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2017年04月24日

オロモウツ観光案内3――大司教宮殿(四月廿一日)



 共和国広場から、町の中心とは反対のほうを向くと、図書館と郵便局に挟まれた細い通がある。郵便局よりも聖バーツラフのレストランの看板のほうが目立つかもしれない。その細い道の奥に見えている白い建物が、大司教宮殿である。最初のこの場所に宮殿が立てられたときには、まだ大司教座には昇格していなかったので、司教宮殿と呼ばれていたらしい。
 その細い通を抜けて大司教広場というにはささいな空間に出ると、右手にある薄い緑色の建物が、大司教宮殿の見た目を阻害しているのに気づくだろう。以前も書いたがこれがマリア・テレジアの立てた武器庫である。大司教広場の半分を占めることで、左右対称の建物の半分だけしか見えなくなっているのである。一説によるとそれだけでなく、正面の出入り口からの馬車の出入りも威風堂々とできないようにするのも目的だったのだという。
 たちが悪いのが、正面の入り口自体はふさがれていないので、出入り自体はできることである。ただ大司教が乗った馬車を、どちらに向けてもマリア・テレジアの武器庫の存在が邪魔になる。ましてや、お供をたくさん引き連れての行列で出発をしようと思ったら、武器庫沿いを進んでいくか、出てすぐに向きを変えるかしかない。
 マリア・テレジアには、オロモウツの司教座が大司教座に昇格するのに貢献したという話もあるのだけど、代替わりした後の大司教との関係がよくなかったということなのだろうか。興味がないわけではないけれども、何せこの辺のオロモウツの大司教とマリア・テレジアの仲が悪くて云々という話のネタ元は師匠なので、本科何かで読んだのではなくて口伝えで聞いた話の可能性もあるから、ついついためらってしまうのである。

 ところで、大司教宮殿の一般公開は、年に何回か決められた日だけだと思い込んでいたのだが、大司教宮殿のホームページで確認したら、いつの間にか、四月から十月の観光シーズンには、一般公開をするようになっていた。四月と十月は、月〜金は事前に連絡をして時間を予約する必要があって、土曜日と祝祭日は10時〜17時までが開館時間。五月から九月は、月曜日だけが予約が必要で、火曜から土曜は10時〜17時の開館となっている。入場料は80コルナで、50コルナ追加すれば写真撮影も許可されるようである。
 大司教宮殿の近くはよく通るのだけど、観光客と思しき人々が中に入っていくのを見かけることはほとんど見かけたことがなかったし、中に入っていくときにはたいてい入り口のところに、「ヨーロッパ文化財の日」とか、一般公開される理由だと理解したことが書かれていたから、特別の日だけの公開が続いているものだと思っていた。そういえば数年前に、十年内外かかった大改修工事が終わったというニュースを目にした記憶もあるから、その時期から公開されるようになったという可能性も考えられるのか。

 改修といえば、以前バーツラフ広場にある大司教博物館で働く知人から、相談を受けたことがある。改修工事の際に壁の中に塗りこめられていた象牙細工が大量に発見されたというのだ。それがどうも日本の根付と呼ばれるものらしいので見てほしいと博物館に呼ばれた。日本の昔話をモチーフにしたものが多かったので、その説明をして、作者名が読めるものは読み方を教えたけれども、芸術には疎いので、あまり役に立てなかった。
 そのとき聞いた話では、二十世紀前半の大司教がオリエント趣味の人で、共産党が政権をとったときに、没収されることを警戒して、厳重に封をして誰にも発見されないように壁の中に塗りこんでしまったらしい。それを誰にも告げていなかったために、改修工事の最中に発見されたときには大騒ぎになったと言う。
 現在大司教博物館になっている建物も、二千年代の初頭には、荒れ放題の幽霊屋敷と言われても仕方がないような惨状だったのだ。その前にモーツァルトの記念碑だけがあって荒涼とした印象を強めていた。それが、今では立派な博物館が出来上がっているのだから、隔世の感がある。そう考えると大司教宮殿の中の見学をしてから十五年以上になるわけだから、大司教宮殿のほうも大きく変わっているに違いない。どこかで時間を見つけてもう一度見学してみるべきか。問題は、いつにするかだけど、日本から歴史に興味のある知り合いが来たときにしようか。
4月22日23時。



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