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2022年11月09日

【創作する心理】誰も見ない作品を創り続けるのは、自分自身でありたいから。

ー目次ー
  1. 創作者の葛藤”作りたいもの VS 売れるもの”
  2. ”創作は自己満足でいい”と割り切れるのか?
  3. 売れるための妥協は”自分自身であることの否定”
  4. 創作の原点は”自分自身であることを否定された経験”
  5. 作者が作品を見捨てたら、生み出したキャラたちが悲しむ
  6. 最後まで”自分という閲覧者”がいる

1.創作者の葛藤”作りたいもの VS 売れるもの”

オリジナルの絵、動画、小説など、創作する人がぶつかる壁。
それは

『作りたいものと売れるもの、どちらを作ればいいか?』



この葛藤への答えは、その人が創作する目的や、
承認欲求の満たし方によって分岐するだろう。

たとえば、

「自分が作りたいものより、とにかく売れるものを作る」
「作りたいものを、売れる(見てもらえる)形で作る」
「時代背景や、時の権力者が求めるものを作る」

ここで、自分を表現したい欲求と、
「売れない」「見てもらえない」という
現実のつらさがぶつかり合う。


そうして悩んだ末、
どこかで折り合いをつけていくんだろう。



ところが、僕を含め、
そこで妥協できない不器用な者がいる。

たとえ現実的でないとわかっていても、
「”100%自分が作りたいもの”が認められたい」
という欲求を捨て切れないのだ。


 誰にも見てもらえない
 反応がない
 売れない

そんな苦しみを受け入れてまで、
なぜ「100%自分が作りたいものが認められたい」のだろうか?

2.”創作は自己満足でいい”と割り切れるのか?

たとえば、制作会社の商売として関わっている場合。
売れなければ、その事業は失敗だろう。

そうではなく、個人が好きで創作している場合。

自分が納得できる作品を作れたなら、
自己満足でいいんじゃないか?


事実だろう。

そう割り切れるなら最強だ。
”いいね”も、嬉しい反応も、どこかへ公開する必要もない。



が、人間の承認欲求は、自己満足よりずっと強い。

大勢が閲覧できる場所へ作品を公開する以上、
「他人に認められたい」のだ。


作りたいものを作れた、十分満足できている。
自信作だと思えている。だとしても…。

僕らは作品を自分以外の誰にも見てもらえなければ
「つらい」と感じてしまう生き物だ。



「創作が好きなの?承認欲求を満たすために創作してるの?」
「認められるために創作するなんて、動機が不純では?」

という声もあるかもしれない。
承認欲求を満たすため、不純な動機、いいじゃないか。

純粋だろうと不純だろうと、
事実、人間はそういう脳の作りになっている。

どれだけ神聖な動機を並べようが、承認欲求には抗えない。


自己満足と割り切れない。承認欲求を断ち切れもしない。
なのに今日も創作する。

僕らは不完全で、やっかいな生き物なのだ。

3.売れるための妥協は”自分自身であることの否定”

「自分が作りたいもの」の需要は自分だけだ。

人から必要とされない以上、
「伸びない」「見てもらえない」苦しみは不可避。



「ならば認められやすいように作ればいいじゃないか?」
「意地を張らず、多少の妥協は仕方ないのでは?」


ごもっともだ。

世の中のニーズに応えるものを作れば、
アクセス解析を見るたび落ち込まずに済む。

あるいは二次創作。
有名なキャラクターなどをお借りすれば、
少なくとも「閲覧数:0」を回避できる確率は上がる。



にもかかわらず、僕らは
自分で作ったキャラクターやストーリーにこだわる。


もちろん僕らも、過去に見てきた作品の影響を受けている。

それでも、
あくまで「”自分で”作ったもの」に固執するのは、
自分自身でありたいからだ。




作品には、作者の内に秘めたものが映し出される。

悲しみ、寂しさ、怒り、願望、孤独。
作品は、自分の分身。

もちろん読みやすさ、伝わりやすさは追求する。

それでも、
 「ここはこう変えた方が人気が出る」
 「作者の内面の吐露で終わっている」

などの理由で、
100%作りたいものから妥協してしまったら。
その瞬間、自分自身であることを否定したことになる。




そして、作者本人が妥協を許してしまったら、
”自分自身が自分を否定した”ことになってしまう。


その痛みを受け入れるか、
誰にも作品が見られない苦しみを選ぶか。

葛藤してでも、頑固な僕らは自分の存在を肯定したいのだ。

4.創作の原点”自分自身であることを否定された経験”

「作品からの妥協は、自分自身であることの否定」
というのは極端かもしれない。

だが、僕らはそれくらいの勢いで
”自分自身でありたい”と願っている。

なぜそこまで?それは過去に、

自分自身であることを強く否定された経験がある
からだろう。



たとえば、

「男のくせに泣くな」
「親に口答えするな」

など、自分の素直な感情を表すことを否定された経験。

「親やまわりの人たちが自分に無関心だった」
「話を聞いてもらえなかった」

など、自分の存在自体を否定された経験。

他人から見れば些細なこと。
本人も覚えていないようなこと。
それでも、心の奥底に深い傷がついてしまったんだ。



創作が好きな人は、大なり小なり
「自分を表現したい」という気持ちを
抑えて生き延びてきたんだろう。

強く抑えれば抑えるほど、反動も強くなる。

 『自分が感じたことをそのまま表現させてほしい!』
 『「ありのままの自分」を認めてほしい!』


僕らの作品は、そんな悲鳴が形を変えたもの。
だからこそ「売れるような変更」を受け入れられないのだ。

幼いころに閉じ込められた
”自分の内なる声”を聞いてほしいから。


5.作者が作品を見捨てたら、生み出したキャラたちが悲しむ

創作で妥協できない僕らは、無限ループにはまっている。

 誰も求めていない作品を作る
⇒誰にも見てもらえないと苦しむ
⇒それでも「自分自身であること」へこだわる
⇒「100%自分で作った作品が認められたい」を諦めきれない


という、無限ループ。

閲覧者ゼロの作品を作り続けるのは苦しい。
これは個人的なことだ、困る人はいない。

そう思うとき、後ろ向きな自分がささやく。

「苦しいなら、やめれば?」



承認欲求の満たし方なんて、いくらでもある。

それに、作品の結末は作者の自由だ。
その世界を続けるも、滅ぼすも、”作者=創造神”である自分次第。

誰も困らないんだから、好きにすればいい。



だが苦しさに負けて、描きかけの絵を、
書きかけの物語を投げ出してしまったら、

自分が生み出したキャラクターたちはどう思うだろうか?


生み出した船が誰を傷付けようとも!!
世界を滅ぼそうとも・・・!!

生みの親だけはそいつを愛さなくちゃならねェ!!!
生み出した者がそいつを否定しちゃあならねェ!!!

造った船に!!!男はドンと胸を張れ!!!

『ONE PIECE 37』 356話 より


悩んで決めた、キャラクターたちの性格や人間関係。
何度も書き直して、ひねり出した世界観。

確かに、現実世界では自分以外、誰も見ていない。

だが架空の世界であれ、
キャラクターたちは躍動しているじゃないか。
作者の心を救ってくれたじゃないか。

なのに、
作者自身が彼らに無関心になってしまったら、
いったい誰が彼らを愛してあげられるだろう。




過去に自分が味わった悲しみ、孤独、寂しさを、
キャラクターたちにも体験させるわけにはいかない。


作品は自分の分身なら、
作品で躍動するキャラクターたちだって自分の分身だ。




6.最後まで”自分という閲覧者”がいる

いくら「自己満足で十分」といっても、
人間は「他者の承認がほしい仕様」になっている。

売れるように、見られるように妥協できなければ、
「閲覧者:0」の苦しみはずっとついて回る。

それでも、僕らは「閲覧者:0」の作品を作り続ける。
なぜなら、自分という閲覧者がいるからだ。




生み出したキャラクターへの愛着。
物語を完結させなければという責任感。

そして、

 『誰も見ていなくても、最後には自分が見ている。』
 『自分だけは作品を見捨てない。』


その気持ちが燃える限り、
僕らが創作をやめることはないだろう。

なにしろ、自分の作品は、
初めて、”自分自身であること”を許してくれた場所だから。



【過度の一般化】”世間様”とは誰なのか。

「男のくせに泣くな」とは誰が決めたのか。



posted by 理琉(ワタル) at 19:27 | TrackBack(0) | 生き方

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自閉傾向の強い広汎性発達障害。鬱病から再起後、低収入セミリタイア生活をしながら好きなスポーツと創作活動に没頭中。バスケ・草野球・ブログ/小説執筆・MMD動画制作・Vroidstudioオリキャラデザインに熱中。左利き。 →YouTubeチャンネル
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