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2016年07月23日

天元五年二月の実資〈前半〉(七月廿日)


 一日には、一月末から続いていた除目で叙任する人と役職を決める会議が終了している。一日も二日もそれ以外には特筆することはない。
 三日になって、世間に穢れが満ちていることから、いくつかの延期された祭事の日程についてと、大祓を行なうことを頼忠が奏上している。その後左大臣との話で、祈年祭を行なおうとしていた十九日は皇太子の元服が行なわれるということで、前日の十八日に行なわれることになる。またさまざまな仏事についての手配もなされている。

 四日は祈年祭が行なわれる予定の日だが、穢れのため延期され、その代わりに大祓が行われる。またこの日に検非違使の補任について検討される。天皇の名前を挙げた者と頼忠の名前を挙げた者が違うのも興味深いが、一番気になるのは頼忠のコメントで、左衛門尉である藤原為長について、前年検非違使に任ずる宣旨が出るはずだったのに、別な人に対して宣旨が出てしまったという部分である。これで今年も別の人に宣旨が下ったら天下の人が驚くことになるだろうと続くのだが、この別人に宣旨を下してしまうというのは、意図的だったのだろうか。前年の『小右記』の記事が読めないのが残念である。
 また、天皇が足の調子がよくないことを嘆いて、陰陽師に吉凶を占わせたり、医師に質問させたりする。実資はもちろん取り次ぐだけである。

 五日には、天皇が昨日の頼忠の意見を受けて、検非違使に任官する三人を改めて選んでいるが、前日天皇が名前を挙げた藤原師頼、大江匡衡、平恒昌、平維敏と、頼忠が名前を挙げた藤原為長、平幾忠、平維敏のうち、藤原師頼と藤原為長、大江匡衡を任官しようということになる。その後七日に頼忠が、反論することは何もないという奏上をして、八日には上卿の左大臣にも連絡が行っているので、これで最終決定のようである。

 七日には、実資が海賊の蜂起について天皇に奏上している。状況は税である調庸が運べないほどにひどく、「朝威無きに似る」と形容されるまでにひどがったらしい。場所は「縁海」と記されるが、後日の記事を考えると瀬戸内海のようである。
 九日には前の年に諸国に命じて修造させていた豊楽院の建物などの造営が停滞していることについて天皇から相談を受けている。たいていこの手のことは太政大臣か、上卿の左大臣に決めさせることになる。
 十日になると豊楽院などの修理の件に羅城門・武徳殿なども加えるようにと言われているので、この時期の内裏、もしくは平安京というのは壊れて修理が必要な建物が多かったようだ。この日には、円融天皇の勅願寺である円融寺の造営が終わり、天皇が行幸したいという意を漏らしており頼忠も問題ないことを十二日に奏上している。
 また廿一日に延期になった春日祭の祭使である藤原信輔が、祭が本来行われる予定だった九日になって穢れで奉仕できないと言い出した。本人は穢れていても準備した雑具は穢れていないはずだから、それを代官に渡せという話になっているが、これでいいのだろうか。国家の大事ではないからいいのかな。

 十一日には七日に出てきた海賊について、追討すべきだという定文を奏上している。最終的には廿七日に伊予国から追討したという解文が届いているが、これから追討の命令を出すと考えると早すぎやしないか。海賊の報告をしたときには、伊予の国司たちは追討に向かっていたのかもしれない。
 この日、十一日と十三日には御遊、つまり管絃の宴が催されている。十二日の記事には、十三日の褒美として与えられるものについて内蔵寮に出せといったら出せないという返事が返ってきたということが書かれているのだが、官吏の怠慢なのだろうか。
 十四日は月食が起こっている。また実資の実父である藤原斉敏の忌日のため、斎食したり、諷誦を行なったりしている。早朝に沐浴もしているが、これも忌日のためだろうか。

 十五日には、十九日に行なわれる皇太子の元服の役職が決まっていないことを知って実資が驚いている。そのことを天皇に申し上げると、例によって太政大臣のところに行って決めて来いと言われるのだが、頼忠は固い物忌みに籠っているので実資は出かけず、書状で連絡だけしている。結局十七日に頼忠のところに出かけて誰にどの役をさせるかを決めることになる。
以下次号。

7月21日22時。


 うまく省略できず長くなってしまったので二回に分けることにする。7月22日追記。
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