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2016年07月31日
オロモウツスーパー事情2(七月廿八日)
オロモウツからプロスチェヨフに向かう高速道路の入り口の近くにツェントルム・ハナーという大きなショッピングセンターがあって、その中にフランス資本のスーパーマーケット、カルフールが入っているということを知ったのは、旧市街の英雄広場の近くに住んでいたころだっただろうか。品揃えが好みに合ったので、特によそのスーパーで特別な物を補給する必要のない限り毎週出かけていた。
十六番のバスのうち半分ぐらいがツェントルム・ハナーまで行くので、英雄広場から直行で行けたのだが、住宅街、もしくは団地の中を蛇行するように走る路線で停留所も多く、たいした距離でもないのに三十分以上かかっただろうか。それでトラムを利用することが多かった。バスよりも本数が多かったし、英雄広場から十分ほどで着くトラムの四番と七番の終点から数分歩けばよかったし。ただ、行くときは荷物もないので問題なかったが、大きな買い物をした後にえっちらおっちらトラムの停留所まで歩くのは結構辛かった。帰りはタイミングがよければバスを使うこともあったのだけど、本数が少ないので合わないことのほうが多かったし。
そのカルフールが世界的な販売戦略の転換とか何とかで、アジア市場を重視することになり、イギリス資本のテスコとの間で店舗の交換協定が結ばれた。チェコなどのカルフールの店舗はテスコになり、台湾などのテスコの店舗はカルフールになった。幸いなことに品揃えは大きく変わらず、今でも大きな買い物をするときには、自動車でテスコに出かける。
変わったことといえば、テスコ・クラブという会員サービスが始まって、購入額に応じてポイントがたまり割引券がもらえるようになったことと、電化製品や衣料品など扱う品目が次第に増えてきたことだろうか。テスコ・モビルなんて携帯電話のサービスや金貸業も始めたみたいだけど、利用している人はいるのだろうか。セルフのレジを導入したのもここだったかな。
トラムの停留所からテスコに向かう途中には、コープのスーパーもある。ほとんど利用したことはないのだが、以前酪農業者が、スーパーマーケットのチェーンの買い取り価格の低さに腹を立てて、直接消費者に販売する方法として編み出した牛乳の自動販売機がこの店の前に置かれていたので、テスコでの買い物のついでに寄ることがあった。チェコで牛乳というと賞味期限の長いパックに入ったLL牛乳のことが多いのだが、自動販売機では生の牛乳を買うことができた。一時は大ブームになってあちこちに、それこそ雨後のたけのこのように設置されていたのだけど、最近は下火かな。
コープというスーパーが日本の生協や農協なんかと同じような組織なのかどうかはわからない。わからないのは、このチェーンは都市部よりも田舎の小さな町に強く店舗も多いのだけど、同じコープでもイェドノタとかマリナとか違う名前になっているお店があることである。直営店のフランチャイズの違いとか、店舗の大きさで名前が違うとか、ルールがあるのかもしれない。
ツェントルム・ハナーは拡大を続けて、通りを挟んだ奥に、家具屋や電気製品店などが立ち並ぶエリアが追加された。以前ここにあった服のOPプロスチェヨフの直営店と、確かスロバキアの靴のお店にはお世話になったのだけど、残念ながらどちらも閉店してしまって今では存在しない。このエリアの最奥部には、何をトチ狂ったのかアクアパークまで建設されてしまった。かなりの予算をつぎ込んだ建築物らしいが、どのぐらい客を集めているのかは知らない。バスの停留所はあるけれども、バスの本数は少ないし、買い物に行く時間が午前中のせいなのか、車を停めてアクアパークに向かう人も滅多に見ない。
オロモウツのスーパーマーケットで最初に野菜・果物部門に力を入れたのは、駅の近くにあるドイツ系のカウフランドだっただろうか。グレープフルーツの変種の緑色の柑橘類スウィーティを初めて見つけたのも、大根や、甘いジャガイモ、つまりサツマイモを初めて買ったのもここだった。タマネギとかニンジンのような普通の野菜や果物は特に質がいいとかいうことはなかったようだが、他では見かけない物を売っていることが多かった。
そもそも、駅から近いけれども表通りからは引っ込んだところにあって見つけにくい店の存在を知ったのは、師匠の家に招待されたときに、娘さんがクリスマスプレゼントのリクエストの手紙に、「ほしいのはカウフランドで売ってるこれとこれ、包装紙はレジのところにある○○模様のやつにしてね」なんてことを書いたというのを笑い話のように聞かされたときのことだ。師匠の家のすぐ近くだというので帰り道に寄ってみたら、いろいろ面白い商品を発見してしまったのだ。
カウフランドはオロモウツの南の郊外に巨大な集配センターを建設してモラビアの物流の拠点としているけれども、店舗は駅前の一軒しかない。カウフランドグループにはリードルというスーパーも属しているから、そっちと共用なのかもしれない。
とまれ、終わらないので次回に続く。
7月29日22時。
2016年07月30日
オロモウツスーパー事情(七月廿七日)
オロモウツで生活を始めたころ、一番よく使っていたのは社会主義的建築の典型だったプリオールの地下にあったデルビタというスーパーマーケットだった。旧市街の中心ホルニー広場のすぐ近くという立地のよさから、いつ行っても買い物客で混雑していた。
デルビタは確かベルギーの会社で、オオカミのような動物がシンボルマークになっていた。サマースクールのときだったかどうかは覚えていないが、知人に勧められて会員カードを作ってポイントを貯めていたところ、赤字経営だったらしく、いつの間にかチェコから撤退してしまった。旧市街を取り巻く住宅街の中にあったもう一軒の大きな店舗も含めて、オーストリア系のビラというスーパーのチェーンに売却されてしまったのだ。
そのビラの店舗の中では、サマースクールの一年目に学校から寮への帰り道にあるサッカー場の入り口近くにあるスロバンスキー・ドゥームの店舗をよく使った。このビラの近くには、飛べなくなったソ連製の旅客機が停めてあったので、飛行機のそばのビラなんて呼ばれていた。確か飛行機の中にはバーが入っているような看板が出ていたが、残念ながら営業中のところに行き合わせたことは一度もない。その飛行機も数年前にボヘミアのどこかの町の博物館に引き取られていって、今では見ることはできない。
ビラはデルビタの店舗を引き受ける前から、市街の南の端ポベル地区のスラボニーンにも近い住宅街の外れに大きな店舗を構えていて、そちらのことビッグ・ビラなんて呼んでいたかな。最近はこっちのビラを使うことが多い。うちから一番近いスーパーというわけではないのだけど。
一年ぐらい前だっただろうか。行きつけのシェルのガソリンスタンドの売店がビラになってしまっていたのにはびっくりした。店舗を増やしたいビラとスタンドの売店の効率化を図りたかったシェルの思惑が一致したのだろう。ただ、ガソリンスタンドの店舗は、スーパーというより日本のコンビニに近いといったほうがいいかも知れない。
以前から、理解できないのがガソリンスタンドの売店でビールなどのアルコールが売られていることなのだが、ビラになっても当然状況は変わっていない。チェコでも飲酒運転が問題になっているのだから、車を運転する人がアルコールを購入できる機会はできる限り減らすべきだろうに、法律で禁止なんてことにはなりそうもない。国会内の食堂で格安でアルコールを提供させるのがチェコの国会議員だからなあ。
サッカースタジアムの北側の客席が完成してその下にプラスというスーパーがオープンしたのは一年目のサマースクールの後半だったかだろうか。宿舎の近くに新しいスーパーが開店するというので行ってみたら、買いたいものがほとんどなくてがっかりしたのを覚えている。何でも普通のスーパーではなく、ディスカウントというタイプで安い代わりに品揃えに難があるのだという。日本のディスカウントショップがスーパーになったようなものと考えればいいのかな。
二年目のサマースクールでは、宿舎がネジェジーンだったので、一番近くにあるグローブスにも行くようになった。特に週末は、街中まで出るよりは楽だったし、街中のデルビタは土曜の午前中までしか営業をしていなかった。グローブスはデルビタやビラと比べると巨大な平屋建ての建物で、一般のスーパーで買えるものに加えて、園芸用品、家具、電気製品まで取り扱っていた。サマースクールのときには食品ぐらいしか買うものがなかったから、入り口から食品売り場に直行していたけど、オロモウツで生活するようになってからすぐ、ハロゲンの卓上ランプがほしいという知人に付き合って買い物に行った記憶がある。
グローブスは、大きな駐車場つきの郊外型ショッピングセンターとしてはオロモウツで最初の一つだが、トラムのネジェジーンの一つ手前の停留所からもそれほど遠くないし、街の中心の英雄広場からバスの27番に乗れば終点がグローブスなので、車を買う前にもときどき出かけていた。スパゲッティだったか何だったか、愛用していた食材の中にここでしか買えない物があって、定期的に補給に出かけていた。その後グローブスでも扱わなくなったので、最近はまったく行かなくなってしまった。
その後グローブスに接してオロモウツ・シティというショッピングセンターが建てられてお店の数は増えたけれども、郊外のショッピングセンターの出店傾向はどこでもほとんど同じなので、わざわざ出かける理由にはならないのである。最後に行ったときには、経営がうまくいっていないのかお店が入っていないところも多かったし、売りに出ているなんて情報もあったなあ。
こんなテーマで分割することになるとは思わなかったけど、長くなったので以下次号。
7月28日22時。
2016年07月29日
チェコで書かれたチェコ語の教科書(七月廿六日)
初めて手にしたチェコで出版されたチェコ語の教科書は、『中上級者のためのチェコ語(Čeština pro středně a více pokročilé)』だった。初めて参加したサマースクールで何かの間違いで放り込まれた一番上の師匠のクラスで使うからと配られたのだが、授業と同じでさっぱり理解できなかった。当時の実力では、手も足も出ず、歯も立たなかった。最初のテキストからして、知らない言葉ばかりで、チェコ語でいうところのスペインの村(španělská vesnice)だった。何故だかわからないが、ちんぷんかんぷんでさっぱり理解できないことをこう表現するのだ。
この教科書は、二度のサマースクールを経た後、外国人のためのチェコ語のコースで師匠の授業でも使ったが、理解できないと言う点では大差はなく、チェコ語の能力が向上しないことに絶望する原因にもなった。日本語に何とか翻訳しても理解できないような文章は、哲学書の翻訳ならともかく、語学のテキストでは読みたくない。チェコ語の勉強を始めて数年の三年ほどの社会人には、1930年代にカレル・チャペクが書いた文章を読むのは無理だと思う。
師匠もこれでは駄目だと思ったのか、この教科書の使用を諦めてしまった。カレル大学でサマースクールでの使用も想定して出版された教科書なので、使えない教科書というわけではないのだろうが、相性が悪かったのか、使い始めるのが早すぎたのか。その後使い始めた教科書は、古い既に絶版になったもので、師匠の研究室に一冊だけあったものをコピーして使った。こちらは多分中級の教科書だったはずだが、表紙はコピーしなかったし題名までは覚えていない。
一年目のサマースクールで移動した先のクラスで使用した教科書は、『コミュニケーションのためのチェコ語(Communicative Czech)』だった。これの青い一冊目の途中から、黄色の二冊目の途中まで勉強した。泣きたくなるほど難しいところはなかったので、内容はあまり覚えていないのだが、人の性格を表す形容詞に苦戦させられたのを覚えている。日本語でも「さっぱりした性格」なんてのは、説明しづらいのだから、外国語で苦労させられるのは当然といえば言えるのだろう。
この教科書だけの特徴ではないのかもしれないが、日本語で書かれた教科書とは大きく違う点が一点あった。それは名詞や形容詞などの格変化の説明である。動詞の人称変化はチェコの教科書でも、日本語の教科書でも、タイプごとに一人称単数から三人称複数までの六つの形を一度に勉強する。その後、過去形も男性単数から中性複数までまとめて勉強する。
しかし、名詞の場合には、日本で書かれた教科書は、名詞のタイプごとに一格から七格までまとめて勉強する。男性名詞不活動体硬変化なら、hard(城)を例として、hrad、hradu、hradu、hrad、hrade、hradu/hradě、hrademという具合である。最初のほうに出てくるタイプの名詞は単数と複数を別々に勉強するが、後で出てくる名詞の場合には単数と複数をまとめて十四の形を一度に勉強することもある。形容詞や人称代名詞などの場合も同じで、活用表を縦に覚えていくのである。
それに対して、チェコで書かれた教科書では、活用表を横に覚えていく。まずノミナティフ、つまり一格の形が、数詞の一から、名詞、人称代名詞、所有代名詞、指示代名詞、形容詞まで、単数だけだが一度に提示される。二番目は二格ではなく、一格と同じ形をとることが多い四格が出てくるというように上から順番に勉強するわけではない。
この違いは、結果的に見るとチェコ語の勉強に非常に役に立った。結果的にと言うのは、著者たちが意図したことではないと思われるからだ。ただ、日本で縦に覚えこんで、縦にしか見てこなかった格変化を、横から見て、それぞれの格変化のタイプの変化形を並べてみる視点を持てたことは、以後のチェコ語の学習に大きく寄与した。
だから、チェコ語の勉強をしている人で、格変化に苦労している人には、格変化表を縦にだけではなく、横にも並べてみることを勧めておこう。そうすれば、チェコ語の世界が少しだけ違って見えるかもしれない。保証はできないけど。
チェコに来て手に取ったり購入したりした教科書はほかにもたくさんある。ただ三年目以降のサマースクールで教科書はあったけれどもほとんど使わなかったなんてことがあったように、ちょっとしか使わずまったく印象に残っていないものが多いのである。
7月27日22時。
2016年07月28日
関係の三格、もしくは新しいチェコ語(七月廿五日)
こんな言い方をすると誤解する人もいるかもしれないが、いや誤解してもらうためにこんな言い方をしているとも言えるのだが、言葉に関して二つのプロジェクトを現在遂行中である。遂行とは言っても、長い時間がかかることは想定のうちなので、気長にのんびりと進めているところである。いや、正確には、思い出したときに活動をしていると言うのが正しいか。この文章もその一環として記されることになる。
さて、日本人が、いやチェコ語を勉強する外国人が、理解に苦しむものの一つに、三格の特別な使い方がある。一般にチェコ語の三格は、「友達に本をあげる」「先生に言う」などの文に典型的に表れているように、日本語の助詞「に」の動作が向かう方向、対象を表す用法に似た使い方をする。
また前置詞「k(〜のほうに)」「díky(〜のおかげで)」「kvůli(〜のせいで)」「 vůči(〜に対して)」「 proti(〜に反対して)」などの後に来るのも三格である。ちょっと意外な使い方で覚えておいたほうがいいものとして、入り口のドアに書かれている「k sobě」という表現を挙げておこう。日本語なら「引く」と書かれるところだろうが、チェコ語では「自分のほうに」という表現で表すのである。反対に「押す」は「od sebe」つまり「自分のほうから」となる。
三つ目の使い方が、表題の関係の三格である。このうち日本語では受身で表すようなものはそれほど問題ない。「父に死なれた」がチェコ語で「zemřel mi otec」になるのは、日本語の表現も直接的な受身ではないし、そんなものだと一度覚えてしまえば、「友達にうちに来られた」とか、「弟にビールを飲まれた」とか、「コンピューターを先に使われた」などを、どのようにチェコ語にすればいいかわかるようになる。この手のいわゆる「迷惑の受身」は、チェコ語では動詞は能動態のまま、文の話者、もしくは視点人物を三格(この場合は私の三格「mi」)にして文に入れることで表現する。最初はちょっと考える必要があるが、慣れれば簡単なものだ。
問題は、動詞ではなく形容詞、いや形容詞的な表現にもこの手の三格が使われることにある。形容詞的と言うのは、日本語では形容詞で表現するが、チェコ語では副詞を使うことがあるからだ。例えば暑い、寒いと感じたときに、「je mi horko」「je mi zima」と言う。気分が悪いときに使う「je mi špatně」や、「je mi divně」なんかも同じである。
最初は、この三格で表される「mi」がよくわからなかった。チェコ人に質問すると、「寒い」「暑い」というのは、個人的な感覚で、自分は寒いと感じても、他の人は感じない可能性があるのだから、「mi」が必要なのだという。
そこで、足りない頭で考えた。寒い、暑いが個人的な感覚であるのなら、暗い、明るいもそうだろう。チェコ人は寒さだけではなく暗さにも強く、目に悪いんじゃないかと思うような暗がりの中で本を読んだりテレビを見たりする。だから、自分が暗いと感じたときには、「je mi tma」と言うものだと思って、師匠に言ってみた。「je mi zima」とほとんど同じだし。
師匠には、笑われた。そこまで笑わなくてもと言いたくなるぐらい思いっきり笑われた。何でそんな妙な表現にたどり着いたのかと聞かれて、上に書いたようなことを説明したら、気持ちはわからなくないけど、暗い、明るいには三格は要らないと言われた。寒いには必要で、暗いには要らない理由はよくわからなかったけれども、外国語の勉強なんてそんなものだ。要る、要らないなんて微妙な感覚は、母語話者にしかつかめないものだ。日本語だって、「は」と「が」のどちらがいいかなど説明のしようがないことはいくらでもある。
しかし、しかしである。「je mi tma」は「je mi zima」と、文の構造も発音もこれだけよく似ているのだから、間違って使ってしまってもしかたがないのではないだろうか。最初は明るい、もしくはまぶしいと言う意味で、「je mi světlo」という表現も使っていたのだが、こちらは諦めた。でも、「je mi tma」だけは諦めきれないのである。笑われても笑われても、使い続けてチェコ語に定着させる努力をすることにした。これが我が言語上のプロジェクト其の一である。即ち日本人起源のチェコ語計画である。
最初は、日本人はこんな変なチェコ語を使うのだという冗談として広めていけば、五十年ぐらいでチェコ中で知られた冗談になって、百年後ぐらいにはオロモウツの方言として定着しないかなあなどと考えて、知り合いのチェコ人にはしきりに冗談で使うように言うのだが、なかなか広まらない。だから、この記事を読んでくれるごく少数の方の中の、さらに少数であろうチェコ語ができる方にのお願いをすることにしよう。
暗いと思ったら「je mi tma」、暗いところにいる人に暗くないか質問するときには「není vám tma?」というのを、使ってもらえないだろうか。使ったからといって何かいいことがあるわけではないけれども、笑ってもらうことはできるはずである。
7月26日22時30分。
チェコ語を勉強していない人には意味不明の文章になってしまった。7月27日追記。
2016年07月27日
道路の上の(七月廿四日)
無残やな道路の上のハリネズミ はせを(偽)
チェコの道を自動車で走っていると、路面に張り付いた野生動物の死体を目にすることが多い。市街地だとハリネズミ、町の外だとノウサギが一番多いだろうか。完全につぶれていてどの動物の死体なのか判然としないことも多いから、一番多いというのはただの印象でしかないのだけれど。
チェコという国には、意外と野生の動物が多い。しかも山の中の森林地帯だけでなく、市街地の近く、言い方を変えれば人間の生活圏のすぐ近くでも野生動物の影が濃い。人口十万人を誇るオロモウツでも、旧市街の周辺を取り巻いている公園の中では、木から木へと走り回るリスを頻繁に見かけるし、公園の中の池や、小川には鴨が泳いでいて、時に周囲の芝生の上を歩き回っていることもある。
市街地でも、潅木の茂みでガサゴソ音がするのでノラ猫かと思って見てみると、ハリネズミだったりする。ハリネズミは夜酒を飲んで家に帰る途中の路上で見かけることもあるから、運が悪いと夜の闇の中路上をのこのこと歩いているときに、車に轢かれて屍をさらすことになるのだろう。
街の外では、特に冬場になるとは、雪に覆われた畑の上で鹿の小さな群を見かけることがある。茶色い土の塊だと思っていたものが動き出して、ノウサギだと気づくこともある。コンバインが刈り残したり、収穫の際にこぼれてしまったりした小麦なんかを探して食べているのだろうか。鹿は森に餌の豊富な時期には畑で見かけることはないが、ノウサギは夏場でも、他よりも早く収穫を終えた畑で見かけることがある。
またモラビアには、畑に囲まれて小さな森が残っているところも多い。農業的にはつぶして農地にしてしまったほうが効率がよさそうなその手の森にも、猟師たちが使う見張り用の小屋が建っているところがあるから、事情があって残った森ではなく、意図的に残された、もしくは植林された森であるようだ。
そんな小さな森を住処とする動物たちが、運悪く事故に遭って無残な死体を残すことになるのだろう。モラビアの平原地帯では、鹿とぶつかる事故は滅多に起こらないようで、路面に張り付いているのは小さなノウサギの死体ばかりだが、山間部の本当の森に挟まれた道路の場合には、鹿とぶつかる事故も問題となっているようだ。
この手の、動物との接触事故は車を運転する側にとっても気持ちのいいものではないし、野生動物の保護、もしくは狩猟の対象となる動物の保護の観点からも防止したほうがいいのだろう。そのために、動物が道路を越えるための通路を道路の下に通して誘導するなんてこともしているようだが、人工物ということで避けられるのか、あまり効果は上がっていないようである。
ある程度の効果が上がっているのは、鹿やノウサギなどが忌避するにおいを発する泡状の物質をつけた棒を道路の両側に一定間隔で立てていくという方法らしい。ただ問題が二つ。一つはその物質のにおいを発し続ける期間が、当初の想定よりも短く、頻繁に新しいものに変える予算が足りないということで、もちろん、すべての道路で実行するには予算がかかりすぎるという問題もある。
もう一つの問題は、その棒が盗まれることである。自分の畑を動物から守るために、盗んでいく人が後を絶たなかったらしい。専業の農家ではなく、都市部に住んでいる人で別荘を持っている人や、菜園を借りている人たちがお金のかからない害獣対策として持っていくのだとニュースで言っていた。専業で大規模に農業を営んでいれば、害獣対策は予算の一部になるし、必要量を盗むのも難しくなる。
こんなのは、社会主義の時代に、盗めるものは盗めるときに盗んでおかないと後で困るというのが常識だったらしいチェコでは、当然のことなのかもしれない。もっとも当時は職場から資材を盗むのが常識だったらしいけど。発覚しないように毎日少しずつ職場から煉瓦などを盗んで、何年もかけて家を自力で建ててしまった人もいるなんて話を聞いたことがある。
とまれ、この野生動物が道路に飛び出して車に轢かれるという問題は、なかなか解決できないようで、オロモウツから南モラビアまでほぼ100キロほどの道のりで、十匹近くのウサギと思しき動物の死体を確認した。
野生動物を人間の考え通りに動かそうというのが間違っているのであって、人間の思い通りに動くのであれば、それは野生動物ではないと考えれば、自動車に轢かれての死すら野生の証明ということになるのかもしれない。そういえばイタチか何かが、自動車のボンネットの中のちょっとした空間を餌置き場にしてしまうという話も聞いたことがある。イタチよけの自動車用のスプレーも売られているみたいだし。
7月26日15時30分。
まとまらない、まとまらない。うーーん。7月26日追記。
2016年07月26日
テロリスト?(七月廿三日)
先週の木曜日にフランスのニースで起こった群集に大型のトラックが突っ込むという事件に続いて、ドイツでもミュンヘン市内のマクドナルドとショッピングセンターで客に銃を乱射するという事件が起こった。どちらも実行は単独犯で、日本で言う通り魔事件のように思われた。
フランスの事件では、協力者が逮捕されるなどして、イスラム国と関係のあるテロだったということになりそうである。しかし、この事件、イスラム国だのイスラム過激派だのというのは、自分の残虐な行為を正当化するための口実でしかないような気がする。実際やっていることは、銃を発砲したことを除けば、日本の秋葉原で起こった通り魔事件と大差はない。人生に絶望してフランス社会への復讐として無差別に人を殺そうとしたときに、罪悪感を感じずに済むようにイスラムをお題目にしただけではないのか。
大統領をはじめ、フランス当局としては、事件の直後から、テロと断定したがっているように見えていたが、この手の事件をテロと認定するのは、社会的に危険な気がする。テロとか、テロリズムとか、テロリストだとかいう言葉には、ある種の魔力があって、社会に不満を持っている人間たちを引き寄せてしまう。もしくは社会に不満を持って鬱屈としている人間があこがれてしまう嫌いがある。だから、この事件をテロだと規定してしまうと、後追いの模倣犯が続出しやしないかと恐れるのだ。
本当のテロだったら、武器、爆薬の入手などから、アシが付いて事前に発覚することもあるだろう。2001年のアメリカに対するテロでは、飛行機がテロの道具になることが衝撃をもって受け入れられたが、飛行機をテロに使うためには、飛行機を操縦する能力が必要になる。飛行機を確保するのも困難で、そこからテロの計画が漏れることもありそうだ。
今回のニースでの事件は、車一台あれば、爆弾などなくても、いつでもどこでもテロが実行できることを世界に知らしめてしまった。フランスでの事件がテロに認定されたら、社会に不満を持ちつつも、武器も火薬も手に入れることができず、過激派にも伝のないテロリスト予備軍に、格好の手段を与えてしまうことになりそうな気がする。そうなると計画を実行に移す前に阻止することは不可能に近い。
日本だと、薬物依存症の果ての通り魔や、やくざまがいの地上げ屋の手口、もしくは老人が運転を誤って引き起こす事故としてのイメージが強いから、テロに無意味にあこがれる若者がこの手口を真似ることはないと思いたいけれども、実際にはどんな犯罪者にも、崇拝者はいるのだろう。それでも、テロリズムの一環として認識された場合よりは、はるかに少ないはずである。
テロリストグループと直接の関係の見出せない犯人の犯した無差別殺人については、下手にテロ扱いしないほうがいいような気がする。テロリスト扱いされるのは、犯人の望むところだろうし、テロなどではなく、人生に望みを失った人間の絶望から生まれた卑劣な犯罪として扱ったほうが模倣犯を生みにくいだろうし。テロと認定することで、社会の怒りをかき立てることはできるだろうが、同時に多くの崇拝者、模倣犯予備軍を生み出してしまいそうである。
一方、ドイツでの事件では、当初はテロの可能性が云々されていたが、警察も政治家も非常に慎重だった。現時点では、精神的に病んで薬を飲んでいた若者が、薬物、またはアルコールの影響下で錯乱を起こして凶行に及んだものだということになっている。これなら、崇拝者もそれほどは現れなさそうだ。
この手の、精神を病んで病院に通っていた人たちが起こす事件というのは、非常にやるせないものがある。殺人事件を起こすほどに病んでいたのに、どうして病院を退院できたのだろうかという疑いを消すことができない。チェコでも精神を病んで病院に入院していた患者が、退院して人を殺すという事件が、最近二件起こっている。嘗ての患者の人権など、完全に無視して監獄のようだった精神病院に戻すわけには行かないのだろうけど、社会に危害を与えそうな人間を野放しにするのもどうかと思う。どのぐらい危険なのかを見極めるのが一番大切なのだろうけど。
7月24日22時30分。
何かうまくまとまらない。まとまらないけど締め切りだから仕方がない。7月25日追記。
2016年07月25日
チェコサッカーあれこれ(七月廿二日)
来週末に、新シーズンが始まる前に、フランスでのヨーロッパ選手権以後のチェコサッカー界の動向を簡単にまとめておこう。
まず、ロシアのマハチカラに買われていったブルバに代わる代表監督は、カレル・ヤロリームの就任が決定した。ムラダー・ボレスラフの監督として新シーズンに向けて準備を進めていたようだが、チェコのサッカー協会がチームと交渉して契約を解除してもらったようだ。お金が動いたかどうかについてはよくわからない。二回連続でクラブチームの現役監督を強奪して、代表監督ということになった。二年ほど前にブルバが代表監督に就任したときには、プルゼニュが教会との交渉に応じず、ブルバ自身がけっこう強引な方法で辞任したんじゃなかったかな。
ムラダー・ボレスラフとしてもヨーロッパリーグの本戦に進出するために、監督の交代は避けたかったところだろうけれども、予選の間はボレスラフでも監督を続けるという条件で合意したようだ。八月末のアルメニアとの親善試合で代表監督デビューして、九月四日には次のワールドカップ予選が始まることになるから、二足のわらじを履いている余裕はあるのかな。チェコ代表はワールドカップの予選は苦手だから、だめもとで大胆に若手を登用してほしいところである。
ちなみに、ヤロリーム以外には、現U21代表監督のラビチカの名前も挙がっていたが、協会長のペルタとしては、スラビアの監督としてリーグに連覇という実績を持つヤロリームに執着したようだ。ラビチカもスパルタとリベレツで優勝しているんだけど、成績不振でスパルタの監督を解任されてから一年ぐらいしか経過していないのも決定に影響を与えたかもしれない。ちなみに、日本でもプレーしたイバン・ハシェクは、ペルタが協会長である間は、ハシェクに代表監督のオファーは来ないだろうと言っていた。前協会長と現協会長は仲が悪いのかね。
先週の木曜日に、スラビア・プラハがチェコのチームとしては最初にシーズンに突入した。ヨーロッパリーグの予選が始まったのだ。予選二回戦のエストニアのタリンでの初戦で、1対3で負けるという醜態をさらしたときには、もう駄目かと思ったのだが、二戦目までの一週間で、中国に行くと思われていたシュコダと契約を更新し、前シーズンのスロバキアリーグ得点王のオランダ人、ファン・ケッセルをトレンチーンから購入して、攻撃陣を一新してしまった。
そして迎えた第二戦、その二人の得点で2対0で勝利し、アウェーゴールの差で三回戦進出を決めた。特にファン・ケッセルは、シュコダの得点のアシストも決めているので、結果から言うと大活躍なのだけど、それ以外のプレーには精彩を欠いたし、得点を決めた直後に負傷交代しているから、完全にフィットするまでには、もう少し時間が駆りそうである。とはいえ、ここ数年財政上の問題で補強もままなからなかったスラビアのファンは、お金のある喜びを噛み締めていることだろう。中国企業の金だけど、金は金だし、優勝時の主要メンバーの一人シュベントも戻ってきたらしいし。
次はポルトガルチームとの三回戦だけどどうなるかね。チェコからはチャンピオンズリーグの予選にプルゼニュとスパルタ、ヨーロッパリーグには、スラビア以外にリベレツとムラダーボレスラフが出場することになっている。プルゼニュにはCLの本戦に進んでほしいところだけど、ELが現実的かな。他の四チームのうち二チームが本戦に進めば最高だけど、現実的なのはスパルタだけかなあ。リベレツは去年本戦まで進んだけど、結構メンバー変わったからなあ。
まだまだ本格化しない選手の移籍だが、チェコ的には重要な移籍がいくつか決まった。ムラダー・ボレスラフで復活を目指していたミラン・バロシュは、出場機会があまり得られないことから契約を解除して、リベレツと契約を結んだ。本当は二部に落ちてしまった出身クラブのバニーク・オストラバに移籍しようとしたらしいのだが、監督のペトルジェラが、プラハを拠点にして必要な時だけオストラバに通うというバロシュの要求を認めなかったために話がまとまらなかったらしい。
ユーロでは期待されたほどの活躍ができなかったスパルタのクレイチーは、イタリアに行くことになった。チームはボローニャだって。そして、スパルタで育ってレンタル先のボヘミアンズで活躍して評価を上げたパトリック・シクも同じくイタリアのサンプドリアへの移籍が決まった。久しぶりにイタリア移籍で成功と言える選手が出てきてほしいのだけど、この二人どうかなあ。イタリアに行く前のシーズンにあれだけ圧倒的な活躍をしたフシュバウエルでも駄目だったからなあ。レンタルであちこちたらい回しにされて、下部リーグに定着してしまうのではなかいと、ちょっと心配である。
最後に、チェコのサッカー協会の審判部長をポーランド人が務めることになったというのも、ニュースかもしれない。だから何かが変わるとも思えない。どうせならチェコ代表の天敵イタリアのコリーナ氏を招聘すればいいのにと思ってしまった。
7月23日22時。
2016年07月24日
天元五年二月の実資〈後半〉(七月廿一日)
承前
十六日には、頼忠が物忌に籠っている四条殿に向かう。普段住んでいる場所ではなく別のところで忌むというのは普通なのだろうか。
十七日には、十五日の天皇の命令を受けて頼忠が皇太子の元服に奉仕すべき人を検討し、また女官の数をどうするかで、延喜と応和の二つの前例を挙げて応和のほうがいいのではないかということを実資を通じて奏上している。後は、左大臣に任せることになるのだが、その際の天皇とのやり取りで祖父実頼の例を挙げているのが興味を引く。また円融天皇の女御である頼忠の娘が内裏に参入し、実資が迎えに出ている。
十八日には、延期になった祈年祭が行なわれるが特に詳しいことは書かれていない。織部司の近くで火事が起こっている。不穏な情勢はなかなかおさまらないようである。今月も清水寺への参拝は中止している。
十九日は皇太子の元服であるが、詳しいことは書かれていない。別紙にあるというのだが、その別紙は残念ながら見ることは出来ない。讃岐介の藤原永頼が、介ではなくて、権介にしてほしいと願い出ている。その理由として藤原子高の例を挙げているのだが、子高は備前介であったときに藤原純友の乱に遭って襲撃を受けた人物なので、その前例を嫌って権介にしたいということのようだ。それ以後は国司に権の字がつくようになったといっているから前例を嫌ったのは藤原永頼だけではなさそうだ。
そしてこの日には左大臣のところの雑色が内裏の日華門の外で乱闘事件を起こしている。何とか人死には出なかったようだが犯人を捕まえることもできていない、そして内裏の遵子の滞在している弘徽殿の近く乱入した下人がいる。頼忠の随身が捕まえて検非違使に引き渡しているが、中宮立后がほぼ決まった遵子への嫌がらせだろうか。
廿日は翌日の春日祭について、祭使が穢れで代官に行かせ、ほかにも都合が悪いと言って奉仕しない連中がたくさんいることが記される。実資は褶袴を春日祭使に送っている。
廿一日は所労で参内していないが、河原に出て禊をしている。鴨川かな。穢れの疑いがあるので、実資自身も春日祭に奉幣はしていない。世間不浄と言われる状態になると、穢れで身動きが取れない人が増えるのかもしれない。
廿二日も参内していないようで、記事の内容はすべて伝聞になっている。廿一日に女房を通じて奏上した石清水臨時祭について決められたとか、東宮の元服に際して任じられた女官たちが慶びを申し上げたとか。そして、その女官たちのふるまいが間違っていると、怠慢だと非難するのが実資である。
廿三日には遵子立后について天皇から密かに内意がもらされたと言う話を頼忠から聞く。もたらしたのは少将命婦こと良峰美子で去る廿日のことだったという。良峰美子はこの件に関しては今後も頻繁に登場する。
小野宮家の藤原佐理が弾正台の役人ともめて、あろうことか、その役人を十八日から監禁していたらしい。「寄物」のことが原因というから、海岸への漂着物、漂着船の所有権の争いでもあったのかもしれない。頼忠から手紙が行くことで佐理は役人を解放すすのだが、この当たり、小野宮流では公任とならぶ軽薄公子ぶりを発揮している。
七日に実資が奏上した海賊について伊予国から首謀者を含めて十五人の賊を追悼したという解文が届いたのもこの日である。実は伊予守は佐理が正月に任命されたばかりなのだが、この日の記事の前半から考えると在京していて、任国である伊予にはいないということになる。
廿四日には太政官の少納言局、左大弁局、右大弁局の史生の欠員について処理している。また天皇が、昨日届いた海賊を追討したという解文を見て褒めている。穢れで延期された釈奠の儀式が行なわれているが詳しくは書かれていない。
廿五日には、叙位の誤りを正す儀式である直物について予定を立てている。左大臣の最初の案は、廿七、廿八の両日だったが、廿七日は天皇にとって凶日である衰日に当たり、、廿八日には大原野祭が行われるため、来月の三日を過ぎてから行なうようにと天皇は言っている。また、昨年の年末に任命された国司たちが、今年を一年目と数えるようにお願いを出しているのが興味深い。準備に時間がかかって、実質的に就任したのは今年からだというのがその理由である。国司関係では任命の太政官符に請印をしていないものに、今月中に処理するように命じられている。
前日の釈奠の儀式に不備があれこれあったようである。源保光の桃園の邸宅で行なわれた孫の藤原行成と思しき人物の元服の儀式に呼ばれているが、実資は参加していない。また良峰美子と天皇の内意について密談している。
廿六日は特筆すべきことはなく、廿七日の記事では、天皇の最近の治安の悪化を嘆き、検非違使の怠慢を糾弾する言葉が印象に残る。「群盗巷に盈ち、殺害連日」と言われる状況だったようなので、十九日に内裏で刃傷沙汰が起こったのもその一部と言うことか。廿四日に続いてこの日も雷がなっている。これも世情不穏の反映だろうか。
廿八日には、前日の夜に起こった検非違使の官人が襲われる事件について記されている。夜陰にまぎれて犯人には逃げられてしまうという体たらくで、「近日強盗殺害放火の者、連日断たず」という状況に、「検非違使の官人が自分の職掌を忘れているからだ。自分の仕事を全うしない奴がいたらやめさせるぞ」というかなり強烈な批判を浴びている。
廿九日には、頼忠から遵子立后についての話を聞いている。天皇の意向としては、この件はまだ秘匿するけれども、準備は始めておけというなかなか微妙なものである。来月五日にあれこれ決めると言っているので、ほぼ確定と言うことだろう。この話を取り次いだのはまたも良峰美子だった。末尾に菅原輔正の言葉として「彼の事已に許容有り」とあるのも、遵子立后の件についてであろうか。
7月22日21時30分。
2016年07月23日
天元五年二月の実資〈前半〉(七月廿日)
一日には、一月末から続いていた除目で叙任する人と役職を決める会議が終了している。一日も二日もそれ以外には特筆することはない。
三日になって、世間に穢れが満ちていることから、いくつかの延期された祭事の日程についてと、大祓を行なうことを頼忠が奏上している。その後左大臣との話で、祈年祭を行なおうとしていた十九日は皇太子の元服が行なわれるということで、前日の十八日に行なわれることになる。またさまざまな仏事についての手配もなされている。
四日は祈年祭が行なわれる予定の日だが、穢れのため延期され、その代わりに大祓が行われる。またこの日に検非違使の補任について検討される。天皇の名前を挙げた者と頼忠の名前を挙げた者が違うのも興味深いが、一番気になるのは頼忠のコメントで、左衛門尉である藤原為長について、前年検非違使に任ずる宣旨が出るはずだったのに、別な人に対して宣旨が出てしまったという部分である。これで今年も別の人に宣旨が下ったら天下の人が驚くことになるだろうと続くのだが、この別人に宣旨を下してしまうというのは、意図的だったのだろうか。前年の『小右記』の記事が読めないのが残念である。
また、天皇が足の調子がよくないことを嘆いて、陰陽師に吉凶を占わせたり、医師に質問させたりする。実資はもちろん取り次ぐだけである。
五日には、天皇が昨日の頼忠の意見を受けて、検非違使に任官する三人を改めて選んでいるが、前日天皇が名前を挙げた藤原師頼、大江匡衡、平恒昌、平維敏と、頼忠が名前を挙げた藤原為長、平幾忠、平維敏のうち、藤原師頼と藤原為長、大江匡衡を任官しようということになる。その後七日に頼忠が、反論することは何もないという奏上をして、八日には上卿の左大臣にも連絡が行っているので、これで最終決定のようである。
七日には、実資が海賊の蜂起について天皇に奏上している。状況は税である調庸が運べないほどにひどく、「朝威無きに似る」と形容されるまでにひどがったらしい。場所は「縁海」と記されるが、後日の記事を考えると瀬戸内海のようである。
九日には前の年に諸国に命じて修造させていた豊楽院の建物などの造営が停滞していることについて天皇から相談を受けている。たいていこの手のことは太政大臣か、上卿の左大臣に決めさせることになる。
十日になると豊楽院などの修理の件に羅城門・武徳殿なども加えるようにと言われているので、この時期の内裏、もしくは平安京というのは壊れて修理が必要な建物が多かったようだ。この日には、円融天皇の勅願寺である円融寺の造営が終わり、天皇が行幸したいという意を漏らしており頼忠も問題ないことを十二日に奏上している。
また廿一日に延期になった春日祭の祭使である藤原信輔が、祭が本来行われる予定だった九日になって穢れで奉仕できないと言い出した。本人は穢れていても準備した雑具は穢れていないはずだから、それを代官に渡せという話になっているが、これでいいのだろうか。国家の大事ではないからいいのかな。
十一日には七日に出てきた海賊について、追討すべきだという定文を奏上している。最終的には廿七日に伊予国から追討したという解文が届いているが、これから追討の命令を出すと考えると早すぎやしないか。海賊の報告をしたときには、伊予の国司たちは追討に向かっていたのかもしれない。
この日、十一日と十三日には御遊、つまり管絃の宴が催されている。十二日の記事には、十三日の褒美として与えられるものについて内蔵寮に出せといったら出せないという返事が返ってきたということが書かれているのだが、官吏の怠慢なのだろうか。
十四日は月食が起こっている。また実資の実父である藤原斉敏の忌日のため、斎食したり、諷誦を行なったりしている。早朝に沐浴もしているが、これも忌日のためだろうか。
十五日には、十九日に行なわれる皇太子の元服の役職が決まっていないことを知って実資が驚いている。そのことを天皇に申し上げると、例によって太政大臣のところに行って決めて来いと言われるのだが、頼忠は固い物忌みに籠っているので実資は出かけず、書状で連絡だけしている。結局十七日に頼忠のところに出かけて誰にどの役をさせるかを決めることになる。
以下次号。
7月21日22時。
うまく省略できず長くなってしまったので二回に分けることにする。7月22日追記。
2016年07月22日
ビネトゥー(七月十九日)
チェコ人たちが愛してやまないドイツ映画、いや正確には西ドイツの映画がある。ドイツ映画だけれども舞台はアメリカ西部で、主人公はアメリカインディアンのアパッチ族、演じるのはフランス人の俳優、撮影地はバルカン半島の旧ユーゴスラビア。もう一人の主人公はアメリカ人をアメリカ人の俳優が演じ、イタリア人の俳優も出演するという何とも国際的な映画である。
映画の名前は、というよりシリーズの名前は「ビネトゥー」。アメリカの西部開拓時代のインディアンと白人の争いを背景に、アパッチ族の若き酋長ビネトゥーと、白人ながら白人の不正を許さない高貴な心を持つ男オールド・シャッターハンドの立場を超えた友情を描いた映画である。
最初に制作されたのは、1962年の「白銀の湖の財宝(仮訳)」だが、ストーリー的には、1963年に製作された「ビネトゥー」が先になるらしい。この「ビネトゥー」と、翌年の「ビネトゥー――紅の紳士(仮訳)」と翌々年の「ビネトゥー――最後の銃撃(仮訳)」は、ドイツ語の原題では「ビネトゥー」に1から3の数字が付いていて三部作のようだが、作中の時間の流れから言うと「白銀の湖」が「ビネトゥー」の1と2の間に入るようで、その順番で放送されることが多い。。
「ビネトゥー」の本編を為すのは、以上の四作だが、周囲に同じ時代を舞台にして同じような上京を描いた作品が何作もあって、全部で十作ぐらいになるのだろうか。同一人物が出てくるのか、同じ俳優が出てくるだけなのか、よくわからない。オールド・シャッターハンドではなくて、オールド・ファイアーハンドという人物が主人公の作品や、オールド・シャッターハンド(もしくは俳優)が別名でマヤやアステカの末裔と絡む作品もあったなあ。とまれ、毎年夏休みなどに本編四作だけでなく類似の作品群も再放送が行なわれている。今年も例外ではない。
チェコに住んでいるのに、わざわざ外国映画を吹き替えで見ても仕方がないという思いもあって、見ないようにしていたのだが、何度も何度も放送されるので、ちらちら見てしまうことは多い。しっかり集中してみているわけではないので、ストーリーは把握できていないし、主人公二人を除くと誰が誰かもわからないのだけど、見覚えのあるシーンだけは増えていく。
白人だから悪人だというわけではなく、インディアンだから善人で白人の被害者だというわけでもないけれども、全体としては悪辣な白人たちを、ビネトゥーとオールド・シャッターハンドが協力して懲らしめインディアンを救うというのがストーリーの基調になっている。白人=アメリカ人ということで、共産党政権も喜んで受け入れたのだろうか。そして、一般の人々には、白人=ソ連という図式で受け取られたから人気が衰えないのかもしれない。
チェコでは毎年必ず再放送されるような人気を誇っているのだが、本国ドイツではどうなのだろうか。サマースクールでドイツ人と話したときには、この作品のことなんか知らなかったからなあ。ただ、「ビネトゥー」シリーズのパロディーである「マニトゥーの靴」という作品をドイツのコメディアンのグループが制作していることを考えると、少なくともある程度の人気はあるのだろう。パロディーなんて本家を知っている人が見て初めて意味をなすのだから。とは言え、本編はまともに見たことがないのにパロディーは最初から最後まで通して見た私のような人間もいるだろうけど、それでは、半分ぐらいしか面白さが理解できない。いや、もっと少ないかも。パロディーだけでも、それなりには面白かったけど。
ところで、この映画はカレル・マイ(チェコ語で聞くと「マーイ」にも聞こえる)というドイツの作家の作品をもとにして制作されている。これに関して恥ずかしい勘違いをしていた。「ビネトゥー」はチェコ人の作家の作品を原作としてドイツで制作されたと思っていたのだ。
チェコの詩人にカレル・ヒネク・マーハという人物がいる。このマーハの代表作が「マーイ」である。名前が同じカレルで、姓と作品名が「マーイ」ということで、混同してしまって、カレル・ヒネク・マーイというのが「ビネトゥー」の作家の名前だと思っていたのだ。チェコ語に「ビネトゥー」などのマーイ原作の映画をまとめて「マーヨフキ」と呼ぶのも混乱に拍車をかけたかな。
7月20日23時。
イタリアも制作に名を連ねているこの映画、マカロニウェスタンってことになるのだろうか。7月21日追記。
購入はできないみたいだけど、紙の本発見。表紙の写真は映画とは関係なさそう。