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2021年12月03日

長い会議は、えらい人の脳に快楽物質を分泌させるためにあるのか。

「長い」「ムダが多い」
という理由で、会議が苦痛な人は多いと思います。


「何のための会議か定まっていない」
「集まることが目的になっている」

など、長い会議の原因はさまざまです。
が、部下とって何よりつらいのは、

「上司や年長者の話が長い」

ではないでしょうか。



働き方改革や効率化が叫ばれても、
多くの部下が苦痛に思っても、
なぜ長い会議はなくならないのでしょう。

それは、長い会議に
役割が与えられてしまったからではないでしょうか。

「えらい人たちの脳に快楽物質を分泌させる」


という役割が。


ー目次ー
  1. 人間は自分の話をすると快感を覚える
  2. 話が長いのは、自分のターンを渡したくないから
  3. 部下の意見を聞く名君、部下を処罰する暴君
  4. ”長い会議への意見?やめた方がいいよ、理由はわかるよね?”
  5. 上司の快楽を追い続けた末に、会社は衰退しないのか

1.人間は自分の話をすると快感を覚える

人間の脳には、
自分の話をすると快楽物質・ドーパミン
分泌されることがわかっているそうです。


SNSが隆盛を極める理由の1つは、
自分のことを話してドーパミンを出せるからです。



さらに、脳は膨大なエネルギーを消費する器官のため、
できるだけ節電したがります。

そして、自分が話すことと、相手の話を聞くことでは、
聞く方が多くのエネルギーを消費します。

  • 表情を観察する
  • 話題の展開を予測する
  • 相手がかけてほしい返事を考える

    • これだけのタスクをこなす必要があるためです。

      聞くよりも話す方が楽、
      しかも話をすると快楽を味わえるとなれば、
      できるだけ長く話したいと考えるのは自然なことです。


      2.話が長いのは、自分のターンを渡したくないから

      「えらい人たち」の長話は、
      考えながら途切れ途切れになることがあります。

      1つの話題が終わっても、
      「えーっと」「あのー」を多用して引き伸ばすこともあります。

      「わざと話を長くしているのでは?」
      という印象を持つこともあるでしょう。



      この理由は
      「簡潔に話せない」
      「事前に話す内容を考えていない」の他に、

      「自分のターンを渡したくない」

      という必死さもあると思います。

      だから「わざと話を長くしているのでは?」
      という印象もあながち間違いではないと思います。

      「とにかく自分が話す時間を長くしたい」
      「悦にひたれるこの時間を終わらせたくない」


      そんな思いで時間稼ぎをしているのではないでしょうか。



      そして、役職の高さや権力は
      「自分の演説時間を延ばしても文句を言わせない力」になります。


      反対も指摘もされない権力者は、
      余計に「自分の話は受け入れられている」と思い込みます。

      それが会議を長引かせるのに、
      上司が悦にひたる機会をなくしたくないため改善されない、

      というループ構造になっているように思います。

      3.部下の意見を聞く名君、部下を処罰する暴君

      中国・唐の時代は
      中国史上、有数の平和が300年も続きました(貞観の治)。

      その時代の基礎を作った2代皇帝は、
      部下の意見によく耳を傾けたそうです。

      皇帝をいさめる、意見する役職は、
      唐よりずっと前の時代から置かれてきました。

      しかし、権力のトップたる皇帝は、
      やがてどんな意見にも耳を貸さなくなり、
      彼らを処罰するようになりました。

      結果、暴君と化した皇帝を止められず国は崩壊、
      乱世に逆もどりを繰り返したそうです。

      確かに、諌められた主君の側は、
      気持ちのよいものではありません。
      しかし、そこをぐっとこらえて、
      臣下の言葉に耳を傾ける度量がなくてはなりません。


      もし君主が、
      諫諍(かんそう:臣下が君主をいさめる、意見を言う)
      されたことに腹を立て、その臣下を殺すようなことがあれば、
      もう誰も君主に進言しなくなるでしょう。

      『貞観政要 ビギナーズ・クラシックス』三”諌める臣下、聞き入れる君主” より

      上司が長話をするだけの会議が多い組織では、部下に

      「この会議はムダではないか」
      「こう改善してみてはどうか」

      と言わせない空気が作られているんじゃないでしょうか。


      もしくは、そんな意見を言ったら
      どんな処罰が待っているかわからないという空気が。

      それは、平和を作った唐の2代皇帝ではなく、
      意見する部下を処罰した歴代の暴君と同じではないでしょうか。

      確かに、上司に良い気分でいてもらえば、社内は平和です。

      ただし「平和」と「何も起きていない」は違います。
      それは「上司の快楽のために我慢する部下」が支えています。





      4.”長い会議への意見?やめた方がいいよ、理由はわかるよね?”

      僕はかつて直属の上司に、こう相談したことがあります。

      「会議を取りまとめている上長たちに、こう進言しようと思っています。
       『会議の目的を決めて、短時間で終わるよう改善しませんか?』

      この相談に対して、上司の答えは
      「やめた方がいいよ。理由は…わかるよね?」



      さらに、直属の上司はこうも言っていました。

      「確かにムダだと思う。その気持ちはわかる。
       だけど”長い会議の感想や意見を述べること”は
       きみの職務の範囲ではない。

       ある程度の歴史がある会社では、長い会議でも

       ”集まって顔を見ることで安心する”
       ”参加することに意義がある”

       として意味を持っていることがある。

       そしてそのための費用は”必要経費”として計上されている。

       意見を持つことは自由だし、気持ちもわかるけど、
       求められていないことはしない方がいい。あとは察してほしい。



      僕は結局、口を閉ざしてしまいました。

      上司の言葉を押し切ってでも意見しなかった、
      自分の勇気のなさを嚙みしめました。

      そして、自分へ失望しながらこう思いました。

      「これが、日本の停滞の縮図か…?」

      5.上司の快楽を追い続けた末に、会社は衰退しないのか

      上司の言葉はまったくその通りです。
      日本は建前と本音を使い分け、和のために忖度する文化があります。

      それに、人は正論ではなく感情で動く生き物です。

      「会議のムダをなくした方が会社の利益になる」
      という正論で全員が動くわけではありません。


      デール・カーネギー氏の名著『人を動かす』でも、
      人を説得する原則として、
      • 議論は自尊心を傷つけるだけなので避ける
      • 誤りを指摘しない
      ことの大切さが語られています。

      それに、たとえば
      • 長い会議で気分を良くした上司が商談を成立させた
      • 上司の自己重要感を満たしたおかげで
        今日は理不尽な根性論を言ってこない

      ということがあれば
      ある意味、会社の利益に貢献しているのかもしれません。



      ですが、それでいいんでしょうか。

      会議とは、
      「権力ある者が長話をして脳内快楽物質に酔いしれる場」
      でいいんでしょうか。


      「こうやって集まるのがウチのカルチャーだから」
      「参加することに意義がある」

      でいいんでしょうか。

      これはあまりにも成果主義に毒された、
      ドライな疑問なんでしょうか。



      歴代中国の王朝は、どうやって滅んできたのでしょうか。

      臣下の意見を聞き入れず、
      上層部の欲望や快楽ばかりを追った結果、
      不満を持った国民が反乱を起こしてきたのではないでしょうか。

      会社も、上司の快楽のために部下を疲弊させた末に
      衰退しないのでしょうか。


      会社での会議は、何のためにあるんでしょうか。











posted by 理琉(ワタル) at 19:33 | TrackBack(0) | 生き方

2021年11月29日

【YouTube:英訳つき自作ミュージックビデオ8作目】魔王魂『ベガロスト』。

僕は2020年12月より動画制作を始め、
YouTubeへの投稿をスタートしました。

本記事で紹介するのは、
英訳つき自作ミュージックビデオ8作目:

魔王魂『ベガロスト』

あわせて、制作のコンセプトや使用したものも紹介します。
※著作権フリーの楽曲をお借りしています。


ー目次ー
  1. 制作した動画
  2. 作品の概要
  3. 制作の所感

1.制作した動画




2.作品の概要


3.制作の所感

楽曲を独自解釈し、「多重人格」をテーマとしました。

  • オモテ
    欲望や嫉妬などの感情から目をそむけた自分

  • ウラ
    切り捨てた負の感情で形成された自分


感情そのものに善悪はありません。

それでも、できれば欲望や嫉妬からは
目をそむけたいと思うのが人情ではないかと思います。

「人間の汚れた部分を切り捨てたり、目をそむけたりすると、
 いずれその切り捨てた感情は暴走し、身を滅ぼす。
 わかっていても、負の感情と向き合うのは苦しい。」


そんな人間の弱さや、葛藤を表現したくて作りました。

間奏3:08〜からのオリジナルセリフで表現してみました。



今作から、
「BPM(テンポ)に合わせてのシーンチェンジ」を心掛けました。

結果、タイムラインがすごく細かくなったり、
音ずれを起こしたりし、大変な作業になりました。
1日の作業で数秒しか進まないこともありました。

制作には苦労しましたが、
その苦労すらも楽しくて仕方ありませんでした。


「誰にも否定されずに自分の内面を表現できる」

僕はそれが嬉しくて、
動画制作に没頭するようになったんだと思います。



2021年11月23日

他者をバカにする人は「自分が他者にしてはいけないこと」を教えてくれる。

日々、いろいろな人と接していれば、

「人から見下されたり、バカにされたりする経験」
避けて通れないと思います。

僕はまだ受け流すスキルが足りず、
数日は真に受けて落ち込んだり、
腹を立てたりしてしまいます。

ましてそれが面識のない人からであれば、

「どうして赤の他人にこんなことができるんだろう」
と、良識を疑ってしまいます。



けど、僕はあるときから、
嫌な気持ちになって終わるだけでは
もったいないと思うようになりました。


確かにそのときは腹が立つけど、
感謝もしたいと思うようになったんです。

なぜならその人は、
人生を楽しく生きるために大切な

「自分が他者にしてはいけないこと」
教えてくれたからです。



ー目次ー
  1. 人をバカにするのは、自分の優位性を示すため
  2. 人をバカにするのは、劣等感の裏返し
  3. お手軽な優越感とひきかえに、人生の難易度は上がる
  4. 人をバカにするのは、他者にしてはいけないことを教える行為

1.人をバカにするのは、自分の優位性を示すため

どうして他人を見下したり、
バカにしたりするんでしょうか。

それは自分が優位に立ちたいからです。

人間には、生き延びるために
集団の中で優位に立ちたい心理があります。

優位に立つことで集団から追い出される危険性を下げ、
子孫を残しやすくするためです。

また、人間には多かれ少なかれ
「自分は平均よりも上」という心理もあります。(優越の錯覚)

これは「劣等感による自尊心の崩壊」を防ぐことで、
生き延びる確率を上げるためです。



自分よりも相手が優れている点を見つけたとき、
その点について自分がコンプレックスを持っているとき、
その人の中で警報が鳴ります。

「自分の方が劣っているぞ、生存の危機だ」と。

それは不安や劣等感に、
あこがれや嫉妬も入りまじった複雑な警報です。

そして、何とか自分の優位性を示すために
相手を引きずり降ろそうとします。


その手段が「相手を見下し、バカにする」です。
自己愛人間は、相手の欠点をいろいろあげつらう。
無意識のうちに相手をおとしめて、
自分の優位な立場を回復させるためである。

自分の中の侮辱の感情に気づいたとしても、
(そして、それは必ず正当化される)
彼らは断固としてねたみの感情を否認する。

ねたみを認めれば、
自分が相手より劣っていると認めることになるからだ。


『結局、自分のことしか考えない人たち:自己愛人間への対応術』 より

もし相手に勝てる部分が見つからなくても、
バカにする点はどこでもいいんです。

しぐさでも、言葉づかいでも、身体的な特徴でも、
すべてが対象にされてしまいます。

目的はバカにすることではなく、
「相手を引き下げて自分の優位性を示すこと」だからです。

2.人をバカにするのは、劣等感の裏返し

攻撃欲の強い人は実は臆病な意気地なしなのだ
という視点から眺めることが必要である。


他人を恐れて真正面から立ち向かう勇気がないからこそ、
陰湿なやり方で痛めつけるのだし、

復讐を恐れているからこそ、
背後から切りつけるような卑劣な真似をすのだ
ということを忘れてはならない。

『他人を攻撃せずにはいられない人』第6章”処方箋” より

相手を見下したり、
バカにしたりしてでも自分が優位に立ちたい、
それは裏返せば「自分に自信がない」ということです。

わざわざ誰かを引きずり降ろさなければ、
自分の優位性を確認できないからです。

「自分は劣っている」
「自分には実力がないかもしれない」

という意識が根底にあるために、
「まだマシな自分」を必死で確認しているのかもしれません。



付き合いのある人にマウンティングを繰り返す人なら、
相手のことを「劣等感解消役」に指定している可能性があります。

ですが、中には通りすがりで
面識のない人すらバカにする人もいます。


赤の他人にまでそんなことをする心理はおそらく
「もう会うこともない安心感」です。

付き合いのある人なら、
万が一の反撃があるかもしれません。

が、通りすがりなら今後の反撃の可能性は低いので、
後腐れなく攻撃できます。

これは、ネット誹謗中傷が”匿名”という安心感によって
過激になるのと同じ構図でしょう。

3.お手軽な優越感とひきかえに、人生の難易度は上がる

人をバカにすることで、お手軽に優越感にひたれます。

時間と労力をかけて勉強や練習をしても、
それが報われるとは限りません。

人を見下すことで、努力が報われないリスクなく、
インスタントに「優越の錯覚」を味わえます。



ただし、そうやって
お手軽に優越感にひたっても、自分の能力は上がりません。


自分の能力を上げない限り、劣等感を解消する方法は、
「次の”バカにするネタ”を見つけて引きずり降ろす」のみです。

それどころか、
いざというときに助けてくれる人も、
つらいときに傍にいてくれる人も離れていきます。

「自分のいないところで、自分もバカにされているのでは?」と、
その人への信頼を失ってしまうからです。

目先の優越感とひきかえに、
今後の人生がどんどん「無理ゲー化」していきます。


4.人をバカにするのは、他者にしてはいけないことを教える行為

人を見下し、バカにする人は、
自分の人生の難易度を上げてまで
「これをやったら他者が嫌がること」を教えてくれます。


口で人より優位に立てば、
そのときだけは気持ちがいいでしょう。
ですが、その後に何が残るでしょうか。

敵は増え、味方は減り、
実力は上がらないため劣等感もそのままです。

相手は嫌な気持ちになり、
自分の心には虚しさと微かな罪悪感が
刺さるだけではないでしょうか。



僕は聖人ではなく、ただの弱い人間です。
バカにされたら嫌な気持ちになります。

だから本当は「ムリヤリ感謝したい願望」です。

それでも「他者にしてはいけないこと」を
身をもって教えてくれたんです。


だから、いつか笑い飛ばせるようになった頃に、
感謝できる期待も込めて、この記事を書きました。

「誰かに見下されたり、バカにされたりして嫌だけど、
 気持ちの整理ができずに悩んでいる」


少しでも、そんな人の役に立てれば嬉しいです。










posted by 理琉(ワタル) at 19:42 | TrackBack(0) | 生き方

2021年11月17日

レジ袋有料化は先進国の利益のための増税ではないか。

日本でレジ袋が有料化されて、もうすぐ1年半が経ちます。

レジ袋が有料化された理由は
「プラスチックごみが環境に与える影響を考えてほしい」です。
普段何気なくもらっているレジ袋を有料化することで、
それが本当に必要かを考えていただき、
私たちのライフスタイルを見直す
きっかけとすることを目的としています。

経済産業省Webサイトより

これは石油などの化石燃料依存からの脱却と、
再生可能エネルギーへの転換という、
世界的な風潮に乗るということです。


この動き自体はすばらしいと思います。

ですが、そのためにレジ袋を有料化するのは
消費増税と同じではないかと思います。


全国民に一律数円、
低所得者ほど負担が大きい構造は同じだからです。



そんなレジ袋有料化の背景や、レジ袋の売上の行方を考えると、
「環境保護への積極性」をアピールして利益を上げたい先進国の思惑も見えます。

再生可能エネルギーにすれば環境問題は解決かのように見せて、
取れるところからお金を取るという思惑が。



ー目次ー
  1. 再生可能エネルギーを作るにも資源を消費する
  2. 資源採掘場の実態は報道されない
  3. 各事業者が決められるレジ袋の売上金
  4. 有料レジ袋は”化石燃料を使う罰金”か

1.再生可能エネルギーを作るにも資源を消費する

太陽光発電
水力発電
風力発電

仮にこれらの再生可能エネルギーへ転換しても、
資源依存は続きます。

なぜなら、
その「再生可能エネルギーを作るための設備」を作るためには、
これまで通り地球の資源を掘り出す必要があるからです。




たとえばソーラーパネルの素材には、
レアメタルと呼ばれる希少金属が必要です。

そして、そのソーラーパネルを作るためにも、
多くの水や電力が必要となります。
パネルの製造には水酸化ナトリウムや
フッ化水素酸といった腐食剤の使用が欠かせない。
また製造過程で水や電力が消費されるため、
温室効果ガスの排出は避けられず、
廃棄物も出るのが実状だ。

ナショナルジオグラフィック『太陽光発電は本当に環境に優しいか?』より

レアメタルの埋蔵は中国やアフリカ諸国など、
中進国や発展途上国にかたよっています。

それらの国でレアメタルを掘り出すと、
どうしてもその周辺で環境汚染が起きてしまいます。


有害な金属を含んだ水やチリなどが、
労働者や住民の身体をむしばみます。



僕の祖父は「じん肺」という病気で亡くなりました。

祖父は出稼ぎ労働者として、
青函トンネルの工事や、鉱山での仕事に長く従事しました。
その結果、肺に有害物質がたまり、それが元で病気になりました。

再生可能エネルギーに転換できても、
地球のどこかで資源を掘り起こすかぎり被害は出ます。


水力も風力も地熱も、
発電設備を作るためには広い場所が必要です。

そのために山を切り崩したり、
川の流れを変えたりすることで、やはり環境に影響が出ます。

2.資源採掘場の実態は報道されない

資源そのものよりも、
その資源を使って作った製品の方が高く売れます。

中国は以前、レアメタルの産地という立ち位置でしたが、
今や自国で製品開発まで行い、製造から販売まですべてをこなしています。

それでも、
今も変わらず「資源で作った製品」で利益を上げているのは
アメリカやヨーロッパ諸国です。

彼らの舵取りで
「二酸化炭素を減らそう」「プラスチックごみ問題を見直そう」
という風潮が作られています。それ自体は正しいと思います。

ですが、その「正しい理由」を使って、
「環境問題に積極的に取り組む」という
良いイメージを作っているようにも見えます。


鉱物の採掘場や、水力発電所などを作る現場では
同じように環境汚染が続くのに、
まるでそこに目を向けさせないかのように。



「プラスチックごみ問題は深刻です、ライフスタイルを見直しましょう」
とは報道されても、

「ソーラーパネルがどうやって作られるか考えましょう」
とは報道されません。

それは
「環境問題の原因をすり替えているだけ」と気づかれたくないから
という一面もあるんじゃないでしょうか。


気づかれたら、
レアメタルをふんだんに使ったIT機器で
利益をあげている先進国に都合が悪いから。

3.各事業者が決められるレジ袋の売上金

レジ袋を有料化した表向きの理由が

「化石燃料からの脱却」
「クリーンエネルギーへの転換」
「環境保護のため」

であれば正しいと思います。

ですが、
それは「国民を納得させ、お金を取るための免罪符」にもなります。
「環境のためなら有料化も仕方ないよね」という免罪符に。



有料レジ袋の売上の使い道は、販売事業者が決めていいそうです。
(3)プラスチック製買物袋の売上の使途について

その売上の使途については、
事業者が自ら判断するもの
とした上で、
消費者の理解促進の観点から、売上の使途について
事業者から自主的に情報発信することを推奨する。

なお、有料化したプラスチック製買物袋の売上を、
環境保全事業や社会貢献活動に寄付している先行事例も存在している。

経済産業省 ”プラスチック製買物袋有料化実施ガイドライン” より

「環境保護団体に寄付」「社会貢献活動」は
大きなイメージアップになります。

ただし、レジ袋の売上の
何割が寄付されたのかは僕らにはわかりません。


たとえ1割でも寄付したことになるので、
ウソは言っていないことになります。

ほぼすべてが販売側の利益になっている可能性もあります。

4.有料レジ袋は”化石燃料を使う罰金”か

「ライフスタイルの見直しによって有料レジ袋を買う人が減るなら、
 そこまで大きな儲けにならないのでは?」

確かにそうかもしれません。

ですが、
環境へ配慮する意識を持ってもらう手段が
なぜ「レジ袋有料化」でなければいけなかったんでしょうか。


なぜ「売上の使い道は事業者ごとに決められる」んでしょうか。

なぜ、それが全国民への一律負担
=消費税と同じように低所得者ほど高負担
でなければいけなかったんでしょうか。



消費税が”消費への罰金”であるように、
レジ袋が”化石燃料を使う罰金”になったのはなぜでしょうか。


なぜ環境問題を利用して、
資源の採掘国や低所得者への負担増にすり替えるんでしょうか。

プラスチックごみ問題の報道と合わせて、

「スマホやPCの原料採掘場で起きていること」
「ソーラーパネルを作るまでに消費されるもの」

なども発信していく方法ではダメだったんでしょうか。




「環境保護のため」

という清らかな建て前のウラで、
誰が儲け、誰にしわ寄せが行っているんでしょうか。










posted by 理琉(ワタル) at 19:17 | TrackBack(0) | 生き方

2021年11月08日

スマホゾンビは格差社会へのあきらめの象徴ではないか。

スマホに夢中になるあまり、
周りで何が起きているのかさえ
気づかないような人を街で見かけることがある。

「スマホを支配しているのはあの人なのか、
 それともスマホがあの人を支配しているのか?」


『スマホ脳』第6章 ”SNSー現代最強のインフルエンサー” より

僕は電車に乗ったときの、不気味な光景が怖いです。

それは右も左も、手前も奥も、
猫背のスマホゾンビであふれている光景です。




そして、そんな電車の中には不気味さと同じくらい、
疲れきった空気が充満しています。

誰も何も言いません。
ただ首を垂れ、取り憑かれたようにスマホを凝視するだけです。
ゲームやSNSが映った画面に、魂を吸われているようにも見えます。



スマホゾンビであふれる日本の電車内。
そこに漂う不気味さと、疲れきった空気。
僕はこの光景を見るたびに、

「スマホゾンビは格差社会へのあきらめの象徴ではないか?」

と思うようになりました。


ー目次ー
  1. ”頑張っても報われない現実”に気づいた日本人
  2. スマホ依存は”終わりなき劣等感を癒す場所”
  3. 日常すら手に入らないから”日常系アニメ”が増える
  4. スマホゾンビという抜け殻、スマホ依存は”ささやかな理想郷”への旅

1.”頑張っても報われない現実”に気づいた日本人

できるだけ長い時間
その人の注目を引いておくにはどうすればいい?
人間の心理の弱いところを突けばいいんだ。
ちょっとばかりドーパミンを注射してあげるんだよ。

ショーン・パーカー(フェイスブック社 元CEO)

『スマホ脳』第3章”スマホは私たちの最新のドラッグである” より

スマホの中の世界は依存物でいっぱいです。
その中身は「かもしれない」に対する期待です。


  • ゲームで勝てるかもしれない
  • ガチャでレアアイテムが出るかもしれない
  • SNSで「いいね!」が付いているかもしれない

これらを期待するとき、
脳には快楽物質ドーパミンが出ているそうです。

またこの快楽を味わいたくてスマホを手に取り、
いつの間にか依存していきます。



「歩きスマホは危険、止めましょう」
そんなことはさんざん言われています。死亡事故も起きています。

でも止められません。早くドーパミンを出したいから。
目の前の快楽に依存しなければいけないほど、追い詰められているから。
仮想世界へ逃避しなければいけないほど、現実がつらすぎるから。


<お金も仕事も奪われる若者>

日本全体の金融資産の6割は60代以上の人が保有していて、
39歳以下はわずか6%しか持っていません。

つまり、もともとお金を持っている高齢者に、
貧乏な若者が年金を通してお金を渡し続けるシステム

でき上がっているわけです。
日本には高齢の経営者は幹部がいつまでも残り続けている企業が多く、
結果として経営が弱体化しているのです。(中略)

多くの組織で旧時代的な考えの人たちがまだ上の立場にいるために、
数々のばかげた不条理がまかり通っています。
<1人1票が表す不平等>

実は、39歳以下の若者が全員、投票したとしても、
40代以上の40%が投票すれば
その数を簡単に抜かれてしまうのです。
(中略)

どんなにすばらしい志を持っていても、
選挙で勝たなければ、政治家になることはできません。

だから、立候補者たちは人口で勝る高齢者の喜ぶ政策
公約に掲げなくてはならないのです。

『叩かれるから今まで黙っておいた「世の中の真実」』 より

「格差社会」「デフレ」「失われた30年」と呼ばれ、
モノが売れない、給料が上がらない。なのに労働時間は上限なし。

職を探しても低賃金の非正規雇用ばかり。

正規雇用の狭き門をくぐっても、
上のポストは高齢の役員で埋まっていて出世の見込みはない。

なけなしの給料から、もらえる保証もない年金を払い続ける。
それも「もともとお金を持っている高齢者」に。

「選挙に行けば、1票を投じれば、この社会を変えられるかもしれない」

そう希望を持ちたくても、
圧倒的に人口比率が高い高齢者の意見を覆せない現実。



そんな社会で生きてきた大人たちと、
そんな大人たちを見て育った次の世代。

彼らは、いえ、大多数の日本人は
気づいてしまったんじゃないでしょうか。

もういくら頑張っても報われない現実に。





2.スマホ依存は”終わりなき劣等感を癒す場所”

勝利もお金も出世も、幸せの絶対条件ではありません。
それでも、人間は優越性を求める生き物です。

人間の心は、劣等感を正面から受け止めて生きるのに
耐えられるほど丈夫にできていません。


にもかかわらず、現実では
終わりなき劣等感から逃れられる者は一握りです。

そして、「その一握りになってやろう」という気力すら、
自分には残っていないと悟ってしまったなら。

「2位じゃダメなんですか?」
「心身をボロボロにして働いても報われないんですか?」


そんな叫びさえ、
資本主義社会の競争にかき消されるとしたら…。



スマホの仮想世界は、自分の思い通りです。

自分の好みのキャラクターに望みのストーリー。
敵キャラに勝つことも、レベルやお金をカンストすることも、
恋愛も結婚も、ヒーローになることもできます。

課金すれば、自分の分身を無限に強くできます。

それらは現実では決して手に入らない、いえ、
もう「手に入れてやろう」という気力すら
残っていないのかもしれません。




だから、せめて移動時間くらいは夢を見させてほしい。
つらい現実から目を背けて、自分の有用性を確かめさせてほしい。


会社では報われない仕事に疲れ、
家に帰れば孤独な家庭生活に疲れ、
それが良くなる未来すら見えない。

ならばせめて、誰にも邪魔されない時間くらいは、
この劣等感から逃げさせてほしい。

スマホゾンビ度が強い人ほど、
いつでもどこでも歩きスマホをする人ほど、
そんな「あきらめの悲鳴」が大きいのではないでしょうか。

スマホゾンビにとって、バスや電車、歩道は
「ひとときの癒しの場」なのかもしれません。


3.日常すら手に入らないから”日常系アニメ”が増える

僕はアニメに詳しくありませんが、
最近は自分が子どもの頃よりも「日常系アニメ」が増えたと思います。

もちろん、「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」など、
以前から人気の日常系アニメはあります。

それでも現在、街中で見かけるアニメキャラクターの多くは、
日常系アニメの主役である”かわいい普通の女の子”でしょう。



今の日本で日常系アニメが増えた理由として、
鋭い考察をしている方がいらっしゃいました。

なぜ日常アニメが今急速に増えているのだろうか?

大きな夢や壮大なものを思い描く想像力や体力はなくなり、
日本人は現在疲労しているのである。

もはや日本人は日常にさえ疲れるようほど体力がなくなった。
そしてその「日常」さえ実は手に入っていないのである。
「リアルで頑張ることって意味があるのかな」
と考え始めた人たちが今バーチャルの世界に
これまでリアルで当たり前にあるはずだったものを
求めるようになっている。
頑張ることに疲れた、いや頑張っても夢がない社会になった。
日本人が現実に気付いてきた。

「そんな世界はない、高価な物なんて買えない、
 頑張っても夢をかなえられる人はごく一部」
だという真実に。

資本主義社会は残酷です。
「いちばん良いもの」「いちばん安いもの」
以外は生き残れず、つねに1位を獲るよう急き立てられます。

そこには圧倒的に大量の敗者が生まれます。



今やクレヨンしんちゃんの野原家は「勝ち組」で、
サザエさんの磯野家に至っては「豪邸」です。

「時代背景がちがう」
「高度経済成長期やバブル期が特殊だっただけ」
そんなことは言われなくてもわかっています。

現代は、かつて中流だった人から見れば「失われていく一方」です。
以前は当たり前だった”日常”すらも。


それが余計につらくて、屈辱なんじゃないかと思うんです。



自分が手に入れられない”日常”を「日常系アニメ」に求めること。
電車や歩道で、疲れた身体を丸めてスマホをのぞき込むこと。

この2つは”救いを求める先”がちがうだけで、
根底にある「あきらめの感情」は共通じゃないでしょうか。


「理想の”日常”と、現実の間には大きなギャップがあるけど、
 それを頑張って埋める意味あるの?頑張ったら埋まるの?

「スマホ依存症?歩きスマホは危険?興味ないね。
 今、楽しければいいじゃん。今時、歩きながらでもゲームできるし。
 頑張ってもムダなんだから


そんな、悟りを開いたようなあきらめを、
胸にしまって生きているんじゃないでしょうか。

4.スマホゾンビという抜け殻、スマホ依存は”ささやかな理想郷”への旅

かつて、格差社会に絶望した農奴たちは、
反乱を起こして領主や王朝を倒してきました。

結果、そのリーダーの一部に富が集中し、
また反乱が繰り返されました。

20世紀、格差社会に絶望した労働者たちは、
格差をなくすために共産主義の国を作りました。

結果、「頑張っても給料は一緒だから」
人びとの勤労意欲が下がり、資本主義に移りました。

現在、資本主義を勝ち抜いた一握りの勝者と、
大多数の「2位の敗者」の格差が拡大しました。



平等では意欲が失われる。
かといって、追いつけないほどの格差がつけば、
意欲云々を通り越して”あきらめの境地”に達する。

スマホゾンビのうなだれた姿は、
奪われる意欲や、もう追いつけない格差への
”あきらめの境地”を表しているような気がします。


世界には全員が幸せになれるだけの富があるはずなのに、
全員に行き渡ることはありません。

そんな不条理に抗う気力もなくなり、手元にある薄い機械で
ささやかな”理想郷への旅”ができればそれでいい、と。




電車に並んだ、猫背の身体たちは抜け殻。

彼らの心は、不気味さと疲れきった空気を残して、
”あきらめの果て”に旅立っているんじゃないでしょうか。








posted by 理琉(ワタル) at 19:25 | TrackBack(0) | 人生観

2021年11月02日

【死は悪なのか?】「生きることが苦しいなら死ねばいい」に嫌悪感を示す人の心理。

「生きることが苦しいなら死ねばいいじゃないか」

人前でこう言ったことはありませんが、僕は賛成です。
ただ、実際にこれを言うと多くの否定的な返答が予想されます。

「冷たい」
「命への冒涜」
「生きたかった人もいるのに」と。

もし有名人がツイッターで同じことをつぶやいたら炎上するでしょう。



それにしても、なぜこの世界では
「生きる=善、死ぬ=悪」のように語られるんでしょうか。


なぜ生きる権利には肯定的なのに、
死ぬ権利には否定的な風潮があるんでしょうか。

「苦しいなら死ねばいいじゃないか」に
嫌悪感を示す人の心理とは何でしょうか。



ー目次ー
  1. ”私の方が不幸なのに我慢して生きている。なのにあなただけ”
  2. ”あなたが死んだら悲しむ人がいるから”は本質か
  3. 死への嫌悪感は、自分の嫉妬や被害者意識の裏返し?
  4. 支配者は”死”を悪者にしておく方が都合が良い
  5. ”生きる=善、死ぬ=悪”は、誰のためにあるのか

1.”私の方が不幸なのに我慢して生きている。なのにあなただけ”

結論から言うと、

『私の方が生きていることが苦しいのに
 お前だけ生きることから逃げるなんて許せない』


ではないでしょうか。



死を選択したい人はおそらく、
人生での幸福と不幸のバランスが

「幸福の量 <<< 不幸の量」
かつ、もうこれを覆す気力がないと確信したのでしょう。

そして、人生の幸福と不幸の量がわかるのは本人だけです。

傍から見れば楽しそうでも、
他人がうらやむような人生でも、
不幸かどうかの判断は本人だけができます。



「苦しいなら死ねばいいじゃないか」に嫌悪感を示すのは、
誰かが死ぬのがイヤなだけではなく、

「苦しいから死ぬという”選択”が気に入らない」
のかも知れません。

そして、
なぜ死ぬ”選択”が気に入らないかというと、
「自分の人生の方がずっと不幸なのに」
と思っているからではないでしょうか。

死を、生きている限り続く苦しみからの逃げと
捉えているのではないでしょうか。


2.”あなたが死んだら悲しむ人がいるから”は本質か

「命は大切だから」
「親(神)から授かったものだから」
「自殺が禁止されている宗教もあるから」
「あなたが死んだら悲しむ人がいるから」


これらは一見、尊い理由ですが、
はたして死への嫌悪感の本質でしょうか。

「幸福の量 <<< 不幸の量」

この人生をもう覆せないと絶望し、
死を選ぼうとしている人に響くでしょうか。
第9講「自殺」

自殺が自己利益の観点から
合理的なものとして受け入れられるケースでは、
その人は死んだほうがましだ。


人生が今提供できるものが全体としてマイナスなら、
早く死んだほうが良い。

それはもちろん、死は”本人には”悪いわけではなく、
むしろ”良い”ということだ。
たとえ自殺者の家族や友人や愛する人に
嘆きや痛みをもたらすという、
自殺のネガティブな結果があるとしても、

もしその自殺者にとって死んだほうが本当にましなら、
そのネガティブな結果をすべて考えても、
なお本人の受ける恩恵のほうが優るかもしれない。


『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』より


あなたが死んだら悲しむ人も、
親(神)から授かった命だから大切に思っている人も、
自殺したい本人ではありません。

「あなたが死んだら悲しむ人がいる」は
尊い意見ですが、それは周りの人の希望です。

「死を選びたい」という本人の希望を尊重していない、
形を変えた生の押しつけでもあります。



だから、命の尊さや、生の奇跡を説いた意見は、
死を否定する理由の本質ではないと思います。

「不幸な人生からお前だけ逃げるなんて許せない」
これを”あからさまな生の押しつけ”とするなら、

「あなたが死んだら悲しむ人がいる」は、
きれいな理由で本音を隠しているようにも見えます。


3.死への嫌悪感は、自分の嫉妬や被害者意識の裏返し?

「苦しいなら死ねばいいじゃないか」に嫌悪感を抱く人も、
「生きる=善、死ぬ=悪」と考える人も、

本当は生きる苦しみから逃げられる他者へ
嫉妬しているんじゃないでしょうか。




もちろん、死んだ後のことは誰にもわかりません。
転生するのか、無になるのか、死後の方が苦しいのか。

もし死後の方が苦しいなら、きっと
「苦しいなら死ねばいい」を否定する人はいなくなります。
それなら生きている方が”まだマシだから”です。



死や自殺に過剰反応して否定するのは、
「死後のことなどわからないから怖い」という理由もあるでしょう。

ただ、それだけではなく、
「自分の方が苦しいのに逃げるのか」という
嫉妬や被害者意識もひそんでいるように思います。


自分の現状への不満や、
世の中の不条理への怒りもあるでしょう。



でも、そういうドス黒い感情でいっぱいの自分など、
できれば見たくないのが本音です。

「自分が死や自殺を嫌悪する理由は、嫉妬や被害者意識かも知れない」
などと認めたくありません。


だから理由が必要になります。

死で逃げられることへの嫉妬を隠したい。
自分の黒い感情から罪悪感なく目をそらしたい。

そのために「悲しむ人がいる」「命の尊さ」などが
作られたんじゃないでしょうか。

4.支配者は”死”を悪者にしておく方が都合が良い

「生きる=善、死ぬ=悪」という風潮は
誰が作り出したんでしょうか。


・死を怖がるのは生き物の本能
・死に至るまでの苦痛が怖い
・だから死を忌み嫌うのは当然

本当にそれだけでしょうか。

「死ぬ選択はするなよ」みたいな相互監視の空気は、
生き物だからといって当たり前に作られるでしょうか。

「簡単に死を選択する人が増えたら都合が悪いから」
でもあるんじゃないでしょうか。



狩猟採集の時代は、
人手が減ったら食糧の調達が難しくなります。

危険な狩りで命を落とす人はいても、
そうでない場面で死なれたら集落全体の危機です。

農業革命の後は、一握りの支配者が民衆を動かします。

そのときもやはり、農作業の人手が減ることは損害です。
自分たちへの供物が減り、財を蓄えにくくなります。

強い軍隊を作るにも、人手は必要です。
戦争で損害が出るのは仕方ないにしても、
それ以外で簡単に死を選択されたら困ります。


”死への恐怖”が使えなければ、外敵を作り出すことも、
民衆の心の余裕を奪うことも難しくなります。



だから、支配者は「生きる=善、死ぬ=悪」
にしておきたいんじゃないでしょうか。

自力で生きていられる限りは、生きてもらいたい、
そして自分の支配力を維持するために使いたい。


「人は使い捨てなのか」と、暗い気持ちになりますが
それが”死を悪者にしておきたい理由”の1つだと思います。

5.”生きる=善、死ぬ=悪”は、誰のためにあるのか

『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』
によると、英国で産業革命が起きた当時は
いま以上に”労働者は使い捨て”だったそうです。

ロンドンやマンチェスターには薄暗い工場が立ち並び、
子どもを含め多くの貧しい人たちが長時間、
過酷な労働に従事させられていました。
大多数の国民が
人間らしさを奪われた暮らしをしているのに、

何本かの道路を隔てた区画では、
一握りの富裕層がぜいたくに暮らしていた
ようです。



僕はこれを読んだとき、
「そんな苦しみがずっと続くなら生きなくてもいいのに」
と思いました。

「”貧しい工場労働者から抜け出してやる”という気概が足りない」
「苦しみにあふれた生の中で、小さな幸せを見つけて生きるんだ」
そういう意見はもっともです。

が、それはまるで
「他人のために無理やり生きさせられている」
「”生きる=善、死ぬ=悪”を押しつけられている」
ようにも感じるんです。



本人にとって圧倒的に「幸福の量 <<< 不幸の量」な人生、
なのに死を悪者のように否定する人がいる。

そこには自身の嫉妬や打算、被害者意識が
まったくないと言い切れるでしょうか。


「生きたかった人もいるのに」
「あなたが死んだら悲しむ人がいる」
それは死を選びたい人への嫉妬を隠すための、
”表面的な理由”じゃないでしょうか。

「生きる=善、死ぬ=悪」という風潮は、
本当に”生き物だから当たり前”なんでしょうか?









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posted by 理琉(ワタル) at 19:51 | TrackBack(0) | 人生観

2021年10月23日

【ブログ1000記事を達成】目標は、やりながら探せばいい、途中で変わったっていい。

2018年10月にブログを開設してからちょうど3年。
ついに1000記事の執筆を達成できました。

今回は1000記事への到達を記念して、
ここに至るまでに学んだことを書いてみたいと思います。


ー目次ー
  1. 毎日更新の挫折、完璧より”まずは世に出す”
  2. 目的も、方針もブレながら、人生が豊になった3年間
  3. ブログを通じて、親子問題に悩んだ自分の根源に気づく
  4. 目標は、やりながら探せばいい、途中で変わったっていい

1.毎日更新の挫折、完璧より”まずは世に出す”

実は、つい数ヶ月前までブログの毎日更新に挑戦してました。
結果は「連続950日で挫折」でした。

【ブログと向き合う】ブログ連続更新を950日でやめて思うこと。

毎日更新は
ブログ開設当初から目標にしてたわけじゃないですが、
いつの間にか生活ルーティンになりました。

区切りの「1000」には届かなかったけど、
今では挫折してよかったと思ってます。



1000記事を世に出したので、
昔の記事の書き直しもしていこうと思います。

昔の記事を読み返すと、
まとまりもなく、書き方も未熟で、顔から火が出ます。

ただ、全否定はしません。
当時の自分も否定することになるので。

Facebookを創設した
マーク・ザッカーバーグ氏の言葉を借りるなら、
完璧を目指すよりまず終わらせろ

Done is better than perfect.
だと思うことにします。

2.目的も、方針もブレながら、人生が豊になった3年間

この3年間、とにかくブレました。

  • 書きたいことを書くのか
    収益を出すために書くのか

  • 話題やトレンドに敏感になるのか
    雑記にするか特化にするか

  • ジャンルごとにブログを立ち上げるか
    このブログ1本でいくのか

  • このまま無料ブログで続けるか
    有料サーバーを契約してWordPressに移転するか


ブログを始めた当初から
明確な目的があったわけでもなかったので、
続けながら探してきました。

正直、いまもブレてます。
何がしたいのかわからなくなることもしょっちゅうです。



でも、ブログ毎日更新を挫折したときもそうだったけど、
「商用のブログを書く」のが楽しくない自分に気づきました。

もちろん、記事には本などの購入リンクを載せてますが、
そこへ誘導するのが第一目標じゃないというか。

「書きたい思いを書いて、それに役立ったから紹介」
という方が、自分の性分に合ってます。

「商売」「ビジネス」という面では、
まちがってるのかもしれません。

そういう目的でブログを運営している方からすれば、
「プロ意識がない」のかもしれません。



それでも、ブログを始めてから、
本当に自分が成長した実感がありますし、
人生が好転してきたのは事実です。


ほとんど読書の習慣がなかった僕が、
月に何冊も本を読むようになったり。

政治や経済に無関心だったのが、
気づけば「おもしろい」と言っていたり。

人間の心理に興味を持ったおかげで、
親子問題や人づきあいで苦労することが減ったり。

本当に、人生が豊かになっていきました。

3.ブログを通じて、親子問題に悩んだ自分の根源に気づく

今のところ、僕のブログでいちばん多い記事は、
親子問題やそれに起因する心理の考察です。

ブログ開設当時、すでに親と絶縁ずみだったくらい、
僕は親子関係で揉めてきました。

親子問題が起きるのはなぜなのか、
どんな心理メカニズムなのかを学ぶうちに、
僕が商用ブログを書くのが楽しくない理由もわかりました。

僕はずっと、

 『自分の素直な思いを言ってもいい場所がほしかった。』
 『自分の存在を許してほしかった。』

 『自分が何に興味を持ち、
  何を考えているのかに関心を持ってほしかった。』


からでした。

 ※商用のブログではそれに添えない、とは言いませんが、
  僕がブログに求めていたものとは何か違いました。

「特別扱いして」「ほめたたえて」とは思いません。

親にどんな崇高な思いがあろうと、
もう会いたくないし、許すこともできません。

でも、どんな確執があっても、
”あの人たちが親”という事実は消せません。


人生の途中で出会ったどんな人よりも、
親の特別さは心に刻みこまれています。

「自分の心から”親の特別感”が消えてくれたら」と、
何度も考えました。



僕は子どもの頃からずっと、自分への空虚感や、
生への執着のなさ、死への肯定感に悩んできました。


ブログを書き始め、親子問題の勉強を進める中で、
その根底には

『僕は「親と呼ばれる人」ですら関心を示すに値しない人間なのか?』

という思いがあることに気づけました。

同時に、親が僕の内面に無関心だったのは、

「親も、自分の内面に関心を持たれたことがないから」
「親は自分の不安でいっぱいいっぱいだから」
「親が見ているのは”親自身”だけだから」


ということも学べました。

4.目標は、やりながら探せばいい、途中で変わったっていい

ブログに何を求めるかは人それぞれです。

僕も、今は「自分の存在の許可証」みたいな位置づけですが、
変わっていくかも知れませんし、商用の何かを始めるかも知れません。

それでも、
ブログを始めて、1000記事まで続けてきて、
本当に良かったと思っています。


知識が増えて、悩みや苦しみに名前をつけられて、
「役に立ちました」という声もいただけて。

いまは充分に「自分の存在の許可証」になっています。



それと、
必ずしもブログを始める当初から
「明確な目標やビジョン」がなくてもいいと思います。


もちろん、あれば素晴らしいですが、
それは開始や継続のハードルを上げることにもなります。

たくさんの挑戦の1つとして、
「やりたいと思ったら始める、楽しければ続ける」
くらいでいいと思います。

自分にプレッシャーを与え続けるのが得意な人は、
ガツガツやっていけばいいし、

自分のペースで続けるのが得意な人は、
僕のように気楽に続けていけばいいです。



「目標は、やりながら探せばいい、途中で変わったっていい」

それが、1000記事への到達で出した、
いまの自分の思いです。






posted by 理琉(ワタル) at 19:49 | TrackBack(0) | 人生観

2021年10月22日

過激な「タカ派」「ネトウヨ」の目的は、国家の力に自分を重ねて自己愛を満たすことではないか。

「タカ派」「ネトウヨ」と呼ばれる人たちの中で、
もし戦争になったら実際に戦場へ行く人はどれだけいるんだろう。


きっと、本当に愛国心に燃えて、
「祖国を守りたい」と思っている人も大勢いる。
勇んで戦場へ赴く人も多いと思う。



一方、
『自分は決して戦場へ行かないが、「ネトウヨ」的な言動はする』
という人も多いのではないか。

確かに、最前線で戦うだけが「国を守る」ことじゃない。

が、自分は安全な場所にいながら誰かを攻撃する行為は、
「祖国を守る大義名分を利用して”傷つきやすい自尊心”を守る」
ようにも見える。



本当は空虚で、そこまで特別でもなく平凡、
そんな”現実の自分”なんか見たくない。

だから
「自分は強く、特別で、偉大な存在のはずだ」
という”膨らませた自己愛”を、

「国家」や「軍事力」という強権に重ねて
満たしたいんじゃないだろうか。



ー目次ー
  1. 自己愛パーソナリティの人はタカ派になりやすい
  2. ルーツは親の期待に応えられなければ愛されなかった経験?
  3. 力への憧れは、自分が支配される恐怖の裏返し
  4. 気持ちの余裕のなさは、人を排他的にする
  5. ネトウヨの真の敵は、”自己愛の傷つきに怯える自分”ではないか

1.自己愛パーソナリティの人はタカ派になりやすい

「自分は選ばれた人間で、特別に優秀だ」

という自己像を強く持つ人、
いわゆる自己愛パーソナリティの人はタカ派になりやすいそうだ。


特に政治家は「特権意識」を刺激される環境が整っている。
「先生」「地元の名士」として力を持つほどに、その傾向が強まるという。
自己愛パーソナリティの人は、タカ派になりやすい。
戦争で一番の被害に遭う女性や子どもなどへの共感が少ないというのも一因だが、

「国家」という最大の権威に自己を同一化させて自己愛を保ち、
他国によってそれを傷つけられると激昂する
、というのも重要な要因である。

また、特権意識があるので、
戦争になったときの自己イメージというのは、あくまでも司令塔である。

『国会議員を精神分析する―「ヘンな人たち」が生き残る理由』 より


これは政治家に限った話ではない。

「腰ぎんちゃく」「虎の威を借る狐」だったり、
ドラえもんでの「ジャイアンの力を利用するスネ夫」だったりする。

強いのはジャイアンであって、スネ夫本人ではない。
が、スネ夫はジャイアンの力を自分に重ねることで、
「強いスネ夫」という自己像を保てる。



国家と「タカ派」「ネトウヨ」の人たちの関係も
これと似ている。

国家や軍事力=ジャイアン
「タカ派」「ネトウヨ」=スネ夫

だとすると、
彼らの言動が過激であればあるほど、
強権への憧れが強ければ強いほど、

「特別に力ある自己像」を
強く求めていると言えるんじゃないだろうか。





2.ルーツは親の期待に応えられなければ愛されなかった経験?

彼らが時に過激なまでに排他的なことしてまで、
誇大な自己像を保ちたいのは、

「本当は特別でも、特に優れてもいない自分」を
見たくないからではないか。

そうなった要因はさまざまでも、多くが
「そのままの自分を肯定されなかった経験」
繰り返しではないだろうか。


そして、そのルーツの多くが
「幼少期の親との関係」ではないだろうか。



たとえば、
親の期待に応えられた時だけ関心をもらえたような場合、
「自分はそこに存在するだけでは愛されない」体験を繰り返す。

親の期待に応えられない自分は愛されない、
しかしそれを認めるのは苦しすぎる。

だから「期待に応えられる優れた自分」という自己像を作り出し、
その自分だけを見ることで自尊心を保つ。




そうやって、何とか生きてきた人の人生に、
何かの不満や不安があるとしたら。

それは単に人生がうまくいっていないだけでなく、
「親の期待に応えられない無力な自分」
突き付けられている状態でもある。

『自分は人生が順調な者より劣っているのではないか?
 うまくいかなければ生きていけないのではないか?
 親の期待に応えなければ愛情をもらえなかった、幼少期のように』


その劣等感を避けるため、
傷ついた自己愛を回復させるために、
彼らが選んだのが「国家の力に自分を重ねる」ではないだろうか。

3.力への憧れは、自分が支配される恐怖の裏返し

強い力への憧れは、自分が支配される恐怖の裏返しでもある。

「人間関係は支配するかされるか」
という体験を繰り返した場合、
生きのびるためには力を持って支配することが最善になる。


先ほどの「親の期待次第」の関係では、
子どもの生殺与奪権は親に強く支配されている。

そういう環境では、
自分がやりたいと思うことは抑圧され、
やりたくなくても親が喜ぶことが優先される。



『養育者に捨てられるかもしれない恐怖。
 自分の意志が尊重されない不自由。

 それを味わうのは支配されるからだ、力がないからだ。
 強い力を持てば、支配すればそんな思いをしなくてすむ。
 自分の思い通りにできるんだ。』


このように、自分への無力感を持っても不思議ではない。



そして、無力感を抱えたゆえに
「国家の力=自分の力」としている者にとって、

  • 他国の脅威
  • 領土問題
  • 領海・領空侵犯
  • 移民受け入れ問題

などは「自分がまた支配される恐怖」につながる。

彼らが時に、過激なまでに排他的になるのは、
「自分と違う者たちに支配されるのが怖いから」
ではないだろうか。

4.気持ちの余裕のなさは、人を排他的にする

余裕のなさは、人を排他的にする。

ここで言う「余裕」とは、
経済的な豊かさ以上に「気持ちの余裕」が大きい。

  • 失敗や負けを経験しても立ち直れる
  • 少しくらい自尊心が傷ついても自力で起き上がれる

くらいの気持ちの余裕があれば、
自分とちがうものに寛容でいられる。

それはある程度、
「平凡な自分でも大丈夫」
「特別な自分像にしがみつかなくても大丈夫」

と信じていられるから。



そんな気持ちの余裕がない場合、
自分のコミュニティに属しないものはすべて
「自尊心をおびやかす外敵」に見えてくる。


だからこそ排他的になる。
もろく傷つきやすい自己像を守ることに必死になり、
他者への寛容さがなくなっていく。



ネトウヨには経営者や仕業など、
社会的に成功していたり、経済的に恵まれている人も多いという。

金銭的に困窮しているわけでもない人たちが
他者に過剰に攻撃的になるのは、

「自己愛を傷つけられる恐怖で余裕がないから」
ではないだろうか。

5.ネトウヨの真の敵は、”自己愛の傷つきに怯える自分”ではないか

『過激な「タカ派」「ネトウヨ」と呼ばれるような言動はするが、
 自分が戦場へ行ってまで、とは考えていない』


そのような人たちの”真の敵”は誰だろうか。

彼らの真の敵は、
領土問題などで揉めている他国でも、
移民や在日外国人でもなく、

「崩れやすい自己愛の傷つき」ではないだろうか。




「本当は特別でも優秀でもない自分」は
存在を認めてもらえなかった。

平凡な自分を見つづけるのがつらすぎるから、
「特別で力ある自分」という風船を膨らませた。

その風船を膨らませる空気が
国家権力であり、軍事力であり、
極端に排外的な言動ではないだろうか。



そして、その過激な言動の根底にあるのは、
「特別で力ある自分」という風船を割られる恐怖。

「本当は平凡な自分」がさらけ出され、
また親に見捨てられるかもしれない恐怖。

彼らが戦っている本当の相手は、
彼らの外側にいる何者でもなく、
「自己愛の傷つきに怯える自分」ではないだろうか。




【同一視の心理】強い国家≠強い自分。

少年野球のコーチが怒鳴るのは、自分が支配されるのが怖いから。








posted by 理琉(ワタル) at 19:24 | TrackBack(0) | 生き方

2021年10月15日

少年野球のコーチが怒鳴るのは、自分が支配されるのが怖いから。

草野球の練習に行くと、
たまにとなりのグラウンドで少年野球の試合をやっている。

そして、その少年野球チームのコーチは
高確率で怒鳴り散らしている。


精神論、根性論、監督の怒鳴り声…

いわゆる「体育会系」の現場では、
いまだにこんな人たちが幅を利かせている現実。



以前の僕は、大人の男性が怒鳴るのをただ怖がっていた。
でも人間の心理を学ぶうちに、その考えが変わった。



怒鳴るのは、威嚇するのは、まわりを怖がらせるのは、
強いからじゃない、支配されるのが怖いから。

本当は怒鳴っているコーチ本人が、いちばん怯えているのではないか。



ー目次ー
  1. ヤマアラシ・ジレンマ「傷つきたくないからトゲを出す」
  2. アドラー心理学:目的論「支配したいから怒鳴る」
  3. もう二度と自分が支配されたくない
  4. 支配欲の根底にあるのは劣等感
  5. 心の仕組みを学ぶと人生が楽になる

1.ヤマアラシ・ジレンマ「傷つきたくないからトゲを出す」

人間関係の距離感を表す言葉に
「ヤマアラシ・ジレンマ」がある。

寒い冬の日、寄り添って暖を取りたい2匹のヤマアラシは
近づきすぎるとお互いのトゲが刺さってしまう。

しかし離れると寒いので、ぶつかり合いながら、
ちょうどいい心の距離感を探っていくことを例えている。
「ヤマアラシ・ジレンマ」
人付き合いのなかで傷つくことをおそれ、
距離をおくものの、本当は仲良くなりたいという葛藤。

相手と関わることで「傷つきたくない」と思っているのです。
しかし、その一方で「コミュニケーションを深めたい」とも思っているのです。

『マンガでわかる人間関係の心理学』 より


トゲを立てていないヤマアラシなら、
触れ合えるくらいに近づける。

しかし怒鳴るのは、
ヤマアラシがトゲを逆立てているのと同じ。


本当はもろい素の心に触れられたくない、
反論されて傷つきたくないから、怒鳴って威嚇する。


「何やってんだ!」
「そうじゃない!」
「やる気あるのか!?」

怒鳴り声のレパートリーがいくつあろうと、
根底にある思いはきっと、

「本当は心に触れられるのが怖いんです…。」




2.アドラー心理学:目的論「支配したいから怒鳴る」

アドラー心理学では
「人は目的のために感情を作り出すことができる」と考える。


(上着にコーヒーをこぼしたウェイターを怒鳴りつけた青年に対して)

<哲人>
あなたには大声を出す、という目的が先にあった。
すなわち、大声を出すことによって、
ミスを犯したウェイターを屈服させ、
自分のいうことを聞かせたかった。

その手段として、怒りという感情を捏造したのです。

『嫌われる勇気』 より


少年野球のコーチが怒鳴るのはどんなときか。

選手が練習どおりの力を発揮できないとき。
エラーや失点したとき。

すると、一瞬のうちに苛立ちが沸き上がり、
抑えきれないから仕方なく怒鳴る、ように見える。



しかし、”目的”という視点で見ると真逆になる。

コーチには始めから「怒鳴る」という目的があり、
自分が怒鳴ることを正当化するための材料として
選手のミスを利用した
、と考える。

怒鳴りたい目的はもちろん、
ウェイターを怒鳴りつけた青年と同じ。

選手を支配したいから。
選手を自分の思いどおりに動かし、優越感を得たいから。





3.もう二度と自分が支配されたくない

ヤマアラシのトゲで威嚇し、
選手が思い通りに動かないことで怒鳴る。

そこまでして支配したい理由は、
「もう二度と自分が支配されたくないから」

支配こそ、攻撃欲の強い人の究極目標である。(中略)

相手が逆らわず服従するようになり、
自分の思い通りに何でも決められるようになれば、しめたものである。

そうなれば、自分の言動が問題にされることも、
批判されることもなく、居心地の良い状況を維持できるのだから。


『他人を攻撃せずにはいられない人』 より


部活の現場はいまだに
「上官や先輩の言うことに逆らってはいけない」
というタテ社会。

コーチが選手側だった当時は、
今よりもっと「部活は軍隊」であり、
体罰も恫喝も当たり前だった。

そういう選手時代を生き抜いてきた彼らは、
自分が指導者になったとき、

「怒鳴られるのが怖かったから、自分は怒鳴らないように指導しよう」
とは、なかなか思えない。

なぜなら、怒鳴られ続けてたまった「未消化の怒り」は、
より立場の弱い者が現れたときにぶつけられるから。




この仕組みは親子の虐待の連鎖と同じ。

虐待した本人(親)にぶつけられない怒りを、
自分より弱い立場である我が子にぶつけてしまう。

そして、恐怖で支配され続けてきた代々の者はこう思う。

『支配される側になったらあんなに恐ろしい目に遭う。
 だから支配される前にこちらが支配しなければ』


こうして、支配と恐怖の連鎖は受け継がれていく。

4.支配欲の根底にあるのは劣等感

人間が自分と他者を比べる生き物である以上、
「自分の方が劣っている」と認めることは大きな苦痛になる。


そして、誰かから支配される限り、
「支配されるのはお前に力がないからだ」と伝え続けられる。



『劣っている自分、無力な自分、
 そんな自分を突き付けられるのは支配されるからだ。

 だったらこちらが支配すれば、劣等感を見ずにすむ。
 「人を思い通りに動かせる、力ある自分」だけを見ていられる。


 そうだ、自分はこの少年野球チームのトップだ。
 この子たちを自分の思い通りに動かすために手っ取り早いのは、
 怒鳴って恐怖で支配することだ』

一般に周囲の人を脅したり、恐怖を与えたりするのは、
自分自身が他者を恐れているからである。
(中略)

このような姿勢それ自体が、
自信のなさや無力感の裏返しとも言える。
自分に自信がなく、周囲と信頼関係を築くこともできず、
不安にさいなまれているせいで、

自分のほうが優位に立って相手を支配できるように、
震え上がらせたり、振り回したりするのである。

『他人を攻撃せずにはいられない人』 より


腕を組み、威圧的な態度で怒鳴るコーチ。
その心の内にはきっと、劣等感から必死で逃げる少年がいる。




5.心の仕組みを学ぶと人生が楽になる

人間の心理を学ぶと、生きやすくなる。

怒鳴るコーチや威圧的な上司に、
理由もわからず怯え続けるのは苦しい。

しかしそれが
「本人の怯え」ゆえの行動だと知れば恐怖もやわらぐし、
その人を客観的に見る余裕も生まれる。




また、そうやって他者の感情に振り回される自分が、
実は「嫌われたくない」「傷つきたくない」「見捨てられたくない」
という思いに振り回されていることにも気づく。


「なんだ、そういうことだったのか」
「本当は相手も怖がっていたのか」
「自分が傷つきたくないだけだったのか」

それがわかるだけでも、対人関係がずっと楽になる。



<関連記事>
「男のくせに泣くな」とは誰が決めたのか。

劣等感を刺激されたら、次の日から感謝する。




posted by 理琉(ワタル) at 19:54 | TrackBack(0) | 生き方

2021年10月13日

【カリギュラ効果】「歩きスマホはダメ」と言うのは、スマホゾンビを増やす狙いもあるのではないか。

街中を歩けば聞こえてくる
「歩きスマホは危険だから止めましょう」

駅の壁には、そこかしこにこんなポスターが貼ってある。
「歩きスマホ・ダメ・ゼッタイ」

歩きスマホによって大きな事故が起きているし、
いろいろな弊害も知られている。

だから「歩きスマホはダメ」と言うことは正しいと思う。



だけど、
どこへ行っても「歩きスマホはダメ」と言い続ける意図は、
本当に「危険だから止めましょう」だけだろうか。


人が集まる場所で、繰り返し流す情報であるからには、
別の意図も隠されているのではないだろうか。




もしかすると、

「ダメと言われたら余計にやりたくなる心理」を利用して、
スマホ中毒者を増やしたい狙いもあるのではないか。

スマホゾンビを増やし、国民から考える力を奪うことで、
支配層の思い通りに統治しやすくする狙いもあるんじゃないか。



ー目次ー
  1. カリギュラ効果”ダメと言われるとやりたくなる”
  2. 同調行動”みんなやっているから自分もやっていい”
  3. スマホゾンビを増やせば支配しやすくなる
  4. 社会的に正しい訴えは”別の意図の隠し場所”
  5. 額面どおりだけでなく”自分なりの解釈”も考える

1.カリギュラ効果”ダメと言われるとやりたくなる”

人間には「ダメと言われるとやりたくなる」心理がある。
これを「カリギュラ効果」と呼ぶ。


カリギュラ効果の懸念について、
2ちゃんねる創設者のひろゆき氏は著書の中で、
香川県で成立した「ネット・ゲーム依存症対策条例」をあげている。
子どもに何かをやめさせようと思ったときに、
禁止するのは逆効果なのです。
(中略)

もし、この子どもたちが香川県に住んでいて、
ゲームの利用を制限されたら、カリギュラ効果で、
ゲームに夢中になるかもしれません。

そんな皮肉な結果にさえなりかねないのです。

『叩かれるから今まで黙っておいた「世の中の真実」』 より


「歩きスマホは危険」と訴えることにも、
ネット・ゲーム依存症対策条例と同じように
カリギュラ効果が発動する可能性がある。

「禁止」「ダメ」「止めなさい」

そう言われたとき、
「確かに危ないから止めよう」と思う人がいる一方、

カリギュラ効果によって
「そんなこと言われたら止めたくないな」と思う人もいる。


「歩きスマホはダメ」と言い続けるのは、
そういう人が一定数、出てくれることへの期待も
あるんじゃないだろうか。

2.同調行動”みんなやっているから自分もやっていい”

歩きスマホを止めたくない人が一定数いることで、
それを見た人が「同調行動」してくれることも期待できる。

「赤信号みんなでわたれば怖くない」と同じように、
「みんな歩きスマホをやっているから自分もやっていいだろう」と思う。




ダメと言われているけど、みんなやっている安心感。
そこへ、仮想現実からの追い立てが加わる。

ゲームなら
「いまいいところだから」
「つらい現実より楽だから」

SNSなら
「早く返信しないと仲間はずれにされるから」
「”いいね!”の数が気になって仕方ないから」

ニュースや地図アプリなら
「時間がもったいないから」
「ただ歩いているだけなんてヒマだから」

『歩きスマホによる事故?
 みんなやっているけど、事故なんて見たことない。
 みんな大丈夫だから自分も大丈夫』




ダメと言われるとやりたくなる心理と、
みんなやっているからやりたくなる心理。
そして、仮想現実からのお誘いと追い立て。

これらが合わさったスマホゾンビの徘徊は、今日も続く。

3.スマホゾンビを増やせば支配しやすくなる

スマホ中毒者を増やすメリットは、

現実を考えさせる力を奪い
支配者や富裕層のやりたいような統治ができる


というもの。



支配者にのぼりつめた者は、支配者のままでいたい。
一握りの富裕層になった者は、一握りの富裕層のままでいたい。

自分たちの地位を守りたい彼らは、
「支配者や富裕層になるためにはどうすればいいか」
を考える者が増えてほしくない。


お金持ちになってほしくないからお金の教育はしない。

権力者のイスを落とされたくないから、
政治の説明は難しい用語で埋めつくす。



肝心なところに興味を持たれること、
勉強されること、考える力を持たれることを、
国民に気づかれないように阻止したい。

だからゲームやSNSの世界にいてほしい。
上にいる自分たちに無関心でいてほしい。


そうやって、
街中をスマホゾンビが徘徊する光景を
好ましく見ている者もいるんじゃないだろうか。

4.社会的に正しい訴えは”別の意図の隠し場所”

歩きスマホは危険と訴えることには、
「社会的な正義を勝ち取れる」というメリットもある。


これは
「飲酒運転は危険」「いじめはダメ」
と訴えることと似ている。

命を守るために正しいことを言えば批判されにくいし、
もし裏に別の意図があっても気づかれにくい。


大きな社会問題になった歩きスマホに、
力を入れて対処する姿勢も見せることができる。



もちろん、
「飲酒運転は危険」「いじめはダメ」
のようなメッセージには賛成する。
それで被害が出てほしくないとも思う。

ただ、
「命や安全への訴えは、別の何かの隠し場所にもなる」
ということも、意識して損はないと思う。


5.額面どおりだけでなく”自分なりの解釈”も考える

「歩きスマホは危険」と訴えることは一石三鳥。

  • 純粋な注意喚起
  • 社会的な正義の獲得
  • スマホゾンビを増やせる期待

の3つを得られる。

ここまで、かなりひねくれた見方をしてきたかもしれない。

それでも、何ごとも額面どおりに受け取るだけでなく、
自分なりの解釈を考えて損はないと思う。




僕自身、歩きスマホもゲームもしないがSNSは使っている。
こんな記事を書いたのは自分への戒めも兼ねて。

もし、いつか本当につらくなって、
すべてから逃げたくなったとき。

仮想現実の世界へ行っても帰ってこれるように。
考えること、学ぶことをやめないために。







posted by 理琉(ワタル) at 19:01 | TrackBack(0) | 生き方
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自閉傾向の強い広汎性発達障害。鬱病から再起後、低収入セミリタイア生活をしながら好きなスポーツと創作活動に没頭中。バスケ・草野球・ブログ/小説執筆・MMD動画制作・Vroidstudioオリキャラデザインに熱中。左利き。 →YouTubeチャンネル
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