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2016年07月24日

天元五年二月の実資〈後半〉(七月廿一日)



承前

 十六日には、頼忠が物忌に籠っている四条殿に向かう。普段住んでいる場所ではなく別のところで忌むというのは普通なのだろうか。ちなみに頼忠が普段住んでいたのは三条第だと言われる。(五月に三条の家を手に入れるという記事があるのでここは間違い。8月5日追記)
 十七日には、十五日の天皇の命令を受けて頼忠が皇太子の元服に奉仕すべき人を検討し、また女官の数をどうするかで、延喜と応和の二つの前例を挙げて応和のほうがいいのではないかということを実資を通じて奏上している。後は、左大臣に任せることになるのだが、その際の天皇とのやり取りで祖父実頼の例を挙げているのが興味を引く。また円融天皇の女御である頼忠の娘が内裏に参入し、実資が迎えに出ている。
 十八日には、延期になった祈年祭が行なわれるが特に詳しいことは書かれていない。織部司の近くで火事が起こっている。不穏な情勢はなかなかおさまらないようである。今月も清水寺への参拝は中止している。

 十九日は皇太子の元服であるが、詳しいことは書かれていない。別紙にあるというのだが、その別紙は残念ながら見ることは出来ない。讃岐介の藤原永頼が、介ではなくて、権介にしてほしいと願い出ている。その理由として藤原子高の例を挙げているのだが、子高は備前介であったときに藤原純友の乱に遭って襲撃を受けた人物なので、その前例を嫌って権介にしたいということのようだ。それ以後は国司に権の字がつくようになったといっているから前例を嫌ったのは藤原永頼だけではなさそうだ。
 そしてこの日には左大臣のところの雑色が内裏の日華門の外で乱闘事件を起こしている。何とか人死には出なかったようだが犯人を捕まえることもできていない、そして内裏の遵子の滞在している弘徽殿の近く乱入した下人がいる。頼忠の随身が捕まえて検非違使に引き渡しているが、中宮立后がほぼ決まった遵子への嫌がらせだろうか。
 廿日は翌日の春日祭について、祭使が穢れで代官に行かせ、ほかにも都合が悪いと言って奉仕しない連中がたくさんいることが記される。実資は褶袴を春日祭使に送っている。

 廿一日は所労で参内していないが、河原に出て禊をしている。鴨川かな。穢れの疑いがあるので、実資自身も春日祭に奉幣はしていない。世間不浄と言われる状態になると、穢れで身動きが取れない人が増えるのかもしれない。
 廿二日も参内していないようで、記事の内容はすべて伝聞になっている。廿一日に女房を通じて奏上した石清水臨時祭について決められたとか、東宮の元服に際して任じられた女官たちが慶びを申し上げたとか。そして、その女官たちのふるまいが間違っていると、怠慢だと非難するのが実資である。

 廿三日には遵子立后について天皇から密かに内意がもらされたと言う話を頼忠から聞く。もたらしたのは少将命婦こと良峰美子で去る廿日のことだったという。良峰美子はこの件に関しては今後も頻繁に登場する。
 小野宮家の藤原佐理が弾正台の役人ともめて、あろうことか、その役人を十八日から監禁していたらしい。「寄物」のことが原因というから、海岸への漂着物、漂着船の所有権の争いでもあったのかもしれない。頼忠から手紙が行くことで佐理は役人を解放すすのだが、この当たり、小野宮流では公任とならぶ軽薄公子ぶりを発揮している。
 七日に実資が奏上した海賊について伊予国から首謀者を含めて十五人の賊を追悼したという解文が届いたのもこの日である。実は伊予守は佐理が正月に任命されたばかりなのだが、この日の記事の前半から考えると在京していて、任国である伊予にはいないということになる。
 廿四日には太政官の少納言局、左大弁局、右大弁局の史生の欠員について処理している。また天皇が、昨日届いた海賊を追討したという解文を見て褒めている。穢れで延期された釈奠の儀式が行なわれているが詳しくは書かれていない。

 廿五日には、叙位の誤りを正す儀式である直物について予定を立てている。左大臣の最初の案は、廿七、廿八の両日だったが、廿七日は天皇にとって凶日である衰日に当たり、、廿八日には大原野祭が行われるため、来月の三日を過ぎてから行なうようにと天皇は言っている。また、昨年の年末に任命された国司たちが、今年を一年目と数えるようにお願いを出しているのが興味深い。準備に時間がかかって、実質的に就任したのは今年からだというのがその理由である。国司関係では任命の太政官符に請印をしていないものに、今月中に処理するように命じられている。
 前日の釈奠の儀式に不備があれこれあったようである。源保光の桃園の邸宅で行なわれた孫の藤原行成と思しき人物の元服の儀式に呼ばれているが、実資は参加していない。また良峰美子と天皇の内意について密談している。

 廿六日は特筆すべきことはなく、廿七日の記事では、天皇の最近の治安の悪化を嘆き、検非違使の怠慢を糾弾する言葉が印象に残る。「群盗巷に盈ち、殺害連日」と言われる状況だったようなので、十九日に内裏で刃傷沙汰が起こったのもその一部と言うことか。廿四日に続いてこの日も雷がなっている。これも世情不穏の反映だろうか。
 廿八日には、前日の夜に起こった検非違使の官人が襲われる事件について記されている。夜陰にまぎれて犯人には逃げられてしまうという体たらくで、「近日強盗殺害放火の者、連日断たず」という状況に、「検非違使の官人が自分の職掌を忘れているからだ。自分の仕事を全うしない奴がいたらやめさせるぞ」というかなり強烈な批判を浴びている。
 廿九日には、頼忠から遵子立后についての話を聞いている。天皇の意向としては、この件はまだ秘匿するけれども、準備は始めておけというなかなか微妙なものである。来月五日にあれこれ決めると言っているので、ほぼ確定と言うことだろう。この話を取り次いだのはまたも良峰美子だった。末尾に菅原輔正の言葉として「彼の事已に許容有り」とあるのも、遵子立后の件についてであろうか。
7月22日21時30分。


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