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2021年12月24日

歩きスマホは、その人の幼児性の強さをあぶり出したのではないか。

歩きスマホをしている人を見ると、
「静かにしていられない子ども」を連想してしまいます。

もちろん、その子が悪いと言いたいのではなく、
「公共の場で自分の欲求を抑えられない」ことのたとえです。

僕は「我慢」という言葉が嫌いですが、彼らを見ると
「歩行中や運転中でさえスマホを我慢できないのかな…」
と思ってしまいます。



歩きスマホをすると、
人や車とぶつかって危険かもしれないし、
まわりの迷惑になるかもしれません。

彼らはそれを想像できていないか、
できていても自分の欲求を優先しています。


だから僕は、

歩きスマホという社会問題は、
その人に隠された幼児性の強さを
あぶり出したのではないかと思います。



ー目次ー
  1. 歩きスマホとクローズ人間”重要なのは自分の、目先の興味”
  2. 歩きスマホと平行遊び”一緒にいるのに関わりを避ける”
  3. 幼児性が目立つ社会の背景”想像する機会の減少”
    @幼少期の過干渉や押しつけ教育
    A考えなくても何でも手に入る環境
  4. 歩きスマホの増加は”精神的に追い詰められた人の増加”か

1.歩きスマホとクローズ人間”重要なのは自分の、目先の興味”

「クローズ人間」という言葉があります。

クローズ人間とは、
前かがみになる、視線を合わせない、
腕で自分の身体を包みこむなどの動作で、
まわりとの接触を拒む人のことです。

クローズ人間になるのは、
「処理しきれない情報があふれる外界から脳を守るため」
と考えられています。

その結果、
  • 短時間での情報処理
  • 重要でない情報の排除
  • 責任の回避
  • 他人の利用

という、無愛想な言動が増えるそうです。



歩きスマホをしているとき、
その人はクローズ人間になっています。


前かがみになり、画面に夢中、
何ならイヤホンを付けて聴覚も閉じています。

その人にとって、
いちばん重要な情報は「自分の、目先の興味」です。

他の人も歩いていることや、
迷惑や事故につながるかもしれないことは、
「重要でない情報」なので排除されています。


それは、良く言えば
「余計な情報から脳を守る行為」

悪く言えば
「静かに電車に乗っていられない幼児性のあらわれ」
ではないでしょうか。

2.歩きスマホと平行遊び”一緒にいるのに関わりを避ける”

幼児の発達段階を表す「平行遊び」という言葉があります。

  1. 平行遊び(2〜3歳)
    同じ空間にいるが、お互い関わらず違う遊びをする

  2. 連合遊び(4〜5歳)
    一緒に遊びはするが、お互いがしたいことをする

  3. 協同遊び(5〜6歳)
    役割分担し、協力して1つの遊びをする

平行遊びのころは協力したり、譲ったりすることが難しいです。

成長するにつれておもちゃの取り合いやケンカを経験し、
協同遊びができるようになるようです。



歩きスマホは平行遊びと似ているように見えます。

歩きスマホは、
人や車にぶつかるかもしれない
周りの迷惑になるかもしれない
という状況なのに、”自分が今したいこと”をしています。

「歩きながらは危険だから、立ち止まってからにしよう」
というように、”譲る”ことができていません。

これは、
その人が心の底では「協同遊びに到達できていない」ことの
あらわれではないかと思います。




また、
「誰かと一緒にいるのに、それぞれが無言でスマホをいじる」光景は、
連合遊びのように見えます。


たまに、家族連れでテーブルに座っているのに、
全員がスマホをいじっていて無言という席を目にします。

これも協同遊びに到達できていないか、
あえて避けているのかもしれません。


相手の表情も、心情の想像も、
発生するかもしれないぶつかり合いも避けて、
自分のしたいこと=スマホを主張しているように見えます。

3.幼児性が目立つ社会の背景”想像する機会の減少”

では、なぜ歩行中や運転中にスマホを我慢できない
幼児性が目立つようになったんでしょうか。

その原因は

「幼少期の過干渉や押しつけ教育」
「考えなくても何でも手に入る環境」


ではないかと思います。

@幼少期の過干渉や押しつけ教育

少子化によって、
親が子ども1人にかける費用も期待も増えています。

そしてその期待が過ぎると過干渉や押しつけになります。

「あれはダメ、これはダメ」
「ああしなさい、こうしなさい」
「●●ちゃんと遊んではダメ」

など、
親がすべてのレールを用意したり、
親のルールの押しつけたりすることは、
子どもが自分で考える機会を奪う行為です。


また、親の価値観の押しつけは子どもにとっては窮屈で、
押しつぶされるような圧迫感になります。

その結果、
「人と関わること=自由を奪われること」と認識し、
クローズ人間へ向かう可能性が高まります。


親から何でも用意されて育ったら
「歩きスマホをしてもまわりが避けてくれるだろう」

親の過干渉で窮屈な思いをして育ったら
「ぶつかってきた=自分の自由を脅かした相手が悪い」

と考えても不思議ではないでしょう。

A考えなくても何でも手に入る環境

スマホがあれば、いつでも誰かとつながれます。

ラインでもビデオ通話でも、
いつでも相手の顔を見れて、文字のやり取りができます。

しかしその環境は、会っていないときの
相手の気持ちを想像する機会を減らします。


また、わからないことはスマホで調べれば出てきます。

考えなくてもすぐに答えが知れる環境は、
答えにたどり着く過程を考える機会を減らします。


何でも、すぐに叶えてくれるスマホによって、
考える機会、想像する機会が減っていった結果、

  • 歩行者や車とぶつかるかもしれない
  • まわりの迷惑になるかもしれない

と想像できない人が増えてもおかしくないでしょう。

4.歩きスマホの増加は”精神的に追い詰められた人の増加”か

あるアンケート結果によれば、
「歩きスマホはまずいと思っている」人も多いそうです。


多少の罪悪感を覚えながらも
「ついやってしまう」人がそれだけ多いんでしょう。

それに、街中は情報でいっぱいです。
広告、ショーウィンドウ、アナウンスなど、
情報が津波のように入ってきます。

なので
情報の津波から脳を守る行為としては、
歩きスマホ+イヤホンは合理的です。



それでも現実では、
歩きスマホは問題となり、事故が起きています。

「手持ち無沙汰だから、つい」
「ただ歩くだけは退屈だから、つい」

くらいの軽い気持ちかもしれません。

が、「つい」を抑えられないことに、
隠された幼児性が集約されていると思います。




そして、その幼児性の強さはおそらく、
過干渉や押しつけによる抑圧経験から、
自分自身であることを否定された経験から
始まっています。


それが他人への無関心になり、自分を閉じることになり、
流行りの「生きづらさ」につながっているんでしょう。

もしかしたら、
歩きスマホが止められない人や、スマホ依存が強い人は、
それだけ「精神的に追い詰められている人」かもしれません。




<参考書籍>








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posted by 理琉(ワタル) at 19:02 | TrackBack(0) | 生き方

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自閉傾向の強い広汎性発達障害。鬱病から再起後、低収入セミリタイア生活をしながら好きなスポーツと創作活動に没頭中。バスケ・草野球・ブログ/小説執筆・MMD動画制作・Vroidstudioオリキャラデザインに熱中。左利き。 →YouTubeチャンネル
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