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2017年01月21日
スラブ叙事詩(正月十八日)
アールヌーボーの画家アルフォンス・ミュシャについては、知っている人が多いだろう。ミュシャがチェコ人でことを知っている人はかなり減るだろうし、チェコでの名字の発音が、むしろムハに近いこと、ムハがチェコに帰国した後に、「スラブ叙事詩」という巨大な連作を残していることを知る人となると、チェコファン、もしくはミュシャの愛好者ぐらいだといってもいいのではなかろうか。
そして、2011年以前に「スラブ叙事詩」の現物を目の前で見たことがある人となると、よほどのチェコファンでムハファンだけで、その数はぐっと少なくなるに違いない。2011年以降はプラハで展示されているので、以前に比べれば、はるかに見に行きやすくなっている。今年は日本に貸し出されることになっているらしいので、これまでの何倍もの数の日本の人が目にすることになりそうだ。
クルムロフというと、チェスキー・クルムロフを思い浮かべる人が多いだろうけど、ブデヨビツェと同じでモラビアにもある。わざわざチェスキーというボヘミアの地名であることを示す形容詞がついているのには理由があるのだ。モラフスキー・クルムロフは、ブルノの南西、ブルノとズノイモの中間辺りにある町である。鉄道で45分ぐらいだっただろうか。ちなみにボヘミアとは違って、クルムロフの方が東側にある。
このモラフスキー・クルムロフの城館を使って展示されていたのが、ムハの「スラブ叙事詩」なのである。壁画といいたくなるようなサイズの大作が廿枚にも及ぶので、いくつかの部屋に分けて展示されていた。ムハのことにも、「スラブ叙事詩」にもたいした知識はなく、壮大な作品とそのテーマ性に圧倒されていたような記憶がある。これ見て、ムハのファンになったといってもいいかもしれない。ただ、思い出せないのが、何でクルムロフまで出かけることになったんだかで、ガイドブックで見たのか、お城があるらしいというので出かけての僥倖だったのか。ともかく駅から城館のある町までかなり離れていて、痛む足を引きずって往復したのだった。
では、「スラブ叙事詩」が、モラフスキー・クルムロフで展示されていた理由はというと、よくわからない。わかっているのは、1950年代の後半に、額縁から外されて巻き取られ、プラハのどこかの小学校か何かの倉庫に放り込まれていたこの作品を、モラフスキー・クルムロフの人たちが、引き取りに出かけ、修復作業が終わった1963年から城館での展示が始まったということだけである。
ビロード革命後、「スラブ叙事詩」のおかげでモラフスキー・クルムロフが観光客を集めていることに目をつけた強欲プラハが、本来はプラハのものなのだから返せと言い出したことから、延々と続く裁判が始まった。
ムハ自身は、「スラブ叙事詩」をプラハ市に寄贈すると言っていたらしいので、プラハ市のプラハの所有物であるという主張は間違いではない。ただムハはプラハ市に寄贈するに際して条件をつけており、その条件、「スラブ叙事詩」を展示することを目的とした建物を建ててその中に展示することというのは、満たされていないので寄贈の契約は無効だと主張する人たちもいるのである。
その反プラハの筆頭ともいえるのが、アルフォンスの孫に当たるアメリカ国籍のジョン・ムハ氏である。ムハ氏としては、ムハとの約束を守ろうという意志も見せず、戦災を避けるためと称して倉庫に放り込み、戦後も全く関心を寄せようとしなかったプラハ市が、今更所有権を主張するのがゆるせないらしく、裁判でプラハの所有を認める判決が出てプラハで展示されるようになってからも、プラハの態度を批判し続け、モラフスキー・クルムロフに戻すことを主張し続けている。
ムハの遺族からの批判に、プラハ市側は、ムハからの寄贈ではなく、ムハのパトロンだったアメリカ人の実業家からの寄贈だと言うようになっている。「スラブ叙事詩」の制作期間中のムハの生活を支えたのがその実業家で、その代償に所有権を得たというのかなんなのかよくわからないのだけど、画家本人ではなく、支援者からの寄贈というのは納得のいかないところである。しかも、実業家本人は、支援したからこれが自分のものだとは思えないとか何とかいう証言を残しているらしいし。
今回、冒頭にも書いた「スラブ叙事詩」のアジアツアーが原因となって、新たな裁判をムハ氏が起こしたらしい。当初の計画では、日本のあとは、最近チェコが媚を売りまくっている中国にも貸し出される予定だったから、作品の損傷を危惧するのは当然だろう。日本に行くのもあの高温多湿な夏のことを考えると、決して絵のためにいいとは言えまい。
個人的には、「スラブ叙事詩」をプラハで展示する意味はないと思う。画家本人との約束を守らなかったプラハ市は、作品への権利を失ったと考えていいはずだ。さらにモラフスキー・クルムロフが再発見していなかったら、いつまで倉庫のこやしとなっていたかわからないのである。そう考えると、プラハ市の予算でモラフスキー・クルムロフの城館の改修をして、「スラブ叙事詩」専用の展示会場とするのが一番いい。それが、プラハ市が画家のムハに対してできる唯一の謝罪、誠意の見せ方ということになろう。プラハからモラフスキー・クルムロフへの日帰りツアーを実施すれば、プラハの宿泊客もそうは減るまい。
ついでに言えば、金稼ぎのために、「スラブ叙事詩」をアジアに出稼ぎに行かせるのにも反対である。普通の絵画であれば、損傷を避ける梱包のしかたもあるのだろうが、直径50センチのロールに巻き取るのが絵に損傷を与えないという保証はない。次に巻き取るのは、モラフスキー・クルムロフに返還されるときにしほしいものだ。日本の絵画ファン、ムハファンには申し訳ないけれども、最近日本でもはやり始めたらしいモラビアのワインを味わうついでに、モラフスキー・クルムロフまで足を延ばしてもらうことにしよう。それだけの甲斐はあるはずである。
それに、「スラブ叙事詩」というからには、スラブ世界の辺境、ドイツ化も激しかったボヘミアのプラハよりは、スラブ系の最古の国家が成立したモラビアに置くのが正しいというものであろう。
1月19日23時30分。
2017年01月20日
屋根が落ちる(正月十七日)
今年の冬は雪が多い。オロモウツでも街中はすぐに除雪されて、雪が残っているところは少ないが、旧市街を取り囲むように置かれている公園の木々の間の芝生は完全に雪の覆われている。一番ひどいのは、北ボヘミアのヤブロネツとその周辺らしく、市内でも一メートル以上の雪が降り積もり、歩道の除雪が間に合わず、雪の幾分か少ない車道をふらふらと歩く人が続出して、危険な常態になっているらしい。最悪の冬を思い出させる光景である。
その最悪の冬を思い起こさせる事件が、チェスカー・トシェボバーでも起こった。この町はプラハから出た幹線が、オロモウツ方面とブルノ方面に分かれる鉄道交通の要衝で、それほど大きな町ではないはずだが、駅の施設としてはプシェロフとならぶぐらいじゃなかろうか。駅舎を建て替えるかどうかで議論が巻き起こって、結局建て替えはしないことになったのもここだったかな。
この町の体育館の屋根が降り積もった雪の重さに耐えられず崩落してしまったのだ。事件が起こったのが、一月十四日のことで、ちょうど子供たちのフロアボールの大会が行なわれているところだったらしい。内部にいた八十人ほどの人は、天井からポリエステルの小さなかけらが降ってきて、変な音がするのが聞こえてきたことで、異変に気づきすぐに体育館を出てけが人も出なかったという。こういう事態を想定したマニュアルどおりに脱出したのがよかったというニュースも見た。
原因はもちろん屋根に積もった雪だけれども、同じように、いやチェスカー・トシェボバー以上に雪の降り積もったヤブロネツや、リベレツでは同様の事件が起こっていないこともあって、体育館に構造上の欠陥があったのではないかと言われている。天井を支えていた木製の梁が想定されていた重量を支えきれずに折れてしまったようだという話も聞いた。その木製の建材を納入した会社に取材をしても何の返事もなかったらしい。
いずれにしても、欠陥建築だったということで、施工主のパルドビツェ地方政府は、業者に対して補償を求めることにしたようである。一方でフロアボールの大会に出場していた子供たちの親たちも裁判に訴えることを検討しているという。アメリカの影響で、チェコでも何でもかんでも裁判だという風潮が多少あって裁判が急増している。その結果裁判官の数が足りず裁判が長引く原因となっている。延々と裁判引き伸ばし続ける奴もいるし。
それはともかく、体育館はすでに使用開始されていたけれども、建築がすんで引き渡されたばかりで、十五日に開館式が行なわれる予定だったらしい。その前夜に屋根が落ちるというのは、タイミングがいいのか、悪いのか。もちろん開館式のイベントは中止である。
十年ほど前の最悪の冬にも、同じような事件が、何件か起こった。一番印象に残っているのは、うちの近くにもある多分ドイツ系のディスカウントスーパーであるリードルの店舗の屋根の崩壊が相次いだことだ。このスーパーの店舗は、規模の大小はあるようだが、基本的に建物の形が完全に規格化されているようなので、どこかで問題が起これば、よそでも問題が起こるのはある意味当然だったのだろう。
幸いにして平地にあるオロモウツでは、どの店舗も無事だったけれども、チェコ国内で三件だったか、四件だったか、連続して天井の崩落が起こって、雪が多かったとはいえ、他のスーパーでは、同様の事態が起こっていなかったこともあって、大きな問題となっていた。ただ、崩壊は全部営業時間外で、人の被害はなかったんじゃなかったかな。
その時に、徹底的な建物の検査、改修を行なったおかげか、リードルでは今年は天井の崩落事件は起こっていない。それでも、どこかで天井が落ちたという話を聞くと、あの冬のことを思い出して、だたでさえ寒さで憂鬱なのに、さらに憂鬱になってしまうのである。
1月19日18時。
チェスカー・トシェボバーの町の紋章には、奇妙な人頭の鶏が使われているが、その由来はなんなのだろうか。1月19日追記。
2017年01月19日
ジャパンナレッジ入会後(正月十六日)
十二月の初めに登録して以来、当初の予定ほど使う時間が取れていないのだが、ちょくちょく使っているので、満足な点、不満な点をまとめておこう。
何よりも高く評価したいのは、辞書系のコンテンツ以外に、読み物系も入っていることで、学生時代に図書館で読むしかなかった『日本古典文学全集』や、装丁がよすぎて値段が高くなってなかなか手が出せなかった『東洋文庫』が読めるのはありがたい。不満は、この手の読み物系のコンテンツの場合に、テキストデータではなく書籍の画像データで表示されることで、そのためページめくりに長い時間がかかってしまって、快適な読書というわけにはいかない。
当初は画像の取得に失敗したというメッセージが頻発して、細切れにさえも読めなかったのだが、現在では失敗することは滅多になくなっている。このあたりは、サポートに問い合わせのメールを書いたら、すぐに返事が来て、対応策を教えてもらったおかげである。自分でもよくわからない中、サポートの方の指示通りにがんばった。キャッシュを消すとか、不具合が出たときのスクリーンショットとか、普段やらないことばかりだったので時間がかかってしまった。これでもうちょっとページ捲りが早くなるといいんだけどなあ。
それから、『日本古典文学全集』は、現代語訳はテキストでコピーできるようになっているけど、原文がコピーできず、印刷するか、一枚ずつxpsとかいう形式のファイルで保存するかしないと、オフラインで読むことができない。せめて一生分ぐらいずつ保存できれば、ページをめくることができるのだが、現時点ではファイルを一つ一つ開けていくしかない。
『東洋文庫』は、見開きで表示されるのはいいのだが、文字が小さくて読みづらい。表示を大きくすることはできるけれども、全体が表示されなくなるので、それはそれで読みにくい。こちらは原文ではなく、訳文なのですらすら読めてしまう文だけ、古典よりもページ捲りが遅いことが気になってしまう。『東洋文庫』も読むよりは、調べ物に使うことになるのかなあ。
まだ開いてはないが、『文庫クセジュ』も同じような感じなのだろう。『古事類苑』はページ単位の表示だったが、PDFで保存できた。一枚ずつというのがちょっと辛いけど、こんなの自分で買えるようなものではないので、必要なものが出てきたらあれこれ保存しておこう。
辞書に関しては、いろいろなタイプの辞書を一度に検索でき、表示できるのがありがたい。複数辞書検索だけなら、いわゆる電子辞書でも可能だけど、あっちは表示できる本文が一つだけなので、読み比べるのになんがある。それにコピーで引用が簡単なのも、かつてのコピーした紙を、切り貼りしたり、自分で入力し直したりしなければいけなかった時代からすると、隔世の感がある。コピー機やワープロのない時代には、全部手書きで書き写していたのだろうから、それを思えばなおさらである。
機能の説明には、インターネット・エクスプローラーで使えば、辞書の記述をワープロソフトなんかにコピーすると引用の出典も自動的に挿入されるというようなことが書かれていたのだが、これはまだ使えていない。あれこれ設定の必要があるのだろうけど、まだ本格的に出典が必要になる文章は書き始めていないから、今後の課題である。
今後への要望としては、昨日書いたのに加えて、角川書店を説得して『国歌大観』を使える形でデータベース化して入れてくれないかなあ。九十年代に販売されていた『国歌大観』のデータベースは、まったく使えない値段に見合わないものだったので、そのままでは駄目である。ちゃんと使えるようにデータに修正を掛けた上で収録してほしい。
角川だったら、県別の地名事典とか、俳句の『大歳時記』あたりもほしいなあ。ジャパンナレッジは、小学館の出版物が中心になっているけど、講談社や平凡社なんかの他社のものも入っているから、どんどん関係する出版社を増やして、収録辞書や本を増やしていってほしい。そうなると、個人会員も増えるだろうし、図書館だって導入すれば閲覧室の本棚や、書庫に余裕が出てくると思うんだけどなあ。
とりあえずは、個人会員では読めないJKブックス、特に吉川弘文館の『人物叢書』が読めるようになることを願っておこう。それから、外国語系の辞書要らないという人向けのコースを作ってくれないものだろうか。いや、それよりも、石川達夫氏が刊行予定のデジタル版『チェコ語日本語大辞典』が収録されることを願った方が建設的か。担当者の方、どうでしょう?
1月18日15時。
2017年01月18日
悩み多きものよ(正月十五日)
この題名で、時代は変わってしまったということについて書こうというのは、無理があるのは重々承知しているけれども、「時代は変わっている」と言うと、中島みゆきではなく、斉藤哲夫の「悩み多きものよ」が頭に浮かんでしまうのである。またまた、読み手を選ぶ書き出しで申し訳ない。
先日会った日本の方が、若いのに「トルコ」という言葉を、昭和の終わりに使われなくなった特殊な意味で使用しているのを聞いて、いくつなんだろうと不思議に思ったのだけど、人のことはいえないのである。同時代よりも、一昔前の音楽や文学に惹かれることが多かったのだ。ああ、だから再放送だらけの、七十年代、八十年代の音楽やドラマ、映画が繰り返されるチェコが心地いいのか。
それはともかく、最近停滞気味の『小右記』関係であれこれ史料を漁っている。日本から本を取り寄せるようなお金はないので、ネット上で手に入るものを探すと、本文はすでに書いたように東京大学資料編纂所が、『大日本古記録』の各ページの画像データを提供しており、しかも裏にテキスト化されたものがあるようで、検索をかけて必要な記事を探せるようにもなっている。学生時代に、思い切って大枚はたいて、『大日本古記録小右記』全十一巻を購入したんだけど、今の学生はそんな必要もないということか。あの時は購入してからかなり経って、最終巻に大きな印刷ミスがあるのに気づいて、岩波書店まで交換をお願いしに行ったのだったなあ。
この『大日本古記録』については、かなり前から知っていたのだが、気がついたら『大日本史料』も同じようにデータベース化されて、画像データが提供されていた。これは学生時代には、こちらが見たい年代の編集が終わっておらず、まだかまだかと思っていたのを思い出す。今でも完全には編集は終了していないのだろうが、以前は存在しなかった、年代の分冊も刊行、いやネット上に公開されていてうらやましくなってしまう。
知らない人にちょっとだけ解説すると、『大日本史料』は、歴史上の出来事について、典拠となる史料の関係ある記述を引用して、まとめた史料集である。体裁としてまず日付があって、その日に起こった出来事が項目として立てられ、その後に史料の引用が続く。一つの件に複数の史料が引用されていることも多い。『扶桑略記』のような私撰の歴史書から、『大鏡』のような歴史物語、『小右記』のような個人の日記、それにどこで読めるかもわからないような史料からの引用もあって非常に重宝する。日付がはっきりしない出来事に関しては月ごとにまとめて月の末尾に掲載されているんだったかな。対象となる時期は、六国史以後なので、平安時代の宇多天皇の時代からということになる。
学生時代には、この『大日本史料』よりも、『史料綜覧』を利用することが多かった。こちらは引用の本文はなかったが、出典が上がっているので自分で記事を探す際の参考にできたのだ。とはいえ、こんなものを個人で自宅に持っていても仕方がなく、出典となる史料を確認できる大学などの図書館でなければ使う意味はあまりなかった。
しかし、今や『小右記』もネット上で閲覧できる時代である。『大日本史料』とは違って本文の確認はできないが、手元においても損はないような気がしてきた。もちろん、ネット上で使用できるのならである。そこで、もしかしたらと、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で検索を掛けてみたら出てきてしまった。それどころか、『大日本史料』うち刊行年代が古いものも閲覧できるようになっている。画像の表示に時間がかかるのが玉に瑕だけど、チェコから閲覧できることのありがたさを考えたら、贅沢は言えない。
閲覧だけでなく、書く見開きページを画像としてダウンロードして保存することもできた。だけど、何百ページもあるものを、見開きだから半分になるとは言っても、一枚一枚落としていくのは面倒で、何か方法はないかと探したら、印刷ボタンで、PDFファイルを作成できることに気づいた。一度にPDFにできるのは最大五十ページなので、いくつかに分割する必要はあったが、一枚一枚ちまちまやっていくのに比べたら、雲泥の差である。
この近代デジタルライブラリーでは、『公卿補任』『尊卑分脈』、史料大成版の『小右記』、それに『北山抄』も、発見できてしまった。儀式書の『北山抄』なんか、詠む機会はないだろうなあとおもいつつ、小野宮流の公任の著作だし、実頼の『水心記』の逸文もありそうだよなあとか考えて、せっかくだからダウンロードしてしまった。貧乏性である。『北山抄』は、この手の蔵書の豊富だったうちの大学の図書館でも閲覧できなかったんじゃなかったかな。『西宮記』があればいいと考えて探しもしなかった可能性もあるけど。
とまれ、ジャパンナレッジのおかげで、『新編古典日本文学全集』『日本国語大辞典』『国史大辞典』なんかも、ネット上で使用できるようになっているのである。ということは、今の国史国文の大学生って、一部の史料の版が古いことを気にしなければ、大学の図書館にこもる必要はないってことじゃないか。図書館の閲覧室の机の上に史料を積み上げていた昔が懐かしいぜ。
あとは、『平安時代史事典』と『大漢和』、『漢文大系』あたりがネット上で使用できるようになるところまで時代が変わることを期待しよう。
1月16日22時30分。
クリスマス休みには、PDF化した『公卿補任』を、ソニーのリーダーに放り込んで眺めていた。あれこれ発見があってなかなか楽しかった。ちょっと時代遅れが回復できた気分である。1月17日追記。
2017年01月17日
平成の終焉(正月十四日)
この日、ここ何年か恒例になっているオロモウツ在住の日本人の新年会のようなものが行なわれたので、比較的暖かい、とは言ってもマイナスだとは思うけど、雪のちらつく空の下、えっちらおっちら歩いて、会場の聖バーツラフ醸造所の飲み屋に出かけた。日系企業関係者や、留学生など、欠席者もかなりいたのに、二十人以上の日本人が集まっていて、オロモウツの日本人も増えたなあと感慨深いものがある。
いろいろな方々とさまざまな話をさせていただいたのだが、一番驚いたのが、平成が三十年で終わりそうだという話だった。昨年の今上陛下のビデオメッセージを受けて、政府で譲位と即位、そして改元についての話し合いを始めていることは知っていたが、いつものことで、何かの進展があるまでには、まだまだ時間がかかると考えていた。何せ、保守系の論客たちさえ現状では譲位は難しいのではないかという発言をしていたようだし。
話によると、2019年の一月一日に新天皇が即位し、改元も行なわれるということのようだ。ということは平成は、三十年の十二月晦日までで、新元号の元年が一月一日から始まるということになる。平成元年のように、一年が二つの元号にまたがるというのを避けるためなのだろう。そうなると、日本人にとっては未だに重要で在り続けている年賀状などのために、新元号は早めに発表されることになりそうだ。
昭和に生まれ、昭和に人格形成期を送ったので、平成という年号にはあまり思い入れはない。当時の元号の発表の際、官房長官の発音が何か変でちゃんと聞き取れなかったのも一因かもしれない。それに、昭和までは、元号を使用するのが一般的だったのに、平成に入って次第に西暦を使用するのが一般的になっていったのも、それから、日本以外での生活の方が長くなってしまったのもその理由になっているか。
それでも、次の元号が何になるのかは気になる。とっさに候補となりそうな言葉が頭に浮かぶほど、中国の古典に詳しいわけではないし、過去の元号をすべて覚えているわけでもないので、これがとは言えないのだが、「和」の字は使ってほしい気がする。平成の「平」は、地の平らかならんことを、つまり平和を祈念しての使用であったであろうことを考えると、すでに昭和で遣われて入るけれども、次は「和」を使う番かなと。
兵革のことにかかわりそうな、「武」の字は避けた方がよさそうだ。現行の制度では、年号が、崩御の後の諡号として使われることは確実だが、象徴天皇に天武、桓武など、武断派で強権を発揮したイメージのある天皇とつながる諡号はそぐわない気がする。鎌倉幕府を倒したものの好き勝手やって南北朝、観応の擾乱の引き金を引いた後醍醐の選んだ年号が建武だったのも縁起が悪い。
まあ、素人の一般人があれこれ想像してもあたることはないだろうから、いわゆる識者達の発言を待つとしよう。近年の流行に流されて、公募するとか、候補をいくつか挙げて一般の人に投票させて決定するなどというのは絶対にやめてほしい。あの手の一見民意とやらを尊重しているらしいやり方は、単なる責任の放棄に過ぎない。ここは本物の有識者、古典に詳しい人たちに厳密な審議をして、今上陛下、および新天皇の意向もくんだ上で、有象無象どもの雑音を排し断固とした態度で新年号を決めてもらいたい。どんな元号が選ばれたところで、いちゃもんをつける輩は出てくるものだし、最初のうちは違和感を感じてしまうものだ。平成も慣れるまでに時間がかかったし。
思い返せば、昭和六十三年の後半、日本社会は天皇不予とそれに伴う自粛の嵐に翻弄されていた。テレビも軒並み特別番組で、東京の人に言わせると、テレビ東京が普通の番組を放送していたというのだけど、民放が二局しかない田舎を舐めちゃいけない。両方とも延々特別番組を流していた。
当時はテレビ東京なんて存在も知らなかったし、そもそも地方局にチャンネルを合わせているわけで、番組が東京のどのテレビ局で制作されたものなのかなんて、意識したこともなかった。受験勉強を口実に、家族と一緒にテレビを見ることも少なくなっていたから、テレビの内容はあまり気にしていなかったようなきもする。
それよりも心配は、天皇の崩御と入試の日程が重なったらどうなるのだろうというもので、高校の先生たちがあれこれ対策を考えていたのではなかろうか。平成の終焉は、このような混乱とは無縁のものになりそうだけれども、その後の来るべき上皇の崩御の際に、どのような対応をとるのか、今回の譲位改元に関する議論の中で、ある程度の合意を形成しておいたほうがいいのではないだろうか。ただ、今回だけの特別の事例にしようとする政府側の意図が見え隠れしていることを考えると、場当たり的な対応に終始して、昭和末年ほどまでは行かなくても、自粛ブームが再現されて社会に混乱を巻き起こすのではないかという懸念が拭い去れない。
実現まであと二年、外つ国から気楽に眺めさせてもらうことにする。
1月15日15時。
2017年01月16日
シャーロック・ホームズ(正月十三日)
コナン・ドイルが生み出したこの希代の名探偵の物語は、これまでに何度も映像化されているが、初めて見た八十年代にNHKで放送されていたイギリスのグラナダTV制作のやつの印象が強すぎて、他はどれを見ても違和感しか感じない。あの俳優、ジェレミー・ブレッドだったっけの演じたホームズの適度の奇矯さは、原作のホームズそのまま、少なくとも田舎の中学生の想像ではそのままだった。
そのシリーズのうち、どれだけの作品を見たのか、どの作品を見たのかは覚えていないのだが、少なくとも大学進学で実家を離れテレビのない生活を始めるまでは、万難を排してとまではいかないが、熱心な視聴者であった。「踊る人形」だけは見たのを思い出した。
そのグラナダTVのホームズにチェコで再会したのが、十年ぐらい前だっただろうか。民放のノバかプリマで放送されたのだが、実際にどちらであったかはどうでもいい。チェコに来て最初の贅沢として購入したハードディスク付きのDVDレコーダーで、録画したところ、英語とチェコ語の二ヶ国語放送になっていて、片方ではノバもう一方ではプリマが放送すると言っていたのだ。ハードディスクからDVDにコピーするときに、英語音声は消えてしまったけど。
チェコ語版のこのシャーロック・ホームズも、ホームズ、ワトソンに声をあてている俳優達の演技のおかげか、これがホームズだと納得のいくものだった。残念なのは、放送されたのが、「バスカービルの魔犬」「四つの署名」など一時間半ぐらいの長編として製作されたものばかりで、日本のNHKで見ていた三十分ぐらいの短編は、今に到るまで放送されていないことだ。この手の本格的な推理物を、チェコ語で細かいところまで意識しながら見るには、短編の方がありがたいのだけどね。
昔、日本にいたころは、外国のテレビドラマや映画は吹き替えでなく、字幕で見るほうがいいなんてことを言っていた。高校時代だったかなあ、英語が得意な連中がそんなことを言っていたのに、別な理由で同調していたんだったかな。あいつらは英語を聞いて勉強に役に立てたいようなことを言っていたけれども、それはどうでもよくて、字幕つきを見る方がかっこいいとかそんなしょうもない理由だったような気がする。
こちらに来てからは、チェコの吹き替えのレベルが高いこともあって、こちらに来て考えが変わった。いや、実はチェコ語の字幕を読みきれないというのが一番の原因なのだけど、チェコ語でしゃべっていても、本来の言語である英語やフランス語でしゃべっていても外国語であることには変わりはないので、違和感を感じないという面はありそうだ。
だから、逆に日本の映画なんかが、アニメであってもチェコ語に吹き返されていると見るのがつらい。何年か前に放送された藤沢周平原作の時代劇は、字幕つきだったのだけど、字幕も読みきれず日本語の発音も聞き取れずで途中で見るのをやめてしまった。多分、方言の部分が聞き取れなかったのだと思うのだけど。
隣のポーランドでは、外国作品の吹き替えは、すべての登場人物に一人の俳優が声をあてるという、かつての活動写真の弁士を思わせるものだったらしいし、スロバキアでも以前は、吹き替えが行なわれている部分はBGMなどの効果音が消えてしまうというものだったらしい。チェコでもそんな吹き替えだったら、字幕のほうがいいと思ったかもしれない。
さて、日本でも多分話題のBBC制作の舞台を現代に移した「シャーロック」、チェコでも現在第四シリーズ(と言っても三作だけだけど)が放送されている。これもホームズとワトソンの配役は当たりだと思う。話も面白くよくできている。だけど、話がチェコ語で完全に理解するには難解すぎて、一回見ただけではよくわからないのが困り物である。そして見返すのにも、気合というか、一時間半集中して見るぞという覚悟というかが必要で、なかなか手が出せない。
今週末に放送される回のタイトルが「最後の事件」なのだけど、今シリーズで最後ということなのだろうか。それとも、書籍版と同じで視聴者の要望が強くて何年後かに復活なんてことを想定しているのだろうか。いや、でも、既に一度ストーリー上はホームズ復活しているんだよなあ。どうなるんだろう。
チェコでは、最初のシリーズは、チェコテレビの第一で、午後八時から放送されたような記憶があるのだが、今回は第二でしかも午後十時という遅い時間の放送開始になっている。絶対に見るというコアなファンは、うちのも含めて一定数いそうだけれども、視聴率が予想ほど上がらなかったことが原因なのだろう。最近のチェコテレビは民放出身者が社長になって、以前よりも視聴率争いに汲々とするようになっているのだ。
1月14日23時。
やはり、これこそホームズである。1月15日追記。
2017年01月15日
痛い(正月十二日)
数日前には、「寒い」という題で文章を書いたが、今日は「痛い」である。なにせ、ここ数日あれこれ痛くて、集中できずにここに書く文章も、どことなく間がぬけたというか、しまりがないというか、焦点がぼやけているというか、とにかくいつもにもまして出来が悪い気がするので、言い訳のひとつもして置きたくなろうというものだ。
朝起きた時点から頭が痛いのは、風邪が抜け切っていないから仕方がないと諦めもつくのだが、風邪のせいで、日課だった毎日のコーヒーが飲めないのが痛い。いや、飲もうと思えば、飲めなくはないのだが、飲んでも美味しく感じられないのだ。美味しくないコーヒーは、まずいお酒と同じで無理して飲みたいとも思えない。
まずく感じる原因も、風邪だけれども、咳とくしゃみに痛めつけられた喉を癒すために、それから咳止めのために延々舐め続けているのど飴のせいで舌が荒れているという理由もある。寝ているときに咳をしないようにのど飴をしたの上に乗せて、口蓋の上部に押し付ける形で保持して寝ると、少しずつ溶けてきて、喉には優しく咳も出ないのが、溶けて部分的にとがってしまった飴が、したや口蓋に傷をつけることがある。日本だと、何とかトローチなんてのがあったかあ。あれは舌に傷をつけなかったような気がする。あんまり美味しくなかったけど。
最悪寝ている間にちょっと血が出ることもあるのだが、今回はそこまでは行かなかった。行かなかったけど、痛みに堪えかねて飴が舐められなくなってしまった。そのため、咳の回数が増え、なぜかくしゃみも増えて鼻をかむ回数が増え、鼻の周り、口の周りがティッシュでこすられて痛み始めた。もうちょっとで前回というところまできているとは思うのだけど、最後のもうちょっとが、時間がかかってしまっている。
手足の筋肉がかすかに痛むのも、風邪のせいかと思っていたのだが、違った。寒さのせいだった。いや今回は雪のせいと言ったほうがいいだろうか。雪が降り積もって足元が安定しない中を歩くのは、普段使わない手足の筋肉を使うようで、職場までの行きと帰り、合わせて一時間ほど、歩くだけで筋肉痛になってしまったのだ。特にふとももの裏側と、ふくらはぎ上部の筋肉が痛む。右の上腕部が痛むのは、この前こけたときにうったせいかな。
寒さで筋肉痛になったのは、十年ほど前の最悪の冬のことだった。あの年の一番寒かった時期は、それほど雪が降らず、歩道は完全に除雪されていたので、足を滑らせることもなかったと記憶する。その上、徒歩ではなくトラムで職場に通っていたので、歩いていたのは行き帰り合わせて、三十分未満だっただろうか。それなのに、気温がマイナス二十度に近づいた次の日、朝起きたら典型的な筋肉痛になっていた。
昔、何かで酷寒の中で運動するとカロリー消費量が、普段の何倍にもなるなんて話を読んだことがある。本当かどうかは知らないけど、カロリーをたくさん消費するということは、負荷も大きいということになるのだろう。大して運動したわけでもないのに、筋肉痛になってしまったのは、そういうことだったのだと納得しておくことにした。
チェコに来るまでは、九州と東京近辺でしか生活をしたことがなかったので、寒さがいたいものでもあることを知ったのはオロモウツにきてからである。日本でも経験のあったマイナス五度ぐらいまでは大丈夫なのだが、十度を超えると空気の質が変わるような気がする。顔何かの覆われていない部分が空気の冷たさで痛みを感じ、呼吸する際に口の中や喉にも衝撃を感じる。帽子がないと耳も痛いし、ひどいときには頭も痛む。
チェコに来たばかりのころは、寒い冬が多く、毎年必ず一日中気温がマイナスという時期があって、マイナス十度を超えることも少なくなかった。チェコ語の師匠に脅されて、寒さに耐えるために毛糸の帽子を購入し、ジーパン一枚では耐え切れずにスボン下というか、股引というかをはくようになり、日本ではわずらわしくて使ったことのなかったマフラーまで首に巻くようになってしまった。今でもマフラーの巻き方がよくわからなくて困るのだけど、使わないよりはマシである。もこもこに厚着をして、冬用の暖かい靴を履いていても、最悪の冬は隙間から入ってくる冷たい空気が痛かった。
そういえば、冬の寒い時期にプールに行って、ドライヤーで髪を入念に乾かしたつもりでも、外に出ると残っていた水気が凍結して髪がシャリシャリいうのがいやだと言っていた人もいた。冬にプールなんて行かなきゃいいのにと思ったのだが、シャリシャリいう髪の毛のせいで頭が痛んだりするのかどうかは、実際に体験していないからわからない。
以前は、冬になると、寒い外から暖かいお店の中に入って急な気温の変化で汗をかいてしまって、その後外に出て汗が冷えてしまって風邪を引くことが多かったのだけど、最近は特に汗を書くこともなくなったような気がする。適度な服装を選べるようになったということなのか、チェコの冬に体が順応し始めたということなのか、後者だったら悔しいので、過剰な厚着をしなくなったおかげだということにしておこう。
1月12日23時30分。
2017年01月14日
クリスマスツリーの行方(正月十一日)
チェコの各地の町では、中心となる場所に近くの森から切り出してきた針葉樹を立て、電飾をつけてクリスマスツリーにする。市庁舎の前に針葉樹の大木が植えられていて、それにそのまま飾りをつけてクリスマスツリーにする場合もあるからすべての町でというわけではないが、毎年クリスマスのたびに、大量の針葉樹の大木がクリスマスツリーのために消費されることになる。
また一般の家庭でも、鉄やプラスチックで作られた人工のクリスマスツリーを使っている家もあるが、クリスマスマーケットなどで販売されている小さな針葉樹を購入し、それを台座にセットしてクリスマスツリーにするところが多い。こちらは森林から切り出してくるのではなく、クリスマスツリー用に、特別の畑?で育てたものらしい。
問題は役割を終えたクリスマスツリーをどうするかである。飾りは取り外して翌年また使用するにしても、切られて根から離れた木を再利用することはできない。家庭の場合には普通のごみとして捨てようにも、ゴミ回収用のゴミ箱の中に入りきらないし、他のゴミと同じように燃やしてしまうのは、もったいないというか、罪悪感を感じるというか、とにかくこれではいけないと考えた人がいたのだろう。
びっくりするような再利用法を考え出された。初めて聞いたときには耳を疑ったのだが、家庭で役割を終えたクリスマスツリーを、動物園に提供するというのだ。かつては、ゴミの収集場所の大きなゴミ箱の脇に何本もの飾りの外されたクリスマスツリーの成れの果てが積まれていて、それだけを回収するゴミ回収車がこの時期だけは走っていたのではなかったか。
回収されたクリスマスツリーは、象などの巨大な草食動物の餌として使われていた。熱帯の広葉樹の葉っぱを食べているはずの象やキリンが、針葉樹の松の細くとがった葉っぱを食べるというのがまったくイメージできなかったのだが、ニュースで象が嬉しそうに食べているのを見せられて納得するしかなかった。冬場に青々とした餌が食べられるだけでも嬉しいのだろうか。
その後、この手の廃クリスマスツリーに飾りをぶら下げるために使った針金が残っていたり、花火の火薬がついていたりするのが問題だというニュースも見たので、現在でも以前のような回収と動物園への提供が行なわれているのかどうかはわからない。ちなみに、チェコでは花火は、人が手に持って火をつけるような花火も冬のもので、特にクリスマスの時期に家の中ですることがある。以前クリスマスツリーの飾りに花火をぶら下げて、それに火をつけているのを見かけて、目を疑ったことがある。
田舎に行くと、広い庭で野菜を育てている人が多いので、クリスマスツリーも最近流行の有機肥料を作るためのコンポストに切り刻んで放り込むという人が増えているだろうし、最近、ゴミの回収に当たっては、木の枝や草などのコンポストに使えるものを分別して回収しコンポスト化することを自治体に義務付ける法律が施行されたらしいので、それならゴミに出しても、無駄だという印象は小さくなるだろう。
一方で、クリスマスマーケットに立てられたクリスマスツリーのほうは、今でも動物園に提供されているようで、プラハの旧市街広場のクリスマスツリーが、プラハのトロヤにある動物園に提供され、子象がもらった針葉樹の枝を食べるのではなく、枝で遊んでいるシーンが放送された。さすがに幹や太い枝は餌にはできないので、粉砕して小さなかけらにして別な用途に使用するらしいが、動物達にとってはこの時期の特別な食事となっているようだ。もちろん、家庭から出されたものよりは信用できるとは言っても、動物達に与える前に切り分けながら針金などの動物を傷つけかねないものがついていないかどうか入念なチェックをしているらしい。
悩ましいのが、この事実をどのように評価するかということだ。針葉樹の大木を高々何週間かのクリスマスマーケットの飾りとして使用して、そのまま捨ててしまうのはもったいないから再利用しようというのにはまったく異論はないのだけど、それを手間隙かけてまで動物の餌にするというのはどうなのだろうか。象やキリンと針葉樹という組み合わせになじめないせいか、他にもっといい再利用の方法はないのかと考えてしまう。
さらに言えば、一部の自治体のように木を植えてしまったほうがいいような気がする。すでに成長したものを移植というのは難しいだろうから、苗木を植えて、それが成長したらクリスマスツリーとして使用するという長期的な計画はどうだろうか。家庭にしても鉢植えじゃ駄目なのかなと感じてしまうのは、クリスマスツリーなんぞのために、木の命を奪うのはおかしいと考えてしまう日本人的な思考なのだろうか。
そう考えると、不思議に思われた、シュマバの森の害虫にやられてしまった木々を被害が広がらないように伐採することに対して、強硬に反対している環境保護論者たちが、クリスマスツリーのための木の伐採に対しては特に声を上げていないのも、あいつら日本人的な思考じゃないからと考えておけばいいのか。まあチェコ人だしね。
1月11日23時。
2017年01月13日
ルハチョビツェのチェトニークたち(正月十日)
普段からディープなチェコファンにしかわからないような文章を書き散らしている自覚はあるが、本日の分はその中でも、チェコ系日本人とか、日系チェコ人になりつつある人にしかわからないようなものになってしまいそうである。ちなみに、チェコ語が堪能な日本人と、日本が堪能な日本人のことをこのように呼んでいる。ただ、どっちがどっちになるのか決めきれていないのだけど。
すでに記事にはしたが、アントニーン・モスカリークの畢生の大作「チェトニツケー・フモレスキ」は、チェコのテレビドラマ史上における最高の傑作である。「マヨル・ゼマン」だという人もいるかもしれないけれども、それにこういうのは好き好きだとも思うけれども、あれは共産主義のプロパガンダ臭が強すぎて、見ていられない部分がある。
とまれ、近年チェコテレビでも、民放でも量産されているテレビドラマの数々は、「チェトニツケー・フモレスキ」の足元にも及んでいない。いや、まあ、いくつかそれなりに評価できるのはなくもないのだけど、とりあえず、「チェトニツケー・フモレスキ」は、チェコのドラマ史上に於いて隔絶した存在であることを断言しておく。
さて、去年たまたまチャンネルを合わせていたトーク番組に登場した女優が、あまり知られていない人で名前も顔も覚えていないのだけど、少々誇らしげに、「チェトニツケー・フモレスキ」のあとにつながるようなドラマに出演するのだと語っていた。それが表題の「ルハチョビツェの憲兵たち」という番組のことだった。最初に話を聞いたときには、「フモレスキ」が終わったあと、つまりナチスによってチェコスロバキアの国土が奪われた時期、そして占領時代の話になるのかと思っていた。
だから、多少は期待していたのだよ。「チェトニツケー・フモレスキ」とまでは行かなくても、そこそこ見られるドラマに仕上がって、毎週金曜日の夜はパソコンの前ではなくてテレビの前に座るようになるのではないかと。それにナチスドイツの占領下のチェコ系住民の生活を、憲兵隊員たちの活躍を通して描くのだとすれば、なかなか野心的な作品だということになる。
この時代を描いた作品となると、どうしても保護領に潜入して総督を暗殺した部隊についての話が中心になって、一般の人の姿が描かれることはほとんどない。今でも繰り返し放送されるブリアンやノビーの出てくる戦前のモノクロ映画の中には、第一共和国の時代ではなくナチスの保護領下で制作されたものも多い。ただ、喜劇を演じる俳優たちがどのような葛藤を抱えて演技していたのかについては想像するしかないのである。
話をもとに戻そう。年末に近づくと簡単な予告編が流されるようになり、最初の違和感を感じた。それは、まず憲兵隊達の制服が、「フモレスキ」のものとは違っていることだった。違っているのが、新しく見えるのではなく、古い時代のもののように見えた。違和感は、それだけではなかったのだが、正直な話、この予告編を見て、番組に対する期待は大きく落ち込んだのだった。
そして、新年最初の金曜日、テレビの前の座ったのだが、途中からの予想通り期待は裏切られた。背景となる時代が「フモレスキ」よりも前の第一次世界大戦が終わってチェコスロバキアが独立した直後なのは問題ない。この時代の戦争から帰ってきた兵士たちや、ドイツ系の住民たちの扱いがどうだったのかなんてことが描き出されるのであれば、こちらもあまり取り上げられない時代だけに見るかいはある。だけど……。
唯一、面白いなと思ったのが、ドイツ系のベテランの憲兵が登場してちょっと変なチェコ語でしゃべるところだろうか。新人たちに指示というよりは、ヒントを与えて捜査を進めさせていくのは、悪くなかった。ただ、あれこれ人気が出そうなものを詰め込んで、わけがわからなくなっているところがあるような気がした。いろいろ詰め込みすぎてまとまりがない。つまり、このブログと同じである。うーん、見続けるか、悩むなあ。
ところで、ナチスの保護領時代の俳優たちの様子を描いたドラマも制作されていたようで、近々放送が始まる。ブリアン、ノビー、マルバンなど戦前のモノクロ映画でおなじみの俳優達が登場するというのだが、期待するべきなのかどうなのか、見るべきか見ざるべきか、それが問題である。テーマとしては面白そうである。ただ、昨年のクリスマスに放送された童話映画もひどかったし、ルハチョビツェの話もあれだたったし、チェコテレビの制作する作品に、今後も期待してもいいのかどうかがわからない。別のことをするったって大したことをするわけじゃないんだけど、せいぜいこのブログの文章を書いているぐらいか、ドラマや映画を見て時間の無駄だったというのはできれば避けたいんだよなあ。
とりあえず、一回目ぐらいは見てみるか。
1月10日23時。
2017年01月12日
バイアスロン(正月九日)
スポーツネタが続くのは体調があまりよくなく難しいことを考えられないからである。それに冬のキュウリの季節であんまりネタがないというのもある。
現在チェコで行われるスポーツイベントで、一番人を集めることができるのは、サッカーでもアイスホッケーでもなくバイアスロンである。ビソチナ地方のノベー・ムニェスト・ナ・モラビェで、ほぼ毎年行われるワールドカップの大会には、連日三万人前後の観客が押し寄せ、四日間の合計で十二万人以上の人を集めるというから、圧倒的な数字である。三万人収容できるサッカーやアイスホッケーのスタジアムなんて現在のチェコでは夢のまた夢である。
このバイアスロンの観客の数字には、世界中の選手が参戦しているワールドカップの一戦なのでドイツやオーストリアなどの近隣の国を中心に大挙して押しかけてくる国外からの応援団の数が含まれているから、単純にサッカーやアイスホッケーの観客数と比較することはできないのだろうが、チェコでここまでバイアスロンが人気をのばしているのは、やはり選手たちの活躍が大きい。選手たちが活躍するから観客が集まりスポンサーも集まる。その結果、毎年のようにチェコ国内でワールドカップの大会が開催できるという好循環が起こっている。
かつては、ノルディックスキーのクロスカントリーや、ジャンプ、複合の大会もチェコで毎年のように行われていたのに、最近回数が減っているのは、チェコの選手たちが活躍活躍できなくなっているからに違いない。ジャンプの場合にはハラホフのジャンプ台の老朽化が進んでワールドカップでの使用には堪えないという理由もありそうだけど。天候不順での中止が相次いだのも痛かったかもしれない。
以前は年に数回、誰かが表彰台に上がる程度だったチェコのバイアスロンが一気に上昇気流に乗ったのは、数年前のガブリエラ・ソウカロバーの登場によってだった。去年結婚して名字がコウカロバーに一文字だけ変わってしまったけれども、このコウカロバーが安定して好成績を残すようになったことで、プレッシャーが減ったのか、ビートコバーの成績も上向き始め、プスカルチーコバーという新しい選手の台頭ももたらした。男子選手たちは相変わらず不安定な成績だけど、以前に比べれば上位に来る確率が高く、上位に入れる選手の数も増えているから、確実に成績は向上している。
チェコのバイアスロンの、いや一般にスポーツの中継、報道を見ていて感じるのは、日本の報道と比べて選手たちに対する敬意にあふれていることだ。チェコで行われたワールドカップの大会では、もちろん優勝が期待されていたわけだが、下位に終わったとしても選手たちを非難するような言葉が聞かれることはまずない。特に十位以内に入った選手たちに対しては、いい成績だと賞賛するのである。ほとんど最下位に沈んだとしても、バイアスロンの射撃というのは風の状態に左右されることも多いわけだし、期待通りにはいかなかったけれども、これがスポーツなんだというコメントがよく聞かれる。もちろん怠慢なプレーなんかは強く批判されるのだけれども。
これが、日本だとマスコミが、失敗した原因と称して関係あることないことあれこれ記事にして負けた選手たちに追い打ちをかけるのだろうけれども、チェコではそんなことはほとんど起こらない。おそらくチェコのような小国の選手たちが、他国よりも劣った環境で世界に伍して戦っていることのすごさを、そして試合の結果というものは多くの場合水物であることを理解しているのだろう。これが、チェコが小さな国でありながら、優秀なスポーツ選手を輩出し続けている理由の一つであるような気がする。
ノベー・ムニェスト・ナ・モラビェのワールドカップでは、初日から十位以内に入る選手はいても表彰台に上る選手がなかなか出てこない中、あきらめずに応援を続けたチェコ人観客の期待に応えて、最後の最後でコウカロバーが優勝して、絵にかいたような大団円を迎えた。ほかにもいろいろいい話はあったのだけど、時間がないので省略。
そして、年が明けて最初の大会の最終レースでは、コウカロバーが優勝、プスカルチーコバーが三位に入るという快挙を成し遂げてしまった。しばらくチェコのバイアスロン熱は引きそうにない。あとは、どこかのレースで男子選手が優勝してくれると最高なのだが、男子は優勝できなかったことがニュースになるフランスのフルカート(チェコ風の発音ね)が絶対王者として君臨しているから難しいかな。
1月9日16時30分。