2022年11月09日
【創作する心理】誰も見ない作品を創り続けるのは、自分自身でありたいから。
ー目次ー
オリジナルの絵、動画、小説など、創作する人がぶつかる壁。
それは
『作りたいものと売れるもの、どちらを作ればいいか?』
この葛藤への答えは、その人が創作する目的や、
承認欲求の満たし方によって分岐するだろう。
たとえば、
「自分が作りたいものより、とにかく売れるものを作る」
「作りたいものを、売れる(見てもらえる)形で作る」
「時代背景や、時の権力者が求めるものを作る」
ここで、自分を表現したい欲求と、
「売れない」「見てもらえない」という
現実のつらさがぶつかり合う。
そうして悩んだ末、
どこかで折り合いをつけていくんだろう。
ところが、僕を含め、
そこで妥協できない不器用な者がいる。
たとえ現実的でないとわかっていても、
「”100%自分が作りたいもの”が認められたい」
という欲求を捨て切れないのだ。
誰にも見てもらえない
反応がない
売れない
そんな苦しみを受け入れてまで、
なぜ「100%自分が作りたいものが認められたい」のだろうか?
たとえば、制作会社の商売として関わっている場合。
売れなければ、その事業は失敗だろう。
そうではなく、個人が好きで創作している場合。
自分が納得できる作品を作れたなら、
自己満足でいいんじゃないか?
事実だろう。
そう割り切れるなら最強だ。
”いいね”も、嬉しい反応も、どこかへ公開する必要もない。
が、人間の承認欲求は、自己満足よりずっと強い。
大勢が閲覧できる場所へ作品を公開する以上、
「他人に認められたい」のだ。
作りたいものを作れた、十分満足できている。
自信作だと思えている。だとしても…。
僕らは作品を自分以外の誰にも見てもらえなければ
「つらい」と感じてしまう生き物だ。
「創作が好きなの?承認欲求を満たすために創作してるの?」
「認められるために創作するなんて、動機が不純では?」
という声もあるかもしれない。
承認欲求を満たすため、不純な動機、いいじゃないか。
純粋だろうと不純だろうと、
事実、人間はそういう脳の作りになっている。
どれだけ神聖な動機を並べようが、承認欲求には抗えない。
自己満足と割り切れない。承認欲求を断ち切れもしない。
なのに今日も創作する。
僕らは不完全で、やっかいな生き物なのだ。
「自分が作りたいもの」の需要は自分だけだ。
人から必要とされない以上、
「伸びない」「見てもらえない」苦しみは不可避。
「ならば認められやすいように作ればいいじゃないか?」
「意地を張らず、多少の妥協は仕方ないのでは?」
ごもっともだ。
世の中のニーズに応えるものを作れば、
アクセス解析を見るたび落ち込まずに済む。
あるいは二次創作。
有名なキャラクターなどをお借りすれば、
少なくとも「閲覧数:0」を回避できる確率は上がる。
にもかかわらず、僕らは
自分で作ったキャラクターやストーリーにこだわる。
もちろん僕らも、過去に見てきた作品の影響を受けている。
それでも、
あくまで「”自分で”作ったもの」に固執するのは、
自分自身でありたいからだ。
作品には、作者の内に秘めたものが映し出される。
悲しみ、寂しさ、怒り、願望、孤独。
作品は、自分の分身。
もちろん読みやすさ、伝わりやすさは追求する。
それでも、
「ここはこう変えた方が人気が出る」
「作者の内面の吐露で終わっている」
などの理由で、
100%作りたいものから妥協してしまったら。
その瞬間、自分自身であることを否定したことになる。
そして、作者本人が妥協を許してしまったら、
”自分自身が自分を否定した”ことになってしまう。
その痛みを受け入れるか、
誰にも作品が見られない苦しみを選ぶか。
葛藤してでも、頑固な僕らは自分の存在を肯定したいのだ。
「作品からの妥協は、自分自身であることの否定」
というのは極端かもしれない。
だが、僕らはそれくらいの勢いで
”自分自身でありたい”と願っている。
なぜそこまで?それは過去に、
自分自身であることを強く否定された経験がある
からだろう。
たとえば、
「男のくせに泣くな」
「親に口答えするな」
など、自分の素直な感情を表すことを否定された経験。
「親やまわりの人たちが自分に無関心だった」
「話を聞いてもらえなかった」
など、自分の存在自体を否定された経験。
他人から見れば些細なこと。
本人も覚えていないようなこと。
それでも、心の奥底に深い傷がついてしまったんだ。
創作が好きな人は、大なり小なり
「自分を表現したい」という気持ちを
抑えて生き延びてきたんだろう。
強く抑えれば抑えるほど、反動も強くなる。
『自分が感じたことをそのまま表現させてほしい!』
『「ありのままの自分」を認めてほしい!』
僕らの作品は、そんな悲鳴が形を変えたもの。
だからこそ「売れるような変更」を受け入れられないのだ。
幼いころに閉じ込められた
”自分の内なる声”を聞いてほしいから。
創作で妥協できない僕らは、無限ループにはまっている。
誰も求めていない作品を作る
⇒誰にも見てもらえないと苦しむ
⇒それでも「自分自身であること」へこだわる
⇒「100%自分で作った作品が認められたい」を諦めきれない
という、無限ループ。
閲覧者ゼロの作品を作り続けるのは苦しい。
これは個人的なことだ、困る人はいない。
そう思うとき、後ろ向きな自分がささやく。
「苦しいなら、やめれば?」
承認欲求の満たし方なんて、いくらでもある。
それに、作品の結末は作者の自由だ。
その世界を続けるも、滅ぼすも、”作者=創造神”である自分次第。
誰も困らないんだから、好きにすればいい。
だが苦しさに負けて、描きかけの絵を、
書きかけの物語を投げ出してしまったら、
自分が生み出したキャラクターたちはどう思うだろうか?
悩んで決めた、キャラクターたちの性格や人間関係。
何度も書き直して、ひねり出した世界観。
確かに、現実世界では自分以外、誰も見ていない。
だが架空の世界であれ、
キャラクターたちは躍動しているじゃないか。
作者の心を救ってくれたじゃないか。
なのに、
作者自身が彼らに無関心になってしまったら、
いったい誰が彼らを愛してあげられるだろう。
過去に自分が味わった悲しみ、孤独、寂しさを、
キャラクターたちにも体験させるわけにはいかない。
作品は自分の分身なら、
作品で躍動するキャラクターたちだって自分の分身だ。
いくら「自己満足で十分」といっても、
人間は「他者の承認がほしい仕様」になっている。
売れるように、見られるように妥協できなければ、
「閲覧者:0」の苦しみはずっとついて回る。
それでも、僕らは「閲覧者:0」の作品を作り続ける。
なぜなら、自分という閲覧者がいるからだ。
生み出したキャラクターへの愛着。
物語を完結させなければという責任感。
そして、
『誰も見ていなくても、最後には自分が見ている。』
『自分だけは作品を見捨てない。』
その気持ちが燃える限り、
僕らが創作をやめることはないだろう。
なにしろ、自分の作品は、
初めて、”自分自身であること”を許してくれた場所だから。
⇒【過度の一般化】”世間様”とは誰なのか。
⇒「男のくせに泣くな」とは誰が決めたのか。
- 創作者の葛藤”作りたいもの VS 売れるもの”
- ”創作は自己満足でいい”と割り切れるのか?
- 売れるための妥協は”自分自身であることの否定”
- 創作の原点は”自分自身であることを否定された経験”
- 作者が作品を見捨てたら、生み出したキャラたちが悲しむ
- 最後まで”自分という閲覧者”がいる
1.創作者の葛藤”作りたいもの VS 売れるもの”
オリジナルの絵、動画、小説など、創作する人がぶつかる壁。
それは
『作りたいものと売れるもの、どちらを作ればいいか?』
この葛藤への答えは、その人が創作する目的や、
承認欲求の満たし方によって分岐するだろう。
たとえば、
「自分が作りたいものより、とにかく売れるものを作る」
「作りたいものを、売れる(見てもらえる)形で作る」
「時代背景や、時の権力者が求めるものを作る」
ここで、自分を表現したい欲求と、
「売れない」「見てもらえない」という
現実のつらさがぶつかり合う。
そうして悩んだ末、
どこかで折り合いをつけていくんだろう。
ところが、僕を含め、
そこで妥協できない不器用な者がいる。
たとえ現実的でないとわかっていても、
「”100%自分が作りたいもの”が認められたい」
という欲求を捨て切れないのだ。
誰にも見てもらえない
反応がない
売れない
そんな苦しみを受け入れてまで、
なぜ「100%自分が作りたいものが認められたい」のだろうか?
2.”創作は自己満足でいい”と割り切れるのか?
たとえば、制作会社の商売として関わっている場合。
売れなければ、その事業は失敗だろう。
そうではなく、個人が好きで創作している場合。
自分が納得できる作品を作れたなら、
自己満足でいいんじゃないか?
事実だろう。
そう割り切れるなら最強だ。
”いいね”も、嬉しい反応も、どこかへ公開する必要もない。
が、人間の承認欲求は、自己満足よりずっと強い。
大勢が閲覧できる場所へ作品を公開する以上、
「他人に認められたい」のだ。
作りたいものを作れた、十分満足できている。
自信作だと思えている。だとしても…。
僕らは作品を自分以外の誰にも見てもらえなければ
「つらい」と感じてしまう生き物だ。
「創作が好きなの?承認欲求を満たすために創作してるの?」
「認められるために創作するなんて、動機が不純では?」
という声もあるかもしれない。
承認欲求を満たすため、不純な動機、いいじゃないか。
純粋だろうと不純だろうと、
事実、人間はそういう脳の作りになっている。
どれだけ神聖な動機を並べようが、承認欲求には抗えない。
自己満足と割り切れない。承認欲求を断ち切れもしない。
なのに今日も創作する。
僕らは不完全で、やっかいな生き物なのだ。
3.売れるための妥協は”自分自身であることの否定”
「自分が作りたいもの」の需要は自分だけだ。
人から必要とされない以上、
「伸びない」「見てもらえない」苦しみは不可避。
「ならば認められやすいように作ればいいじゃないか?」
「意地を張らず、多少の妥協は仕方ないのでは?」
ごもっともだ。
世の中のニーズに応えるものを作れば、
アクセス解析を見るたび落ち込まずに済む。
あるいは二次創作。
有名なキャラクターなどをお借りすれば、
少なくとも「閲覧数:0」を回避できる確率は上がる。
にもかかわらず、僕らは
自分で作ったキャラクターやストーリーにこだわる。
もちろん僕らも、過去に見てきた作品の影響を受けている。
それでも、
あくまで「”自分で”作ったもの」に固執するのは、
自分自身でありたいからだ。
作品には、作者の内に秘めたものが映し出される。
悲しみ、寂しさ、怒り、願望、孤独。
作品は、自分の分身。
もちろん読みやすさ、伝わりやすさは追求する。
それでも、
「ここはこう変えた方が人気が出る」
「作者の内面の吐露で終わっている」
などの理由で、
100%作りたいものから妥協してしまったら。
その瞬間、自分自身であることを否定したことになる。
そして、作者本人が妥協を許してしまったら、
”自分自身が自分を否定した”ことになってしまう。
その痛みを受け入れるか、
誰にも作品が見られない苦しみを選ぶか。
葛藤してでも、頑固な僕らは自分の存在を肯定したいのだ。
4.創作の原点”自分自身であることを否定された経験”
「作品からの妥協は、自分自身であることの否定」
というのは極端かもしれない。
だが、僕らはそれくらいの勢いで
”自分自身でありたい”と願っている。
なぜそこまで?それは過去に、
自分自身であることを強く否定された経験がある
からだろう。
たとえば、
「男のくせに泣くな」
「親に口答えするな」
など、自分の素直な感情を表すことを否定された経験。
「親やまわりの人たちが自分に無関心だった」
「話を聞いてもらえなかった」
など、自分の存在自体を否定された経験。
他人から見れば些細なこと。
本人も覚えていないようなこと。
それでも、心の奥底に深い傷がついてしまったんだ。
創作が好きな人は、大なり小なり
「自分を表現したい」という気持ちを
抑えて生き延びてきたんだろう。
強く抑えれば抑えるほど、反動も強くなる。
『自分が感じたことをそのまま表現させてほしい!』
『「ありのままの自分」を認めてほしい!』
僕らの作品は、そんな悲鳴が形を変えたもの。
だからこそ「売れるような変更」を受け入れられないのだ。
幼いころに閉じ込められた
”自分の内なる声”を聞いてほしいから。
5.作者が作品を見捨てたら、生み出したキャラたちが悲しむ
創作で妥協できない僕らは、無限ループにはまっている。
誰も求めていない作品を作る
⇒誰にも見てもらえないと苦しむ
⇒それでも「自分自身であること」へこだわる
⇒「100%自分で作った作品が認められたい」を諦めきれない
という、無限ループ。
閲覧者ゼロの作品を作り続けるのは苦しい。
これは個人的なことだ、困る人はいない。
そう思うとき、後ろ向きな自分がささやく。
「苦しいなら、やめれば?」
承認欲求の満たし方なんて、いくらでもある。
それに、作品の結末は作者の自由だ。
その世界を続けるも、滅ぼすも、”作者=創造神”である自分次第。
誰も困らないんだから、好きにすればいい。
だが苦しさに負けて、描きかけの絵を、
書きかけの物語を投げ出してしまったら、
自分が生み出したキャラクターたちはどう思うだろうか?
生み出した船が誰を傷付けようとも!!
世界を滅ぼそうとも・・・!!
生みの親だけはそいつを愛さなくちゃならねェ!!!
生み出した者がそいつを否定しちゃあならねェ!!!
造った船に!!!男はドンと胸を張れ!!!
『ONE PIECE 37』 356話 より
悩んで決めた、キャラクターたちの性格や人間関係。
何度も書き直して、ひねり出した世界観。
確かに、現実世界では自分以外、誰も見ていない。
だが架空の世界であれ、
キャラクターたちは躍動しているじゃないか。
作者の心を救ってくれたじゃないか。
なのに、
作者自身が彼らに無関心になってしまったら、
いったい誰が彼らを愛してあげられるだろう。
過去に自分が味わった悲しみ、孤独、寂しさを、
キャラクターたちにも体験させるわけにはいかない。
作品は自分の分身なら、
作品で躍動するキャラクターたちだって自分の分身だ。
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6.最後まで”自分という閲覧者”がいる
いくら「自己満足で十分」といっても、
人間は「他者の承認がほしい仕様」になっている。
売れるように、見られるように妥協できなければ、
「閲覧者:0」の苦しみはずっとついて回る。
それでも、僕らは「閲覧者:0」の作品を作り続ける。
なぜなら、自分という閲覧者がいるからだ。
生み出したキャラクターへの愛着。
物語を完結させなければという責任感。
そして、
『誰も見ていなくても、最後には自分が見ている。』
『自分だけは作品を見捨てない。』
その気持ちが燃える限り、
僕らが創作をやめることはないだろう。
なにしろ、自分の作品は、
初めて、”自分自身であること”を許してくれた場所だから。
⇒【過度の一般化】”世間様”とは誰なのか。
⇒「男のくせに泣くな」とは誰が決めたのか。
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