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2017年04月01日
与謝野晶子の『源氏物語』1(三月廿九日)
あれこれ調べてみたところ、国立国会図書館のデジタルライブラリーで『新訳源氏物語』が公開されていた。最初の版の場合には、下巻一がないけど。
奥付によると最初の上巻が刊行されたのは、明治四十五年二月、出版社は東京市麹町区平河町にあった金尾文淵堂、発行者は金尾種次郎。著者の住所も麹町区になっているからご近所さんだったのかね。デジタルライブラリーで公開されているのは、大正二年十一月に出た第十版のもので、二年弱の間に十回も版を重ねたというのは、売れ行きがよかったということだろうか。
それに続いて中巻は、明治四十五年六月に、下巻一は翌大正二年八月、下巻二は同年十一月に刊行されている。中巻と下巻一の間に一年以上の間があるのは、明治天皇の諒闇のためかとか想像をたくましくしてしまうのだが、明治四十五年の五月ぐらいから与謝野晶子はパリにいた鉄幹を追ってヨーロッパに出かけているのだった。
この最初の源氏物語の翻訳には、上田敏と森鴎外という当時の文学界の大御所が序文を寄せている。上田敏といえば、訳詩集『海潮音』で、いわゆる新体詩というものを確立した詩人だが、高校のころの英語の先生がぼろくそに言っていたのを思い出す。その先生、大学ではドイツ語を専攻して原詩に触れたことがあるようで、例の「山のあなたの空遠く」という世にも名高い一節が気に入らなかったらしい。原詩は素朴な田舎のおっさんが歌う民謡のようなものなのに、あんな格調高い言葉に訳してしまって、翻訳ではなく半分以上は創作だと批判していた。いや、詩そのものはほめていたのだけれど、あれを翻訳というのが許せなかったようだ。
鴎外も、翻訳を通じて新体詩の確立と流行に貢献しているし、短歌の世界でも子規派の連中と、鉄幹派の連中の間を取り持とうとしたこともあったらしい。言わば、文壇の重鎮だったわけだが、この序文は本名の森林太郎名義で書かれている。近代文学の人なら、そこに何がしかの意味を見出すのかもしれないが、こちとらしがないえせ平安人である。文学史の授業で名前を覚えた人たちの交流が、現実のものとして見えてくることに感動するしかない。
上田敏は、この序文で、『源氏物語』の文章を、さまざまな引用や尊敬表現などを取っ払ってしまえば、典型的な女性の話し言葉で、「殆ど言文一致の文章」ではないかと言い、後世の型にはまった文章よりも、「今日の口語に近い」と書いている。明治末の言文一致運動の最中ならではのコメントと言えるのだろうか。
そして、作品の一部を切り出して、芸術として賞玩するのであれば、古文で味わうほうがいいだろうけれども、全体を読んで味わい楽しむためには「現代化を必要とする」と、現代語訳の意義を述べ、この与謝野晶子の訳については、ただ単に言葉を置き換えただけの一般の人でも読めるようにするためのものではなく、詩人が古い調べを新しいリズムに移し変えて作り出した新曲だという。現代化によって失われるものがあることは否定しないが、訳文が「きびきびした」ものになっていることを喜び、「此の新訳は成功である」と結ばれている。
鴎外の序文は、『源氏物語』の現代語訳の必要性からはじめ、一般のことは知らず、自分にとっては必要であるという。たくさん翻訳が出ている近世の文人の擬古文や漢文で書いた著作の翻訳は不要だけれども、『古事記』のような古い時代の作品の翻訳は必要で、特に『源氏物語』の翻訳が一番ほしいという。
そして、その翻訳に対してもただの翻訳に過ぎないものだったら不満なのだけど、この晶子訳には満足だと述べ、同時代の人間で『源氏物語』を現代語に訳すのに最もふさわしい人物は与謝野晶子だとまで言う。
最後に『源氏物語』の翻訳を求める理由として、「読み易い文章ではない」ことを挙げている。桂園派の歌人であった松波資之の「源氏物語は悪文だ」という言葉も紹介している。この読みにくいという意見には、もろ手を挙げて賛成する。上田敏の言うように引用の部分とか尊敬表現とか取っ払っても、私には文脈がとりにくいところが多くて、原文で読むのには苦労させられたものだ。
この『新訳源氏物語』のもう一つの売りは、洋画家中沢弘光の挿絵が入っていることで、あとがきによれば、晶子自身の望みで、装丁と挿絵を担当してもらったようである。このあとがきについては、日を改める。
3月29日23時。
これは『新訳源氏物語』らしい。3月31日追記。