、
常識という付加価値が増えていって当然とみなされる。

それ、大人になった人も、大人を強要される人も、苦しくないの?

4.子どもの欲求を満たしてもらえなかった”子どもっぽい大人”

「いい歳した大人が」と言いたい気持ちもわかる。

円滑に生きるためには、自分を抑える場面などいくらでもある。
自分が我慢していることを平気でする相手が許せないのもわかる。

ただ、他人に「いい歳した大人が」と言う人には、
1つ見落としていることがある。

 子どもっぽい大人は子どもの頃、
 のび太のパパのように甘えることができたのか?


という視点だ。



子どもっぽいことをするのは、
子どもの頃に、子どもの欲求を満たしてもらえなかったから。


子どもの頃に、親に寄りかかって、泣いて、
思う存分、甘えることができなかったから。


「中身が子ども」という言葉はたいてい、
子どもっぽい大人をけなす意味で使われる。

だけど、僕はその使われ方に違和感を感じる。
「中身が子ども」という言葉は、

 満たされなかった子どもの欲求を抱えたまま、
 身体だけ成長した悲劇


を表していると思う。

5.大人を強要するのは”親に甘えたかった欲求”を押し殺しているから

「いい歳した大人が」と言う人はきっと、
親に甘えたかった欲求を封じ込めている。


ドラえもんの言う「かわいそうな大人」を無理やり演じている。
だから余計に、子どもの欲求を露出する人に敏感になる。

子どもの欲求を封じ込めた自分と、
子どもの欲求を親に満たしてもらいたかった自分がぶつかる。


その葛藤を感じないために、
子どもっぽい大人を非難して自分を保っている。



『パパもあまえんぼ』のような作品が創られ、多くの人の涙を誘うのは、

 親に甘えたくて、甘えられないまま、
 子どもの欲求を封じ込めて生きている大人がいかに多いか

 のび太のおばあちゃんのように子どもの気持ちに共感し、
 何も言わずに包み込める親がいかに少ないか


という現実を表している。

6.大人が『パパもあまえんぼ』に涙する世界は幸せか?

大人になるとは、

 「あなたはこの先ずっと支える側です」
 「あなたは支えられてはいけません、大人なんでしょ?」

という終身刑を受け入れることだろうか。

・世の大人が『パパもあまえんぼ』に涙しなくていい世界
・『パパもあまえんぼ』という作品が存在しなくていい世界


などは、空想の中でしか存在できないんだろうか。


大人とは、
「学べよ」「成長しろよ」「我慢して当然」「年相応」
という重圧の押し付けを受け入れることだろうか。

なぜ、生きている年数に応じて”大人”を強要されるんだろうか。
まわりに大人を押し付け、自身は大人を演じる人たちは幸せなんだろうか。



のび太の目に、パパはどう映っているんだろうか。
”幸せに生きている人”か、”苦しみを押し殺して生きている”人か。

大人を強要し合い、苦しみを相互監視する世界を見て、
「大人になりたい」と思う子どもがどれだけいるだろうか。



大人になるとは、本当に幸せなことだろうか?




U-NEXT『とっておきドラえもん わきあいあい家族編』



posted by 理琉(ワタル) at 19:35 | TrackBack(0) | 人生観

2022年03月04日

勧善懲悪が人気なのは、救済願望を満たしてくれるからではないか。

ー目次ー
  1. 勧善懲悪への違和感、”なぜ怪獣はいつも、ヒーローに退治されるのか”
  2. 救済願望、”自分の人生を救ってくれるヒーロー”を望む
  3. 勧善懲悪は、正解のない現実世界に”答え”を用意してくれる
  4. 熱狂が冷める瞬間、”人生にヒーローは現れない”という確信
  5. 救済願望を満たす構図、”一方的な正義が、一方的な悪を討つ”

1.勧善懲悪への違和感、”なぜ怪獣はいつも、ヒーローに退治されるのか”

多くの男の子が、
「戦隊ヒーローアニメ」にハマった時期があると思う。
僕も幼少期は戦隊ヒーローアニメが好きだった。

戦隊ヒーローアニメは1つのシリーズが終わっても、
新たな「●●レンジャー」シリーズが始まる。
観る人を飽きさせず、続編へ引き込む魅力がある。



なのに、僕はなぜか1つのシリーズが完結した時点で
「戦隊ヒーローアニメが好きな時期」が終わってしまった。

まわりの男の子が好きな戦隊ヒーローアニメの話で盛り上がる中、
僕はこんな思いを抱えていた。

 『怪獣さん…あんなに打たれて、殴られて、最後は爆発して…
  さぞ痛かったろうな、苦しかったろうな…』

 『生まれ変われたら、もう戦わなくていい人生になってほしいな』

 『怪獣たちはどうして退治されなきゃいけないんだろう?
  どうしていつもレンジャーが勝つんだろう?』

 『どうして”悪が倒される絵”は、こんなに多くの人を惹きつけるんだろう?』




僕は「勧善懲悪」モノのアニメやドラマを、素直に楽しめなかった。

懲悪される側が切られたり、殺されたりするたびに、
自分がそうされたように感じた。心が痛かった。
退治された側の姿に感極まって泣いたこともあった。

いつも懲悪される側の気持ちと一体化するクセがついた僕は、
「勧善懲悪はおかしくないか?」と思い始めた。

善が悪を退治する、それはあまりに一方的だ。
なのに、短期間でも戦隊ヒーローアニメが好きだった自分もいた。

「自分の中にも、善が悪を退治することを肯定する気持ちが潜んでいる」
それを受け入れるのがつらかった。

2.救済願望、”自分の人生を救ってくれるヒーロー”を望む

勧善懲悪モノや、戦隊ヒーローモノがどれだけ好きかは、
「その人がどれだけヒーローを求めているか」に比例すると思う。

何を救ってくれるのか、それは
「自分の人生を救ってくれるヒーロー」だ。

・自分が理想とする人生と、現在の自分の人生がかけ離れている
・自分はいちばん愛されたかった人にさえ、愛されない存在だと思い知る
・自分の無力さ、凡庸さ、何も成し遂げられない苛立ち

そういった無力感や敗北感を強く味わった人ほど、
”自分を救済してくれるヒーロー”の登場に心が踊るんじゃないだろうか。




対する悪の怪獣は、たとえば

・学校でいじめられた
・親が関心を向けてくれなかった
・部活でレギュラーになれなかった
・お金持ちになれなかった
・出世できなかった

などの、「自分に無力感を与える何か」が化けた姿だ。

そして、”自分の無力感が化けた悪の怪獣”に立ち向かい、
自分を救ってくれるヒーローこそが水戸黄門であり、レンジャーだ。

正義のヒーローが悪を倒す、その熱狂の根底には、
「自分の人生を一発逆転してほしい」
という救済願望があるんじゃないだろうか。


3.勧善懲悪は、正解のない現実世界に”答え”を用意してくれる

水戸黄門もウルトラマンも、戦隊ヒーローシリーズも、
いまだに高い人気を誇っている。

なぜ勧善懲悪モノは、これほど広く受け入れられるのか。

その理由は
・ヒーロー:自分の人生を救ってくれる存在
・悪の怪獣:自分に屈辱感を与える何か
だとしたら、

 「自分はこんなものじゃないはずなのに、くすぶっている」
 という思いを隠し持つ人に、強烈に刺さるから


ではないかと思う。



自分は本当は怪獣に打ち勝てるはずなのに、現状に甘んじている。
その怪獣を倒してくれる、理想の強さを備えたヒーローが現れてくれる。

一方で、
「自分の人生にはヒーローなど現れない、現状は自分で変えるしかない」
ことも、うすうすわかっている。


・自分の無力さと向き合うことへの葛藤
・善悪と真っ二つにできない現実世界
・どこまでもグレーで、正解へたどり着けない苦しみ

勧善懲悪モノは、それらをきれいに割り切ってくれる。
葛藤から解放してくれる。


だからこそ、救済願望を抱えた多くの人に
受け入れられるんだと思う。

4.熱狂が冷める瞬間、”人生にヒーローは現れない”という確信

僕が勧善懲悪モノに違和感を覚えたのは、

 「一方的に善を主張する者たちが
  一方的に悪と決めつけられた者たちを粛清する」

ことに疑問を持ったからだ。
ある日、”退治される側の視点”に気づいてしまった。



では、なぜ”退治される側”からヒーローを見るようになるのか。
なぜ勧善懲悪モノを楽しめなくなる人が出てくるのか。
それは、何かをきっかけに

悪の怪獣を
”自分に無力感を与える何か”に置き換えられなくなったから


ではないか。



そして、怪獣をそんな目で見られなくなる理由は
「何が来ても自分で倒せるようになったから」
「ヒーローが必要なくなったから」
というポジティブなものではないと思う。

自分の人生にはヒーローなど現れないことが確信に変わったからだ。

良く言えば「悟った」
悪く言えば「諦めた」
そんな境地へたどり着く出来事があったとき、
人は勧善懲悪モノへの熱狂が冷めるんじゃないだろうか。

5.救済願望を満たす構図、”一方的な正義が、一方的な悪を討つ”

世の中には
「人生の幸福度を上げよう」
「一度きりの人生、やりたいことをやろう」
という言葉があふれている。

みんなが幸せを感じているなら、
世の中にそういうポジティブな言葉があふれるだろうか。

それは裏返せば、多くの人が
「生きることは、苦しみの方が何倍も多い」
ことに気づいているからじゃないだろうか。




人生には幸せの方が多いなら、
どんな怪獣が現れても自分で倒せるなら、
ヒーローなど必要ない。

なのに勧善懲悪モノがこれほど受け入れられるのは、
ヒーローに救われたい人がそれだけ多いからだ。


勧善懲悪モノは、
多くの人が心の奥底に抱える葛藤に応えてくれる。
正解のない答えを選び続ける苦しみを、一刀両断してくれる。
「自分の理不尽な苦しみには意味がある」と思わせてくれる。

だから、

「一方的な正義が、一方的な悪を討つ」

という構図はこれからも、
人間の救済願望を満たし続けるんじゃないだろうか。










posted by 理琉(ワタル) at 19:49 | TrackBack(0) | 人生観

2022年02月28日

話が通じない親には”心の実体”が存在しないのではないか。

ー目次ー
  1. 一方的な親は、プログラムを機械的に出力するロボット
  2. 投げたボールが虚空へ消える感覚、”心の核が存在しないのか?”
  3. 親の親に刷り込まれたプログラム、消し去られた心
  4. 親が発達障害の可能性、”心の理論”が未インストール
  5. 苦しみに名前を付け、苦しみを癒す一助に

1.一方的な親は、プログラムを機械的に出力するロボット

「アダルトチルドレン」「毒親」という言葉が台頭した昨今、
親との関係が”実は苦しかった”と気づく人が増えたように思う。

「自分の親は”毒親”かもしれない」

「自分の苦しみ、寂しさ、孤独感、欠乏感の根源は、
 親から十分な愛情や共感をもらえなかったことかもしれない」
と。

あからさまな暴力やネグレクトは目立つから、
”苦しかった”と自覚しやすい。

しかし、そこまで目立たない”親からの巧妙な支配”の弊害は、
子どもが成長してから徐々に表面化するのでタチが悪い。



多くの人が苦しんでいる”親からの巧妙な支配”とは、

「親が一方的に命令したり、愚痴ったりするばかり」
「親が話を聞いてくれない、話が通じない」


ではないかと思う。


親からはずっと剛速球を投げられるのに、
こちらが投げたボールはすべて叩き落される。

あるいは、こちらが投げたボールが
まるで虚空へ消えていくように手ごたえがない。

この一方通行のような閉塞感はどこからくるんだろうか。



「同じ言語を母語とするのに、どうして親には話が通じないんだろう?」
それは親の本心が見えないからではないか。

いや、もっと言えば、
目の前にいるのは親ではなく、
「ヒト型をした、中身が空洞の何か」だからではないか。

まるで、あらかじめ打ち込まれたプログラムを、
機械的に出力するだけのロボットではないか。

親の本心なんて、親の本当の姿なんて、
実はどこにも存在しないんじゃないだろうか。


2.投げたボールが虚空へ消える感覚、”心の核が存在しないのか?”

僕の両親は、まさに
「プログラムされた命令を機械的に繰り返すロボット」
だと感じている。

「〜しなさい」「〜しろ!」
という命令をするとき以外では、こちらへ関わろうとしない。

僕は幼少期に、親から
「学校で何があったの?」「何か楽しいことがあった?」
と尋ねられたことがない。

家での父親は数学教師としての業務に、母親は家事に、
文字どおり”没頭”していた。

僕の育った家は、プレハブの作業所のような冷たい場所だった。
誰もが無言で、持ち場の作業を淡々とこなしていた。


親子や兄弟姉妹は「他の作業員」。
会話も、おそらく互いへの興味もなかった。



僕は5歳くらいのとき、父親へ意志を伝える努力を放棄した。

「この人には何を言っても伝わらない」
あきらめが確信に変わったことを覚えている。

父親はしゃべり出すと長く、気性の荒い人だったので、
キャラクターがわかりやすかった。

母親は、僕がお世話になった多くの人に
「キャラクターがつかめない」と言わしめた。

母親は「夫より3歩下がって歩く」を体現していた。
傍から見れば「良妻賢母」だった。



父親は僕の投げたボールをすべて叩き落とした。
僕が小学校へ入るころ、父親との会話はゼロになっていた。

母親とは多くの口論をした。
だが「投げたボールが虚空へ消えていく感覚」が強かったのは、
むしろ母親に対してだった。

「この人の実体はどこにあるんだろう?」
僕は母親を思い返すたびにそう感じる。

もしも心に形があって、細胞のように”核”があるとしたら、
2人に感じた「話が通じない感覚」の中身はまったくちがった。


父親へ抱いた「話が通じない感覚」は、
『説教や暴言でガードされ、核へたどり着けない』

母親へ抱いたそれは、
『心も、その核も存在しない』だった。

3.親の親に刷り込まれたプログラム、消し去られた心

”親からの巧妙な支配”は、
「親から共感してもらえなかった」という苦しみを生む。

なぜ、親は自分に興味がないのか。
なぜ、親は子どもの話を聞く気がないのか。

その理由は、僕が両親に対して感じた
「そもそも親には”共感”も”話を聞く”もプログラムされていない」
ではないだろうか。



きっと、親は子どもの頃、親の親に共感してもらえなかった。
話を聞いてもらえなかった。

かわりに、親の親からこう求められ続けた。
「私(親の親)を満たしなさい」

経済的、肉体的、心理的に自立出来ていない子供を使って、
親は自分の「昔の心の傷」を癒している。
子供は、親のぬいぐるみになっている。

「親子の役割逆転」をする親は、子供を「揺りかご」にする。
親は自分が子供時代に十分に揺りかごを揺すってもらえなかった。
その欲求不満を、子供で満たそうとしている。


『子供にしがみつく心理 大人になれない親たち』 より

親は、「親の親を満たしなさい」
という要求を受け入れるしかなかった。
それを拒否したら、捨てられるかもしれないから。

そうしているうちに、「親の親を満たしなさい」は、
親自身の欲求に取って代わってしまった。

 『親は、子どもに「私を満たしなさい」と要求するものだ』
という、偽りのプログラムとして。



親自身の”心の核”は、もうどこへいったのかわからない。

子どもに対する説教や暴言、無関心は、
「親を満たしなさい」という要求の変形
であることにすら気づかない。

それでも、脳は「生き延びろ」「子孫を残せ」と命令し続けた。

彼らの心は行方不明のままだが、身体は成長していた。
あるとき生殖機能を使い、新たな人間を作成した。

それが「話が通じない親」の正体ではないだろうか。

4.親が発達障害の可能性、”心の理論”が未インストール

『「毒親」の正体―精神科医の診察室から―』によると、
”毒親”問題の現場では、親が発達障害であるケースが非常に多いという。

発達障害、特に自閉症スペクトラム(ASD)の場合、

「心の理論がインストールされていない」
「横のつながりが欠如している」


ために、”これをしたら相手が傷つくかもしれない”という想像が難しい。


<心の理論>
この状況では相手はこんなふうに思っているはずだ、とか、
こんなふうに言ったら相手はこう思うだろう、というような常識的な「読み」です。

ASDの人には「心の理論」がもともとインストールされておらず、
一度体験してパターン認識することで蓄積していくしかなく、応用は利かないのです。


”第2章 毒親の抱える精神医学的事情” より

<横のつながり>
1つのテーマを突き詰めることについてはとても秀でているのですが、
例えば「でもそんなことを言うと、お嬢さんの生き方を否定することになりますよね」と、
異なる視点からのコメントをすると固まってしまう、という特徴です。

固まった結果、とりあえず反撃する、という人も少なくありません。

”第2章 毒親の抱える精神医学的事情” より


僕は勝手ながら、自分の両親はともにASDではないかと思っている。
親の一方通行な言動の説明ができるからだ。

・一方的な命令、話を聞けない、相手の気持ちを尋ねない
 →子どもを傷つけるかもしれないという想像力の欠如

・親の命令を断ると即座に「わがまま」「自分勝手」と断じてくる
 →断られるという”奇襲”に被害者意識を抱いて反撃



両親に感じる「話が通じない」感覚も、
発達障害かもしれないなら納得がいく。


・どんなボールを投げても説教や暴言で叩き落される
 →”相手が意志を伝えてくること”が想定外の変化球だから

・こちらが投げたボールが虚空へ消えていく
 →親にはそもそも受け取るための「心の理論」がないから

実家の、作業所のような冷たさ。
親の、ロボットのような融通の利かなさ。
それは彼らにとって何もおかしくなかった。

「システムは正常に稼働しています」
だったのかもしれない。

5.苦しみに名前を付け、苦しみを癒す一助に

 「家族とはあたたかくて、安心できる場所」
 「親とは優しく受け止め、包み込んでくれる存在」

それは、僕が”家族という理論値”に抱く幻想だろうか。
アイドルに求めるような、一方的な理想像だろうか。


 「親に自分の心を受け止めてほしかった」
 「親に共感される経験がほしかった」

それは、空想の中でしか手に入らない欲求なんだろうか。



心はどこにあるのか、脳と心はちがうのか、本当の自分なんているのか。
親は心を消し去ったのか、未インストールなのか。

そんなことはわからない。

わかっているのは、
「親に話が通じない」ことに苦しむ人は僕以外にもたくさんいるだろう

ということ。

ならば、その苦しみに理由を付けよう。
苦しみに理由や名前を付けることは、苦しみを癒すと思うから。

「親に話が通じない」のはなぜなのか。
本記事がそれを考える一助になれば嬉しい。



親は変わらない、最大の復讐は自分が幸せになること。

毒親の葬儀に出席するかどうかは、自分で決めていい。










posted by 理琉(ワタル) at 19:51 | TrackBack(0) | 家族

2022年02月25日

マスク社会を終わらせるのは、僕ら1人1人の”自由を勝ち取る意志”。

僕は外ではマスクをしません。
「マスク未着用お断り」という場所でのみ付けます。

僕は街を歩いていて、
ほとんどの人がマスクを付けて歩いている光景が異常に見えます。

「換気100%の外で、なぜみんなマスクをするんだろう?」

そんな疑問に答えられない日々に悶々としながら、
気づいたことがあります。



僕らはどこかで、
「コロナが終わったらマスクを外せる」
と考えているんだと思います。


それはどこか他人任せで、楽な考えです。

その他人とは、たとえば
「コロナ収束宣言」「マスクを外してよいというお達し」かもしれません。

僕は、マスクなんて付けずに生きる自由を、
自分で取り戻したいと思います。だから可能な限りマスクをしません。

僕ら1人1人がマスクを外したらコロナ茶番が終わるんだと思います。


ー目次ー
  1. 見せかけの自由は、お上の事情1つで制限される
  2. マスクは同調圧力対策の制服、”私は多数派にいます”
  3. 表情が読み取れない、共感能力が育たない恐怖
  4. マスク合法化社会に安堵する意見も
  5. マスク社会はおかしいので、マスクを外す

1.見せかけの自由は、お上の事情1つで制限される

マスク社会に不自由を感じている人は多いと思います。
息苦しい、耳が痛い、顔を覚えられないなど、弊害は多々あります。

ウィルスはマスクのすき間から素通りです。
お上は「飛沫感染が危険!」という訴えに必死ですが、

・日常的な酸素不足で脳の機能が低下
・表情を読み取れないことで共感能力が低下


の方が深刻です。

さらに、こんなに徹底してマスクをしたところで、
「カンセンシャ」と偽った陽性者の増減は起こっています。

カンセンシャとやらの数字を動かす力があるのはマスクではなく、
「ワクチンを打たせるノルマ未達時に増やされる検査数」
である可能性が高いです。


※日本政府に”ワクチン購入”ではなく
 ”打たせる”ノルマがあるらしいことは、

 「ワクチン3回目、1日100万回を目標」 
 「接種回数を増やさないと政権がもたない」発言や、

 YouTubeに「ワクチン3回目を打ちましょう」
 という広告をねじ込んできたことから推測されます。

僕らがいかに従順に
「マスク!免疫!ワクチン!」の大号令を守ったところで、
お上の事情1つで自由は制限されていくんです。


2.マスクは同調圧力対策の制服、”私は多数派にいます”

「マスク、無意味じゃない?」
「もうやめない?」

うっすらと、そう思っている人は多いはず。
にもかかわらず、なぜ未だにマスクを外さないのか。

それは、マスクの機能を度外視した、
集団心理の力が働いているからだと思います。

・「私は多数派にいます」というアピール
・「あなた多数派ですよね?」という同調圧力




人間は身の安全のため、多数派にいたい生き物です。
日本は横並び教育の弊害か、

 みんなと同じじゃないといじめられる
 非国民と言われる
 村八分にされる

という恐怖が強いと感じます。
背後にいるのは「同調圧力」というモンスターです。

強い同調圧力の前では、不合理だとわかっていても、
マスクを外して少数派になる方が怖いでしょう。
数の暴力に勝つことは困難です。

それを避けるためには、
「私にはその時の社会的正義に協力する意志があります」
「社会的多数派に属しています」とアピールする必要があります。


同じ制服を着ると、その人は同じチームに属している味方に見えます。

マスクを付けることは、機能的にどうこうではなく、
「同じ制服を着た仲間と見られたい」
「少数派になって叩かれたくない」
という心理の表れではと思います。

3.表情が読み取れない、共感能力が育たない恐怖

僕はマスクのもっとも大きな弊害は
「表情が読み取れないことで共感能力が育たない」だと思います。


赤ちゃんは生後3年くらいで、
まわりの人の顔を見て、表情から感情を読み取る力をつけるそうです。

このとき、親や身近な人がマスクをしていると、表情が見えないため、
感情を推測する力が育たない可能性があります。


人への共感や、感情の読み取りができないまま育つと、

・他人の痛みや苦しみに無関心
・目先の欲求や自分の不安しか考えられない


という人間になってしまう恐れがあります。
そして、そういう人が親になり、他人に無関心な子どもが育つという、
負の世代間連鎖が起きてしまいます。



他人への共感能力が欠如した親に育てられる恐ろしさを、
僕は知っているつもりです。

僕の両親がまさにそういう”命令だけをするロボット”だからです。

 「何が得意なのか、何に興味があるのか、何を考えているのか」
 「学校でどんなことがあったのか、嬉しかったのか、悲しかったのか」


親からそういうことを一度も尋ねられないまま育つと、
「わかってもらえた経験」のない、心の孤児になります。


コロナ茶番を終わらせてくれるわけでもないマスクが、
心に空洞を抱えた人間を量産する未来が恐ろしいです。

4.マスク合法化社会に安堵する意見も

一方、マスク社会になったことを歓迎する声もあるようです。

日頃からマスクを外したくない人や、
「だてマスク」をする人にとっては、
素顔をさらさずに済むことに安心感を覚えるといいます。

「顔にコンプレックスがある」
「マスクを外したらがっかりされたくない」
のような、自信のなさを隠せるという意見もあります。


こういう人にとっては、
マスクが合法的に市民権を得た今の方が生きやすい世界かもしれません。



日本人は人生への幸福度や、自己肯定感が低い傾向があるそうです。
それこそ、多くの人が素顔すら隠して生きていたいと思うほどに。


謙遜する文化や、”我慢が美徳”がそうさせたんでしょうか。
それとも、個性や自己表現より集団を優先する風土でしょうか。

マスクをする自由もあって然るべきだと思います。

僕は自分に自信がないし、自己肯定感も低いですが、
マスクをしない自由は勝ち取りたいと思います。

5.マスク社会はおかしいので、マスクを外す

メジャーリーグも、UEFAチャンピオンズリーグも、
すでに満員のスタジアムで観客が熱狂しています。

昨年、大谷翔平選手が大活躍したエンゼルススタジアムは、
マスクなしで熱狂する人の喝采で埋め尽くされていました。


外国と日本では状況も文化もちがうことはわかります。
それでも僕は、メジャーリーグのように
マスクなしで熱狂できる自由があっていいと思います。



自由を勝ち取るときには戦いが発生します。
フランス革命でも、ロシア革命でも、多くの血が流れました。

それでも「生き方は自分たちで決めたい」という意志が、
やがて社会を変えていきました。

不自由には、”管理されている方が楽”という側面もあります。
「おかしい」というわずかな疑問に目をつぶれば、
何も考えずに従っていればいいからです。

僕はマスクなしで外を歩くとき、
いまでもまわりの視線が気になることがあります。

それでも僕はマスク社会はおかしいと思うので、
終わらせるためにマスクを外します。









イーブックジャパン

posted by 理琉(ワタル) at 19:28 | TrackBack(0) | 生き方

2022年02月22日

【YouTube:英訳つき自作MV11作目】魔王魂『ベガロスト』リメイク版。

僕は2020年12月より動画制作を始め、
YouTubeへの投稿をスタートしました。

本記事で紹介するのは、
英訳つき自作ミュージックビデオ11作目:

魔王魂『ベガロスト』リメイク版

あわせて、制作のコンセプトや使用ツールも紹介します。
※著作権フリーの楽曲をお借りしています。


ー目次ー
  1. 制作した動画
  2. 作品の概要
  3. 制作の所感
    1. 独自解釈テーマの背景
    2. 新PCとモニターでの初作品

1.制作した動画




2.作品の概要


3.制作の所感

1. 独自解釈テーマの背景

今回の独自解釈テーマは
「自傷行為 〜居候の存在証明〜」です。

これは僕自身の2つの原体験から設定したものです。

・家族は自分のことを”居候”だと思っていたと判明したこと
・その事実に傷つき、自傷行為に狂った時期があったこと

”居候”という言葉が嫌い。

リストカットは、心の孤児が叫ぶ悲鳴。

当時の僕はいま以上に歪み、狂っていました。
そして僕は昔も今も、自分が心の奥底でいじけていることを自覚しています。

「どうせ自分は愛されないし、自分の気持ちに興味のある者などいない。
 なぜなら自分を生み出した親でさえ、自分に興味も愛情もなかったんだから」


どれだけ前向きな言葉を探しても、自己肯定感を上げようともがいても、
根底にある”いじけ”を消せない自分がイヤになります。



それでも、僕はブログや動画制作に出会ったことで、
「未消化の思いを作品として表現することは癒しになる」
と気づきました。

もちろん、作ったからには多くの人に見てもらいたいです。
僕の中にある自己顕示欲も、承認欲求も否定しません。
人間なら自然に持っている欲求ですから。

ただそれ以上に、
作品作りに没頭することは「セルフセラピー」になります。

太宰治も夏目漱石も生涯、親からの愛情不足に苦しんだそうです。

彼らが多くの優れた作品を書き上げられたのは、
その寂しさや孤独を創作のエネルギーに変換し、
自己表現に没頭できたからだと思います。

僕には彼らのような作品は残せないでしょう。
それでもいいんです。

僕は自分の心を癒すために、生きた証を残すために、
自己表現を続けたいと思います。


2. 新PCとモニターでの初作品

前作でノートPCが寿命を迎えました。

僕はこれからも動画制作を続けていきたいので、
思い切ってPCをアップグレードすることにしました。

中古ですが、新しいノートPCと大画面モニターを購入。

・新PC:Lenovo ThinkPad (SSD 512GB搭載)
・モニター:acer 23.5インチ

・CPU:旧Celeron 2957U → 新Intel Core i7 8650u
・メモリ:旧4GB → 新16GB


改めて旧PCのスペックを書いてみると、
この低性能でよく1年も動画編集に耐えてくれたと思います。

旧PCではカクカク感や、編集ソフトのフリーズが日常でしたが、
新PCはびっくりするくらい滑らかです。

あとは、あらゆるものの起動が感動するくらい早いです。
SSD恐るべし。

出費は痛いですが、
今後も快適な環境で動画編集のスキルを磨けると思えば、安い自己投資です。
設備や環境を整えることの大切さを学びました。


僕には表現したいことが、まだまだたくさんあります。

もっと編集スキルを付けて、
頭の中にあるイメージをもっと具現化できるようになりたいです。



uniconverter

2022年02月21日

反出生主義は、親に愛されなかった者たちがたどり着く救済思想。

ー目次ー
  1. 反出生主義は、親に愛されなかった者たちの救済思想
  2. 自己肯定感ブームの裏にある、自己否定と絶望
  3. 愛着障害と欠乏感、生後2〜3年で決まる”運ゲー”
  4. 反出生主義にある安心感、”生物の義務”からの解放
  5. 反出生主義者の役割、”苦しむ人間をこれ以上、新規作成しない”

1.反出生主義は、親に愛されなかった者たちの救済思想

僕は『反出生主義』に賛成です。

人は生まれなければ苦しまなくてすむので、
人間の新規作成はやめた方がいいと思います。


僕は自分の代でこの家系を断絶させたいと思っています。

何万年も続いてきた自分の遺伝子が
途絶えることにロマンすら感じています。

反出生主義には
「出産行為は産まれてくる子どもへの暴力・親のエゴ」
と考える側面もあるようです。

同意はできますが、すべての出産を悪だとは思いません。
あくまで自分が肯定的に思うだけで、
他人に押し付けるつもりはないです。



昨今は僕のように、
反出生主義に賛成する人が増えているそうです。

それは、現代社会には
「生まれなければよかった」
「こんなに苦しいならもう生きていきたくない」

と、絶望している人がいかに多いかを物語っています。

そして、僕を含め、
反出生主義に賛成する人には共通点があると思います。

それは
「親からの愛情や共感的な応答を受けられずに育ったこと」です。

そういう人たちにとって、反出生主義は救済の思想です。

「せめて自分が愛されなかったことに意味がほしい」
という叫びに理屈を付け、救われた気にさせてくれます。

2.自己肯定感ブームの裏にある、自己否定と絶望

昨今は「自己肯定感ブーム」です。

・自己否定を止めましょう、自己肯定感を持ちましょう
・承認欲求に振り回されないようにしましょう
・何事もポジティブに捉えましょう
・幸せは心の持ちようです

自己肯定感を上げるための書籍や、
カウンセリング、セラピーが大盛況です。

なぜ、自己肯定感が声高に叫ばれるのか。
理由はそれだけ「自己否定に苦しむ人が多いから」でしょう。

「自己肯定感ブーム」とは、
自己否定に苦しむ人の救済が巨大なビジネスになった結果です。



自己肯定感の源である「自分への自信や安心感→愛着スタイル」は、
生後3歳くらいまでに作られるそうです。


・自分が求めた時に、親から共感的な応答をしてもらえたか
・十分に共感的な愛情を受けて育つことができたか

それによって、安定した愛着スタイルを身につけた子どもは、
「自分を信じられる」「自分を肯定できる」ようになります。

この時期に親から放置されたり、
求めても気持ちを無視した対応をされると、
子どもは「自分は親からも関心を持たれない存在だ」と学習してしまします。

これが自己否定の根源になります。
後からどれだけ自己肯定感を持ったつもりになっても、
心のいちばん奥底では常に自分を否定し続けることになります。


3.愛着障害と欠乏感、生後2〜3年で決まる”運ゲー”

心の奥底に自己否定が根付いてしまうと、

・見捨てられるのが不安で他人の顔色をうかがう(不安型愛着スタイル)
・他人と親密な関係になることを回避する(回避型愛着スタイル)

という、愛着障害に苦しむ人生になります。


愛着障害を抱えて育つと、
「自分は何があっても大丈夫」
「必ず助けてくれる人がいる」
という自信を持つことができません。

なぜなら、自分を生んだ親ですら、
自分に興味も愛情も示してくれなかったからです。



「心が逃げ込める安全基地」がないので、
常に地盤がグラついている感覚がつきまといます。

いつも心に欠乏感を抱え、
何かを達成してようやくゼロになります。


よほどのことがない限り、人生はマイナス。
苦しみや孤独、寂しさ、悲しみでいっぱいです。

そして人生にはリセットボタンがありません。
3歳に戻り、親に愛着スタイルを作り直してもらうことは叶わないんです。

生後2〜3年までという、
自分ではコントロールできない期間に、親に愛されたか否か。

それ次第で生涯、自己否定し続けるかが決まるなんて、
残酷な「運ゲー」です。


完全ランダム、チャンスは1度、リセット不可だからこそ、
「親ガチャ」という言葉が多くの人の心に刺さるんでしょう。

4.反出生主義にある安心感、”生物の義務”からの解放

そうやって、ぬくもりや共感を知らずに育った人は、
次第にこんな思いへ傾倒していきます。

・こんなに寂しくて、悲しくて、孤独な思いをする人間を再生産したくない
・そもそも生まれなければ、こんなに苦しまなくていい


反出生主義に賛成する人は、こうしてできあがるんだと思います。



反出生主義は、愛情不足に苦しんで育った人には、
とても魅力的で合理的に見えます。

「自分のように孤独や欠乏感に苦しむ人間を、
 少なくとも新規作成しなくてすむ」

そう思うとまるで、「子孫を残し、種を維持せよ」という、
生物としての義務感から解放されたような安心感さえ覚えます。




また、反出生主義はこれまで、
「親のせいにするな」と言われて
黙らされてきた人たちにとっても救いになります。

「親からの愛情に恵まれなかった?
 もう大人なんだから親のせいにするな。
 ”親ガチャ”なんて言葉で親に責任転嫁するな

そう言われても、反論できなかった人たちはいるはずです。
でもこれからはこう言えます。

「だから自分は”もう大人なんだから親のせいにする”人間を
 これ以上、作成しないのだ。

 そう言うあなたたちは経験したことあるの?
 ”生まれなければよかった””存在を消したい”と
 自分を責め続けるほどの絶望を」




反出生主義は、
「自分は誰にも愛されない」
「自分に興味のある者などいない」
と苦しんでいる者に役割を与えてくれます。

「自分は誰にも愛されない」
「自分に興味のある者などいない」
と苦しむ人をこれ以上、生産しないことに貢献する、

という役割を。


5.反出生主義者の役割、”苦しむ人間をこれ以上、新規作成しない”

ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーは、
反出生主義を唱えた著名人の1人です。

ショーペンハウアーはなぜ、
反出生主義にたどり着いたのでしょうか。

それは彼自身が幼少期から、
母親からの愛情不足に苦しみ続けたからだと思います。

彼の母ヨハナは作家として大成する一方、
夫と結婚したのは「資産家だったから」でした。

生まれた息子アルトゥルの世話も
「人形遊びに飽きたから」という理由で、
数年で愛情を注がなくなりました。

アルトゥルはわずか6歳で
「自分は母親にさえ愛されない存在だ」と悟り、
絶望に打ちひしがれたといいます。


そんな彼が反出生主義へたどり着くのは自然なことです。
母親からの無関心と、強まる厭世観の果てに、

「生誕などしなければ不幸が訪れることはないのだ」
という考えに至ることを、誰が非難できるでしょうか。



僕らの大半は「子孫を残したいと思う個体」です。

「子孫を残したくないと思う個体」は、
種の保存にとって危険なので淘汰されるはずです。

だから僕らは”後天的なエラー個体”です。
それでも命ある限り生きていられるのは、
反出生主義に救済されているからでもあります。


「苦しむ人間をこれ以上、新規作成しない」
その役割をもって、少しでも生きた証を残せた気になれるなら。








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posted by 理琉(ワタル) at 19:35 | TrackBack(0) | 人生観

2022年02月08日

「男のくせに泣くな」とは誰が決めたのか。

「泣くな、男の子だろ?」
「男のくせに弱音を吐くな」


小さい頃、あるいは大人になってから、
誰かにこう言われたことはありませんか?

僕は小さい頃、泣き虫だったのでさんざん言われました。
そして、そのたびにこう思いました。

「なぜ男は泣いてはいけないの?」
「”男は泣くな”って誰が決めたの?」



ー目次ー
  1. 昭和日本の場合:戦争へ向かわせるための”我慢が美徳”論
  2. 狩猟採集時代から?”男は強くあれ”という不文律
  3. ”男は泣くな”と言ってくる人の心理
    @凝り固まった男性像
    A弱い自分の否定
    B嫉妬
  4. 涙を流す権利は誰にでもある

1.昭和日本の場合:戦争へ向かわせるための”我慢が美徳”論

「男は泣くな」とは、誰から言われたんでしょう。
おそらく祖父母や親からという人が多いんじゃないでしょうか。

昭和の日本は、今よりもずっと「我慢が美徳」でした。

男女を問わず、弱さを見せることや、
感情を表すことが許されない空気が強かったでしょう。



そして、祖父母や親の世代にあったのは戦争です。

国家総動員・国民総特攻を命じたい大本営にとっては、
”個”を出されては困ります。

国民にとっては、
戦争という極限状態では生き残ることがすべてになります。

そのためには、感情など邪魔なシロモノです。

そんな時代背景から、いつしか
「感情をマヒさせること」「オモテに出さないこと」が善し
とされていったんじゃないでしょうか。

2.狩猟採集時代から?”男は強くあれ”という不文律

では、日本で言われる「男は泣くな」は、
近代化〜戦争へ向かう過程で作られたんでしょうか。

そんなに歴史の浅いシロモノ?

その程度なら、もっと
「男は泣くなっておかしくない?」と、
声を大にして言う人が増えているはずです。

現状、そうなっていないのは、
もっと根深い年季が入っているからではないでしょうか。

たとえば人類が狩猟採集民だった頃から。




男にはその時代から、
平均的に体格や筋力が大きいという理由で

 狩りで獲物を仕留める強さ
 家族を守れる強さ


が求められたと思われます。


生きるか死ぬかの現場で必要なのは涙ではなく、
先に相手を倒す力です。

一方、当時の女性に求められた主な役割は、
集落の中で浮かないよう立ち回る技術と思われます。

そこで必要なのは力ではなく、
ときには感情を見せ、弱さを見せて情に訴えること、
親近感を持たせて仲間外れを避ける技術でしょう。



生き残るためとはいえ、
その頃から「男=強さの象徴」だったとしたら。

人間には何万年も前から、誰が決めるでもなく、
こんな不文律があったんじゃないでしょうか。


 男は強くなければならない
 ゆえに弱さを見せてはならない
 家族や集落を守れない男は役立たずだ

男性は「弱虫と思われるな」という
非情なメッセージのプレッシャーのもとで生きている。

私たち女性は男性に対して、
「弱みを見せてもいいのよ」「私にも関わらせて」
「不安なときはそう言って」と求めるが、
実のところ、ほとんどの女性はそれに耐えられない。

実際に男性がもろさを見せると、
たいてい不安になって後ずさりする。
それは失望から嫌悪感まで、さまざまなかたちで表れる。


男性のほうも賢いもので、そのリスクを承知しており、
私たちの表情から、「ほら、しっかりしてよ」
という本音を読み取ってしまうのである。


『本当の勇気は「弱さ」を認めること』 ”男性の恥体験と木の箱” より

3.”男は泣くな”と言ってくる人の心理

起源はどうあれ、
僕らは「男は泣くな」と言われて育っています。

では、僕らに「男は泣くな」と言ってくる人は
どういう心理なんでしょうか?


@凝り固まった男性像

「男は泣いてはいけない」
「涙を見せる男は弱虫」

など、「男はこうあるべき」という
凝り固まった男性像を持っているパターンです。

理由はおそらく、
親や祖父母から言われ続けたことによる洗脳
”男は泣くな”という時代のニーズに応えた結果
です。

A弱い自分の否定

@の裏返しですが、強さへの執着の根底には
「弱さへのコンプレックス」があると思います。


 強い男を演じたのは
 親やまわりの期待に応えるため
 本当は泣きたかった

そんな自分の本音を押し殺すため、
葛藤による苦しみを閉じ込めておくために、

「強い男たる自分」という虚像を
本気で信じる必要があったんじゃないでしょうか。

B嫉妬

本当は私も泣きたいけど我慢している
なのにお前だけ我慢せず泣くなんて許せない


という嫉妬のパターンです。

嫉妬は、

自分と同格か下の相手
自分と大きく違わない相手

に対して抱きやすい感情です。

自分より下だと思っているからこそ、
我慢せず泣く相手が気に入らないし、

自分と大きく違わない相手だからこそ、
自分だけ我慢していることが許せないという心理です。
<4「強くあれ」ドライバーの人>

このドライバーを持つ人は、無意識のうちに
「自分は弱い」「ダメなやつ」という思い込みを持つ。

それから目を背けるために、反対のメッセージである
このドライバーに駆り立てられるのだ。


このドライバーがあると、
自分の感情や行動を、自分以外のもののせいにする傾向がある。
そうやって、自分の弱さと向き合うことから逃げようとするのだ。


『人生の99%は思い込み』 ”あなたを駆り立てている「ドライバー」” より

4.涙を流す権利は誰にでもある

「男は泣くな」と言われる下地は
人間が言葉を発明するずっと以前からあったと思います。

 男は強くあれ
 弱さを見せるな
 感情を出すな

そういう”なんとなくあった下地”を
歴史上の指導者たちがうまく利用して
強化してきたんじゃないでしょうか。


 「泣くな、強くあれ」
 「自分は強い兵士だと思い込め」
 「そして外国と戦ってこい、私を潤すために」

というように。



なんだか「ヒトの起源」のような考察になりましたが、

1つ言えるのは
「”男は泣くな”に従う必要などない」です。


僕らの親やまわりの大人が言った「男は泣くな」には、
その時代の事情があったんでしょう。

ですが、「男は泣くな」は突き詰めれば
”相手をコントロールするための言葉の一種”に過ぎません。



涙を流す権利は誰にでもあるはずです。

相手が目上だろうと、養育者だろうと、
僕らは誰かの支配欲を満たすために生きているわけじゃないんです。




現代の日本では、男性の自殺者は女性の2倍だそうです。

その原因の1つに
「弱いことが許されない空気」「涙を流せない圧力」があるなら。
”男は泣くな”は果たして、人を幸せにする言葉なんでしょうか。

誰でも、泣きたいときに泣ける世界、
「男は泣くな」に苦しむ人がいない世界を望みます。










posted by 理琉(ワタル) at 19:51 | TrackBack(0) | 生き方

2022年02月05日

『注文の多い料理店』は、コロナ茶番の世相をうまく表しているのではないか。

「マスクしましょう」
「行動制限しましょう」
「ワクチン打ちましょう」

ここ2年の世界は、僕ら国民が
多くの”お願い”という注文を受け続ける世界です。

 見えざる力から多くの注文を受け続ける、
 そして最後にどうなってしまうのか…。

僕はそんな今の世界が、
宮沢賢治の童話『注文の多い料理店』と重なって見えます。



ー目次ー
  1. 『注文の多い料理店』あらすじ
  2. 『注文の多い料理店』の注文、”マスク・ワクチン・行動制限”
  3. 心理的ホメオスタシス、”人間はどんな環境にも慣れ、変化を拒む”
  4. 『注文の多い料理店』に食べられないために

1.『注文の多い料理店』あらすじ

2人の若い狩人が、
白熊のような犬を2頭連れて森へ狩りにやってきます。
しかし2人は森で迷い、連れてきた犬が死んでしまいます。

帰り道を見失った2人は、西洋料理店「山猫軒」を見つけます。



「当店は注文の多い料理店です、ご承知おきください」

なるほど、よほど流行っているお店なんでしょう。

「髪を整えて、服と靴を脱いでください」
「銃やメガネ、尖ったものを置いてください」

うんうん、作法にも厳しいようですね。



「身体にクリームを塗って、お酢を塗って…。」

ん?何かおかしい。
まさか「注文の多い」料理店とは、
お客さんからの注文が多いのではなく…?




ドアの向こうから声がします。

「もう気づいたよ」
「呼んでしまおうよ」


2人は恐怖に震えて動けなくなります。

そこへ、森で死んだはずの犬たちが乱入、
ドアを突き破り、声の主と戦ったところでお店がパッと消えます。

狩人たちは食べられずに済みましたが、
恐怖でくしゃくしゃになった顔はもう元には戻りませんでした。



『注文の多い料理店』の注文とは、
お客さんからのオーダーではなく、
お客さんを食べるためのお店からの注文だった。


という、大どんでん返しが秀逸な童話です。

2.『注文の多い料理店』の注文、”マスク・ワクチン・行動制限”

『注文の多い料理店』は、
現在のコロナ茶番という世相を見事に表していると思います。


それが上手く表現された動画を見つけたのでご紹介します。


ここ2年の世界は、本当にこの動画の通りです。

「外出自粛しましょう!」
「ワクチンを打ちましょう!」
「ブースター接種しましょう!2回目、3回目、4回目…。」

「緊急事態宣言!マンボウ!これが最後!」
「勝負の●週間!国家存亡の危機!」
「我慢の●ヶ月!ここが耐え時!」

次々に国民へ注文し、少しずつゴールポストをずらす様は、
まさに『注文の多い料理店』ではないでしょうか。




そして最近、ついに「みなし陽性」まで発動してきました。
検査しなくても、該当する症状だけで「カンセンシャ+1」です。

もはや
「何としてでも”カンセンシャスウ”を増やしたい」
「こんなにオイシイ”飯のタネ”を終わらせてたまるか」

という強い意志を隠そうともしなくなりました。


陰謀論に走るつもりはありませんが、
「真の狙い」「背後で動くカネと力」が
何もないとは考えにくいでしょう。

3.心理的ホメオスタシス、”人間はどんな環境にも慣れ、変化を拒む”

「心理的ホメオスタシス」という言葉があります。

人間はどんな環境にも慣れ、
その環境をなるべく維持したがる心理です。

「変わりたいのに、変われない」のは、
この心理が大きく働いているからと言われます。



それ自体はすばらしい生存戦略です。
おかげでご先祖さまたちが命をつなぎ、僕らがいます。

問題は、本当に「どんな環境にも」慣れてしまうことです。
たとえそれが、

 マスクをするのが当たり前の世界
 ワクチンを何度も打つのが当たり前の世界
 おじいちゃんおばあちゃんへ会いに行けない世界


であってもです。


最初は不便さや窮屈さを感じても、だんだんと慣れていきます。
それは人間の生存本能を悪用した、見えない強制の繰り返しです。



僕は以前、どこかでこんな会話を聞いて恐怖を感じました。

「ワクチン●回目打った。熱が出て1週間も寝込んだ」
「私も熱が出たけど3日でおさまった」
「私は腕が腫れて動かせなかった」

僕が恐怖を感じたのは、ワクチンの副作用ではありません。

「ワクチンを打つこと」「副作用に苦しむこと」が
当たり前のように語られていたことです。


 自分もやがて『注文の多い料理店』から、
 多くの注文を受けることに慣れてしまうのでは?

そんな「心理的ホメオスタシス」に飲み込まれる恐怖を感じました。
4.『注文の多い料理店』に食べられないために

童話の最後、2人の狩人は何とか助かりますが、
恐怖にひきつった顔は元に戻りませんでした。

僕らはどうなるでしょう。
身体に入れたものはもう戻せないかもしれません。

大切な人に会いに行けないまま死別しても、
その悔しさは消せないかもしれません。

それとも、

ワクチンパスポート
マスク社会
行動制限
私権制限

それが当たり前の世界に慣れ切ってしまうんでしょうか。
まるで最初から、恐怖にひきつった狩人の顔で生きてきたかのように。




「ワクチン絶対反対!」と言いたいわけではありません。

おかしいと思ったら立ち止まること、
その違和感を信じて自分で考えることが大切だと思います。


「おかしい」という直感も、
人間が生き残るために必要だから備わっているはずです。

「このおかしさを受け入れたら、生存に不利なのでは?」
自分の無意識が、そう伝えているんじゃないかと思います。



 『注文の多い料理店』からの注文は、本当に自分にとって有益なのか?
 その注文は本当に、自分の身体や心の健康を守るために必要なのか?


『注文の多い料理店』は、
そうやって考えることの大切さを教えてくれます。








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posted by 理琉(ワタル) at 19:51 | TrackBack(0) | 生き方

2022年02月01日

「多様性を理解しよう」という動きは、気候が寒冷化したら終わるのではないか。

昨今、

「多様性を理解しよう」
「個性を大切にしよう」


という動きが活発になっています。

僕はずっとマイノリティに属してきた人間なので、
本当にありがたい世界になったと思います。



優しい世界に期待する反面、こんな疑問も浮かびます。

「多様性を理解しよう」という動きは、
人類史上、初めての試みなのか?

「多様性を理解しよう」という動きは、
気候が安定している時代だから可能で、
気候が寒冷化したら終わるのではないか?




地球は今よりもずっと暖かい時代と、
今よりもずっと寒い時代を繰り返しています。

その中で人間は、

「多様性を理解しよう」という動きを
過去に何度も折られてきたのではないでしょうか。



ー目次ー
  1. ”多様性の理解”を阻む3つの前提
    @人間は集団を作って生き延びてきた生物
    Aみんなと違う人は集団を壊す危険因子
    B異端者は寒冷化で生存の危機が訪れると真っ先に排除される
  2. 人間の闇”異端者をいじめると快楽を得られる”
  3. 人間の生存と相反する行為”多様性を理解”

1.”多様性の理解”を阻む3つの前提

「多様性を理解しよう」という動きは、
気候が寒冷化したら終わるのではないか?

僕がそう考えるようになったのは以下3つの前提によってです。

  1. 人間は集団を作って生き延びてきた生物
  2. みんなと違う人は集団を壊す危険因子
  3. 異端者は寒冷化で生存の危機が訪れると真っ先に排除される

@人間は集団を作って生き延びてきた生物

人間は身体的に、とても弱い生物です。

トラやライオンを仕留める爪も牙もなく、
サルのように木をつたって逃げる筋力もありません。

衣服も道具も持たず、
1人でサバンナに放り出されたら猛獣の餌食でしょう。

そんな、単独では弱い人間は
集団を作ることで生き延びてきました。


そして、その集団を維持するためには、
みんなが同じ目的を持ち、同じくらいの力を出し合う必要があります。

こうして、人間の最優先事項は
「仲間に仲間と認められること」に、

最大の恐怖は
「バラバラになって各個撃破されること」に
なっていったのでしょう。

Aみんなと違う人は集団を壊す危険因子

生き残るために集団を維持したい人間にとって、
「みんなと違う人」はもっとも危険な存在です。


まわりから”スタンダード”と認められない者は、

「我らのために力を出さないかもしれない」
「我らと違う考えを広めて内部崩壊を狙うかもしれない」

と映るからです。



書籍『ヒトはいじめをやめられない』では、
「いじめは集団を壊す危険性のある者に制裁を加える行為」
ではないかと分析しています。


 みんなよりも身体が小さい者
 みんなよりも何かの能力が劣っている者
 みんなより…。

そういう人を放置した先に
「バラバラになって各個撃破」の恐怖があるなら追い出そう
というのが”いじめ”です。


この”いじめの仕組み”に沿って考えると、

「多様性を理解しよう」
「”みんなと違う人”が集団に居ることを許容しよう」

というのは、
人間が生き残るための行為と相反するのでは?と思います。

B異端者は寒冷化で生存の危機が訪れると真っ先に排除される

このように、みんなと違う人は、
真っ先にいじめられる可能性を秘めています。

それでも気候が良く、食料が十分にあればまだ
”みんなと違う人”が集団にいても養えます。

しかし、そこへ気候の寒冷化が加わったらどうなるでしょうか。
おそらく「みんなとの違い」の当たり判定がどんどん広がります。




『気候文明史』を読んでいると、
人間の登場以来、たびたび以下の流れが出てきます。
<温暖な時代>
→豊作、食料が増える
→人口が増える
→新たな開拓
→社会が安定
→文化や芸術が花開く

<寒冷化する時代>
→凶作
→飢饉、疫病、戦乱
→大きな文明がいくつも滅びる
→新技術の開発や新思想の台頭がさかんになる

地域によっては温暖化→乾燥→干ばつ→飢饉もありますが、
文明の衰退の多くは寒冷化によって起きています。



食べなければ死にます。
そして人間は弱いので、集団を維持しないと各個撃破されます。

平時なら「多様性→個性」でも、
食料不足時は「多様性→集団を壊す危険因子」です。

そうして、寒冷化の時代には
「口減らし対象」の審査基準がどんどん厳しくなったのでは、と思います。


2.人間の闇”異端者をいじめると快楽を得られる”

『ヒトはいじめをやめられない』では、
「いじめをすると脳に快楽物質が出る」ことも説明されています。
いじめ=制裁を行うと、
食事や性行動のときと同じ「ドーパミン」が出る

それに加えて正義達成の欲求や、
所属集団からの承認欲求が満たされる


僕ら人間は、
「生きるために同族を殺して楽しむ」という、
矛盾した生物に仕上がったのではないかと思います。


 いじめは人間が生き延びるため
 みんなと違う人を殺すのは集団を維持するため

何万年前のヒトたちは、はじめは仕方なく、
心を痛めながら”いじめ”をしてきたのかもしれません。

しかし、気づいたらヒトは
残虐な宗教戦争や公開処刑に熱狂する生物になっていました。




その快楽は、脳が

「やらなければ、でも気が引ける」
「失敗したら復讐が怖い」

というためらいを
振り払わせるために与えたものだとしたら。

弱い身体の人間が、
厳しい環境を生き延びるために与えられた麻薬だとしたら。


捕食のためでなく、
一時の快楽のために同族を殺す僕らの本質は、
本当に「愛情深く純粋」なんでしょうか。


3.人間の生存と相反する行為”多様性を理解”

『気候文明史』を読むと、
地球は現代よりずっと暖かい時代と、
ずっと寒い時代が繰り返されてきたことがわかります。

現代は温室効果ガスによる温暖化が問題になっていますが、
データ上ではわりと安定した気候のようです。



もしかしたら、
「多様性を理解しよう」という動きは、
温暖な時代で盛り上がり、寒冷化で頓挫を
繰り返してきたのかもしれません。


みんなと違う人を集団に置いておくことは本来、
人間にとって「生存と相反する行為」と言えます。

異端者をいじめる快感も味わえなければ、
正義感にも万能感にもひたれません。

それでも何とか「多様性を理解しよう」
という動きができているのは、

ある程度、気候が温暖で、
飢餓の心配が少ない時代だからこそ、
ではないでしょうか。




もし100年後、1000年後に次の寒冷化が訪れたら。

寒さ、飢餓、疫病の苦しみに耐えかねた人たちが
また”みんなと違う人”を殺して生き延びるんでしょうか。

それは遠い未来、歴史の教科書に
「第●次世界大戦」「●●の乱」と書かれるんでしょうか。

人間の「多様性を理解しよう」という試みは、
気候が厳しくなるたびに、何度も折られてきたのではないでしょうか。











posted by 理琉(ワタル) at 19:51 | TrackBack(0) | 生き方

2022年01月25日

【オリジナル歌詞】『嘘と演技』

  1. 歌詞
  2. 制作背景

1.歌詞

<作詞:2014.4.3>

演技上手がもてはやされる 正直者が打ちのめされる
嘘で飾られた世界 いつからこんなに歪んだの?

 嘘と演技をまとわなければ 生きてゆけない世界なの?
 飾らない笑顔なんて 何の役にも立たないの?


悪くなくてもとりあえず ごめんなさいを強いられる
卑屈な自分を疑わず 虚しささえも消え失せて

 嘘と演技で飾り立てれば ”リッパナシャカイジン”なの?
 純粋という言葉なんて キレイなだけの偽善なの? 


従うことが善いことか? 疑うことが悪いこと?
誰が決めたか知らないが こんな世界はもう嫌だ

 嘘と演技で飾り立てれば ”リッパナオトナ”の仲間入り
 飾れない正直者に 居場所なんてありはしないの?


2.制作背景

「普通」「立派な社会人」「大人」への疑問を表現しました。



僕は小さい頃から「普通」でいられず、はみ出してきました。

 なぜ「みんなと同じ」でなければ怒られるんだろう?
 なぜ「なぜ?」と尋ねられた大人は「いいから従え!」と怒るんだろう?
 なぜ「従っとけばいい」みたいになってるんだろう?
 なぜ疑問を持ってはいけないんだろう?

と。



僕は音楽活動に出会うまで、
「自己表現をしてはいけない」と思い込んでいました。
「自己表現をしたら怒られる、否定される」という恐怖がありました。


ですが、作詞を始めてから
「疑問も、毒も、自分の一部なんだから表現していい」
と思えるようになりました。

「自分を表現してもいい場所」
を見つけられたことは、僕の人生を大きく好転させてくれました。



⇒過去作品
【オリジナル歌詞】『キセカエ人形』

【オリジナル歌詞】『セピア色の約束』



posted by 理琉(ワタル) at 19:23 | TrackBack(0) | 歌詞
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理琉(ワタル)
自閉傾向の強い広汎性発達障害。鬱病から再起後、低収入セミリタイア生活をしながら好きなスポーツと創作活動に没頭中。バスケ・草野球・ブログ/小説執筆・MMD動画制作・Vroidstudioオリキャラデザインに熱中。左利き。 →YouTubeチャンネル
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