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2022年01月24日
【コロナ騒動と不安商法】民衆を”何かにすがりたくなる不安漬け”にしておきたいのではないか。
「今日のカンセンシャスウは」
「カンセンがカクダイ」
「ヘンイカブの脅威は」
繰り返されるメディアの煽りに、
うんざりしている人も多いと思います。
僕は以前、「コロナ怖い派VSコロナ茶番派」の
宗教戦争について書きましたが、さすがにこの話題はお腹いっぱいです。
そんな「もういいよ」と言いたくなる昨今、ふと思いました。
「コロナ怖いVSコロナ茶番」の分断、
不安でいっぱいなまま、相争う僕ら。
この状態は為政者や権力者にとって、
民衆をコントロールするのに最適なのでは?
だから、全世界を巻き込んだこの騒動を終わらせたくないのでは?と。
彼らは僕ら民衆を常に「不安漬け」にしておいて、
何かにすがりたくなる心理状態にしておきたいのではないでしょうか。
ー目次ー
よく「マスコミは不安を煽る」と言われます。
これは「不安商法」と考えられます。
命の危機である不安を煽ることで購読につなげる手法です。
たとえばTVやラジオ、ネットニュースでは、
自治体が発表した「陽性者」の数字を「感染者」と偽って報道しています。
2022年1月23日のデータでは、
札幌市Webサイトでは「陽性者数903」と記載されています。
しかし、
NHKニュースでもYahooニュースでも「感染者903」と記載されています。
PCR検査でわかることは
「ウィルスの遺伝子が存在するかしないか」です。
そして「陽性≠感染」です。
陽性とは粘膜からウィルスが検出されたということ、
感染とは体内でウィルスが増殖したということです。
よって、マスコミは
陽性者を感染者として水増ししている可能性が高いです。
理由はおそらく
「カンセンシャ」と言った方が強く不安を煽れるからです。
さらに恐ろしいのは、
死亡者数さえも水増して報道されている可能性です。
福岡県Webサイトによると、
陽性だっただけで、感染したかはわかりません。
にもかかわらずコロナ死にカウントしているのは、
作為的と思われても仕方ないでしょう。
大切なのはカンセンシャスウを一生懸命に流すことではなく、
「検査陽性率」「重症化率」「死亡率」のはずです。
「報道しない自由」では、分母が隠されます。
「報道の自由」では、インパクトのある数字が広告塔です。
このように、
僕らは不安商法によって、実態よりもずっと
「コロナは怖い」と思わされている可能性があります。
それでも時間が経ち、データが出揃ってくると、
騒ぎすぎ派の意見も台頭してきます。
その結果が現在の、怖い派と騒ぎすぎ派の分断状態です。
しかし、不安を煽りたい者にとっては、
この分断状態さえも好都合です。
「コロナ怖い派」は、
命の危機を感じて不安になります。
マスク、自粛、ワクチンこそ救世主となり、
救済系の情報や商品へのアクセスが増えます。
「コロナ騒ぎすぎ派」は、
これが茶番である証拠を集めることで不安を解消したくなります。
結果、茶番を主張する情報や商品へのアクセスが増えます。
人々がどちらの派閥になっても、共通する行動は
「自分の考えの正しさを裏付けてくれる何かを求める」です。
また、同じ情報で不安を煽られ続けると、
偏った考えに洗脳されやすくなります。
もはやウィルスが怖いのか、
「敵」に論破されるのが怖いのか、
わからないほどに相容れなくなりました。
僕らが煽りを真に受けるにせよ、アンチ化するにせよ、
「不安にかられて考える余裕を奪う」ことに成功されてしまったんです。
常に「不安漬け」にされた僕らの心理は、
その不安を少し煽るだけで簡単にコントロールできてしまうんです。
よほどメンタルの強い人か、良い意味で鈍感な人でなければ、
自分のやりたいことに集中できる人は多くないでしょう。
そして、僕らが不安な心理状態でいることこそが、
為政者や権力者の狙いではないかと思います。
不安漬けを突破して学問や仕事に集中し、
自分たちを脅かしてくる人間をできるだけ出さないために。
ちょっとした不条理や、気づかれにくい強制に
疑問を持たせないために。
余計なことは考えてほしくない。
たとえ多少の疑問や矛盾に気づいても、
それを覆すほどの心理的な余力は奪っておきたい。
日々の生活や不安で、適度にいっぱいいっぱいにしておきたい。
それが仕掛人の本音ではないでしょうか。
今回のコロナ不安商法は少しずつバレてきました。
「あれ?風邪っぽい症状がいろいろ紹介されているけど、
新型”肺炎”じゃなかったっけ?」
「もう自粛とか行動制限とか意味あるの?根拠のデータ示してくれない?」
そう思う人が増えたことは、
多くの人でにぎわう街中の光景が物語っています。
もう特別扱いせず季節性ウィルスの1つとして扱おう、
という動きも増えてきています。
それは邪推すれば、
「ワクチン接種数やデータ収集が計画値に達したから」
かもしれないし、
「もうコロナで恐怖を煽る手段が通用しないと観念したから」
かもしれません。
ニュースの論調を見る限り、
日本ではまだ恐怖を煽る方針が続けられると思われます。
が、仕掛人サイドには
「そろそろ言うことを聞かなくなってきたな」
という実感があるでしょう。
「”コロナ””感染者”などの言葉では不安漬けの強度が落ちてきている」
それを確信したなら、手を変え品を変え、
民衆の心理コントロールに躍起になってくると思います。
まだウィルスネタを引っ張るなら、
「ブレークスルー感染」「クラスター」「ブースター摂取」などに代わる、
”耳慣れなくて強そうなワード”が出てくるでしょう。
不安漬けの時代、僕らにできることは、
情報を鵜吞みにせず自分で調べ、自分で考えてみることだと思います。
ここまで「不安を煽る者が悪い」みたいに書いてしまいましたが、
あちらも商売です。いちばん観られる情報を流すのは仕方ないことです。
どうしてもスポンサーの意向に沿うニュースが優先されますし、
そこで働く人たちも生活がかかっています。
人間がおこなうことなので、内容がすべて正しいとも限りません。
また、日本は「シルバー民主主義」と呼ばれるほど
少子高齢化が進んでいます。
総務省統計局によると、
2021年の時点で65歳以上の割合は、総人口の約29%です。
総務省:国政選挙における年代別投票率についてでは、
2017の衆議院選挙の投票率は、
20代33%、30代44%に対して
50代63%、60代72%です。
人口の多い高齢者が観てくれる情報を流す、
投票率の高い高齢者の支持を得た者が当選する、それが日本の現実です。
そういう背景があるからこそ、
情報の裏側を考えてみることが大切だと思います。
「この情報は誰に向けて発せられているのか」
「誰からの支持がほしいのか」
そうやって、ちょっとした疑問を持ってみること、
自分なりに調べて、意見を持つこと。
それが不安漬けの現代を生きていく上で、
役に立つのではないかと思います。
コロナ騒動が暴いた人間の本性〜人間は利己的で弱い生き物ではないか〜。
【短編小説】無菌に狂うディストピア 〜ころなカンセンシャ騒動の果て〜。
「カンセンがカクダイ」
「ヘンイカブの脅威は」
繰り返されるメディアの煽りに、
うんざりしている人も多いと思います。
僕は以前、「コロナ怖い派VSコロナ茶番派」の
宗教戦争について書きましたが、さすがにこの話題はお腹いっぱいです。
そんな「もういいよ」と言いたくなる昨今、ふと思いました。
「コロナ怖いVSコロナ茶番」の分断、
不安でいっぱいなまま、相争う僕ら。
この状態は為政者や権力者にとって、
民衆をコントロールするのに最適なのでは?
だから、全世界を巻き込んだこの騒動を終わらせたくないのでは?と。
彼らは僕ら民衆を常に「不安漬け」にしておいて、
何かにすがりたくなる心理状態にしておきたいのではないでしょうか。
ー目次ー
- マスコミの不安商法、カンセンシャの水増し報道
- 対立も分断も、考える余裕を奪うには好都合
- 仕掛人の本音、”不安なまま、余裕なく過ごしてほしい”
- 手を変え品を変え、不安商法は続く
- 不安漬け時代の処世術、”自分で調べ、自分で考える”
1.マスコミの不安商法、カンセンシャの水増し報道
よく「マスコミは不安を煽る」と言われます。
これは「不安商法」と考えられます。
命の危機である不安を煽ることで購読につなげる手法です。
たとえばTVやラジオ、ネットニュースでは、
自治体が発表した「陽性者」の数字を「感染者」と偽って報道しています。
2022年1月23日のデータでは、
札幌市Webサイトでは「陽性者数903」と記載されています。
しかし、
NHKニュースでもYahooニュースでも「感染者903」と記載されています。
PCR検査でわかることは
「ウィルスの遺伝子が存在するかしないか」です。
そして「陽性≠感染」です。
陽性とは粘膜からウィルスが検出されたということ、
感染とは体内でウィルスが増殖したということです。
よって、マスコミは
陽性者を感染者として水増ししている可能性が高いです。
理由はおそらく
「カンセンシャ」と言った方が強く不安を煽れるからです。
さらに恐ろしいのは、
死亡者数さえも水増して報道されている可能性です。
福岡県Webサイトによると、
死因が新型コロナウイルス感染症でなくても、
死亡の前後に新型コロナウイルスの陽性が確認された者は、
新型コロナウイルス感染症の死亡者に含めて保健所に届け出されます。
陽性だっただけで、感染したかはわかりません。
にもかかわらずコロナ死にカウントしているのは、
作為的と思われても仕方ないでしょう。
大切なのはカンセンシャスウを一生懸命に流すことではなく、
「検査陽性率」「重症化率」「死亡率」のはずです。
「報道しない自由」では、分母が隠されます。
「報道の自由」では、インパクトのある数字が広告塔です。
2.対立も分断も、考える余裕を奪うには好都合
このように、
僕らは不安商法によって、実態よりもずっと
「コロナは怖い」と思わされている可能性があります。
それでも時間が経ち、データが出揃ってくると、
騒ぎすぎ派の意見も台頭してきます。
その結果が現在の、怖い派と騒ぎすぎ派の分断状態です。
しかし、不安を煽りたい者にとっては、
この分断状態さえも好都合です。
「コロナ怖い派」は、
命の危機を感じて不安になります。
マスク、自粛、ワクチンこそ救世主となり、
救済系の情報や商品へのアクセスが増えます。
「コロナ騒ぎすぎ派」は、
これが茶番である証拠を集めることで不安を解消したくなります。
結果、茶番を主張する情報や商品へのアクセスが増えます。
人々がどちらの派閥になっても、共通する行動は
「自分の考えの正しさを裏付けてくれる何かを求める」です。
また、同じ情報で不安を煽られ続けると、
偏った考えに洗脳されやすくなります。
人を洗脳するためには、
肉体的にやや過酷な状況において
1つの対象にさらし続ければよい、と言われる。
戦争が良い例である。
過酷な状況下で「相手は敵である」ということを
繰り返し刷り込まれることによって、
どこまでが人道上許されるのかを見失ってしまう。
『国会議員を精神分析する』 より
もはやウィルスが怖いのか、
「敵」に論破されるのが怖いのか、
わからないほどに相容れなくなりました。
僕らが煽りを真に受けるにせよ、アンチ化するにせよ、
「不安にかられて考える余裕を奪う」ことに成功されてしまったんです。
リンク
3.仕掛人の本音、”不安なまま、余裕なく過ごしてほしい”
常に「不安漬け」にされた僕らの心理は、
その不安を少し煽るだけで簡単にコントロールできてしまうんです。
よほどメンタルの強い人か、良い意味で鈍感な人でなければ、
自分のやりたいことに集中できる人は多くないでしょう。
そして、僕らが不安な心理状態でいることこそが、
為政者や権力者の狙いではないかと思います。
不安漬けを突破して学問や仕事に集中し、
自分たちを脅かしてくる人間をできるだけ出さないために。
ちょっとした不条理や、気づかれにくい強制に
疑問を持たせないために。
余計なことは考えてほしくない。
たとえ多少の疑問や矛盾に気づいても、
それを覆すほどの心理的な余力は奪っておきたい。
日々の生活や不安で、適度にいっぱいいっぱいにしておきたい。
それが仕掛人の本音ではないでしょうか。
4.手を変え品を変え、不安商法は続く
今回のコロナ不安商法は少しずつバレてきました。
「あれ?風邪っぽい症状がいろいろ紹介されているけど、
新型”肺炎”じゃなかったっけ?」
「もう自粛とか行動制限とか意味あるの?根拠のデータ示してくれない?」
そう思う人が増えたことは、
多くの人でにぎわう街中の光景が物語っています。
もう特別扱いせず季節性ウィルスの1つとして扱おう、
という動きも増えてきています。
それは邪推すれば、
「ワクチン接種数やデータ収集が計画値に達したから」
かもしれないし、
「もうコロナで恐怖を煽る手段が通用しないと観念したから」
かもしれません。
ニュースの論調を見る限り、
日本ではまだ恐怖を煽る方針が続けられると思われます。
が、仕掛人サイドには
「そろそろ言うことを聞かなくなってきたな」
という実感があるでしょう。
「”コロナ””感染者”などの言葉では不安漬けの強度が落ちてきている」
それを確信したなら、手を変え品を変え、
民衆の心理コントロールに躍起になってくると思います。
まだウィルスネタを引っ張るなら、
「ブレークスルー感染」「クラスター」「ブースター摂取」などに代わる、
”耳慣れなくて強そうなワード”が出てくるでしょう。
5.不安漬け時代の処世術、”自分で調べ、自分で考える”
不安漬けの時代、僕らにできることは、
情報を鵜吞みにせず自分で調べ、自分で考えてみることだと思います。
ここまで「不安を煽る者が悪い」みたいに書いてしまいましたが、
あちらも商売です。いちばん観られる情報を流すのは仕方ないことです。
どうしてもスポンサーの意向に沿うニュースが優先されますし、
そこで働く人たちも生活がかかっています。
人間がおこなうことなので、内容がすべて正しいとも限りません。
また、日本は「シルバー民主主義」と呼ばれるほど
少子高齢化が進んでいます。
総務省統計局によると、
2021年の時点で65歳以上の割合は、総人口の約29%です。
総務省:国政選挙における年代別投票率についてでは、
2017の衆議院選挙の投票率は、
20代33%、30代44%に対して
50代63%、60代72%です。
人口の多い高齢者が観てくれる情報を流す、
投票率の高い高齢者の支持を得た者が当選する、それが日本の現実です。
そういう背景があるからこそ、
情報の裏側を考えてみることが大切だと思います。
「この情報は誰に向けて発せられているのか」
「誰からの支持がほしいのか」
そうやって、ちょっとした疑問を持ってみること、
自分なりに調べて、意見を持つこと。
それが不安漬けの現代を生きていく上で、
役に立つのではないかと思います。
コロナ騒動が暴いた人間の本性〜人間は利己的で弱い生き物ではないか〜。
【短編小説】無菌に狂うディストピア 〜ころなカンセンシャ騒動の果て〜。
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2022年01月17日
【YouTube:英訳つき自作MV10作目】魔王魂『月と狼』リメイク版。
僕は2020年12月より動画制作を始め、
YouTubeへの投稿をスタートしました。
本記事で紹介するのは、
英訳つき自作ミュージックビデオ10作目:
魔王魂『月と狼』リメイク版
あわせて、制作のコンセプトや使用ツールも紹介します。
※著作権フリーの楽曲をお借りしています。
ー目次ー
今回のテーマは
「アダルトチルドレン 〜愛情飢餓を抱いて生きる〜」
間奏にオリジナルのセリフを加えて表現してみました。
内容は、僕自身の経験から感じた気持ちです。
「親が子どもの気持ちに興味がない」
親の真意がどうであれ、
子ども自身がそう感じて育ってしまうと、
心に埋められない穴があいてしまいます。
後から勉強すれば、
「親は自分の不安でいっぱいいっぱいだった」
「親も、自分の親から気持ちをわかってもらったことがなかった」
ことは理解できます。
それでも、
「親は、実は自分に興味がなかったのかもしれない」
ことを認めるのは、とてもつらいことです。
そんな寂しさや欠乏感を、
動画で少しでも表現したくて作りました。
PCの液晶モニターのドット抜けが、
ついに画面中央を横断するまでに拡大。
さらに、動画編集ソフトやブラウザの起動時に
フリーズが多発。
PC再起動や、不要アプリの削除などでは直らず、
チェックディスクで何とか動くようになりました。
もともと低スペックなPCで、
動画編集を始める以前から調子が良くありませんでした。
だましだまし使ってきましたが、
CPUもディスクも限界が近いかもしれません。
目下、買い替えをくわだてています。
最低でもメモリ16GB、CPUはCore i5以上がほしい。
たくさん無理させてしまいましたが、
これまで創作活動を支えてくれたPCには感謝しています。
YouTubeへの投稿をスタートしました。
本記事で紹介するのは、
英訳つき自作ミュージックビデオ10作目:
魔王魂『月と狼』リメイク版
あわせて、制作のコンセプトや使用ツールも紹介します。
※著作権フリーの楽曲をお借りしています。
ー目次ー
- 制作した動画
- 作品の概要
- 制作の所感
1. 独自解釈テーマの背景
2. PCのトラブル
1.制作した動画
2.作品の概要
- コンセプト
著作権フリー楽曲を使い
英訳つきミュージックビデオ風の動画を作ってみる
独自解釈テーマ
「アダルトチルドレン 〜愛情飢餓を抱いて生きる〜」
を自分なりに表現する - 使用曲
『月と狼』 - 楽曲提供
魔王魂さま
魔王魂 Webサイト
魔王魂 公式チャンネル - 制作期間
約20日 - 使用した動画編集ソフト
「AviUtl」
AviUtlのお部屋 - 使用したフリー画像素材サイト
1.「Pixabay」
2.「ニコニ・コモンズ」
3.「ぱくたそ」
4.女の子素材 moff様
AviUtl 高速化ツール
3.制作の所感
1. 独自解釈テーマの背景
今回のテーマは
「アダルトチルドレン 〜愛情飢餓を抱いて生きる〜」
間奏にオリジナルのセリフを加えて表現してみました。
内容は、僕自身の経験から感じた気持ちです。
「親が子どもの気持ちに興味がない」
親の真意がどうであれ、
子ども自身がそう感じて育ってしまうと、
心に埋められない穴があいてしまいます。
後から勉強すれば、
「親は自分の不安でいっぱいいっぱいだった」
「親も、自分の親から気持ちをわかってもらったことがなかった」
ことは理解できます。
それでも、
「親は、実は自分に興味がなかったのかもしれない」
ことを認めるのは、とてもつらいことです。
そんな寂しさや欠乏感を、
動画で少しでも表現したくて作りました。
2. PCのトラブル
PCの液晶モニターのドット抜けが、
ついに画面中央を横断するまでに拡大。
さらに、動画編集ソフトやブラウザの起動時に
フリーズが多発。
PC再起動や、不要アプリの削除などでは直らず、
チェックディスクで何とか動くようになりました。
もともと低スペックなPCで、
動画編集を始める以前から調子が良くありませんでした。
だましだまし使ってきましたが、
CPUもディスクも限界が近いかもしれません。
目下、買い替えをくわだてています。
最低でもメモリ16GB、CPUはCore i5以上がほしい。
たくさん無理させてしまいましたが、
これまで創作活動を支えてくれたPCには感謝しています。
2022年01月14日
【アダルトチルドレン】親の教育方針は子どもに伝わらない。
我が子にこんな人間になってほしい
幸せになってほしい
親がそう願うのは、とてもすばらしいことだと思います。
そのために、たとえば
という教育方針を取ることもあるでしょう。
ですが、
親にどんなすばらしい教育方針があったとしても、
それは子どもには伝わらないと思います。
親が子どもの気持ちに興味がない限り、
子どもに伝わるのは教育方針ではありません。
「親は私より教育方針の方が大切なの?」
という悲しみです。
ー目次ー
一見、子ども想いなこれらの願いに、
1つだけ抜けている視点があります。
それは「その子がどうしたいか」です。
親が願う人間像は、
確かに実現すれば人生が好転する確率が上がります。
人生経験を積んできた親だからこそわかることです。
しかしそれらは、どこまでいっても親の願望です。
子ども本人がそう願っているかどうかも、
子どもの希望と一致しているかどうかもわかりません。
親が描く”シアワセナジンセイ”が
だとしても、
子どもにとっての”幸せな人生”は真逆かもしれないんです。
たとえば親が、こんな教育方針を掲げていたとします。
子どもが成長すると、どこかで
「なぜ親はあんなことをしたんだろう?」と疑問に思います。
そのときに、親が「実はそういう教育方針だった」と説明すれば、
理屈として理解はするでしょう。
ですが、子どもはいつかどこかで気づきます。
親がずっと「私がどうしたいか」を無視し続けてきたことに。
それに気づいたとき、
今まで無意識に抑えてきた思いが一気に顔を出します。
「もっと親に甘えたかった」
「私の気持ちを知ろうとしてほしかった」
「私が何に興味があるのかを尋ねてほしかった」
そして最終的に、
親へのこんな疑問にたどり着いてしまいます。
「親やどうして私の気持ちに無関心だったの?」
「親は私より教育方針の方が大切なの?」
では、親が「こういう教育方針でいくよ」と、
子どもに了解を取ればよいのでしょうか。
おそらく子どもは了解するでしょう。
断ったら育ててもらえなくなるかもしれませんから。
子どもは多かれ少なかれ、親の期待に沿おうとし、
親の関心を引こうと必死になります。
多少、自分の気持ちを犠牲にしてでも、
親の意向におもねるように振る舞います。
それは養育者から見捨てられないための生存戦略です。
だから表面的には、子どもからの了解を取れるでしょう。
それでも子どもは、親からの質問を待ち続けます。
「あなたはどんな気持ちなの?」
「あなたはどんなことに興味があるの?」
という質問を。
親からこの質問をされない期間が長くなればなるほど、
子どもの心には欠乏感が大きくなります。
これが「心にぽっかり空いた穴」となり、
大人になってもずっとその子を苦しめます。
親がどんなにすばらしい教育方針を掲げても、
そこに子どもの気持ちへの興味がない限り、
伝わるのは悲しみと欠乏感です。
教育方針は説明されれば、理屈としては理解します。
子どもは「親なりに私のことを考えてくれた」と、
親をかばうかもしれません。
だとしても、
気持ちを大切にされない限り、欠乏感は消えないんです。
戦時中や戦後なら
「生きていればそれでいい」が精一杯です。
たとえ我が子でも、
他人の気持ちなんて考える余裕はなかったでしょう。
ただ、戦争から遠ざかった現代では、
「生きていればそれでいい」は
親だけの都合になってしまったんです。
平和な時代は喜ばしい反面、
「気持ちをわかってくれない親」が
表面化した時代でもあるんじゃないでしょうか。
「共感?気持ち?甘ったれるな!」は、もう通用しないんです。
親がそれを言い続ける限り、子どもは親をどんどん忌避していきます。
→あわせてよみたい
【アダルトチルドレン】戦争後遺症が「わかってくれない親」を生み出した。
幸せになってほしい
親がそう願うのは、とてもすばらしいことだと思います。
そのために、たとえば
- 厳しくしつける
- 多くの習い事をさせる
- 放任する
という教育方針を取ることもあるでしょう。
ですが、
親にどんなすばらしい教育方針があったとしても、
それは子どもには伝わらないと思います。
親が子どもの気持ちに興味がない限り、
子どもに伝わるのは教育方針ではありません。
「親は私より教育方針の方が大切なの?」
という悲しみです。
ー目次ー
- ”シアワセナジンセイ”は、どこまでいっても親の願望
- 子どもは教育方針を理解しても、納得はしない
- 子どもが待ち続ける質問、”あなたはどんな気持ち?”
- 平和な時代は、”わかってくれない親”が表面化する
1.”シアワセナジンセイ”は、どこまでいっても親の願望
- スポーツや学業で成功してほしい
- お金に困らないようになってほしい
- 厳しさを乗り越えられる強い人間になってほしい
一見、子ども想いなこれらの願いに、
1つだけ抜けている視点があります。
それは「その子がどうしたいか」です。
親が願う人間像は、
確かに実現すれば人生が好転する確率が上がります。
人生経験を積んできた親だからこそわかることです。
しかしそれらは、どこまでいっても親の願望です。
子ども本人がそう願っているかどうかも、
子どもの希望と一致しているかどうかもわかりません。
親が描く”シアワセナジンセイ”が
- お金持ちになりたい
- スポーツで成功したい
- 安定した生活を送りたい
だとしても、
子どもにとっての”幸せな人生”は真逆かもしれないんです。
2.子どもは教育方針を理解しても、納得はしない
たとえば親が、こんな教育方針を掲げていたとします。
- うぬぼれや慢心をしない子になってほしいから
成功してもほめない - 社会の荒波を乗り越える強さを身につけてほしいから
厳しくしつける
子どもが成長すると、どこかで
「なぜ親はあんなことをしたんだろう?」と疑問に思います。
そのときに、親が「実はそういう教育方針だった」と説明すれば、
理屈として理解はするでしょう。
ですが、子どもはいつかどこかで気づきます。
親がずっと「私がどうしたいか」を無視し続けてきたことに。
それに気づいたとき、
今まで無意識に抑えてきた思いが一気に顔を出します。
「もっと親に甘えたかった」
「私の気持ちを知ろうとしてほしかった」
「私が何に興味があるのかを尋ねてほしかった」
そして最終的に、
親へのこんな疑問にたどり着いてしまいます。
「親やどうして私の気持ちに無関心だったの?」
「親は私より教育方針の方が大切なの?」
3.子どもが待ち続ける質問、”あなたはどんな気持ち?”
では、親が「こういう教育方針でいくよ」と、
子どもに了解を取ればよいのでしょうか。
おそらく子どもは了解するでしょう。
断ったら育ててもらえなくなるかもしれませんから。
子どもは多かれ少なかれ、親の期待に沿おうとし、
親の関心を引こうと必死になります。
多少、自分の気持ちを犠牲にしてでも、
親の意向におもねるように振る舞います。
それは養育者から見捨てられないための生存戦略です。
だから表面的には、子どもからの了解を取れるでしょう。
それでも子どもは、親からの質問を待ち続けます。
「あなたはどんな気持ちなの?」
「あなたはどんなことに興味があるの?」
という質問を。
親からこの質問をされない期間が長くなればなるほど、
子どもの心には欠乏感が大きくなります。
これが「心にぽっかり空いた穴」となり、
大人になってもずっとその子を苦しめます。
4.平和な時代は、”わかってくれない親”が表面化する
親がどんなにすばらしい教育方針を掲げても、
そこに子どもの気持ちへの興味がない限り、
伝わるのは悲しみと欠乏感です。
教育方針は説明されれば、理屈としては理解します。
子どもは「親なりに私のことを考えてくれた」と、
親をかばうかもしれません。
だとしても、
気持ちを大切にされない限り、欠乏感は消えないんです。
戦時中や戦後なら
「生きていればそれでいい」が精一杯です。
たとえ我が子でも、
他人の気持ちなんて考える余裕はなかったでしょう。
ただ、戦争から遠ざかった現代では、
「生きていればそれでいい」は
親だけの都合になってしまったんです。
平和な時代は喜ばしい反面、
「気持ちをわかってくれない親」が
表面化した時代でもあるんじゃないでしょうか。
「共感?気持ち?甘ったれるな!」は、もう通用しないんです。
親がそれを言い続ける限り、子どもは親をどんどん忌避していきます。
→あわせてよみたい
【アダルトチルドレン】戦争後遺症が「わかってくれない親」を生み出した。
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2022年01月12日
【短編小説】無菌に狂うディストピア 〜ころなカンセンシャ騒動の果て〜。
本当に怖いものは自然災害か、見えないウィルスか。
――それとも「ニンゲンの狂気」か――
ー目次ー
ん…この音は…?
やさしい風が、新緑の草花をなでる音だ。
ここは…街中から少し離れた、草原が広がる場所。
それなりに建物はあるが、鮮やかな草の色の方が目立つ。
あれ?初夏?
今は真冬のはずなのに。
なんなら昨夜だけで70センチも積雪があったのに。夢?
まぁ、どっちでもいいや。風が気持ちいいなァ。
さて、そろそろ友達が迎えに来てくれる…
あ、来た来た。
3人の友人が乗った車が、僕の前に停まった。
僕はなぜ、初夏の草原にいるのか。
友人たちが迎えに来てくれることを知っているのか。
それはわからない。
たわいない雑談が続いたあと、
僕らが乗った車は街はずれの公園に着いた。
草の緑がひときわ目立つその公園では、
お祭りが開催されていた。
何のお祭りかはわからないが、
多くの屋台が立ち並び、人々には笑顔があふれていた。
公園の中央にあるステージがひときわ盛り上がった。
「さぁ、お祭りの始まりです!」
透き通った、力強い女性の声がマイク越しに響きわたった。
どんなイベントが始まるんだろう。
僕は群衆の最後尾から、わくわくしながら注目した。
ステージ左右から3名ずつ、スタッフさんが登壇した。
彼らの手には短いハンドドライヤーのような器具が握られていた。
「それでは皆さん!準備はいいですかー?!PCR検査を始めますよー!」
…は?
MCのお姉さんの言葉に、ステージに集まった人たちは熱狂した。
僕の友人たちも、まるでライブのオープニングのように盛り上がっていた。
誰ひとり、戸惑っている者はいない。僕自身を除いて。
ステージに横並びで陣取ったスタッフさんが、
手にした器具を僕ら群衆に向かって構えた。
次の瞬間、謎のハンドドライヤーから煙が吹き出し、
群衆を覆っていった。
毒ではなさそうだが、僕はなぜか直感でこう思った。
「まさか、”ヨウセイシャ”をあぶり出そうというのか?」
僕は群衆の最後尾にいたことが幸いし、
煙が届かない場所へ退避できた。
ステージ前面がみるみるうちに灰色に覆われていった。
よく見えないが、ところどころで一瞬、紫の閃光が見えた。
煙が晴れてきた。
僕はもちろん、
群衆の全員の位置を把握していたわけではない。
が、あの紫の閃光が見えた場所には、
さっきまでいたはずの人がいなかった。
確証はないが、
あの光はおそらく「ころなヨウセイシャ」の証だったんだろう。
「自主退場…?それとも、消された…のか?」
いくぶんかの人が減っても、会場の熱狂はそのままだった。
残った人たちはまるで、興奮のシャワーを浴びたかのようだ。
「それでは皆さん、今日を楽しんでくださいねー!」
MCのお姉さんの声が響いた。
その後、人びとは何ごともなかったかのように、
会場の各地へ散っていった。
例の煙を逃れた僕は、ひとまず会場をぶらつくことにした。
友人たちはいつの間にかいなくなっていた。
「ころなヨウセイシャ」として消されたのか、
他の場所を回っているのかはわからなかった。
活況を極める会場、笑顔で歩く人びと。
それはどこのお祭りでも見かける光景だった。
ただ1つ、人が消えているという事実を除けば。
「ちょっとあなた!PCR検査を受けてないでしょう?」
怒気をはらんだ女性の声に、僕は立ち止まった。
長身で細見の女性がこちらを睨んでいた。
オープニングで、ステージから僕らに煙を吹きかけてきた1人だった。
(受けたくないです。PCR検査は強制じゃないですよね?!)
僕はむっとして、
そう言い返そうとした言葉をあわてて飲み込んだ。
細身の女性の言葉で、会場のすべての空気が
歓喜から狂気へ変わったことに気づいたからだ。
女性は怒気を殺気に変え、僕へにじり寄ってきた。
それに呼応するように、近くにいた人たちも、
じわじわと距離を詰めてきた。
(何だ…?何なんだ?!この狂気は…!)
彼らの凶暴性はまるで、
愚王の公開処刑を嬉々として見物する民衆のそれだった。
「捕らえろ!生死は問わん!」
細身の女性が叫ぶと、
まわりの人たちが一斉に僕へ飛びかかってきた。
僕は間一髪で身をかわし、
空いていた後方へ向かって必死で走った。
逃げれば逃げるほど、追いかけてくる人が増えていった。
増える追手の最後尾から、細身の女性も走って追いかけてきた。
ついさっきまで、この会場は喜びに満ちていた。
なのに、
「PCR検査を受けてない奴がいるのか?」
人間に眠る凶暴性に火をつけるには、
こんな疑惑1つで十分だというのか。
「あいつはバイ菌だ」
「無菌でなければ”カンセンシャ”だ」
「ウィルスは遺伝子のカケラ1つさえ侵入を許すな」
狂ったメッセージが、逃げる僕の背中に繰り返し、突き刺さった。
どれくらい走っただろう。
僕は見わたす限りの草原に崩れ落ちた。
よかった、周囲に人影は見えない。僕は逃げ切れたのか?
起き上がろうにも、足がもつれて立てない。
ちょうどいいや、一休みしていこう。
僕は草のじゅうたんに、仰向けに寝転がった。
風はただ優しく、緑はまぶしいほどに鮮やかだった。
曇はゆるやかに形を変えながら、おだやかに流れていった。
――こんなにも、青空――
僕がさっきまで見ていた、
狂気と暴力を露にしたニンゲンたちは、幻だったのか?
これからどうしよう。
街へ帰るアテはないし、ここがどこかもわからない。
帰れても、そこのニンゲンたちは
”カンセンシャ狩り”に躍起になっているだろうか。
僕は無事でいられるだろうか。
友人たちはどうなったんだろう。生きているのか、それとも…。
「まぁ、今はいいや。眠くなってきた。」
僕は草のにおいに包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。
本当に怖いものは自然災害か、見えないウィルスか。
――それとも「ニンゲンの狂気」か――
ーー完ーー
※このお話はフィクションです。
コロナへの過剰反応が暴走した世界線の1つ…かもしれませんね。
――それとも「ニンゲンの狂気」か――
ー目次ー
- 目覚めは初夏の草原、目指すは祭り会場
- 唐突なPCR検査、”ヨウセイシャをあぶり出せ”
- 歓喜から狂気へ、”カンセンシャを排除しろ”
- 逃走の果てに、”怖いものはウィルスか、ニンゲンか”
1.目覚めは初夏の草原、目指すは祭り会場
ん…この音は…?
やさしい風が、新緑の草花をなでる音だ。
ここは…街中から少し離れた、草原が広がる場所。
それなりに建物はあるが、鮮やかな草の色の方が目立つ。
あれ?初夏?
今は真冬のはずなのに。
なんなら昨夜だけで70センチも積雪があったのに。夢?
まぁ、どっちでもいいや。風が気持ちいいなァ。
さて、そろそろ友達が迎えに来てくれる…
あ、来た来た。
3人の友人が乗った車が、僕の前に停まった。
僕はなぜ、初夏の草原にいるのか。
友人たちが迎えに来てくれることを知っているのか。
それはわからない。
たわいない雑談が続いたあと、
僕らが乗った車は街はずれの公園に着いた。
草の緑がひときわ目立つその公園では、
お祭りが開催されていた。
何のお祭りかはわからないが、
多くの屋台が立ち並び、人々には笑顔があふれていた。
2.唐突なPCR検査、”ヨウセイシャをあぶり出せ”
公園の中央にあるステージがひときわ盛り上がった。
「さぁ、お祭りの始まりです!」
透き通った、力強い女性の声がマイク越しに響きわたった。
どんなイベントが始まるんだろう。
僕は群衆の最後尾から、わくわくしながら注目した。
ステージ左右から3名ずつ、スタッフさんが登壇した。
彼らの手には短いハンドドライヤーのような器具が握られていた。
「それでは皆さん!準備はいいですかー?!PCR検査を始めますよー!」
…は?
MCのお姉さんの言葉に、ステージに集まった人たちは熱狂した。
僕の友人たちも、まるでライブのオープニングのように盛り上がっていた。
誰ひとり、戸惑っている者はいない。僕自身を除いて。
ステージに横並びで陣取ったスタッフさんが、
手にした器具を僕ら群衆に向かって構えた。
次の瞬間、謎のハンドドライヤーから煙が吹き出し、
群衆を覆っていった。
毒ではなさそうだが、僕はなぜか直感でこう思った。
「まさか、”ヨウセイシャ”をあぶり出そうというのか?」
僕は群衆の最後尾にいたことが幸いし、
煙が届かない場所へ退避できた。
ステージ前面がみるみるうちに灰色に覆われていった。
よく見えないが、ところどころで一瞬、紫の閃光が見えた。
煙が晴れてきた。
僕はもちろん、
群衆の全員の位置を把握していたわけではない。
が、あの紫の閃光が見えた場所には、
さっきまでいたはずの人がいなかった。
確証はないが、
あの光はおそらく「ころなヨウセイシャ」の証だったんだろう。
「自主退場…?それとも、消された…のか?」
いくぶんかの人が減っても、会場の熱狂はそのままだった。
残った人たちはまるで、興奮のシャワーを浴びたかのようだ。
「それでは皆さん、今日を楽しんでくださいねー!」
MCのお姉さんの声が響いた。
その後、人びとは何ごともなかったかのように、
会場の各地へ散っていった。
3.歓喜から狂気へ、”カンセンシャを排除しろ”
例の煙を逃れた僕は、ひとまず会場をぶらつくことにした。
友人たちはいつの間にかいなくなっていた。
「ころなヨウセイシャ」として消されたのか、
他の場所を回っているのかはわからなかった。
活況を極める会場、笑顔で歩く人びと。
それはどこのお祭りでも見かける光景だった。
ただ1つ、人が消えているという事実を除けば。
「ちょっとあなた!PCR検査を受けてないでしょう?」
怒気をはらんだ女性の声に、僕は立ち止まった。
長身で細見の女性がこちらを睨んでいた。
オープニングで、ステージから僕らに煙を吹きかけてきた1人だった。
(受けたくないです。PCR検査は強制じゃないですよね?!)
僕はむっとして、
そう言い返そうとした言葉をあわてて飲み込んだ。
細身の女性の言葉で、会場のすべての空気が
歓喜から狂気へ変わったことに気づいたからだ。
女性は怒気を殺気に変え、僕へにじり寄ってきた。
それに呼応するように、近くにいた人たちも、
じわじわと距離を詰めてきた。
(何だ…?何なんだ?!この狂気は…!)
彼らの凶暴性はまるで、
愚王の公開処刑を嬉々として見物する民衆のそれだった。
「捕らえろ!生死は問わん!」
細身の女性が叫ぶと、
まわりの人たちが一斉に僕へ飛びかかってきた。
僕は間一髪で身をかわし、
空いていた後方へ向かって必死で走った。
逃げれば逃げるほど、追いかけてくる人が増えていった。
増える追手の最後尾から、細身の女性も走って追いかけてきた。
ついさっきまで、この会場は喜びに満ちていた。
なのに、
「PCR検査を受けてない奴がいるのか?」
人間に眠る凶暴性に火をつけるには、
こんな疑惑1つで十分だというのか。
「あいつはバイ菌だ」
「無菌でなければ”カンセンシャ”だ」
「ウィルスは遺伝子のカケラ1つさえ侵入を許すな」
狂ったメッセージが、逃げる僕の背中に繰り返し、突き刺さった。
4.逃走の果てに、”怖いものはウィルスか、ニンゲンか”
どれくらい走っただろう。
僕は見わたす限りの草原に崩れ落ちた。
よかった、周囲に人影は見えない。僕は逃げ切れたのか?
起き上がろうにも、足がもつれて立てない。
ちょうどいいや、一休みしていこう。
僕は草のじゅうたんに、仰向けに寝転がった。
風はただ優しく、緑はまぶしいほどに鮮やかだった。
曇はゆるやかに形を変えながら、おだやかに流れていった。
――こんなにも、青空――
僕がさっきまで見ていた、
狂気と暴力を露にしたニンゲンたちは、幻だったのか?
これからどうしよう。
街へ帰るアテはないし、ここがどこかもわからない。
帰れても、そこのニンゲンたちは
”カンセンシャ狩り”に躍起になっているだろうか。
僕は無事でいられるだろうか。
友人たちはどうなったんだろう。生きているのか、それとも…。
「まぁ、今はいいや。眠くなってきた。」
僕は草のにおいに包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。
本当に怖いものは自然災害か、見えないウィルスか。
――それとも「ニンゲンの狂気」か――
ーー完ーー
※このお話はフィクションです。
コロナへの過剰反応が暴走した世界線の1つ…かもしれませんね。
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2022年01月08日
日本の部活や会社にある謎の信仰「継続は美徳、辞めることは逃げ」。
ー目次ー
僕は『あひるの空』というマンガが好きです。
主人公の車谷空は身長149センチ。
高校で入部したバスケ部は不良たちのたまり場。
そんな弱小バスケ部が、多くの負けや葛藤を乗り越えて
インターハイ出場を目指す物語です。
ある日、元・不良組の2年生チャッキーは
まわりと実力が離れていく悔しさや、
自分の居場所がなくなる不安に悩んだ末、
バスケ部を退部します。
そんな彼に対して、同じく元・不良組でチームの司令塔、
花園千秋はこう言います。
日本には部活に限らず、彼の言う通り、
『続けることは美しく、辞めることは逃げ』
という謎の信仰があるように感じます。
こう聞いて、多少なり
「あいつは逃げた」と思うフシはないでしょうか。
その感覚こそ、僕たちが小さいころから
時間をかけて洗脳されてきた証拠ではないかと思います。
僕は部活経験者です。
小学校、中、高、大学とバスケ部に所属してきました。
バスケ部員は20人未満、普通の学校でしたが、
ヘタだった僕は長い時間を補欠として過ごしました。
当時の僕は、補欠でいることに何の疑問も持っていませんでした。
「試合に出られるチームへ移る」なんて考えもしませんでした。
「自分に実力がないから補欠なのは当たり前」
「補欠なのに”バスケがしたい””試合に出たい”などおこがましい」
とさえ思っていました。
強豪校でもスポーツ推薦でもない、ごくありふれたバスケ部です。
にもかかわらず僕は、
「補欠のままでも部活を辞めないことが正しい」と思い込んでいたんです。
いま考えると異常に思えます。
思えば、僕はこのときから
「続けることは美しく、辞めることは逃げ」と洗脳されていました。
僕の「補欠は当たり前」という洗脳が解けたきっかけは、
社会人バスケを始めたことでした。
社会人のクラブチームでは、
レベルや方針によりますが、基本的に
ことが自由に行われています。
もちろん、学校の部活とは決まりごとや自由度がちがいます。
それでも、
「補欠でもそのチームで頑張り続けることが当たり前」
と洗脳されていた僕にとって、
「活躍の場は自分で選んでいい」
という発想に出会ったことは衝撃でした。
子どものころから「継続信仰」にどっぷり浸かっていると、
ことに陥りやすく、心身を病むこともあります。
貴重な3年間を奪われても、長時間労働で心身を壊しても、
「辞めることは逃げであり、続ける選択こそ美しい」
というすり込みが、他の選択肢を見えなくさせてきます。
これは内側にいるとなかなか気づけません。
まわりの人間も「辞めることは逃げ」と思っているからです。
これが同調圧力の恐ろしいところです。
では、日本に蔓延する
「続けることは美しく、辞めることは逃げ」
という信仰は、いつから始まったんでしょうか。
私見ですが、大まかに以下の流れではないかと思います。
日本は島国です。
昔から船での行き来はありましたが、
航海の危険性から、その頻度は限られていました。
これは陸続きの国とちがい、
「その土地になじめなくても移住が難しい」ことを意味します。
そのコミュニティを辞めたくなっても、村八分にされても、
逃げ場は「この島のどこか」のみです。
「まったく価値観の異なる土地で再出発」は
至難の業だっと考えられます。
そういう事情から、日本に住む人たちはずっと、
「合わないと感じても辞めるわけにはいかない」
という抑圧を抱えてきたんじゃないでしょうか。
そして、強い抑圧の中でも心を壊さないために、
辞められないことを美化する必要があったんじゃないでしょうか。
「村八分にされても逃げ場が少ないから辞められない」ではなく、
「辞めずに続けることこそ美しい」と考えること。
それが、閉鎖的な島国で生き延びるための
メンタリティになっていったんじゃないでしょうか。
日本は欧米列強に対抗するため
「富国強兵」を目指し、徴兵制を敷きました。
そのときに制定された「学制」が、
現代の学校教育の元になっているようです。
教育の目的は、
「均質で、命令に忠実な兵士をつくること」
上官の命令に逆らわず、理不尽に耐え、脱走もしない、
そんな従順な人間が大量に必要でした。
他人に”やりたくないこと”をやらせるためには、
命の危機を感じさせることと、
「それが正しいと信じ込ませること」が有効です。
「上官の命令には絶対服従が正しい」
「理不尽に耐えて戦い続けることが正しい」
「天皇陛下のために犠牲になることが正しい」
外国からの圧力があったとはいえ、
国中の大人が子どもたちにこう言い聞かせたとしたら。
子どもたちは、大人の期待に添うために
「理不尽でも続けることが良くて、辞めることは逃げなのか」
と思い込んだのかもしれません。
戦後の高度経済成長期は、
あらゆるモノが不足していた時代です。
作れば作るだけ売れると信じられていました。
何もかもが右肩上がりで、
というように、質より量が優先されていたでしょう。
「やればやるだけ結果が出る」
そんな雰囲気で、雇用主や指導者がいちばん困ることは
「途中で辞められること」ではないでしょうか。
さらに当時は「欲しがりません、勝つまでは」の精神で戦い、
敗戦してまだ数十年です。
先の時代に強化された
「続けることが美徳」精神は健在だったでしょう。
続ければ成果が出るので、否定する理由もありません。
こうして、会社や部活の現場で「継続信仰」が再強化され、
いまに至るのではないでしょうか。
少子化が進み、どの学校も生き残りに必死です。
私立学校は大会で実績を上げてブランド力を付け、
生徒を獲得しなければ潰れてしまいます。
大量の補欠部員を抱え、
「抱え込み」「飼い殺し」と批判されようと、
学校側も生活がかかっています。
ブラック企業は、ブラックゆえに常に人手不足です。
少ない人員に膨大な仕事が降ってきます。
その膨大な仕事をこなしてもらうために、
「継続信仰」は便利です。
どれだけ長時間労働をさせても、
「辞めることは逃げ」だから辞めずにいてくれます。
決して擁護はできません。
が、そこには「金儲け」「使い捨て」と切り捨てられない
リアルが横たわっています。
僕らが考えられないような額の借金を返し続け、
「ビジネスの世界で生き残る」というリアルです。
「継続信仰」は都合のよい洗脳に見えても、
それで命の糧を得ている人がいるのも事実です。
それでも、日本では「継続信仰」が、
人を都合よくコントロールする道具として
利用されているのではないかと思います。
部活ではよく「補欠選手の美談」が報道されます。
「補欠選手の引退試合」
「裏方に回ってチームを支えた」
「3年間チームのためにやり通した」
選手の家族やコーチが涙する映像も交えて、
美しい自己犠牲として報道されます。
それは果たして美談でしょうか。
試合に出られない悔しさや、理不尽さへのかすかな疑問を、
自分たちに向けさせないためではないでしょうか。
最初から補欠になりたくてバスケ部に入る人が
どれだけいるでしょうか。
大半の人はバスケがしたくて、
試合で活躍したくてバスケ部に入るんじゃないでしょうか。
それは実力があってもなくても隠す必要のない、
素直な願いだと思います。
なのに「辞めることは逃げ」とされ、
理不尽でも続けることを選ばされているように感じます。
まるで、
「試合に出られるチームへ移る」
「もっと働きやすい環境を探して転職する」
という選択肢に、たどり着かせたくないかのように。
続けるも辞めるも、自分が悩んで決断したことが正解だと思います。
「補欠でも部活を辞めなくてよかった」
「補欠だったから退部して、他チームで試合経験を積めてよかった」
大切なのは自分がそう思えることで、
退部や退職を外野が裁くのは何かがちがうと思います。
僕はそう言える人間でありたいと思います。
- 日本にある謎の信仰”継続は美徳、辞めることは逃げ”
- 部活での洗脳”補欠のままでも辞めない、移籍しない”
- 社会人バスケで洗脳が解ける”試合に出られるチームでプレーすればいい”
- 日本に蔓延する”継続信仰”は、いつから始まったのか
@島国という”逃げにくい土台”
A明治維新で大幅に強化”学制の制定”
B高度経済成長期で再強化”質より量” - 学校側のリアル”少子化で生徒獲得に必死”
- 続けるも辞めるも、自分が悩んで決断したことが正解
1.日本にある謎の信仰”継続は美徳、辞めることは逃げ”
僕は『あひるの空』というマンガが好きです。
主人公の車谷空は身長149センチ。
高校で入部したバスケ部は不良たちのたまり場。
そんな弱小バスケ部が、多くの負けや葛藤を乗り越えて
インターハイ出場を目指す物語です。
ある日、元・不良組の2年生チャッキーは
まわりと実力が離れていく悔しさや、
自分の居場所がなくなる不安に悩んだ末、
バスケ部を退部します。
そんな彼に対して、同じく元・不良組でチームの司令塔、
花園千秋はこう言います。
継続することが美徳みたいに思われがちだが、
断ち切ることだって相当の勇気がいるんだ。
俺はその勇気を買うよ。
『あひるの空』28巻 202話 より
日本には部活に限らず、彼の言う通り、
『続けることは美しく、辞めることは逃げ』
という謎の信仰があるように感じます。
- 部活を辞めた
- 新卒入社した会社を3年以内に辞めた
こう聞いて、多少なり
「あいつは逃げた」と思うフシはないでしょうか。
その感覚こそ、僕たちが小さいころから
時間をかけて洗脳されてきた証拠ではないかと思います。
2.部活での洗脳”補欠のままでも辞めない、移籍しない”
僕は部活経験者です。
小学校、中、高、大学とバスケ部に所属してきました。
バスケ部員は20人未満、普通の学校でしたが、
ヘタだった僕は長い時間を補欠として過ごしました。
当時の僕は、補欠でいることに何の疑問も持っていませんでした。
「試合に出られるチームへ移る」なんて考えもしませんでした。
「自分に実力がないから補欠なのは当たり前」
「補欠なのに”バスケがしたい””試合に出たい”などおこがましい」
とさえ思っていました。
強豪校でもスポーツ推薦でもない、ごくありふれたバスケ部です。
にもかかわらず僕は、
「補欠のままでも部活を辞めないことが正しい」と思い込んでいたんです。
いま考えると異常に思えます。
思えば、僕はこのときから
「続けることは美しく、辞めることは逃げ」と洗脳されていました。
3.社会人バスケで洗脳が解ける”試合に出られるチームでプレーすればいい”
僕の「補欠は当たり前」という洗脳が解けたきっかけは、
社会人バスケを始めたことでした。
社会人のクラブチームでは、
レベルや方針によりますが、基本的に
- 試合に出られるチームでプレーする
- 試合に出られないなら、出られるチームへ移籍する
- 他チームの練習や練習試合にゲスト参加する
- 助っ人で試合に出る(大会規定の範囲で)
ことが自由に行われています。
もちろん、学校の部活とは決まりごとや自由度がちがいます。
それでも、
「補欠でもそのチームで頑張り続けることが当たり前」
と洗脳されていた僕にとって、
「活躍の場は自分で選んでいい」
という発想に出会ったことは衝撃でした。
子どものころから「継続信仰」にどっぷり浸かっていると、
- バスケがしたくてバスケ部に入ったのに3年間「補欠」で過ごす
なのに部活を辞められない - どんなブラック企業でも
途中で辞めることは逃げだから辞められない
ことに陥りやすく、心身を病むこともあります。
貴重な3年間を奪われても、長時間労働で心身を壊しても、
「辞めることは逃げであり、続ける選択こそ美しい」
というすり込みが、他の選択肢を見えなくさせてきます。
これは内側にいるとなかなか気づけません。
まわりの人間も「辞めることは逃げ」と思っているからです。
これが同調圧力の恐ろしいところです。
4.日本に蔓延する”継続信仰”は、いつから始まったのか
では、日本に蔓延する
「続けることは美しく、辞めることは逃げ」
という信仰は、いつから始まったんでしょうか。
私見ですが、大まかに以下の流れではないかと思います。
- 島国という”逃げにくい土台”
- 明治維新で大幅に強化”学制の制定”
- 高度経済成長期で再強化”質より量”
@島国という”逃げにくい土台”
日本は島国です。
昔から船での行き来はありましたが、
航海の危険性から、その頻度は限られていました。
これは陸続きの国とちがい、
「その土地になじめなくても移住が難しい」ことを意味します。
そのコミュニティを辞めたくなっても、村八分にされても、
逃げ場は「この島のどこか」のみです。
「まったく価値観の異なる土地で再出発」は
至難の業だっと考えられます。
そういう事情から、日本に住む人たちはずっと、
「合わないと感じても辞めるわけにはいかない」
という抑圧を抱えてきたんじゃないでしょうか。
そして、強い抑圧の中でも心を壊さないために、
辞められないことを美化する必要があったんじゃないでしょうか。
「村八分にされても逃げ場が少ないから辞められない」ではなく、
「辞めずに続けることこそ美しい」と考えること。
それが、閉鎖的な島国で生き延びるための
メンタリティになっていったんじゃないでしょうか。
A明治維新で大幅に強化”学制の制定”
日本は欧米列強に対抗するため
「富国強兵」を目指し、徴兵制を敷きました。
そのときに制定された「学制」が、
現代の学校教育の元になっているようです。
教育の目的は、
「均質で、命令に忠実な兵士をつくること」
上官の命令に逆らわず、理不尽に耐え、脱走もしない、
そんな従順な人間が大量に必要でした。
他人に”やりたくないこと”をやらせるためには、
命の危機を感じさせることと、
「それが正しいと信じ込ませること」が有効です。
「上官の命令には絶対服従が正しい」
「理不尽に耐えて戦い続けることが正しい」
「天皇陛下のために犠牲になることが正しい」
外国からの圧力があったとはいえ、
国中の大人が子どもたちにこう言い聞かせたとしたら。
子どもたちは、大人の期待に添うために
「理不尽でも続けることが良くて、辞めることは逃げなのか」
と思い込んだのかもしれません。
B高度経済成長期で再強化”質より量”
戦後の高度経済成長期は、
あらゆるモノが不足していた時代です。
作れば作るだけ売れると信じられていました。
何もかもが右肩上がりで、
- 会社勤め:とにかく長く勤めれば昇進・昇給する
- スポーツ:とにかく選手を集めて鍛えれば勝てる
というように、質より量が優先されていたでしょう。
「やればやるだけ結果が出る」
そんな雰囲気で、雇用主や指導者がいちばん困ることは
「途中で辞められること」ではないでしょうか。
さらに当時は「欲しがりません、勝つまでは」の精神で戦い、
敗戦してまだ数十年です。
先の時代に強化された
「続けることが美徳」精神は健在だったでしょう。
続ければ成果が出るので、否定する理由もありません。
こうして、会社や部活の現場で「継続信仰」が再強化され、
いまに至るのではないでしょうか。
5.学校側のリアル”少子化で生徒獲得に必死”
少子化が進み、どの学校も生き残りに必死です。
私立学校は大会で実績を上げてブランド力を付け、
生徒を獲得しなければ潰れてしまいます。
大量の補欠部員を抱え、
「抱え込み」「飼い殺し」と批判されようと、
学校側も生活がかかっています。
ブラック企業は、ブラックゆえに常に人手不足です。
少ない人員に膨大な仕事が降ってきます。
その膨大な仕事をこなしてもらうために、
「継続信仰」は便利です。
どれだけ長時間労働をさせても、
「辞めることは逃げ」だから辞めずにいてくれます。
決して擁護はできません。
が、そこには「金儲け」「使い捨て」と切り捨てられない
リアルが横たわっています。
僕らが考えられないような額の借金を返し続け、
「ビジネスの世界で生き残る」というリアルです。
「継続信仰」は都合のよい洗脳に見えても、
それで命の糧を得ている人がいるのも事実です。
6.続けるも辞めるも、自分が悩んで決断したことが正解
それでも、日本では「継続信仰」が、
人を都合よくコントロールする道具として
利用されているのではないかと思います。
部活ではよく「補欠選手の美談」が報道されます。
「補欠選手の引退試合」
「裏方に回ってチームを支えた」
「3年間チームのためにやり通した」
選手の家族やコーチが涙する映像も交えて、
美しい自己犠牲として報道されます。
それは果たして美談でしょうか。
試合に出られない悔しさや、理不尽さへのかすかな疑問を、
自分たちに向けさせないためではないでしょうか。
最初から補欠になりたくてバスケ部に入る人が
どれだけいるでしょうか。
大半の人はバスケがしたくて、
試合で活躍したくてバスケ部に入るんじゃないでしょうか。
それは実力があってもなくても隠す必要のない、
素直な願いだと思います。
なのに「辞めることは逃げ」とされ、
理不尽でも続けることを選ばされているように感じます。
まるで、
「試合に出られるチームへ移る」
「もっと働きやすい環境を探して転職する」
という選択肢に、たどり着かせたくないかのように。
続けるも辞めるも、自分が悩んで決断したことが正解だと思います。
「補欠でも部活を辞めなくてよかった」
「補欠だったから退部して、他チームで試合経験を積めてよかった」
大切なのは自分がそう思えることで、
退部や退職を外野が裁くのは何かがちがうと思います。
継続することが美徳みたいに思われがちだが、
断ち切ることだって相当の勇気がいるんだ。
俺はその勇気を買うよ。
花園千秋
僕はそう言える人間でありたいと思います。
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2022年01月01日
コロナ騒動が暴いた人間の本性〜人間は利己的で弱い生き物ではないか〜。
コロナ騒動が始まって、もうすぐ2年が経ちます。
クリスマスの街中は多くの人でにぎわい、
活気があったように思います。
一方、僕がこの1年半で気になったのは
「コロナ怖い派」と「コロナ騒ぎすぎ派」の対立です。
いろいろな意見が出るのは当然です。
が、ときにはお互いを「悪の権化」とばかりに叩いたり、
「異教徒には何をしてもよい」とばかりに
人格攻撃をする光景も目にしました。
そんな対立を見て、僕はつくづく
「人間とは弱い生き物」だと感じました。
どんなに美しい言葉を並べても、
わずかな「死の恐怖」を与えるだけで、
僕ら人間の本性があぶり出されます。
「利己的で弱い」という本性が。
ー目次ー
僕はこの騒動が始まったころからずっと
「コロナ騒ぎすぎ派」です。
この1年半で、コロナの正体が研究されてきました。
少なくとも日本人にとっては致死率も重症化リスクも低い相手です。
にもかかわらず、なぜ未だに「怖い」と煽るんでしょうか。
毎日毎日、
「早くワクチンを打ちましょう」
「カンセンシャスウは何人です」と
大々的に宣伝するのはおかしいと思います。
それと、僕は何に対しても
深読みや背景の想像をしてしまいます。
どうしても
「誰が儲けるための騒動なのか」
「これは人災ではないか」
「真の目的は何なのか」
など、裏の裏まで考えてしまいます。
コロナ脳
自粛警察
マスク警察
などと揶揄される人たちや、
恐怖のあまり他者に不寛容になる人たちを、
冷ややかに見つめていたことは事実です。
自分自身も「コロナ怖い派」に対して不寛容になっていたんです。
ですが、僕は
とは思いません。
「コロナ騒ぎすぎ派」と「コロナ怖い派」のちがいは怖がり方で、
根底にあるのは同じ「死の恐怖」だと思います。
僕も含め、「コロナ騒ぎすぎ派」の人たちは、
死の恐怖の原因を「黒幕の誰か」にすり替えることで、
自分を保っていると考えられます。
相手は目に見えず、
近づいてきても払いのけることが困難です。
それは、自分が死ぬかも知れない恐怖を、
自分ではコントロールできないというストレスになります。
だから、
ストレスの原因を「自分でコントロールできそうな誰か」に
求めているのではないでしょうか。
少なくとも人間やモノなら接近がわかるので、
逃げたり攻撃したりできます。
第二次大戦時、ヒトラーは
「ドイツの窮状はユダヤ人と大資本のせいだ」とし、
ドイツ国民から熱烈な支持を得ました。
アメリカ前大統領のトランプ氏は、
「移民がアメリカ人の職を奪っている」とし、
ヒラリー氏との大統領選挙に勝利しました。
両者の共通点は、真偽はともかく
「きみたちのストレスの原因はあいつらだ」と
訴えたことではないでしょうか。
「コロナ騒ぎすぎ派」の人たちと、
「コロナ怖い派」の人たちは、
「メディアに洗脳されすぎだ」
「収束しないのは自粛しないやつらのせいだ」
などと、お互いを攻撃しています。
その対立へ拍車をかけているのは、
自粛疲れ、同調圧力などのストレスからくる
他者への不寛容でしょう。
もはや、
コロナが重症化して死ぬ恐怖そっちのけで、
「コロナ怖い教」VS「コロナ騒ぎすぎ教」の宗教戦争と化しています。
では、もしどちらかの宗派が相手を完全論破し、
全員を改宗させたら、この争いはなくなるでしょうか。
残念ながら、今度は宗派の内部で
「穏健派VS過激派」の争いが起きると思います。
中野信子氏の著書『ヒトは「いじめ」をやめられない』では、
という図式だそうです。
集団を壊す危険因子は、はじめは外部に見つけられます。
たとえば「コロナ騒ぎすぎ派」にとって、
危険因子は異教徒である「コロナ怖い派」です。
もし異教徒の改宗に成功しても、
教団内部には考え方のちがう人たちがいます。
そして今度は、そういう人たちが「異端」として攻撃されます。
どちらの宗派に近い考えを持っていても、
生き物として究極の願望は「生き延びたい」だと思います。
皮肉なことに、
僕らは生き延びたいために他宗派を攻撃し、
集団内にいる「考えが似ていない誰か」を攻撃しているんです。
中世ヨーロッパでは、
政治が不安定になった国で魔女狩りが横行しました。
「魔法を使った」「キリスト教徒ではない」などのデマが流れ、
魔女が人びとの不安のはけ口にされました。
今回のコロナ騒動では、
魔女狩りに至らずともさまざまなデマが拡散しました。
ドラッグストアには、マスクやトイレットペーパーを
求める人たちの長蛇の列ができました。
たとえ、わずかな「死の恐怖」でも、
人間はこんなにも利己的で、他者に不寛容になります。
そして、人間をそうさせているのは皮肉にも、
「生き延びたい」という願望です。
『風の谷のナウシカ』原作で、ナウシカは
「清浄と汚濁こそ生命」と言っています。
人間には汚い部分だけでなく、優しさや思いやりがあります。
人間は善い存在だと信じたい自分もいます。
ですが、
人間にとっての「清浄」はあくまで
「自分の安全と安心が保証されて初めて発揮できる」
のではないでしょうか。
「自分が生き延びる」という至上命題の前では、
優しさも思いやりも二次的な性質ではないでしょうか。
「地球の支配者たるホモ・サピエンス、その本性は利己的で弱い生き物」
今回のコロナ騒動や、宗教戦争のような分断は、
僕らにそう伝えているのではないでしょうか。
本も電子書籍も送料無料の総合書店「honto」
クリスマスの街中は多くの人でにぎわい、
活気があったように思います。
一方、僕がこの1年半で気になったのは
「コロナ怖い派」と「コロナ騒ぎすぎ派」の対立です。
いろいろな意見が出るのは当然です。
が、ときにはお互いを「悪の権化」とばかりに叩いたり、
「異教徒には何をしてもよい」とばかりに
人格攻撃をする光景も目にしました。
そんな対立を見て、僕はつくづく
「人間とは弱い生き物」だと感じました。
どんなに美しい言葉を並べても、
わずかな「死の恐怖」を与えるだけで、
僕ら人間の本性があぶり出されます。
「利己的で弱い」という本性が。
ー目次ー
- コロナ騒ぎすぎ派の立ち位置、”真の目的は何か”という深読み
- コロナ騒ぎすぎ派も怖い派も、根底にあるのは”死の恐怖”
- コロナ宗教戦争、人は生き延びたいために”いじめ”を繰り返す
- 地球の支配者たるホモサピエンスは、利己的で弱い生き物
1.コロナ騒ぎすぎ派の立ち位置、”真の目的は何か”という深読み
僕はこの騒動が始まったころからずっと
「コロナ騒ぎすぎ派」です。
この1年半で、コロナの正体が研究されてきました。
少なくとも日本人にとっては致死率も重症化リスクも低い相手です。
にもかかわらず、なぜ未だに「怖い」と煽るんでしょうか。
毎日毎日、
「早くワクチンを打ちましょう」
「カンセンシャスウは何人です」と
大々的に宣伝するのはおかしいと思います。
それと、僕は何に対しても
深読みや背景の想像をしてしまいます。
どうしても
「誰が儲けるための騒動なのか」
「これは人災ではないか」
「真の目的は何なのか」
など、裏の裏まで考えてしまいます。
コロナ脳
自粛警察
マスク警察
などと揶揄される人たちや、
恐怖のあまり他者に不寛容になる人たちを、
冷ややかに見つめていたことは事実です。
自分自身も「コロナ怖い派」に対して不寛容になっていたんです。
2.コロナ騒ぎすぎ派も怖い派も、根底にあるのは”死の恐怖”
ですが、僕は
- 「コロナ騒ぎすぎ派」「陰謀論者」の人たちは強い
- 「コロナ騒ぎすぎ派」の人たちは弱い
とは思いません。
「コロナ騒ぎすぎ派」と「コロナ怖い派」のちがいは怖がり方で、
根底にあるのは同じ「死の恐怖」だと思います。
僕も含め、「コロナ騒ぎすぎ派」の人たちは、
死の恐怖の原因を「黒幕の誰か」にすり替えることで、
自分を保っていると考えられます。
相手は目に見えず、
近づいてきても払いのけることが困難です。
それは、自分が死ぬかも知れない恐怖を、
自分ではコントロールできないというストレスになります。
だから、
ストレスの原因を「自分でコントロールできそうな誰か」に
求めているのではないでしょうか。
少なくとも人間やモノなら接近がわかるので、
逃げたり攻撃したりできます。
人間は誰でも、原因や解決法のわからない
モヤモヤとしてストレスにされされ続けるのを好まない。
「あそこに原因があるのだ」と認識する、
というのはストレスマネジメントの第一歩である。(中略)
失業率が高まってきたときに、全く原因がわからないというよりは、
「外国からの移民が増えすぎたので自分たちの職がなくなった」
と言われるほうが精神的に楽なのである。
『国会議員を精神分析する』 より
第二次大戦時、ヒトラーは
「ドイツの窮状はユダヤ人と大資本のせいだ」とし、
ドイツ国民から熱烈な支持を得ました。
アメリカ前大統領のトランプ氏は、
「移民がアメリカ人の職を奪っている」とし、
ヒラリー氏との大統領選挙に勝利しました。
両者の共通点は、真偽はともかく
「きみたちのストレスの原因はあいつらだ」と
訴えたことではないでしょうか。
リンク
3.コロナ宗教戦争、人は生き延びたいために”いじめ”を繰り返す
「コロナ騒ぎすぎ派」の人たちと、
「コロナ怖い派」の人たちは、
「メディアに洗脳されすぎだ」
「収束しないのは自粛しないやつらのせいだ」
などと、お互いを攻撃しています。
その対立へ拍車をかけているのは、
自粛疲れ、同調圧力などのストレスからくる
他者への不寛容でしょう。
もはや、
コロナが重症化して死ぬ恐怖そっちのけで、
「コロナ怖い教」VS「コロナ騒ぎすぎ教」の宗教戦争と化しています。
では、もしどちらかの宗派が相手を完全論破し、
全員を改宗させたら、この争いはなくなるでしょうか。
残念ながら、今度は宗派の内部で
「穏健派VS過激派」の争いが起きると思います。
中野信子氏の著書『ヒトは「いじめ」をやめられない』では、
「いじめは種を残すため、脳に組み込まれた機能」と考えられています。
- 生物として脆弱な人間は集団を作ることで生き延びる
- その集団を壊す危険性のある者を排除したくなる→いじめ
という図式だそうです。
集団を壊す危険因子は、はじめは外部に見つけられます。
たとえば「コロナ騒ぎすぎ派」にとって、
危険因子は異教徒である「コロナ怖い派」です。
もし異教徒の改宗に成功しても、
教団内部には考え方のちがう人たちがいます。
そして今度は、そういう人たちが「異端」として攻撃されます。
どちらの宗派に近い考えを持っていても、
生き物として究極の願望は「生き延びたい」だと思います。
皮肉なことに、
僕らは生き延びたいために他宗派を攻撃し、
集団内にいる「考えが似ていない誰か」を攻撃しているんです。
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4.地球の支配者たるホモサピエンスは、利己的で弱い生き物
中世ヨーロッパでは、
政治が不安定になった国で魔女狩りが横行しました。
「魔法を使った」「キリスト教徒ではない」などのデマが流れ、
魔女が人びとの不安のはけ口にされました。
今回のコロナ騒動では、
魔女狩りに至らずともさまざまなデマが拡散しました。
ドラッグストアには、マスクやトイレットペーパーを
求める人たちの長蛇の列ができました。
たとえ、わずかな「死の恐怖」でも、
人間はこんなにも利己的で、他者に不寛容になります。
そして、人間をそうさせているのは皮肉にも、
「生き延びたい」という願望です。
『風の谷のナウシカ』原作で、ナウシカは
「清浄と汚濁こそ生命」と言っています。
人間には汚い部分だけでなく、優しさや思いやりがあります。
人間は善い存在だと信じたい自分もいます。
ですが、
人間にとっての「清浄」はあくまで
「自分の安全と安心が保証されて初めて発揮できる」
のではないでしょうか。
「自分が生き延びる」という至上命題の前では、
優しさも思いやりも二次的な性質ではないでしょうか。
「地球の支配者たるホモ・サピエンス、その本性は利己的で弱い生き物」
今回のコロナ騒動や、宗教戦争のような分断は、
僕らにそう伝えているのではないでしょうか。
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2021年12月24日
歩きスマホは、その人の幼児性の強さをあぶり出したのではないか。
歩きスマホをしている人を見ると、
「静かにしていられない子ども」を連想してしまいます。
もちろん、その子が悪いと言いたいのではなく、
「公共の場で自分の欲求を抑えられない」ことのたとえです。
僕は「我慢」という言葉が嫌いですが、彼らを見ると
「歩行中や運転中でさえスマホを我慢できないのかな…」
と思ってしまいます。
歩きスマホをすると、
人や車とぶつかって危険かもしれないし、
まわりの迷惑になるかもしれません。
彼らはそれを想像できていないか、
できていても自分の欲求を優先しています。
だから僕は、
歩きスマホという社会問題は、
その人に隠された幼児性の強さを
あぶり出したのではないかと思います。
ー目次ー
「クローズ人間」という言葉があります。
クローズ人間とは、
前かがみになる、視線を合わせない、
腕で自分の身体を包みこむなどの動作で、
まわりとの接触を拒む人のことです。
クローズ人間になるのは、
「処理しきれない情報があふれる外界から脳を守るため」
と考えられています。
その結果、
という、無愛想な言動が増えるそうです。
歩きスマホをしているとき、
その人はクローズ人間になっています。
前かがみになり、画面に夢中、
何ならイヤホンを付けて聴覚も閉じています。
その人にとって、
いちばん重要な情報は「自分の、目先の興味」です。
他の人も歩いていることや、
迷惑や事故につながるかもしれないことは、
「重要でない情報」なので排除されています。
それは、良く言えば
「余計な情報から脳を守る行為」
悪く言えば
「静かに電車に乗っていられない幼児性のあらわれ」
ではないでしょうか。
幼児の発達段階を表す「平行遊び」という言葉があります。
平行遊びのころは協力したり、譲ったりすることが難しいです。
成長するにつれておもちゃの取り合いやケンカを経験し、
協同遊びができるようになるようです。
歩きスマホは平行遊びと似ているように見えます。
歩きスマホは、
人や車にぶつかるかもしれない
周りの迷惑になるかもしれない
という状況なのに、”自分が今したいこと”をしています。
「歩きながらは危険だから、立ち止まってからにしよう」
というように、”譲る”ことができていません。
これは、
その人が心の底では「協同遊びに到達できていない」ことの
あらわれではないかと思います。
また、
「誰かと一緒にいるのに、それぞれが無言でスマホをいじる」光景は、
連合遊びのように見えます。
たまに、家族連れでテーブルに座っているのに、
全員がスマホをいじっていて無言という席を目にします。
これも協同遊びに到達できていないか、
あえて避けているのかもしれません。
相手の表情も、心情の想像も、
発生するかもしれないぶつかり合いも避けて、
自分のしたいこと=スマホを主張しているように見えます。
では、なぜ歩行中や運転中にスマホを我慢できない
幼児性が目立つようになったんでしょうか。
その原因は
「幼少期の過干渉や押しつけ教育」
「考えなくても何でも手に入る環境」
ではないかと思います。
少子化によって、
親が子ども1人にかける費用も期待も増えています。
そしてその期待が過ぎると過干渉や押しつけになります。
「あれはダメ、これはダメ」
「ああしなさい、こうしなさい」
「●●ちゃんと遊んではダメ」
など、
親がすべてのレールを用意したり、
親のルールの押しつけたりすることは、
子どもが自分で考える機会を奪う行為です。
また、親の価値観の押しつけは子どもにとっては窮屈で、
押しつぶされるような圧迫感になります。
その結果、
「人と関わること=自由を奪われること」と認識し、
クローズ人間へ向かう可能性が高まります。
親から何でも用意されて育ったら
「歩きスマホをしてもまわりが避けてくれるだろう」
親の過干渉で窮屈な思いをして育ったら
「ぶつかってきた=自分の自由を脅かした相手が悪い」
と考えても不思議ではないでしょう。
スマホがあれば、いつでも誰かとつながれます。
ラインでもビデオ通話でも、
いつでも相手の顔を見れて、文字のやり取りができます。
しかしその環境は、会っていないときの
相手の気持ちを想像する機会を減らします。
また、わからないことはスマホで調べれば出てきます。
考えなくてもすぐに答えが知れる環境は、
答えにたどり着く過程を考える機会を減らします。
何でも、すぐに叶えてくれるスマホによって、
考える機会、想像する機会が減っていった結果、
と想像できない人が増えてもおかしくないでしょう。
あるアンケート結果によれば、
「歩きスマホはまずいと思っている」人も多いそうです。
多少の罪悪感を覚えながらも
「ついやってしまう」人がそれだけ多いんでしょう。
それに、街中は情報でいっぱいです。
広告、ショーウィンドウ、アナウンスなど、
情報が津波のように入ってきます。
なので
情報の津波から脳を守る行為としては、
歩きスマホ+イヤホンは合理的です。
それでも現実では、
歩きスマホは問題となり、事故が起きています。
「手持ち無沙汰だから、つい」
「ただ歩くだけは退屈だから、つい」
くらいの軽い気持ちかもしれません。
が、「つい」を抑えられないことに、
隠された幼児性が集約されていると思います。
そして、その幼児性の強さはおそらく、
過干渉や押しつけによる抑圧経験から、
自分自身であることを否定された経験から始まっています。
それが他人への無関心になり、自分を閉じることになり、
流行りの「生きづらさ」につながっているんでしょう。
もしかしたら、
歩きスマホが止められない人や、スマホ依存が強い人は、
それだけ「精神的に追い詰められている人」かもしれません。
<参考書籍>
送料無料の総合書店「honto」
「静かにしていられない子ども」を連想してしまいます。
もちろん、その子が悪いと言いたいのではなく、
「公共の場で自分の欲求を抑えられない」ことのたとえです。
僕は「我慢」という言葉が嫌いですが、彼らを見ると
「歩行中や運転中でさえスマホを我慢できないのかな…」
と思ってしまいます。
歩きスマホをすると、
人や車とぶつかって危険かもしれないし、
まわりの迷惑になるかもしれません。
彼らはそれを想像できていないか、
できていても自分の欲求を優先しています。
だから僕は、
歩きスマホという社会問題は、
その人に隠された幼児性の強さを
あぶり出したのではないかと思います。
ー目次ー
- 歩きスマホとクローズ人間”重要なのは自分の、目先の興味”
- 歩きスマホと平行遊び”一緒にいるのに関わりを避ける”
- 幼児性が目立つ社会の背景”想像する機会の減少”
@幼少期の過干渉や押しつけ教育
A考えなくても何でも手に入る環境 - 歩きスマホの増加は”精神的に追い詰められた人の増加”か
1.歩きスマホとクローズ人間”重要なのは自分の、目先の興味”
「クローズ人間」という言葉があります。
クローズ人間とは、
前かがみになる、視線を合わせない、
腕で自分の身体を包みこむなどの動作で、
まわりとの接触を拒む人のことです。
クローズ人間になるのは、
「処理しきれない情報があふれる外界から脳を守るため」
と考えられています。
その結果、
- 短時間での情報処理
- 重要でない情報の排除
- 責任の回避
- 他人の利用
という、無愛想な言動が増えるそうです。
歩きスマホをしているとき、
その人はクローズ人間になっています。
前かがみになり、画面に夢中、
何ならイヤホンを付けて聴覚も閉じています。
その人にとって、
いちばん重要な情報は「自分の、目先の興味」です。
他の人も歩いていることや、
迷惑や事故につながるかもしれないことは、
「重要でない情報」なので排除されています。
それは、良く言えば
「余計な情報から脳を守る行為」
悪く言えば
「静かに電車に乗っていられない幼児性のあらわれ」
ではないでしょうか。
2.歩きスマホと平行遊び”一緒にいるのに関わりを避ける”
幼児の発達段階を表す「平行遊び」という言葉があります。
- 平行遊び(2〜3歳)
同じ空間にいるが、お互い関わらず違う遊びをする - 連合遊び(4〜5歳)
一緒に遊びはするが、お互いがしたいことをする - 協同遊び(5〜6歳)
役割分担し、協力して1つの遊びをする
平行遊びのころは協力したり、譲ったりすることが難しいです。
成長するにつれておもちゃの取り合いやケンカを経験し、
協同遊びができるようになるようです。
歩きスマホは平行遊びと似ているように見えます。
歩きスマホは、
人や車にぶつかるかもしれない
周りの迷惑になるかもしれない
という状況なのに、”自分が今したいこと”をしています。
「歩きながらは危険だから、立ち止まってからにしよう」
というように、”譲る”ことができていません。
これは、
その人が心の底では「協同遊びに到達できていない」ことの
あらわれではないかと思います。
また、
「誰かと一緒にいるのに、それぞれが無言でスマホをいじる」光景は、
連合遊びのように見えます。
たまに、家族連れでテーブルに座っているのに、
全員がスマホをいじっていて無言という席を目にします。
これも協同遊びに到達できていないか、
あえて避けているのかもしれません。
相手の表情も、心情の想像も、
発生するかもしれないぶつかり合いも避けて、
自分のしたいこと=スマホを主張しているように見えます。
3.幼児性が目立つ社会の背景”想像する機会の減少”
では、なぜ歩行中や運転中にスマホを我慢できない
幼児性が目立つようになったんでしょうか。
その原因は
「幼少期の過干渉や押しつけ教育」
「考えなくても何でも手に入る環境」
ではないかと思います。
@幼少期の過干渉や押しつけ教育
少子化によって、
親が子ども1人にかける費用も期待も増えています。
そしてその期待が過ぎると過干渉や押しつけになります。
「あれはダメ、これはダメ」
「ああしなさい、こうしなさい」
「●●ちゃんと遊んではダメ」
など、
親がすべてのレールを用意したり、
親のルールの押しつけたりすることは、
子どもが自分で考える機会を奪う行為です。
また、親の価値観の押しつけは子どもにとっては窮屈で、
押しつぶされるような圧迫感になります。
その結果、
「人と関わること=自由を奪われること」と認識し、
クローズ人間へ向かう可能性が高まります。
親から何でも用意されて育ったら
「歩きスマホをしてもまわりが避けてくれるだろう」
親の過干渉で窮屈な思いをして育ったら
「ぶつかってきた=自分の自由を脅かした相手が悪い」
と考えても不思議ではないでしょう。
A考えなくても何でも手に入る環境
スマホがあれば、いつでも誰かとつながれます。
ラインでもビデオ通話でも、
いつでも相手の顔を見れて、文字のやり取りができます。
しかしその環境は、会っていないときの
相手の気持ちを想像する機会を減らします。
また、わからないことはスマホで調べれば出てきます。
考えなくてもすぐに答えが知れる環境は、
答えにたどり着く過程を考える機会を減らします。
何でも、すぐに叶えてくれるスマホによって、
考える機会、想像する機会が減っていった結果、
- 歩行者や車とぶつかるかもしれない
- まわりの迷惑になるかもしれない
と想像できない人が増えてもおかしくないでしょう。
4.歩きスマホの増加は”精神的に追い詰められた人の増加”か
あるアンケート結果によれば、
「歩きスマホはまずいと思っている」人も多いそうです。
多少の罪悪感を覚えながらも
「ついやってしまう」人がそれだけ多いんでしょう。
それに、街中は情報でいっぱいです。
広告、ショーウィンドウ、アナウンスなど、
情報が津波のように入ってきます。
なので
情報の津波から脳を守る行為としては、
歩きスマホ+イヤホンは合理的です。
それでも現実では、
歩きスマホは問題となり、事故が起きています。
「手持ち無沙汰だから、つい」
「ただ歩くだけは退屈だから、つい」
くらいの軽い気持ちかもしれません。
が、「つい」を抑えられないことに、
隠された幼児性が集約されていると思います。
そして、その幼児性の強さはおそらく、
過干渉や押しつけによる抑圧経験から、
自分自身であることを否定された経験から始まっています。
それが他人への無関心になり、自分を閉じることになり、
流行りの「生きづらさ」につながっているんでしょう。
もしかしたら、
歩きスマホが止められない人や、スマホ依存が強い人は、
それだけ「精神的に追い詰められている人」かもしれません。
<参考書籍>
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2021年12月20日
【YouTube:英訳つき自作ミュージックビデオ9作目】魔王魂『彩を失くしたアメジスト(リメイク版)』。
僕は2020年12月より動画制作を始め、
YouTubeへの投稿をスタートしました。
本記事で紹介するのは、
英訳つき自作ミュージックビデオ9作目:
魔王魂『彩を失くしたアメジスト』リメイク版
あわせて、制作のコンセプトや使用ツールも紹介します。
※著作権フリーの楽曲をお借りしています。
ー目次ー
YouTubeへの投稿をスタートしました。
本記事で紹介するのは、
英訳つき自作ミュージックビデオ9作目:
魔王魂『彩を失くしたアメジスト』リメイク版
あわせて、制作のコンセプトや使用ツールも紹介します。
※著作権フリーの楽曲をお借りしています。
ー目次ー
- 制作した動画
- 作品の概要
- 制作の所感
1.制作した動画
2.作品の概要
- コンセプト
著作権フリーの楽曲をお借りして
英訳つきのミュージックビデオを作ってみる
楽曲の独自解釈テーマ
「恋愛依存を克服する決意」を表現する - 使用曲
『彩を失くしたアメジスト』 - 楽曲提供
魔王魂さま
魔王魂 Webサイト
魔王魂 公式チャンネル - 制作期間
約1ヶ月 - 使用した動画編集ソフト
「AviUtl」
AviUtlのお部屋 - 使用したフリー画像素材サイト
1.「Pixabay」
2.「ニコニ・コモンズ」
3.「ぱくたそ」
4.「女の子素材:えのてん様」
3.制作の所感
2021年4月に同曲で作ったMVのリメイク版です。
ド素人だった当時から、少しは成長できたと思います。
動画編集スキルはまだまだ未熟ですが、
この曲は編集していてとても楽しいです。
僕に動画制作の楽しさを教えてくれた特別な曲です。
独自解釈テーマ「恋愛依存を克服する決意」を設定し、
間奏にオリジナルのメッセージを追加してみました。
今回は女の子の素材をお借りし、
この子の心情として語ってもらいました。
今まではシルエットの人物画像を使っていましたが、
それよりも強く感情移入できます。
動画が完成したときの達成感は、
言葉で表せないくらいすばらしいものです。
僕は完成した動画をYouTubeへアップする前に、
確認のため再生しますが、そのときに熱いものがこみ上げてきます。
「これ、本当に自分が作ったの?」
「こんなことができるようになったの?」
そう叫びたくなるほど、充実感でいっぱいになるんです。
上手いか下手かで言えば、下手です。
それでも、楽しいです。嬉しいです。
自分を表現できること、作品を創ることが。
今は「チャンネルを伸ばそう」とか、「再生回数」とか、
そんなことをまったく考えずに作っています。
完全に自己満足です。ただ、楽しいです。
また、あの充実感を味わいたくて、動画を創っています。
2021年12月14日
【おすすめ本】『スマホ脳』 〜スマホは脳と注目をハッキングしている〜。
- 歩きスマホ問題
- ながら運転での事故
- 街は猫背だらけのスマホゾンビ天国
人間がこれほどまでに
スマホを手放せなくなってしまったのはなぜなのか?
この問いを、
人間の脳の仕組みや、進化の歴史から紐解いています。
歩きスマホがやめられない人や、
スマホ依存症に悩む人だけでなく、
歴史や脳のクセ、人間の習性や心理に
興味のある人にもおすすめの1冊です。
ー目次ー
- スマホは私たちの脳をハッキングしている
- シリコンバレーに渦巻く罪悪感
- スマホとの付き合い方を考える一助に
1.スマホは私たちの脳をハッキングしている
著者のアンデシュ・ハンセン氏は、
「スマホは私たちの脳をハッキングしている」と述べています。
ハッキングされたものとは、
「生き延びて子孫を残すために、新しいものに注目する脳の習性」です。
数十万年前、人間がサバンナで暮らしていたころの環境は、
現代とは比較にならないくらい危険でいっぱいでした。
動物や他の人間に殺されたり、病や飢餓で亡くなったりして、
人口の半数は10歳を迎えることができなかったそうです。
そんな厳しい環境で生き残るため、人間の脳は
新しいものに興味を持つ
興味の対象が次々に移り変わる
ように進化したといいます。
それはライオンやヘビの接近など、
わずかな危険も見逃さないため、
脳が火災報知器のように警報を鳴らす仕組みです。
スマホ内のアプリは、
このような脳の仕組みを利用し、
私たちの注目を独り占めしているそうです。
ニュースにはネガティブで刺激的な記事を掲載し、
ゲームで「成功報酬への期待」を抱かせ、
SNSで承認欲求や自己顕示欲を引き出します。
これらはすべて、
危険を察知するために進化した、脳の習性です。
しかし、人間の脳はまだ、
サバンナに生きていた人間のそれと同じです。
「スマホはライオンでもヘビでもないから注目しなくていい」
脳がそう進化するには、あまりにも時代の変化が急激すぎたためです。
だから、スマホが手放せないのは、ある意味ではとても正常です。
なにしろ脳は「進化した通りに動いているだけ」です。
2.シリコンバレーに渦巻く罪悪感
とても興味深いのは、
フェイスブックやiPadを創り出した人たちが
「罪悪感でいっぱい」ということです。
製品を開発するときに最善を尽くすのは当然のこと。
それが思ってもみないような悪影響を与える。
それに気づいたのは後になってからだ。
フェイスブック社 「いいね」機能開発者 ジャスティン・ローゼンスタイン氏
冷や汗をびっしょりかいて目を覚ますんだ。
僕たちはいったい何を作ってしまったんだろうって。
アップル社 幹部 トニー・ファデル氏
富も名声も力も、
革新的な発明をした喜びも手に入れたはずの彼らが
「創り出してしまったことを後悔している」
というのです。
ある幹部は、自身の子どもがスマホ依存症になり、
iPadを取り上げようとすると
「自分の一部を取り上げられたように、激しく感情的になる」
そうです。
スティーブ・ジョブズ氏は
その中毒性を理解していたため、
iPadを自分や子どものそばに置きませんでした。
また、ビル・ゲイツ氏は
子どもが14歳になるまでスマホを持たせませんでした。
依存性を利用すれば、大きなビジネスチャンスになります。
パチンコもカジノも、タバコもお菓子もゲームも
「人間の脳は何に依存するのか」が計算され尽くした商品です。
スマホを作った人たちは、悪い言い方をすれば
「お金儲けのために人間の習性を利用」しているでしょう。
しかし、そこには決して
「自分たちだけ儲かればそれでいい」という、
独りよがりな感情だけがあったわけではありません。
自分たちが生み出してしまったものへの葛藤も、
人間をおかしくするかもしれないという罪悪感も、
確かに存在しているんでしょう。
3.スマホとの付き合い方を考える一助に
著者のアンデシュ・ハンセン氏は、
「私たちは未知の世界にいる」と述べています。
今でも私たちは狩猟採集民の脳を持っていて、にもかかわらず、デジタル社会は
そこらじゅうに危険を探そうとし、
すぐにストレスを感じ、気が散り、
同時に複数の作業をするのが苦手
人間が進化し、適応してきたのとはかけ離れた世界だといいます。
僕たちは、何十万年前の狩猟採集民が、
タイムマシンで現代へやって来たような存在かもしれません。
もし、スマホやiPadがあと何十万年も存在し続けるとしたら、
脳の進化は追いつくんでしょうか。
「スマホは猛獣じゃないから注目しなくていい」
「”いいね”が付かなくてもストレスを感じる必要はない」
と思ってくれるように、脳は進化するんでしょうか。
そんな空想を描いても、
残念ながら僕らはその時代まで生きていません。
だから、スマホとの付き合い方を考える必要があります。
そのためには、
「スマホは脳の注目を集めるようにできている」
ことの理解が大切だと思います。
その一助として、僕は何度も読み返しています。
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2021年12月08日
大丈夫。嫌われたと思い込んでも、相手は覚えてないから。
疲れていたり、
心が不安定になったりしているとき、
ちょっとしたことで疑心暗鬼になることはないでしょうか。
たとえば友人や恋人、家族や職場の同僚に対して
「嫌われたのではないか?」
「悪く言われているのではないか?」
などと、他人の心の中を妄想し、
不安をふくらませたことはないでしょうか。
大丈夫です。
事態はあなたが思っているほど重くも深くもありません。
ちょっとした行き違いなんて、
次に会うころにはみんな忘れていますから。
ー目次ー
「もしかしたら、自分は悪く言われているのかも…。」
人のちょっとした言動でも、
自分に結びつけてネガティブになってしまう。
あなたはそんなとき、
疲れていませんか?
人と会話する機会が減っていませんか?
疲れていると、脳はこう言ってくるそうです。
「生命力が低下しているぞ!周囲に気をつけろ!」
「ちょっとした危険にも気づけ!」
そうして「戦うか、逃げるか」の選択を最優先するようになります。
人にどう思われたか気になるのは、
「人が自分を攻撃するかどうかの情報を知りたいため」
だと言われています。
寝ましょう。
今、あなたが疑いと不安でいっぱいなのは
あなたの心が狭いからでも、寛大さが足りないからでもありません。
脳が「生き延びろ」と言っているだけです。
ごく自然なことです。
休みましょう。
それだけ真剣に悩んだなら、もう十分です。
「それでも、あのときのあの言葉がどうしても気になる…。」
その気持ち、わかります。
気にするなと言われても、気になるものは気になります。
次に会ったときに聞いてみましょう。
「あのときのあれ、どういう意味だったの?」
やわらかい表現で、それとなく。
相手からはたいてい、
拍子抜けするほど優しい答えが返ってきます。
妄想をふくらませていた自分の
ひとり相撲だったとわかります。
みんなも自分のことで精一杯です。
あなたとの小さなズレも、気になる一言も、
次の日には覚えてすらいません。
目の前の仕事、楽しみ、家庭などと向き合い、
自分の人生を精一杯、生きています。
「確かに、気にしすぎかもしれない、それでも…。」
わかります。
わずかなため息の音
感情が変わるときの空気の流れの変化
拾いたくなくても、
拾ってしまうものは拾ってしまいます。
ただしそれは行き過ぎると、
「自分を責めるための証拠集め」になってしまいます。
悩んで、落ち込んで、
イライラして、苦しんでいる期間は苦しいです。
早くこの苦しみから解放されたいはずなのに、
わざわざ自分から苦しみを長引かせようとするようなものです。
それに、ときには悩みを解決するよりも、悩み続ける方が楽です。
悩み続けていれば、
悩みに真正面からぶつからなくて済むからです。
「なぜ悩んでいるのか、原因は何なのか、本当はどうしたいのか」
悩みを解決する過程で、イヤな感情と向き合うこともあるでしょう。
それに向き合えるくらいに回復したら、
証拠集めはほどほどに、解決へ動いていいかもしれません。
ここまで「大丈夫」的なことを書いてきましたが、
僕自身「考えすぎだから気にしなくていい」を
実践できていません。
それでも不安で、気になって悩む自分に、
ここまで書いた「大丈夫」的なことを言い聞かせています。
「気持ちを切り替えよう」
「相手は覚えてもいない」
自分自身ができていないくせに
こんなことを書いたのは、
切り替えられなくて悩んでいる人と一緒に
僕自身も克服していきたいからです。
「なーんにも気にならない!」と、
良い意味で図太く生きられる人もいます。
図太い人になれるのが理想かもしれません。
だけど、なりきれなくてもいいと思います。
毎回、落ち込んで、不安になってを繰り返しながら、
自分の葛藤と少しずつ向き合っていけばいいと思います。
図太くなれない人には、
図太くなれない人だからこそ歩ける道があります。
心が不安定になったりしているとき、
ちょっとしたことで疑心暗鬼になることはないでしょうか。
たとえば友人や恋人、家族や職場の同僚に対して
「嫌われたのではないか?」
「悪く言われているのではないか?」
などと、他人の心の中を妄想し、
不安をふくらませたことはないでしょうか。
大丈夫です。
事態はあなたが思っているほど重くも深くもありません。
ちょっとした行き違いなんて、
次に会うころにはみんな忘れていますから。
ー目次ー
- ネガティブになるとき、脳は”戦うか逃げるか”モードになっている
- ”お前の顔を気にしているのはお前だけだよ”
- ”自分を責めるための証拠集め”はほどほどに
- 図太くなれなくても、少しずつ向き合っていけばいい
1.ネガティブになるとき、脳は”戦うか逃げるか”モードになっている
「もしかしたら、自分は悪く言われているのかも…。」
人のちょっとした言動でも、
自分に結びつけてネガティブになってしまう。
あなたはそんなとき、
疲れていませんか?
人と会話する機会が減っていませんか?
疲れていると、脳はこう言ってくるそうです。
「生命力が低下しているぞ!周囲に気をつけろ!」
「ちょっとした危険にも気づけ!」
そうして「戦うか、逃げるか」の選択を最優先するようになります。
人にどう思われたか気になるのは、
「人が自分を攻撃するかどうかの情報を知りたいため」
だと言われています。
寝ましょう。
今、あなたが疑いと不安でいっぱいなのは
あなたの心が狭いからでも、寛大さが足りないからでもありません。
脳が「生き延びろ」と言っているだけです。
ごく自然なことです。
休みましょう。
それだけ真剣に悩んだなら、もう十分です。
2.”お前の顔を気にしているのはお前だけだよ”
「それでも、あのときのあの言葉がどうしても気になる…。」
その気持ち、わかります。
気にするなと言われても、気になるものは気になります。
次に会ったときに聞いてみましょう。
「あのときのあれ、どういう意味だったの?」
やわらかい表現で、それとなく。
相手からはたいてい、
拍子抜けするほど優しい答えが返ってきます。
妄想をふくらませていた自分の
ひとり相撲だったとわかります。
わたしの若い友人が少年時代、
長いこと鏡に向かって髪を整えていたそうです。
すると彼は、祖母からこう言われました。
「お前の顔を気にしているのはお前だけだよ」と。
それ以来、彼は生きていくのが少しだけ楽になったといいます。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』 より
みんなも自分のことで精一杯です。
あなたとの小さなズレも、気になる一言も、
次の日には覚えてすらいません。
目の前の仕事、楽しみ、家庭などと向き合い、
自分の人生を精一杯、生きています。
3.”自分を責めるための証拠集め”はほどほどに
「確かに、気にしすぎかもしれない、それでも…。」
わかります。
わずかなため息の音
感情が変わるときの空気の流れの変化
拾いたくなくても、
拾ってしまうものは拾ってしまいます。
ただしそれは行き過ぎると、
「自分を責めるための証拠集め」になってしまいます。
悩んで、落ち込んで、
イライラして、苦しんでいる期間は苦しいです。
早くこの苦しみから解放されたいはずなのに、
わざわざ自分から苦しみを長引かせようとするようなものです。
それに、ときには悩みを解決するよりも、悩み続ける方が楽です。
悩み続けていれば、
悩みに真正面からぶつからなくて済むからです。
「なぜ悩んでいるのか、原因は何なのか、本当はどうしたいのか」
悩みを解決する過程で、イヤな感情と向き合うこともあるでしょう。
それに向き合えるくらいに回復したら、
証拠集めはほどほどに、解決へ動いていいかもしれません。
4.図太くなれなくても、少しずつ向き合っていけばいい
ここまで「大丈夫」的なことを書いてきましたが、
僕自身「考えすぎだから気にしなくていい」を
実践できていません。
それでも不安で、気になって悩む自分に、
ここまで書いた「大丈夫」的なことを言い聞かせています。
「気持ちを切り替えよう」
「相手は覚えてもいない」
自分自身ができていないくせに
こんなことを書いたのは、
切り替えられなくて悩んでいる人と一緒に
僕自身も克服していきたいからです。
「なーんにも気にならない!」と、
良い意味で図太く生きられる人もいます。
図太い人になれるのが理想かもしれません。
だけど、なりきれなくてもいいと思います。
毎回、落ち込んで、不安になってを繰り返しながら、
自分の葛藤と少しずつ向き合っていけばいいと思います。
図太くなれない人には、
図太くなれない人だからこそ歩ける道があります。
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