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2017年04月10日
大統領選挙に向けて(四月七日)
来年の年明け、一月か二月に二回目の国民の投票による大統領選挙が行なわれる。先月九日には現職のミロシュ・ゼマン大統領が、再選を目指して出馬することを表明した。それに反発するチェコ人は、いわゆる知識人を中心に多いのだけど、有力な候補者であることには疑いを挟み得ない。共産党や社会民主党の支持者を中心にゼマン大統領を支持する層は、社会の中に一定数存在し続けているのだ。あとはそれにどれだけ上積みできるかということになる。
そのためなのかどうかは知らないが、ゼマン大統領は、四六時中遊説しているような印象がある。遊説というのが、本当に正しいのかどうかわからないけれども、チェコのあちこちに出かけては、地元の人たちとの交流を図っている。ときに高校に行って、高校生から厳しい質問をされて答えに窮するなんてこともあったようであるだが、大抵は機嫌よく冗談を飛ばしまくっている様子がテレビで取り上げられる。
ちなみに、ゼマン大統領のお気に入りの冗談で、繰り返し過ぎてもう笑えなくなってしまっているのが、クラウス大統領をネタにした冗談である。各地に出かけて、何かの書類に象徴的に署名をするたびに、「このペンはちゃんと返しますからね」とわざわざ言った上で、相手側に渡すのである。これはもちろん、よその国では忘れられているかもしれないけどチェコでは忘れられていない、クラウス前大統領が、南米のチリかどこかで署名に使ったペンが気に入ったのか、そのまま上着のポケットに入れて持って帰ってきてしまった事件にあてこすっているのである。
ただし、クラウス前大統領とゼマン大統領は、政治上ではライバル関係にあったけれども、実は意外と仲がよさそうなので、当てこすりではなくて、クラウス前大統領の存在を思い出させることで、敬意とか親愛の情を表明しているのかもしれない。それにしても、毎回毎回同じ冗談に笑わなければならないお付の人は大変だろう。
そして、ゼマン大統領が新たな、多分人気取りの一環として表明したのが、以前ちょっと触れた金をもらって人を殺したということで入れられた刑務所から脱走を果たしたことで有名になったカイーネクへの恩赦を検討しているということである。
クラウス前大統領は恩赦を連発し、特に任期の最後の行なった恩赦は、正気を疑うような範囲で、強い批判を受けた。必要以上に長くかかる裁判と、収監された受刑者の数が多すぎて機能不全になりかかっていた刑務所の負担を軽減するという目的もあったらしいのだが、恩赦の範囲が広すぎた上に、明確でなかったこともあって、誰が刑務所から出て行けるのかはっきりさせるためにものすごい労力がかかっていた。さらにこれで釈放された人たちの多くが、再び犯罪を犯して刑務所に舞い戻ることで、批判の声はさらに高まった。そもそも誰の発案だったのかで、非難合戦が始まったのも非常に見苦しかった。
こんな前任者の姿を見てきたゼマン大統領は、恩赦に対しては非常に慎重だった。初代のハベル大統領でさえ、いいのかこいつという人間に恩赦を与えて避難の対象になったことがあるのだが、ゼマン大統領は、犯罪者に恩赦を与えるのは、原則として重病で死を前にした囚人に限っていたようだ。人生の最後の瞬間だけは、刑務所の外で過ごさせてやろうということなのだろう。
その自分自身が決めたルールには外れるけれども、カイーネクに恩赦を与えることを検討していると発表したのだ。理由としては、裁判で有罪が確定したけれども、冤罪である可能性もかなり高いことを挙げていた。それに、ゼマン大統領が就任して以来、八十通以上もの恩赦を求める嘆願書が届いているというのも、検討のきっかけになっているのかもしれない。カイーネクという人は、不可能と言われた脱獄を達成したこともあって、一部のチェコ人にカルト的な人気があるのだ。
実行すれば、ゼマン大統領に対する批判の声は高まり、反ゼマン派は盛り上がるに違いない。ただゼマン派の連中がこんなことでゼマン大統領を見捨てるとも思えない。そうすると、政治や選挙にはあまり関心のなさそうなカイーネク支援者達をひきつけようというのだろうか。
他にも、今年の秋の下院の選挙の選挙日の選定においても、いくつかの可能性の中から、すべての政党にとって一番よさそうな日程を選定して、しかも早めに公表することで、恩を売ろうとしている節もある。このままいくとまたまたゼマン大統領ということになりそうである。
現時点で立候補を表明している対立候補は二人だけ。一人は歌謡曲の作詞家として有名なホラーチェクという人物で、スポーツの賭けの会社を創立してうっぱらったことで財産を築いたとか言っていたかな。ある意味知る人ぞ知るだったこの人物が、一般の人の目にも留まるようになったのが、ノバでやっていた「スーパースター」だったか何だったか、セミプロも出場したチェコ全土から出場者を集めて行なわれたオーディション番組で、審査員を務めたことだった。
政治家としての実績はないし、この人を大統領として認めることができるチェコ人がどのぐらいいるかというと正直首をかしげるしかない。ただ出馬することは、かなり前から表明しており、昨年のダライラマ事件のときには、自腹でゼマン大統領に反対して、勲章授与式をボイコットした人たちの集会を組織していた。でもなあ。
もう一人が、つい最近出馬を表明した科学アカデミーの所長を務めたドラホシュ氏で、こちらには、ゼマン大統領との間に軋轢を起こし続けている大学関係者などの支持が集中することが予想される。ただ、知名度という点ではゼマン大統領はもちろん、ホラーチェク氏にも負けているだろう。
この人が立候補する結果として、高学歴の知識人階級がドラホシュ氏を支持し、それ以外の人がゼマン大統領を支持するという前回の、ゼマン対シュバルツェンベルクの決戦と同じで、アメリカの大統領選挙のトランプ対クリントンに似た構図が作り出される懸念もある。そうなると、それはそれでゼマン大統領の思う壺のような気もしてくる。
誰か、この構図を突き崩してくれるような候補者が出てこないものか。アンチゼマンというつもりはないけれども、さすがにゼマン大統領は五年で十分だろうと思う。長野オリンピックで金メダルを取ったときに、群衆が叫んだといわれる言葉にならって、ドミニク・ハシェクの出馬を期待するかな。いっそのことテニスのナブラーティロバーでもいいかもしれない。でもこの人アメリカに帰化しちゃったか。
4月8日15時。
2017年04月09日
ブログ模様替え(四月六日)
長かった冬も終わり完全に春になったと言えるような日々がやってきたこのごろ、しかも花粉症にも悩まされないということで、日本にいない幸せを噛み締めてしまう。春なのにブログのテーマを秋のままにしておくのも何なので模様替えをすることにした。実は、冬になったばかりのころに、一度オロモウツの冬景色の写真をアップロードして、背景を変えようとしたことがある。画像の変更には成功したのだけど、教会の屋根の一部しか表示されず、画像のサイズを変更しなければいけなかったのだということに気づいた。その日は時間が本当になかったので、仕方なく諦めて後日を期したのだけど、すっかり忘れていた。忘れていたというよりはめんどくさかったと言ったほうがいいか。
今回は、大掛かりなことはせずに、既存のデザインから選ぶ。最初の真っ白の奴は左サイドバーだったし、次の夏と秋の森は、右サイドバーだった。だから両サイドバーのものを使ってみることにする。いろいろごちゃごちゃ入れすぎたせいで、サイドバーが記事三日分ぐらいに長くなっていたので、両脇に分けることで短くしようと思ったのもある。
デザイン一覧から両サイドバーのものを探すと、殆どがシンプルとか、カスタム向けとかいう奴でヘッダーに画像が入らない奴だった。これまでと同じように季節物を探すと「春」は花柄でちょっと使うには気後れしてしまう。最初にいいなと思った「カフェスタイル」は、以前CSSを徹底的にいじって右サイドバーに改造したので、本来の両サイドバーとしては使えない。結局選んだのは深い青色もりりしい「金魚」である。
最初の設定どおりだと、サイドバーと本文のスペースの幅が細すぎたので、CSSをいじってはブログを再読み込みさせて、少しずつ調整していく。それから左右のバランスを考えて、コンテンツを配置する。ちょっと本とバナーが増えすぎて雑多な感じになっていたので、多少整理。
ついでに、A8.netの機能にローテーションバナーというのがあることに気づいたので、参加中プログラムのバナーを十個登録して、記事を投稿するときに、一番下にリンクコードを貼り付けてみた。プレビューでは表示されなかったのだけど、掲載されたページを開くごとに別な広告バナーが表示されるようになっているようだ。本当は表示したらくるくるバナーが変わっていくやつかなと思ったのだけど、違っていた。
それから、せっかくなので、「楽天モーションウィジェット」というのも試してみる。言葉を聞いてもなんだかわからなかったけれども、実際に使ってみたらあちこちのサイトで見かける商品の表示が移動する奴だった。うちは本屋みたいなものなので、優先して表示されるカテゴリーを「本」にしておく。ブログを開くと、この部分に表示されるのは、自分が楽天で選んで掲示した商品が中心になっていた。ということは、このブログを見ている人が、以前見た楽天にある商品が掲示されることになるのかな。
ここまでやって、以前忍者のアクセスランキングに登録したのだけど、それに登録したブログのランキングを見たことがないのに気づいた。自分のブログで見られるのは、自分のブログからの出入りだけであって、他にどんなブログがランキングに登録されているのかは、全く見えない。ブログのランキングをクリックしてたどり着く先は、忍者のサービス一覧みたいなページである。いろいろ探しても新着ページ一覧というところまでしかたどり着けなかった。「忍者ホームページ広告」なんてところからうちに来ている人がいるのだけど、そのもとになるページはどこにあるんだ。
いつまでも考えていてもしょうがないということで、別なブログランキングにも登録してみた。あちこちのブログで、ボタンを見たことのある日本ブログ村というやつである。こっちもいまいち何がどうなっているのかわからんけど、適当に登録してしばらく放置である。カテゴリーをどうするか悩んだけれども、とりあえず「日記」(今日のはちょっと日記っぽい? でも一日の出来事じゃないか)の「その他日記」にして、サブカテゴリーというのが出てきたので、「与太話」はなかったから、「たわごと」に設定しておく。
翌日にカテゴリーを三つまで登録できることに気づいて、チェコ関係のカテゴリーを探したら、「海外生活」の「チェコ情報」というのがあった。あんまり生活についても、チェコの情報についても書いていない気はするけど、チェコだからチェコにしておく。二つ以上登録するときには、ポイントを分割する割合を決めろという。面倒くさいので50%ずつにしておく。
忍者のランキングに手を出した三月は、確かにアクセスは増えた。一年前と比べたら十倍ぐらいになったのだけれども、登録したおかげで劇的に増えたというわけでもない。ブログ村への登録ではどうなるだろうか。登録前から四月は三月よりも多くなりそうな感じなのだけど。
4月7日23時。
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2017年04月08日
てるみくらぶ倒産とチェコの旅行会社(四月五日)
昨日に続いて、最近目にした日本のニュースで思い出したチェコの出来事についてのお話である。単独だと一本分にならなくても、あわせたらなるかも。いや昨日のはちょっと長すぎたか。
この社名をひらがなで書く会社は、1998年に創業した格安旅行会社らしい。初めてチェコに来た1993年の時点ではまだ存在していなかったけれども、2000年ごろに二度目、三度目に来た時にはすでに存在していたはずだけど、航空券の手配をするのに業者を探したときに名前を聞いた覚えはない。まだ知る人ぞ知る存在だったのか、ヨーロッパはあまり扱っていなかったのか、アジアや太平洋方面に強い会社だという話も聞くので、情報通の友人も教えてくれなかったのかもしれない。
1993年は、まだ民主化して間がなかったし、チェコとスロバキアが分離したばかりだったので、共産主義時代からソ連・東欧へ観光客をほそぼそと送り出していた会社に手配を任せた。あの会社も旅行の自由化で大変なんじゃないかと思うけれども、社名を忘れたのでどうなっているか確認できない。そして2000年ごろに使った会社は、エイチ・アイ・エスだったかな。
それはさておき、今回の旅行会社の倒産で、海外に取り残された人がかなり出たようだ。それに比べればお金を払い込んで出発前だったという人は、まだしもましだったのだ。取り残された人たちには自力で帰ってくるようにという指示が出たみたいだし。
だから、ホテルだけでなく航空券も自分で手配して戻って来なければならないのかと心配していたら、すでに発券済みの航空券があれば、旅行会社がお金を払っていなくても、飛行機に乗れるということである。日本政府もそこまでひどいことは言わないか。最初の予想ほど、ひどい問題にはならずに済みそうである。それでもまだ千人以上の方が国外にいるらしいので、無事に帰国されることを願っておきたい。
さて、チェコでも何年か前に、同じような事件が起こった。テレビでも広告を流していた大手の旅行会社が倒産して、国外に取り残される人がかなりの数出たのだ。夏のバカンスシーズンが始まったばかりのころで、南ヨーロッパのギリシャ、トルコ、エジプトなんかで不安な日々を過ごす人が多数出た。このときは、政府が特別機を飛ばして被害者をチェコに連れ帰ったような記憶もあるのだが、アラブの春のときのことと混同している可能性もある。
とまれ、このときの対応では、トミオ・オカムラ氏が、旅行業者の業界団体の代表としてテレビに出てきて、あれこれまくし立てていた。たしか日本人向けの旅行会社を経営していたのである。こんな場面で顔を売って、今では国会議員になってしまったわけだ。来年の大統領選挙出るのかね。
この時期から、すでにチェコの旅行業界には、旅行会社のための保険が存在したらしい。倒産した場合に、国外に取り残された人を速やかに帰国させたり旅行を完了させたりし、旅行に行けなかった人たちの返金要求に対応するための保険である。当時は義務ではなかったので、加入していない旅行会社もあって、オカムラ氏は、この保険に入っていない業者が倒産したからこうなったのであって、大部分の保険に加入している業者の場合には倒産してもこんな問題は起こらないとか何とか言っていたのかな。
この事件の後で、旅行会社は保険に加入することが義務付けられ、現在では加入している保険の学によって、販売できる旅行商品の総額が規制されるというところまで来ていたかな。旅行業者は、保険に加入していることを証明する書類を、客に見えるように掲示する義務もできたはずなので、その書類のない旅行会社は避けた方が無難かもしれない。
ただし、これは自社で旅行を企画販売している会社に義務付けられたもので、他社の商品を売るだけの旅行代理店の場合には不用だったかも知れない。いずれにしても、そんな小さな代理店よりも、自社商品を売れる大きな旅行会社を使う方が安心というものである。かつて国営の旅行会社だったチェドックとかさ。
いずれにしても、この手の消費者保護の面で、チェコの方が日本よりも先に行っていたというのに驚かされてしまった。問題が起こりすぎて対処せざるを得なかったという可能性も高いのだけど。銀行関連の消費者保護だって以前は、まったくなかったのが、今では銀行が倒産しても預金者はある程度守られるようになっているし。それでも、銀行も大手のつぶれそうにないところを選んだほうがいいと思うけどね。
4月5日23時。
2017年04月07日
森友学園とブルノの工業団地(四月四日)
知人からメールに、最近の日本の話題として、「森友事件」というものについて書かれていた。日本のニュースも全く追いかけていないわけではないので、事件になっているという話は知っていたけれども、何が問題なのかはよくわかっていなかった。
そもそも、この学校の名前の読み方がわからなかった。それで、ウィキペディアを見たら、森友(もりとも)さんという人が創設した塚本幼稚園というのが母体になってできた学校法人だった。だから、「もりとも」学園と読むようだ。実は最初にこの校名を見たときには、最近はやりのエコロジーの流れに乗って、「森は友達」的な名前の付け方をしたのかと思ってしまった。音読みで「しんゆう」、訓読みで「もりとも」、ないとは思うけれども、重箱読みで「しんとも」、湯桶読みで「もりゆう」、どれもピンと来なかった。
この問題の発端は、小学校を設立する予定だった国有地を、安く払い下げてもらったことのようである。しかもその土地にごみが埋められていて、その処理にお金がかかることを安くする理由にしていたというのだけど、いわゆる産業廃棄物でも埋められていたのだろうか。その処理を実際に行ったのかどうかも問題になっているのか。
国有地であれ、地方公共団体の土地であれ、企業や学校などを誘致するために、土地を象徴的な値段で売却するなんてのは、よくある話で、チェコでも各地に土地を整備して将来的には工業団地にしようとしている地方公共団体は多い。多すぎて買い手市場になってしまっており、1コルナなんて価格でも買い手がつかずに、空き地のままになっているところも多い。よそがうまくいっているからで、無計画にやるからこんなことになるのである。
工業団地の空いた土地を埋めるために、国や地方が高額の助成金を出してまで誘致することもある。企業の側にとっては、立ち上げの経費が安く抑えられるメリットがあるのと同時に、早期に撤退すると助成金の返却を求められ、撤退しにくくなるという面もある。一昔前に、ある日系企業が、工場も建設されて生産開始を待つばかりになってから撤退したことがある。生産を開始して垂れ流す赤字と、これまでの赤字に返却する助成金を足したものを比べて、撤退したほうが損が少ないという結論になったらしい。
そして、安く払い下げてもらった土地に、ごみが埋まっていたという話を聞いて思い出したのが、数年前にブルノの知人から聞いた話だ。ある日系企業がブルノに進出しようとして、土地をただ同然の価格で譲ってもらった。しかし、いざ工場の建設を始めようとしたところ、第二次世界大戦中に埋設された地雷が埋まっていることが発覚したらしい。
企業側は土地の受け取りを拒否し、市側に地雷の除去を求めたらしい。市側は廉価で土地を譲る上に地雷除去の費用まで負担するのは避けたいという意向で、一度は交渉が決裂寸前まで行ったという。最終的に、どちらが負担したのか、詳細は聞いていないけれども、工業団地として整備したときに気づかなかったのかよと言いたくなる。いや、不発弾が爆発しなかったのは、単なる幸運にすぎなかったんじゃないのだろうか。
森友学園の場合には、事前にごみがあることはわかっていたようだから、このブルノのケースとは違うけれども、国有地を管理する国側が、しっかり調査してごみの処理をしたうえで土地を払い下げることにしていれば、問題なかっただろうにという点では、あまり変わらない。こういう、傷ありの物件の場合には、市場価格なんてあってないようなものだし、払い下げが済んでから発覚して損害賠償を求められるよりはましだったということか。
その後、政治家が圧力をかけたおかげで安く払い下げを受けられたのではないかという話も出てきて、そこに安倍首相だけでなく、その夫人やら、別の政治家やらの名前が出てき。国会でも野党側も与党側もぼろぼろだったようで、正直意味不明である。こういうのは、やったやらないの水掛け論になりがちだからしかたがないといえば言えるのだろうけど。少なくとも散見した記事からは野党側が舌鋒鋭く首相を追い詰めたという印象は受けなかったし、与党側がうまく追及をかわしたという印象もない。昔はもう少し与野党の議論がかみ合っていたような気がするのは、気のせいだろうか。
まあ、その点ではチェコもそんなに大きな違いはない。十年ほど前に、知人がある国立公園の管理事務所で働いているというお兄さんから聞いたという話を教えてくれた。時の総理大臣から電話があって、友人が狩猟をしたいと言っているから案内するようにと。管理事務所側がここは禁猟区なので狩猟は認められないと断ろうとしたら、総理大臣の権限だといって強引に押し切られたのだとか。今はここまで露骨なことはないだろうけれども、政治家や関係者が役人に圧力をかけて言うことを聞かせたとされる事例は、いくつもある。それが原因で政権投げ出した総理大臣もいたけど、あれはひどく無責任なやめ方だった。
幼稚園で『教育勅語』を素読させるという教育のやり方も批判されていたが、問題は『教育勅語』なのか、素読なのか。素読なんて意味がわからないままに念仏のように唱えるわけだから、内容は何でもいいといえばいい。ただ、もっと他にあるだろうとは言いたくなる。『論語』の一節でも、読ませておけばここまで批判されることはなかっただろうに。漢文の素読をすることで、そのリズムになれ、古文の語彙にも親しむというのは、内容が理解できなくても将来の役には立つだろう。ただ、幼稚園児にというのは早すぎるような気もする。英語を教えるよりはましか。
このいわゆるグロバリゼーションのなかで、国際化とか、国際規格とかいうものを押し付けられるのに嫌気がさした人たちが、右傾化、右傾化というよりは民族主義的な方向に走ってしまう気持ちはわからなくはない。外国に長く住んでいるからか、グローバル化の美名の元に自分の根っこのようなものが、侵食されていくような不安を感じることがある。こういう揺り返しが起こっているのは日本だけでもないだろうし。
だからと言って自分では『教育勅語』も『論語』も読もうとは思わないし、読ませたいとも思わない。そうだねえ、読ませるなら
どうでもいいっちゃどうでもいいのだけど、今後はこの事件すこし注目して追いかけてみようかと思う。
4月5日9時。
2017年04月06日
与謝野晶子の『源氏物語』3(四月三日)
与謝野晶子の二度目の現代語訳である『新新訳源氏物語』に行く前に、日本古典全集の中で、見かけた源氏物語への言及を取り上げておく。
まず、大正十五年に刊行された『御堂関白記』の解題である。一編の道長論、もしくは道長賛歌となっているこの解題において、道長が新文学の激励者であり保護者であったとする部分がある。この辺りは、明治期の新しい文学の興った時代に活躍した人たちならではの意見であるような気もするが、大切なのは続けて「紫式部の「源氏物語」は與謝野晶子の考證に由れば道長の全盛期以前に作られた」と、『源氏物語』の書かれた時期を道長の全盛期以前に設定しているということである。この全盛期以前というのが何時を指すのかが問題で、公卿首座についたときなのか、彰子が中宮になったときなのか、これだけでは判断がつかない。
次は、大正十五年十月から五分冊で刊行された『源氏物語』の解題である。この古典全集版の『源氏物語』は、底本としては正宗敦夫所蔵の「元和活字本」という本を使っているが、挿画は与謝野晶子所蔵の『絵入源氏物語』から、印刷できそうなものを選んで採用したという。
また『源氏物語』の作者、成立に関しては与謝野晶子が「源氏物語雑考」を書いて五巻の巻末に付したと書かれている。晶子の『源氏物語』に対する知識の深さを褒めた上で、与謝野寛と正宗敦夫の願いに応えて書くことになったのだというから、どんなものなのか読んでみたいのだけど、デジタルライブラリーではまだ未公開なのである。うーん残念。日本の公共図書館だったら閲覧して印刷できるところがあるようだから、日本にいる知り合いに頼んでみようかな。そこまですることはないか。
それで他に何かないかと探していたら、西田禎元という人の「『源氏物語』と与謝野晶子」という文章を発見した。ちなみに名前はこの漢字で「ただゆき」と読ませるらしい。いやあこれは知らなきゃ読めんわ。この論文は与謝野晶子の「源氏物語礼賛」の歌が主要テーマになっているが、晶子の源氏論についても情報が出ていた。
最初の「紫式部の事ども」という文章は、次の「紫式部と其の時代」とともに、『人及び女として』という大正五年四月に天元堂書店から刊行されたエッセイ集の中に収録されており、文章の末尾にどちらも「一九一五年十一月」と書かれているから刊行の前年に書かれたものであることがわかる。
「紫式部の事ども」では、紫式部と近松門左衛門の二人を日本の文学界の最大の天才だとしている。清少納言、柿本人麻呂、井原西鶴の三人がちょっと下がった二番手の地位にあって、他はみなその下だと断定している。
その後、「久米博士」が源氏物語を紫式部の作ではないと論じたことを批判している。この「久米博士」は、歴史家の久米邦武(1839-1931)だろうか。「婦人」にしか書けない「婦人」の作であることは明白だと強調しているのは、久米博士が男性作家説を唱えたからかもしれない。
その一方で、紫式部の時代を自らが過ごした明治期の新しい文学の生まれた時期と重ねてみているような記述もある。特に「紫式部が小説を書くに至ったのは、今の青年が小説を書くのと同じ」だったのだと記しているのに、新しい文学を作り出そうとしてきた世代の熱を感じてしまうのは、思い入れが強すぎるだろうか。
そして、『源氏物語』が書かれたのは、夫の宣孝が亡くなった後、中宮彰子に仕えるために出仕する前の、式部が廿代半ばだった三、四年だろうとしている。古典全集の『御堂関白記』の改題よりは具体的な時期が出ているのだが、宣孝の没年長方三年(1001)とされているので、それから1005年ぐらいまでの間に書かれたと考えているようである。『源氏物語』を書いたことが評価を高め、道長に請われて彰子に仕えることになったと言うのである。
また、『源氏物語』が書かれた順番についても、まず現在の順番では二番目に来る「箒木」から書かれ、冒頭の「桐壺」は、全体を書き終えた後に、序文のような形で光源氏の生い立ちを記すために加えたものだろうと推測している。それは「箒木」の文章に未熟な点があることと、「桐壺」の文章の円熟ぶりからも傍証されるらしい。つまり、この時点では、『新訳源氏物語』の時点と同様に、『源氏物語』は、紫式部が一人で書いたものだと考えていることになる。
最後に式部の娘について、二人説があるけれども一人だけだと断言する。もともと「越後の弁」として出仕していたのが、「大弐三位」に呼び名が変わったのだと言う。この娘も歌人として才を発揮した「才女」であったと記されるが、『源氏物語』との関係については全く触れられていない。
もう一つの「紫式部と其の時代」は、特に『源氏物語』への言及はなく、なぜ平安時代中期に、式部をはじめとした女性の文人が活躍したのかということを簡単に記すのみである。
なんだか無駄に長くなってきたけれども、今更やめられないので、いつになるかわからないけど続く。
4月3日23時。
ちと順番が変わってしまったけれども、中巻である。4月5日追記。
価格:884円 |
2017年04月05日
プラハダービー(四月二日)
チェコ語風に「デルビ」と言った方が気分が出るのだけど、永遠のライバルチーム、サッカーのスパルタ・プラハとスラビア・プラハのすでに287回目だという公式戦が行なわれた。この二チームのファンはライバル意識が強く、特にウルトラスなどと自称する連中のたちの悪さは、オストラバのバニークファンに引けを取らない。ダービーのたびに試合中に発煙筒がたかれ、ひどいときには発煙筒や爆竹がグラウンドに投げ込まれるため、試合が中断することもしばしばである。持ち込ませないような警備体制をとればいいのだろうけれども、クラブとファン団体の一部がずぶずぶの関係だから難しいのだろう。サッカーを見に集まる人の大部分が普通のファンであることを考えると、公共の安全を脅かすということで国、警察が手を出して、ファンの入場の際に厳重なチェックを行ってもいいような気がする。このままでは、いずれ惨事が起こっても不思議はない。
プラハダービーは、同じプラハにあるチーム同士の試合であるため、ファンたちの動きにも特徴がある。相手ホームの試合でも、まず自チームの本拠地に集合して、プラハ市内を集団で行進して試合会場に向かうのだ。今回はスラビアのホーム、エデンでの試合なので、スパルタファンがレトナーに集合して、ブルタバ川を渡ってブルショビツェ地区にあるエデンのスタジアムに向かった。
試合開始は、17時30分。その四時間前の13時30分ぐらいには、スパルタのホーム、レトナーのスタジアムの前にファンが集まり始め、約五百人ほどで14時ごろに出発。この時点で、最低でも一名のファンが警察に拘束されたらしい。
レトナーの丘を降りてブルタバ川を渡った後、はた迷惑なことに、旧市街の中心、旧市街広場とバーツラフ広場を通っていた。警察の車両に厳重に包囲された状態だとは言え、旧市街の細い道になると、車の通れないところもあるし、長蛇の列になってしまうから、プラハ市民や観光客にとっては、危険を感じることもあっただろうし、何よりも通行の邪魔だっただろう。
その後、なぜか、地下鉄に乗りやがった。ニュースを見てひよるな、歩けよと思ったのは俺だけか。とまれ、国立博物館の下にあるムゼウム駅から、四つ目のジェリフスケーホまでたいした距離ではないはずなのだが、地下鉄で移動した。その後地上に出てからも、発炎筒を焚いて投げるなどの行動を取って、周辺の交通を完全に遮断してしまった。地下鉄では被害は出ていないと思ったら、駅の構内で発煙筒を炊きやがったバカがいた。
プラハを横断する行進の間に数人のファンが警察に拘束されたというけれども、もっと捕まえろとよ言いたくなる。捕まえても入れておくところがないということか。エデンのスタジアムについたのは、試合開始の二時間前の15時30分前後。スラビアのファンもすでに終結しており、一触即発の雰囲気だったようだが、警察が何とか二つのグループを分断することに成功した。それにしても試合開始の二時間も前に会場に到着して何するつもりなんだろうって、すきあらば乱闘をしようというのだろうなあ。
現在、チェコのサッカーの一部リーグの一次放映権を持っているのは、O2というスペインの通信会社テレフォニカの子会社が始めた有料テレビ局である。チェコテレビは、O2が選んだ二試合以外の中から二試合選んで放送することになっている。当然プラハ・ダービーの放映権はO2TVが握っていた。
幸いなことに最近O2TVフリーというのが、地上波デジタルで見られるようになっていて、このダービーも番組表の中に入っていた。不安は、テニスやバスケットなどの生中継の場合に、有料放送だからということで、ちゃんと見られない時間帯が長いことだった。画面の下にタイマーがついていて、そのタイマーが0になると、スポーツの画面は小さくなって音が消え、テレビ局の番組の予告編がそのわきで放送されるのである。翌日の再放送の場合にはそんなことはないのだけど、プラハ・ダービーも有料視聴者を増やすためのダシにされるかと心配していたのだ。
実際は、そんなことはなく、番組の説明には有料ゾーンの放送だとか書かれていたけれども、普通に一試合ずっと見られるような形で放送されていた。チェコ中の注目を集めるプラハ・ダービーで、見たければ金払えなんて態度をとったら、O2に対するボイコットが起こりかねないと考えたのだろうか。
試合のほうは、ちょっと別件で忙しくてちゃんと見ていないのだが、試合終了間際にスパルタが先制して、スラビアがロスタイムのペナルティで同点に追いついて引き分けに終わった。PKの判定にスパルタの監督のラダは怒り狂っていたけれども、O2TVのコメンテーターは、この試合の審判はほぼミスなく笛を吹いていたと言っていた。ただし、あれはPKではなかったという意見が多いようである。
とまれ、試合そのものよりも、試合前後の騒ぎのほうが大きなニュースになってしまうのが、チェコサッカーの最大の問題である。今回はおとなしかったと言ってもいいのだけど。
4月3日23時。
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2017年04月04日
エイプリルフール(四月一日)
エイプリルフールというと、「アサヒパソコン」という雑誌を思い出す。パソコンの普及に大いに貢献したウィンドウズ95発売前後のバカ騒ぎに巻き込まれて、特に必要もなかったパソコンを購入してしまったのだが、ろくに使えなかったので雑誌でも読んで勉強しようとあれこれ立ち読みした。その中で、一番まともそうだったのがこの雑誌だった。その普段は真面目でまともな雑誌が、四月前半に出る号で、エイプリルフールをやっていたのだ。
新製品紹介の見開きページが、まるまる嘘の、嘘だけれどもあってもおかしくなさそうな製品の紹介に使われていた。もちろんページの下の方にエイプリルフールの企画であって云々という記載が入っていたのだが、最初の年はそれに気づかず、面白い商品を考える人がいるんだなあと信じてしまい、確か仕事帰りに秋葉原に寄って探してしまったのだった。
当時パソコンから出る電磁波というものが、体に悪影響を与えるなんて話が、まことしやかに語られていた。それを信じていたわけではないのだが、偽記事の中に備長炭を使った小物をデスクトップのパソコンの上に置くことで、電磁波を吸収できるという製品が紹介されていたのだ。そんなのありえねえだろうと思いつつ、あまりのばかばかしさに逆にありえるかもと思ってしまった。ついほしくなって、秋葉原の専門店に置かれていると書いてあるのを見て……、救いは、お店の人に質問しなかったことと、誰かに話をする前に記事がエイプリルフールだということに気づけたことだけである。
この企画、毎年楽しみにしていたのだが、何年かたつと行なわれなくなってしまった。だまされた読者からクレームでもついたのだろうか。編集後記に今年のエイプリルフール企画はどうでしたかなんてことも書いてあって、よく読めば嘘だということがわかるようになっていたのだけど。ネタ切れだったのかもしれない。
チェコ語で四月は、ドゥベンという。ただし、エイプリルフールに関係するときだけ、アプリルと呼ばれることになる。チェコのインターネットでは毎年このアプリルがエスカレートしているような印象がある。今年も、Seznamの地図が奇妙なものに改変されていたし、スパルタとスラビアが合併するなんて記事も出ていた。
正直な話、この手の企画は大々的にこれ見よがしにやられると興ざめ以外の何物でもない。見出しを見ただけでエイプリルフールの嘘だとわかってしまうような記事は、読みたいとも思わないので、チェコのネット上の企画記事も見出しだけ見て、記事は読まなかった。あの「アサヒパソコン」の記事が魅力的だったのは、普段は、他のパソコン雑誌と違って真面目な記事ばかり載せている雑誌がやるという意外性と、記事自体が信じてしまえそうで、信じてしまっても実害のないものだったおかげである。
さて、今年はプラハのハーフマラソンが、エイプリルフールに行なわれたのだけど、ちょっと目を疑ってしまった。女子の優勝した選手が、世界記録を更新するタイムでゴールした。それはいい。ただ、ゴールまで男性のペースメーカーに引っ張ってもらって、一緒にゴールしていたのだ。ペースメーカーって途中で外れるものじゃないのか。チェコ人の選手もチェコ記録を狙ってかペースメーカーにゴールまで引っ張ってもらっていたけれども、ペースメーカーがゴールまで先導したのが世界記録とか国の記録ってのは、かまわないのだろうか。市民ランナーがペースメーカーについて走って自己記録更新というのならともかく、なんだか狐につままれたような気になってしまった。
かつて、熱心に見ていたマラソンとか、陸上の長距離レースに興味が持てなくなったのは、記録を更新させるためとか称して大々的にペースメーカーが導入されるようになってからだった。昔は結構序盤から行けるところまで行けってな感じで独走する選手がでることもあって、最初から最後まで目が離せなかったけど、最近のマラソンはつまらなくなってしまった。ペースメーカーをぶっちぎって走るような選手が出てこないものだろうか。
そしてもう一つエイプリルフールの冗談っぽかったのが、サッカーのプルゼニュとテプリツェの試合である。テプリツェは日本ではほとんど知られていないようだが、実は日本の旭硝子の現地法人がオーナー、メインスポンサーとなったチームである。だからといって日本の選手がいるわけではないけど。
とまれ、その試合でプルゼニュが、コーナーキックでやらかした。コーナーからドリブルするというトリックプレーをしようとしたのだろうか。コピツが、ゼマンが近づいてくるのを見て、コーナーに置いたボールに軽く触れて動かしてから、コーナーを離れた。ゼマンがのんびりとボールに近づいているすきに、コピツがボールに触れたことに気づいたテプリツェの選手が、ゼマンを追い抜いてボールをかっさらってカウンター。プルゼニュの選手が戻り切れないうちに、ゴールが決まってしまった。チェコだからこんな冗談みたいな試合もあるよね。
4月2日22時。
結局この試合、終盤にプルゼニュが頑張って0-2から引き分けに持ち込んだのだけど、翌日監督が解任されてしまった。
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2017年04月03日
与謝野晶子の『源氏物語』2(三月卅一日)
『新訳源氏物語』下巻二の末尾には、「新訳源氏物語の後に」と題したあとがきが付されている。それによれば、「明治四十四年一月に稿を起こし」、「大正二年十月に至って完成」している。この間二年十ヶ月間に「欧洲へ往復し」「二度産褥の人と」なった上に、一度は「危険な難産」だったというのだから、実際に翻訳にかけられた時間は、遥に少なかったはずである。明治四十五年の洋行によってだけでも半年以上は日本を離れていたわけだし。
その上で、当初の計画よりも早く完成したと言っているから、かなりの注ぎ仕事、あまりよくない言い方を使えばやつけ仕事になっていたのだろうか。それが不満で、後に古典研究の一環として、「古典全集」の刊行にかかわり、後に再び『源氏物語』の現代語訳に取り組むことになったのかもしれない。
その一方で「源氏物語は我国の古典の中で自分が最も愛読した書である」と言い、『源氏物語』への理解については強い自信を表明している。晶子は「ひらきぶみ」と題したエッセイで、「九つより『栄華』や『源氏』手にのみ致し候少女は、大きく成りてもますます王朝の御代なつかしく」と、子どものころから『源氏物語』を読んでいたことを記している。源氏読みとしては年季が入っていたというわけだ。
そして、江戸期に多く書かれた『源氏物語』の注釈書についての不満を述べ、明治時代にも読み続けられていた北村季吟の注釈『湖月抄』について、「原書を謝る杜撰の書」とまで批判している。ちなみに、夫の与謝野寛との共著『巴里より』の末尾には、「源氏物語を湖月抄と首引で」読むフランス人の女性が出てくる(ただしこの部分は与謝野寛の手になるものである)。
現代語訳に際しては、「桐壺」以下の数帖は、「一般に多く読まれていて難解の嫌ひの少ない」という理由で抄訳にしたことが語られる。「桐壺源氏」「須磨源氏」なんて言葉があるぐらいだから、読み始める人は多くても、通読までした人はあまり多くなかったのだろう。だから、読んだことのない人が多いだろう中巻以降は、「原著を読むことを煩はしがる人人のために」、省略せずに殆ど全訳したという。
重要なのは、このあとがきで、『源氏物語』が光源氏を主人公にした部分と、いわゆる宇治十帖とに二分できることを認めたうえで、「源氏物語を読んで最後の宇治十帖に及ばない人があるなら、紫式部を全読した人とは云はれない」と書いていることだ。つまり、この時点では、与謝野晶子は『源氏物語』の作者は紫式部一人であったという説をとっているのである。
また、「源氏物語を読むには、その背景となった平安朝の宮廷及び貴人の生活を知ることが必要である」と言い、「当時の歴史を題材とした写実小説である栄華物語の新訳に筆を著けて居る」と言っているのも注目を引く。この意識が、「日本古典全集」の刊行への参加につながっているはずであるし、『栄華物語』の現代語訳は、『新訳源氏物語』と同じ版元の金尾文淵堂から、大正三年七月、八月、大正四年三月に上中下三巻で刊行されている。こちらには序文、あとがきはないが、中沢弘光の挿画は付されている。
最後に、巴里滞在中に、彫刻家のロダンと詩人のレニエに、「この書の前二巻」を献呈したことが記される。「前二巻」がさすのは、最初の二巻ということで上巻と中巻だろうか。与謝野晶子が明治四十五年に渡欧のために東京を発ったのが、「巴里にて」によれば五月五日である。上巻は二月の発行なので問題ないにしても、中巻の刊行日は奥付によれば六月二十一日だから、普通に考えれば間に合わなかったはずである。
可能性としては二つ。一つは当時から奥付の刊行日は公式の日付であって実際の刊行は、それよりも早いことも多かったので、五月の出発時点で印刷が済んでいて著者用に製本したのを何冊かもらっていた可能性。もう一つは、中巻が完成してから郵便でパリに送ってもらったというもの。ただし、「巴里にて」の各節の末尾の日付が、書いた日付ではなく、出来事の起こった日付であるとするなら、ロダンに面会したのは六月十九日、レニエに会ったのは前日の十八日ということになるから、奥付の日付以前に発送されたことは間違いない。
書籍や雑誌の奥付の日付は、どこまで信用していいのか悩ましいものがある。一般には実際の刊行の方が早いのだが、諸般の事情で刊行が遅れた場合にも奥付の日付はそのままということもある。どのぐらいのずれがあるかは、出版社によっても違うし、同じ出版社でも時期よって変わることもある。だから、どうやって間に合ったかというのを考えるのは不毛といえば不毛である。
とまれ、ロダンは、挿画の印刷に使われた木版の技術を激賞したらしい。もちろん日本語はわからないので、将来翻訳によって内容を理解できるようになればと語ったようだ。この出会いを記念してか、夫妻は大正二年に生まれた四男にアウギュストという名前をつけている。この辺り、森鴎外が子供や孫にドイツ語の名前に無理やり漢字を当てたような名前をつけた事実を彷彿とさせる。与謝野夫妻が鴎外と親密な関係だったゆえんなのかもしれない。
4月1日10時。
忘れられていた与謝野晶子の『源氏物語』の初訳を出したという事実には頭が下がるけど、署名を変えてしまうのは如何なものか。「あとがき」も収容されているだろうということで、下巻を挙げておく。4月2日追記。
2017年04月02日
オロモウツ観光案内1(三月卅日)
オロモウツの観光名所というか、記念物については、折を見て書いていくつもりだったのだが、いくつか書いた時点ですっかり失念していた。冬の寒さも和らぎ四月も近づきオロモウツに来る観光客も増えるかもしれないし、そんな人がこの駄文を読むとも限らないけれども、もしかしたら何かの役に立つかも知れないと言うことで、相も変わらずだらだらと書き散らすことにする。
まずは、すでにどこかに書いたバーツラフ広場から始めよう。この広場の奥に三本の尖塔を伴って聳え立っているのが、聖バーツラフ大聖堂である。もともとは1107年ぐらいからロマンス様式で建築が始まったらしいのだが、その後何度も改修、改築を受け、最終的には十九世紀の終わりに当時の大司教の命令で、ネオゴシック様式に改築された。その結果として、教会の前面にそびえる高さ68メートルの二本の塔と、南側に約102メートルの塔が建てられた。この南の塔は、モラビア地方の協会の塔としては最も高いものになる。
プシェミスル王家のモラビア地方支配の拠点の一つだったオロモウツに司教座がおかれたのは十一世紀後半のことで、1207年には司教を自分たちで選ぶ権利を獲得した。1270年代にオロモウツの司教とチェコ王のプシェミスル・オタカル二世が、大司教座への昇格を図ったようだが、それが実現したのは五世紀以上を経た1777年のことだった。聖バーツラフ教会がオロモウツの司教座の教会になったのは、すでに1141年のことだという。それ以前は今は存在しない聖ペトル教会が司教座教会となっていたようだ。
チェコの教会で、いや他の国もそうかもしれないけれども、気に入らないのは、ミサなどで使用するためのスピーカーやモニターなどの電気製品が設置されていることだ。厳粛なはずの宗教施設で行なわれる宗教儀式で、マイクを使うなんて許せないと感じてしまうのは、日本人ゆえだろうか。教会の建物は音響がいいはずなのだから、マイクなんぞに頼る必要はあるまいに。
教会建築に興味のある人なら、聖バーツラフ教会の内装についてもあれこれ薀蓄を傾けられるのだろうけれども、無駄に高い天井を見上げてすごいなあと思うぐらいである。一番奥の祭壇ところまで行くと、脇の階段から地下に下りられるようになっている。大司教の儀式用の衣装などが展示されている。ポーランド出身のヨハネ・パウロ二世はチェコでも人気があって、1995年にオロモウツを訪問したときの写真もあったかな。さらに階段を下りると、オロモウツの大司教座にとって重要な人物の遺骸が納められた棺が置かれた部屋がある。誰だかの心臓もどこかに納められていると言っていたかな。棺も心臓も教会に興味のない人間が覚えていられるような有名人のものではなかった。
聖バーツラフ教会の隣には、ゴシック様式で建てられた控えめな聖アナ教会がある。最古の記録は十四世紀の半ばにまでさかのぼるらしい。この教会が重要なのは、オロモウツの司教、後には大司教を選出するための選挙が行なわれたことである。いや、もしかしたら現在でも行なわれているのかもしれないけれども。
そして、聖バーツラフ教会と、聖アナ教会の間にあるのが、プシェミスル宮殿の入り口である。もともと、このバーツラフ広場にはプシェミスル家がモラビア支配のために建築した城があったらしい。その一角に建てられたのが聖バーツラフ教会であり、このプシェミスル宮殿である。ただ、最近は建設した人物の名前を取ってズディーク宮殿と呼ばれることが多いようだ。それから、チェコ語の宮殿(パラーツ)という言葉も要注意で、日本語でイメージする王の居城、もしくは大貴族の居城という意味はない。宮殿様式で建てられた建物ということで、商人が建てたものであっても、宗教関係者が建てたものであっても、一律に宮殿と呼ばれてしまうのである。
この宮殿は、バーツラフ広場側からは、聖アナ教会の陰に隠れて入り口しか見えないのだけど、裏側に回って、城下の公園から見上げると、聖バーツラフ教会から城壁の上に連なる建物が、大きな城を構成しているのがよくわかる。ただし、現在まで残っているのは建物の一部だけだという。本来の宮殿の姿を再現したモデルが、隣接する大司教教区博物館に展示されている。
バーツラフ広場で、1306年に最後のプシェミスル家の王であるバーツラフ三世が暗殺された。遺体は、プラハに移されるまで20年の間、聖バーツラフ教会の地下に安置されていたという。
3月31日23時。
既出の記事と重なる内容もありそうだけど、細かくチェックしている暇はないのでこのまま行く。4月1日追記。
2017年04月01日
与謝野晶子の『源氏物語』1(三月廿九日)
あれこれ調べてみたところ、国立国会図書館のデジタルライブラリーで『新訳源氏物語』が公開されていた。最初の版の場合には、下巻一がないけど。
奥付によると最初の上巻が刊行されたのは、明治四十五年二月、出版社は東京市麹町区平河町にあった金尾文淵堂、発行者は金尾種次郎。著者の住所も麹町区になっているからご近所さんだったのかね。デジタルライブラリーで公開されているのは、大正二年十一月に出た第十版のもので、二年弱の間に十回も版を重ねたというのは、売れ行きがよかったということだろうか。
それに続いて中巻は、明治四十五年六月に、下巻一は翌大正二年八月、下巻二は同年十一月に刊行されている。中巻と下巻一の間に一年以上の間があるのは、明治天皇の諒闇のためかとか想像をたくましくしてしまうのだが、明治四十五年の五月ぐらいから与謝野晶子はパリにいた鉄幹を追ってヨーロッパに出かけているのだった。
この最初の源氏物語の翻訳には、上田敏と森鴎外という当時の文学界の大御所が序文を寄せている。上田敏といえば、訳詩集『海潮音』で、いわゆる新体詩というものを確立した詩人だが、高校のころの英語の先生がぼろくそに言っていたのを思い出す。その先生、大学ではドイツ語を専攻して原詩に触れたことがあるようで、例の「山のあなたの空遠く」という世にも名高い一節が気に入らなかったらしい。原詩は素朴な田舎のおっさんが歌う民謡のようなものなのに、あんな格調高い言葉に訳してしまって、翻訳ではなく半分以上は創作だと批判していた。いや、詩そのものはほめていたのだけれど、あれを翻訳というのが許せなかったようだ。
鴎外も、翻訳を通じて新体詩の確立と流行に貢献しているし、短歌の世界でも子規派の連中と、鉄幹派の連中の間を取り持とうとしたこともあったらしい。言わば、文壇の重鎮だったわけだが、この序文は本名の森林太郎名義で書かれている。近代文学の人なら、そこに何がしかの意味を見出すのかもしれないが、こちとらしがないえせ平安人である。文学史の授業で名前を覚えた人たちの交流が、現実のものとして見えてくることに感動するしかない。
上田敏は、この序文で、『源氏物語』の文章を、さまざまな引用や尊敬表現などを取っ払ってしまえば、典型的な女性の話し言葉で、「殆ど言文一致の文章」ではないかと言い、後世の型にはまった文章よりも、「今日の口語に近い」と書いている。明治末の言文一致運動の最中ならではのコメントと言えるのだろうか。
そして、作品の一部を切り出して、芸術として賞玩するのであれば、古文で味わうほうがいいだろうけれども、全体を読んで味わい楽しむためには「現代化を必要とする」と、現代語訳の意義を述べ、この与謝野晶子の訳については、ただ単に言葉を置き換えただけの一般の人でも読めるようにするためのものではなく、詩人が古い調べを新しいリズムに移し変えて作り出した新曲だという。現代化によって失われるものがあることは否定しないが、訳文が「きびきびした」ものになっていることを喜び、「此の新訳は成功である」と結ばれている。
鴎外の序文は、『源氏物語』の現代語訳の必要性からはじめ、一般のことは知らず、自分にとっては必要であるという。たくさん翻訳が出ている近世の文人の擬古文や漢文で書いた著作の翻訳は不要だけれども、『古事記』のような古い時代の作品の翻訳は必要で、特に『源氏物語』の翻訳が一番ほしいという。
そして、その翻訳に対してもただの翻訳に過ぎないものだったら不満なのだけど、この晶子訳には満足だと述べ、同時代の人間で『源氏物語』を現代語に訳すのに最もふさわしい人物は与謝野晶子だとまで言う。
最後に『源氏物語』の翻訳を求める理由として、「読み易い文章ではない」ことを挙げている。桂園派の歌人であった松波資之の「源氏物語は悪文だ」という言葉も紹介している。この読みにくいという意見には、もろ手を挙げて賛成する。上田敏の言うように引用の部分とか尊敬表現とか取っ払っても、私には文脈がとりにくいところが多くて、原文で読むのには苦労させられたものだ。
この『新訳源氏物語』のもう一つの売りは、洋画家中沢弘光の挿絵が入っていることで、あとがきによれば、晶子自身の望みで、装丁と挿絵を担当してもらったようである。このあとがきについては、日を改める。
3月29日23時。
これは『新訳源氏物語』らしい。3月31日追記。