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2016年07月11日
チェック・サイクリング・トゥール(七月八日)
ツール・ド・フランスもそろそろピレネーの山岳地帯に入って、本当の意味で盛り上がり始めているが、かつて、チェコで、いや当時のチェコスロバキアで、ツール・ド・フランス風の、自転車のステージレースと言うと、「ザーボット・ミール」をおいて他にはなかったらしい。この極めて社会主義的なレースの名前は、英語では「ピース・レース」のようだが、これは使いたくないので、日本語に訳して「平和レース」「平和カップ」、うーん、どちらも納得できない。しかたがないので、チェコ語をカタカナにして使用することにする。
第二次世界大戦後の1948年に、チェコスロバキアとポーランドの日刊紙の主催で始まったこのレースは、プラハ−ワルシャワという両国の首都を結ぶルートを走っていた。途中から東ドイツがレースの運営に参加するようになり、多少の例外はあるが、三国の首都を結んで走る二週間ほどのステージレースとして定着した。ツール・ド・フランスにならって、毎年コースが変更されたようで、ザーボット・ミールが通過するというのは、その町の人々にとっては一大イベントだったという。
旧東側諸国で行なわれていたレースなので、参加者はみな共産圏の選手かと思っていたら、実はそんなことはなく、優勝者だけを見ても、既に1950年代から、デンマーク、イギリス、フランスなどの選手も並んでいるから、本当の意味で国際色の豊かなレースだったようだ。ただし、プラハの春以後の正常化の時代になると、西側の優勝者は消える。ちなみに1986年には、四月末にチェルノブイリの原子力発電所で事故が起こった直後の五月初めに、ウクライナのキエフからのスタートを、ろくな情報もないまま強要されたらしい。
1993年以降は、チェコの単独の開催に変更されたが、ドイツやポーランド、時にベルギーなどがコースに組み込まれることも合ったようである。ただ次第に資金面で行き詰るようになり2005年に中止になり、2006年に一度だけ復活したものの以後は一度も開催されていない。2013年からは、23歳以下の若手選手を対象としたステージレースとして「ザーボット・ミールU23」の名前で、オロモウツ地方の北部イェセニークを中心に開催されているが、昔日の面影はない。
ザーボット・ミールの直接の後継というわけではないが、2010年からオロモウツを中心に、チェコ最大のステージレースとして八月に開催されているのが、チェック・サイクリング・トゥールである。最初はあまり目立たない形でスタートしたのは、オロモウツハーフマラソンと同じで、レースが終わった後にその存在を知った。
それが、昨年はカテゴリーが上がったのか、UCIワールドチームのクイックステップが参加することになり、最終日は現地から生中継が行なわれた。クイックステップは、オーナーがチェコ人で、シュティバルやバコチというチェコ人の有力選手を揃えている縁で、招待を受けたらしい。レオポルト・ケーニックが移籍したチーム・スカイや、クロイツィグルが所属するティンコフとも交渉したらしいけれども、今後の検討と言うことで招待を受けてもらうことはできなかったらしい。まあチェコの片隅で始まったばかりのステージレースに、一チームとはいえ、トップカテゴリーのチームを招待できたのだから、大成功と言ってもいいだろう。
出場しないチームに所属するチェコ人の有力選手を集めたチェコのナショナルチームも組織され、ケーニックも、ツール・ド・フランスの疲れを押して出場していた。一番印象的だったのは、ケーニックのお父さんが、自宅のあるチェスカー・トシェボバーから、オロモウツ近くのドラニまで自転車で自走してきたという話だったけど。
そのチェック・サイクリング・トゥールが、今年も八月十一日から十四日までの予定で開催される。去年の時点では、今年はオロモウツ地方を離れてフリーデク・ミーステクで第一ステージが開幕するという話もあったのだけど、その後情報が出てこないのでよくわからない。あまり更新されていないホームページで確認したらUCIのヨーロッパツアーの2.1というカテゴリーになるらしいけど、そう言われてもよくわからん。
参加チームは、UCIワールドチームでは、去年のクイックステップに加えて、イタリアのランプレ・メリダが決定しているようだ。スカイとティンコフとも交渉中というニュースが三月ごろに聞こえてきたのだが、その後どうなったのだろうか。チェコ選手権で優勝したクロイツィグルは、ツール・ド・フランスに加えて、ブエルタにも出ると言っていたから難しそうだ。ケーニックは、オリンピックが終わってすぐになるのか。
それから日本のアイサンチームの参加も決定しているようだ。どうも自動車部品メーカーであるアイサンのチェコ法人がチェック・サイクリング・トゥールとザーボット・ミールU23のスポンサーになったのが縁らしい。これがきっかけで、日本チームの参加が増えたりは、しないだろうなあ。
7月9日19時。
2016年07月10日
いじめられるチェコ(七月七日)
フランスで行われているサッカーのヨーロッパ選手権も日曜日の決勝を残すだけとなったが、大会序盤で大きな話題の一つになったのは、会場の芝の状態の悪さだった。実は、これもチェコ人にとっては腹立ちの原因となっている。
芝の状態が悪くて踏ん張りがきかず、こけてしまう選手が続出していたからチェコ代表が負けたとか、ロシツキーが怪我をしたとか言いたいわけではない。フランスだからあんな芝の状態でも、大会を行うことを認められたのだと、ヨーロッパのサッカー協会の連中もろくにチェックしなかったに違いないと言いたいのだ。これがチェコでの開催だったら事前に、重箱の隅をつつくようなチェックを受けて、いい加減にしろと言いたくなるような修正要求を受けていたはずである。
被害妄想、いやいや、そんなことはない。実例があるのだから。昨年チェコでU21のヨーロッパ選手権が行われた。会場となったのはプラハの二つのスタジアムと、モラビアのオロモウツとウヘルスケー・フラディシュテのスタジアムだった。このうち、ウケルスケー・フラディシュテのスタジアムの芝の状態にクレームが付けられ、リーグ戦の最中であったにもかかわらず、芝の張替えを余儀なくされたのだ。
チェコのサッカースタジアムの芝の状態は、二千年代の初頭は、特に冬の芝が育ちにくい時期にはひどいものだった。ゴール前の芝が剥げて砂が投入されて、ビーチサッカーかと言いたくなるような状態でも試合が行われていた。当時はまだ雪の多い冬が多かったので、雪が積もった後の試合は特にひどかった。
それが何度かの協会主導のプロジェクトを経てスタジアムの改修が進み(強制されたというほうが正しいか)、現在では照明設備も芝の融雪設備も整い、収容人数を除けば、どこに出しても恥ずかしくないレベルのスタジアムばかりである。逆に言えば一部リーグに参戦する条件として、スタジアムの整備が課されているため、一部昇格を目指すチームはスタジアムを事前に改修するか、改修することを約束した上で、改修が済むまでよそのチームの本拠地に間借りすることになる。
だから、ウヘルスケー・フラディシュテのスタジアムの芝の状態もそんなにひどいものではなかったのだ。このスタジアムを本拠地とするスロバーツコの試合を見ても特に問題があるようには見えなかったし、少なくとも今回フランスで会場となれたいくつかのスタジアムよりは明らかにましだった。それなのに、チェックに来たUEFAの人間によって芝の状態に不備があることにされ、シーズン中にもかかわらず、芝の張替えを要求されたのだ。その結果、スロバーツコは芝の張替えの期間、よそでの試合を強要された。
これがフランスでもUEFAの人間が入念にチェックをして芝の張替えを命じたという話だったら納得できるのだけど、実際はチェックが入ったのかどうかすらわからないという状態で、テレビ中継のときに解説者が不満をぶちまけていた。
以前、アイスホッケーでも似たようなことがあった。チェコで世界選手権が行われたときに、世界アイスホッケー協会の連中が、スタジアムの確認に来たときに、本当にどうでもいいような細かいところにまでクレームを付けた上で、無事に大会が開催できるのかどうか不安だとか無駄な心配を表明するなど、大会が始まるまではチェコ側の運営能力を疑う発言を繰り返していた。その後、運営の面では何の問題もなく大会は終了し、関係者は途中から手のひらを反す発言をし始めるのだが、うっぷんの原因はそこにはない。
翌年だったか、翌々年だったかに今度はオーストリアで世界選手権が開催された。このときも事前にスタジアムのチェックが行われたはずだが、問題がありそうだというコメントはどこからも聞こえてこなかった。それなのに、実際に大会が始まると、ゴール前の氷が解けて水たまりができるなど、会場となったスタジアムに問題が続出し、お前ら事前にチェックをしたんじゃないのかと言いたくなってしまった。チェコのときにはあれだけ細かくクレームをつけてきたのに、オーストリアの場合には、すべて放置されていたのだから、信じられない話だし文句の一つも言いたくなる。
アイスホッケーという競技に関しては、チェコは世界のトップの一つで、オーストリアはその他大多数の国の一つである。だからチェコでの開催には信頼を寄せて、オーストリアでの開催に不安を感じるというのならよくわかるのだが、実際には完全に逆になっているのである。(この一文7月11日追加)
ただチェコだからという理由で疑念をもたれ、必要以上のチェックを受け、フランスだからオーストリアだからという理由で、根拠のない信頼を寄せられる。この手の差別もしくは偏見というものは、本人は差別だと意識しない上に、時に善意の形を取って現れるだけにたちが悪い。これは、ヨーロッパ人だからというわけではなく、日本人でも知らず知らずのうちにやらかしてしまうものなので、批判の言葉であると同時に自戒の言葉でもある。
7月9日14時30分。
2016年07月09日
ヤン・フスの日(七月六日)
今年は、カレル四世生誕七百周年だが、昨年はヤン・フスの死後六百年だった。つまり今日は、チェコの生んだ宗教改革者で、当時のカトリック教会によって異端の烙印を押されて、公会議の開催されたドイツのコンスタンツで家系に処されてからちょうど六百一年目だということになる。このフスが火刑に処された日も祝日となっている。
ただでさえ少ないチェコの休日が、昨日のツィリルとメトデイ記念日と今日のフスの記念日と、夏休み期間中に二日もあることを、チェコの小中学生は不満に思わないのだろうか。夏休み自体が長すぎるほどに長いから、問題ないのかな。日本だと、宗教に直接関係する祝日が二日も存在することを、政教分離の原則に反するとか言って批判する人も出てきそうである。
ヤン・フスがキリスト教の公会議で異端とされたのは、イングランドのウィクリフの学説に影響を受けて、教会の腐敗、特にいわゆる免罪符の販売を強く批判し、ローマ教皇の権威に疑問を投げかけたことによる。アビニョン捕囚を経て、教会大分裂を起こしていた時代で、ただでさえ教皇の権威の下がっていたところに、身内からの批判に対する怒りは大きかったのだろうか。
ボヘミア王国に全盛期をもたらしたカレル四世の息子であるジクムントの主導で開催されたコンスタンツの公会議において、フスは長々と続いた審理の末に有罪の判決を受け、火刑に処された。遺骨や灰は、チェコのフス派の人々が聖遺骸として持ち帰ることができないように、市内を流れるライン川に投げ込まれたというから、憎まれたものである。その結果、今でもフス派の人々が、毎年巡礼としてコンスタンツを訪れるようになっているらしい。これがフスの死の直後からの伝統なのかはわからないけど。
一方、イングランドのウィクリフも、当時既に亡くなっていたが、フスの有罪判決を受けて、死後でありながら有罪とされ、その墓が暴かれ遺骸が火刑に処されたという。このあたりのカトリックの教会の非寛容性、残虐性にうんざりするのは私だけではあるまい。豊臣秀吉によってキリスト教が禁止された後、日本に来て捕まった修道士の中には、国外追放を拒否して、拷問されて死ぬことを、日本側に強く求めて殺されたものもいたという話だから、カトリックというのは嗜虐性も被虐性も兼ね備えた宗教だったのだ。
その後、チェコではフス派の反乱が起こり、国土は荒廃へと向かっていく。このあたりのフス派内部の分裂と対立、ローマ教皇や世俗権力である国王や貴族たちの対応などは、複雑怪奇で経過を時系列で追っているだけではなかなか理解できない。薩摩秀登氏の『プラハの異端者たち』は、名著だとは思うけれども、これ一冊だけで全貌を細かいところまで書ききるのは無理だったのだろう。読後に、大きな満足感と、もう少し細かくという一抹の不満が残ったのを覚えている。日本史における南北朝時代の観応の擾乱並に、いやそれ以上にややこしいのである。
このフス派の活動は、特に急進派のカトリック諸侯が派遣した十字軍などとの戦いは、共産主義の時代には、高く評価されていたらしい。持たざる無産階級の、持てる貴族階級への反乱とでも定義されていたのだろう。しかし、実際には略奪を目的に戦争を仕掛けたり、国外遠征をしたりするという十字軍側も顔負けの行動を繰り返し、血で血を洗うような内紛も起こしていたようだ。フス派の活動を描いたものとしては、その辺に目をつぶって制作されたであろう共産主義時代の映画の大作「ヤン・ジシカ」が存在するのだけど、これを見ても当時のことが理解できるようになるとも思えないので、まだ見ていない。画面が暗いのと長すぎるのとで見る気が起こらないというのもある。一体に長すぎるチェコの映画は面白くないし。
とまれ、このフスの死をきっかけに、繁栄を誇ったカレル四世のチェコ人の王国は、凋落の時期を迎える。多少の振幅はありながらも、全体的には、1918年にチェコスロバキアとして独立が達成されるまで、ドイツ化、再カトリック化の波にさらされることになるのである。
チェコが神聖ローマ帝国の枠内で、スラブ系の諸侯として独立性を保っていられた時代の終わりを告げる出来事が、ヤン・フスの死だったのだと偉そうにまとめておこう。
7月8日11時。
フスについては、いずれ改めて一文物する予定。「プラハの異端者たち」はなかった。残念。7月8日追記。
2016年07月08日
ツィリルとメトデイ(七月五日)
チェコの歴史も、日本の歴史と同じように、神話的な始まりと、考古学的な始まりを持つ。神話的な始まりによれば、「プラオテツ(父祖とでも訳しておこうか)」と呼ばれるチェフに率いられたチェコ人のグループが、ボヘミア中部にあるジープという名の山のふもとにたどり着くところからチェコの歴史は始まる。だからジープ山というのは、日本神話の高千穂の峰のような存在なのだ。日本神話の天孫降臨とは違って、横への移動だけど。ちなみに、チェフにはレフという名の兄弟がいて、レフの率いる集団はチェフとは分かれて別なところに向かったらしいのだが、これがポーランド人の先祖になったというお話である。
一方、考古学的な歴史は、ケルト人から始まる。ケルト人の一派のボイイ族が、現在のボヘミアの地に住んでいたらしい。そのボイイからボヘミアという地名が生まれたのだという。ケルト人たちはその後、西に移動していくわけだが、ボイイ人がどうなったのかについては、チェコの歴史では語られることはない。
次に出てくるのが、西にフランク王国の成立していた時代に存在したといわれるサーモの国である。サーモというのは、一説によると本来フランクの商人で、その元にいろいろなスラブ系の部族が集まって、国というには緩やかな組織を作っていたらしい。今日のチェコだけでなく、オーストリアとドイツの一部にも領域が広がっていたようだが、詳しいことはわからない。
そして、スラブ人の建てた最初の国として歴史に登場してくるのが大モラバと呼ばれる国で、名称の通り現在のモラビア地方を中心に、ボヘミアやスロバキアにまで広がっていた国でである。そのためチェコとスロバキアの間で、この大モラバの中心がチェコにあったのか、スロバキアにあったのかで論争になることもあるらしい。
チェコ側で大モラバの中心地として比定されているのが、スロバーツコ地方のウヘルスケー・フラディシュテ周辺の地域である。遺跡としてはホドニーンの近くのミクルチツェというところにも大きなものがあるらしい。スロバキア側だとニトラに大モラバの大きな拠点があったと言われている。
その大モラバは、そもそも異教の国だったのだが、九世紀の半ば過ぎにキリスト教を導入することになり、西方から圧力を加えてきていたフランク王国のキリスト教ではなく、東方のビザンチン帝国のキリスト教を選び、宣教師の派遣をコンスタンティノープルに依頼した。その結果、スラブ人の間にキリスト教を広めるために大モラバにやってきたのがツィリルとメトデイの兄弟であった。日本ではむしろキリルとメトディウスという名前のほうが有名かもしれない。
この二人が、大モラバに到着したのが、本日七月五日だとみなされていることから、国の祝日となっている。キリスト教を広める拠点となったといわれるべレフラットの地には、大きな教会が建てられていて、前日の四日と五日には盛大な式典が行われるため、チェコ中からキリスト教徒たちが巡礼のために訪れる。毎年二万人とも三万人とも言われる人々が、モラビアの田舎の小さな村に押し寄せるのだから、準備は大変だろう。自家用車での来訪を制限するために、近くのスタレー・ムニェストの町の周囲を走るバイパスを閉鎖して駐車場として使い、鉄道で来た人も含めてバスで輸送する形になっているようだ。
ツィリルは、ロシアなどで使われているキリル文字にその名前が残っているように、スラブ語を表記するための文字を開発し、聖書のスラブ語訳を進め、ミサなどの教会行事をスラブ語で行なうなどして、キリスト教の布教に努めたらしい。大モラバ内の政治状況の変化によって、当初計画されたほどのことはできなかったらしいが、スラブ人世界にキリスト教を広めることに成功したというだけでも、偉業である。
それに、聖書のラテン語からの翻訳、現地語による教会行事の挙行と言うのは、西ヨーロッパでは、宗教改革の登場を待たねばならないのである。この事実は西ローマの、ひいてはゲルマン人世界のフランク王国のキリスト教、つまりローマカトリックの後進性を如実に表している。カトリックがその始まりから内包していた非寛容性、過度の自己正当化などの特色は、現在のEUにまで引き継がれているような気がしてならない。
ちなみに、キリル文字は、ツィリルが作り出した文字そのものではないらしい。実際にツィリルが作り出した文字は、バルカン半島に多く写本の残っているグラゴール文字と呼ばれるもので、キリル文字はツィリルとは関係がないらしい。しかし、スラブ人に文字を与えたツィリルについての記憶から、キリル文字もツィリルの作ったものだと信じられていたという。そんな話を知ったのは、黒田龍之助師の著書『羊皮紙に眠る文字たち』に於いてであった。
昔、ロシア語が必修だったチェコスロバキアではキリル文字、チェコ語で「アズブカ」を読めるのは当然だったらしいが、現在では読めない人のほうが多くなっているらしい。ソ連がキリル文字で書くと「CCCP」となるのは知っていたけど、読めるようになりたいとは思えない。
7月6日15時。
2016年07月07日
きゅうりの季節(七月四日)
きゅうりの季節、チェコ語で「オクルコバー・セゾーナ」というのは、七月、八月、つまり夏休みの時期のテレビの退屈さを指す言葉である。
この時期は、国会も休会し、政治家も休暇を取るため、チェコのニュースのかなりの部分を占める政治ニュースが一気に減る。今年はイギリスのEU脱退のおかげで、EU首脳たちのヒステリックとしか言いようのない反応がニュースをにぎわしているが、例年のこの時期のニュースは、政治好きのチェコ人たちにとっては、退屈極まりないものとなるようだ。それに、毎週日曜日に放送されている政治家の討論番組もこの時期は中断するし。
六月の終わりから七月の初めにかけてのニュースの目玉は、いかにしてチェコから、チェコ人に一番人気のバカンス地であるクロアチアの海岸まで車で行くかである。通過する国の高速道路の料金や、料金徴収のシステム、罰金のあり方など、こんなの公共放送のニュースでやることなのかと、初めて見たときには思ったが、最近は夏の風物詩だと思えるようになった。ただ、プラハからクロアチアの海岸まで、実際に車に乗って行ってみせる必要はないんじゃなかろうか。それに、どっちのルートで行ったほうが早いかなんてのは、BBCのトップギアをまねた自動車番組でやるべきだろう。
きゅうりなのは、ニュースだけではない。この時期になるとテレビ番組は、新作の放送がなくなり、軒並み再放送となる。チェコのテレビは一体に再放送が多いのだが、この時期には終わらない連続ドラマも新作の放送を一時中断して、再放送ばかりになる。外国ドラマや映画のチェコ語吹き替え版も、新しいものではなくかつて自局で放送したものか、よその局で放送したものが放送されるばかりである。もっとも、民放のテレビ局ノバが数年前に鳴り物入りでゴールデンタイムに放送を始めたものの、最初の数週間であまりの人気のなさに見切りをつけて放送時間を変更することになったトルコのテレノベラ「千夜一夜物語」だけは、再放送でも見かけないような気はするけど。いや、そもそもこの番組最後まで放送されたのだろうか。
共産主義時代のテレビドラマが再放送されることも多く、今年の目玉は、チェコテレビが週に二回再放送している「サニトカ」である。題名は日本語に訳すと救急車なのだけど、それではドラマの題名にはなりそうにないので、チェコ語のままにしておく。題名の通りにプラハで救急医療に携わる人たちの活躍を描いたドラマである。主人公はどこかの病院で上ともめて辞職して、救急隊に配属になった救急車に乗る医者だったかな。
何年か前に確か三十年ぶりに続編が製作されたときにも、再放送があってちらちら診た記憶はあるのだけど、正直な話、主題歌が無駄にかっこよかったことしか覚えていない。今回ちょっとだけちゃんと見たら、主役のヤンデラ医師を含めて、有名な俳優が結構出ていて驚いてしまった。
ノバでも、「クリミナルカ・アンデル」の初期の作品が再放送されているし、このきゅうりの季節も悪いことばかりではない。一度見逃してもどうせまた再放送があると思えば、ビデオなんて必要ないし、かつて日本ではやった昔の番組の一場面を探し出して見せるなんて番組も、一場面どころか番組全体が再放送されるのだから需要があるとも思えない。
ただ、毎年大晦日に放送される長時間のバラエティ番組を夏の暑いさなかに延々再放送するのは、季節感の面からもうんざりしてしまうのでやめてほしい。とはいえ、本来クリスマスに放送されていた「ポペルカ」などの童話映画が、夏休みだけでなくイースターの時期にも放送されるようになって久しいし、チャンネルが増えすぎてコンテンツの奪い合いが起こった結果、放送する物が足りなくなったということだろうか。そう考えると、二ヶ月というきゅうりの季節は長すぎる。
ちなみに、共産主義時代のドラマで意外な人気を誇り、最近しばしば放送されているのを見かけるのが「マヨル・ゼマン30の事件」である。秘密警察の将校の活躍を描いたこのドラマは、共産党政権のプロパガンダに満ち溢れているから見てもしょうがないという思想教育を受けたので、自分では見る気になれないのだけど、共産党に嫌悪感を隠さない人たちの中にもゼマンのファンはいるようである。ドラマとしての出来と、プロパガンダはまた別物だということなのだろう。そこはかとないプロパガンダ臭を振りまきながらも、人気のある共産主義時代の映画もいくつかあることだし。
7月6日10時。
2016年07月06日
チェコの夏(七月三日)
オロモウツでハーフマラソンがなわれた頃から、日中の気温が30度を超える日が何日か続いていたのだが、北大西洋から寒気団が張り出してきてヨーロッパ上空を覆ったおかげで、急に気温が下がって、肌寒いぐらいになってしまった。天気予報によると昨日と比べて気温が15度も下がったのだという。これがチェコの夏なのだ。
昨年の夏は、暑かった。日本の夏と比べても暑くて、夏ばてになってしまいそうだった。連日日中の最高気温は35度を超え、日没後も気温がなかなか下がらず、夜明け直前の最低気温ですら25度程度にしか下がらないという日が続いた。これはアフリカから北上してきた熱気がアルプスを越えて停滞したためだったらしいが、異常気象とか地球温暖化なん言葉で表現するのは生易しすぎると言いたくなるような夏だった。
その上、異常なほどに雨が少なかった。チェコも日本と同じように、夏は、特に夏の気温の上がった日には、夕立がくることが多いのだが、去年はその夕立も少なかった。森林地帯でも乾燥が進み、山火事が例年以上に多かった。たまに雨が降っても、地表が乾燥しすぎているために、地面に吸収されることなく、表面を勢いよく流れていくだけで、洪水を引き起こす原因にはなっても、土壌の完走状態はほとんど変化することはなかったようだ。幸いなことにオロモウツではそこまでひどくなかったが、地域によっては水不足のために、水道どころか井戸の水の使用制限が行なわれたり、川の取水制限などの対策がとられたりしたところもあったらしい。
今年の夏は、既に気温が30度を超える日は何日かあったが、何日も続くというようなことはないし、しばしば夕立にも襲われてそれなりに降水量もあるので、過ごしやすくなるのではないかと期待していた。しかし、気温の変化の激しい夏も、やはりすごしにくいのだということを、今日の気温の急降下は思い出させてくれた。
暑いばかりの熱帯のような夏や、冬の寒さの中で気温が前日より15度以上も下がるというのに比べればましだと言えなくはないけど、前日との気温差が10度を超えると、気温が上がるにしろ、下がるにしろ体の負担が大きいような気がする。去年は連日の暑さで体調を崩したが、今年は気温の変化で体調を崩すことになりそうだ。
日本でも毎年夏ばてしていたし、猛暑であれ、なかれ、夏というのは過ごしにくいものなのだと、まとめかけて、チェコに来たばかりのころは、30度を超える日が数えるほどしかなく、最高気温が25度前後の日が続くという素晴らしい日本の秋のような夏が何度かあったのを思い出した。八月がほとんど20度ちょっとまでしか上がらなかった年もあったなあ。こんな年は、気温の変化もさほど大きくなく、その意味でも過ごしやすかったんだよなあ。あのころは、チェコには夏はないと言えたのだけど、最近はチェコには夏はあるけど秋はないになってしまった。
チェコは冬の寒さが避けられないものだけに、夏は涼しくすごしやすいものであってほしいと思うのは贅沢なのだろうか。
7月4日22時。
2016年07月05日
シュコダ中国へ(七月二日)
シュコダといっても、フォルクスワーゲン傘下にある自動車会社のことではなく、スラビアプラハに所属するサッカー選手の話である。昨年の夏にも国外移籍のうわさはあったのだが、実現せず、今回中国チームと移籍の交渉中らしい。
そもそも、スラビアが中国の何とかいう金融グループに買収されたときから、スラビアの選手たちが中国に大量輸出されるのではないかという恐れはあった。スラビアは最近育成がうまくいっていて、若手の有望株が何人も登場しているので、その若手選手たちが中国に移籍して才能を開花させることなく、数年後に劣化して帰国することを恐れていたのだ。
しかし、若手の将来有望な選手ぐらいでは金満中国チームの所有欲を満足させることはできなかったらしい。昨年のU21のヨーロッパ選手権で、スラビアの選手が何人か活躍したのだが、中国に買われていくことはなかった。若い未完成の選手を買って、育てていこうという考えは持っていないようで一安心である。ヨーロッパのカップ戦や、代表で活躍する前に若くして外国に買われていって成功したと言える選手は、ヨーロッパ内でもほとんどいないのだから、中国移籍が成功するとは思えない。
今回シュコダが、購入の対象になったのは、EUROのチェコ代表に選出され、実力を発揮できなかった選手が多かった中、クロアチア戦でゴールを上げるなど、チェコ代表の中では活躍し名前を売ったことから、獲得するかいがあると思われたのかもしれない。スラビアとしても、もしくはオーナーの中国企業としても、最近活躍し始めたばかりだとは言っても、遅咲きですでに三十代のシュコダは売り時だったのだろう。
シュコダの移籍が実現するかどうかは、七月四日の月曜日までに決定されるらしいが、スラビアではすでに代役となるべきFWの選定もすんでいるようだしほぼ決まりのようだ。
中国リーグには、以前プルゼニュで活躍して代表にも呼ばれていたレゼクが、キプロスのチームから移籍して半年ぐらいプレーしたことがあるはずだが、ほとんど話題になっていないことを考えると、大して活躍はできなかったのだろう。活躍していたら半年で終わりにはなっていないはずだし。だから絶対にシュコダが活躍できるというわけではないのだが、下手に活躍なんかしないでとっととチェコに戻って来てほしいと思う。
日本に行くのなら心の底から応援できるのだけど、いろいろな意味で悪名高い中国リーグで、チェコ人選手ブームなんか起こって、ヨーロッパの主要リーグでは活躍できないレベルの代表選手が軒並み中国移籍なんてことになったら、代表の弱体化がさらに進みそうである。中国企業は代表だったか、協会だったかのスポンサーにもなっているし。ここはアメリカや、インドなどと同じで、キャリア終盤の選手が、引退直前に移籍するような形で落ち着いてくれると嬉しい。
近年ドイツやイタリアなどのヨーロッパの主要リーグに移籍して、チームの主力として活躍できるチェコ人選手の数が減っている。今回の代表だとドイツに行ったダリダとカデジャーベクぐらいだろうか。最近移籍した中では、ドイツに行ったイラーチェク、ピラシュ、カドレツなんかは、さまざまな理由で成功できずにチェコに帰ってきたし、イタリアではバツェクもフシュバウエルもラブシッツもほとんど活躍できなかった。このあたりの選手が国外移籍のチャンスを生かしきれずにチェコに戻ってきてしまったのも今回のEUROでチェコ代表が活躍できなかった理由のひとつだろう。
チェルシーに買われていったカラスはいまだに期待の若手のままだし、アヤックスでがんばっているチェルニーも代表に定着するにはしばらく時間がかかりそうなことを考えると、現在の状況が急速に変化するとも思えない。もうしばらくは、シュコダのようなベテランにがんばってもらう必要があるんだよなあ。中国移籍なんか破談になればいいのに。
7月4日18時30分。
2016年07月04日
ベランダのタマゴ(七月一日)
チェコの家庭では、特に田舎ではなくても庭付きの家に住んでいる人は、庭の一角にニワトリを飼っているところが多い。肉よりもタマゴが目的なので、たいていはメンドリだけで、残飯の処理にも役に立っているらしい。
南モラビアにあるうちのの実家も多分にもれず、庭の奥にメンドリを数羽飼っている。鳥小屋の周囲は柵で区切られているので、その中では自由に動き回り、悪食のニワトリたちは、与えられる餌だけでなく、そこにあって食べられるものは、草でも木の葉でも何でも餌にしている。そんな健康な生活を送っているニワトリたちが毎日タマゴを産むため、食べるのが追いつかないこともあるらしい。二匹いる犬たちにおやつ代わりに毎日一つずつ食べさせているらしいけど。
その恩恵を我々も受けていて、毎回訪問するたびにたくさんのタマゴをもらってオロモウツに戻ってくる。本当に健康的な生活をしているニワトリの産んだタマゴは、スーパーマーケットなどの市販のものと比べると、はるかに黄身の色が濃く味も濃厚である。
では、飼っているニワトリはどこで手に入れるのかというと、業者が年に何回か町に売りにくるらしい。事前に価格表と何月何日の何時に販売を行うというビラをまいておいて、一日にいくつもの町を回って行商のようなことをしているようだ。ニワトリはヒヨコから少し育って羽の生え変わったぐらいのものが一羽400円ぐらいで手に入るので、何年かに一度、タマゴを産めなくなったらつぶして肉にして、新しいのを購入するのだという。
もう、数年前になるだろうか、いや、もっと前かもしれないが、タマゴの値段がなぜか高騰したことがある。自宅でニワトリを飼っている人にとっては他人事だったが、都市部に住んでいるタマゴ好きのチェコ人にとっては重大な問題だったらしい。そんなに好きなら多少高くても、毎日のビールを一杯減らして買えよとか、食べる回数を減らせよとか考えてしまうのだが、手に入れにくいとなると、なおさら手に入れたくなるというのは、チェコ人も同じらしい。
そんな都市部に住むタマゴ依存症の人たちが目をつけたのが、ニワトリの移動販売所だった。都市部では販売はしていないので、どこからか販売の行なわれる場所の情報を入手して、一羽か二羽購入するために行列を作っていたのだ。
しかし、一軒家ではなく、マンション、アパートのような集合住宅に住んでいる人が多いので、購入されたニワトリたちは、狭いベランダに置かれた小さな鳥かごの中に押し込められて飼われることが多かったようだ。
さて、このほとんど身動きも取れない状態でかごに押し込められて、ひどいときには日中直射日光にさわされたニワトリたちが、どのぐらい生命をつなぐことができ、どのぐらいのタマゴを飼い主にもたらしたのだろうか。ニワトリを買い求める姿はニュースになっても、購入後のニワトリについてはニュースにならなかったし、知人のなかにはベランダでニワトリを飼うような人はいなかったので、よくわからない。
ただ、ベランダにタマゴを取りに行くというのを想像すると、なかなか楽しそうだと思う一方で、ベランダで取れたタマゴといわれたら、あんまり食べたくないような気もするのである。
7月3日19時。
うーん。七月最初の記事がこれとは。しばらくは夏休みモードでいつも以上にしょうもない記事が増えそうである。
2016年07月03日
半年経過(六月卅日)
六月卅日。季夏晦である。水無月のつごもりである。
日本にいたら夏越の祓の行われる日である。学生時代に大学の近くの神社で一度しかしたことがないけれども、茅輪くぐりに行く日である。
それは旧暦の話だってことは、重々わかっちゃいるけど、チェコにいて旧暦云々というのも変な話だし、最近は日本でも、旧暦の日付をそのまま新暦の日付にして行事を行なうところも多いのだからいいのだ。
チェコなら今日は、小学校から高校までの長かった一学年が終わって、一年分の成績表をもらう日だ。明日から二か月の夏休み。
ついに本日で半年である。元日から毎日書き続けて半年経過したのである。こんなに毎日定期的に何かを書いたのは、初めてかもしれない。言葉の本来の意味での日記は、何度付け始めても、常に三日坊主に終わったし、受験勉強はあんまりまじめにやらなかったし、これだけ続くのは小学校の宅習以来だろうか。ただあれは文章を書くのではなく、練習問題をしたり調べたことを書いたりするものであった。
いやあ、頑張った。この半年、自分だとは思えないぐらいに頑張った。何度かもう無理だ、もうやめてしまおうと思ったこともあるのだけど、とにかくブログにという意地だけで、ひどいときには前々日分の記事を夜中に書き上げて、そのまま投稿していた。今は多少仕事にも余裕があって、時間的にも楽なのだが、先週あたりまでの四週間ほどは、日本的な感覚でも忙しかったので、自分が一体どうやって継続できていたのか不思議でもある。
ただ、書けた、書き続けられたとはいっても、内容は相変わらずだし、誤記誤植も量産してしまっている。空いた時間に細切れのように書くことも多いので、内容や表現が重複していたり、接続詞が欠如してて文脈が取りにくくなっていたり、問題点は枚挙にいとまない。その辺には目をつぶって、ここまでまい進してきたのだが、ここらで一度全面的な修正に手を出そうかとも思うのだが、問題は全面的に改稿したいものも存在していることで、修正扱いにするのがいいのか、同じテーマで別の文章を書いたほうがいいのか決めかねている。でも、不特定少数とはいえ人目にさらしているので、ある程度の修正は必要だよなあ。
それに、このブログを始めたのは一月なのだけど、チェコの学校に合わせて夏休みに入るべきか入らざるべきかも悩みの種なのだ。一度休んでしまうと、ずるずると二度と復活しないような気もするし、ここで一度このプロジェクト(というほどのものでもないけど)の全体的な見直しをしておく必要があるような気もする。そうしないと、今までと変わらない駄文を量産するだけに終わってしまいかねないし。
高校時代に出会った、人生で唯一尊敬できた校長先生の言葉「継続は力なり」を信じて、限界が来るまで継続してみようか。一年続けられれば何かが変わるかもしれない。最初は半年続ければと思っていたのだが、何も変わらなかったのでもう半年延長する。その前に、何を書いて何を書いていないかの確認をして、これから書くべきこと、書けそうなことのチェックが必要か。
半年達成万歳の予定だったのに、なんだか愚痴っぽくなってしまった。あれ、この手の文章は書かないつもりじゃなかったんだったっけっか。まあ半年記念だしいいや。
7月1日15時30分。
2016年07月02日
クレジットカードじゃないの?(六月廿九日)
ジャパンナレッジに入るかどうか悩んでいたのだが、あれこれ考えてやはり入ろう決めた。入会手続きを始めたら、支払のところでつまづいてしまった。クレジットカードでしか会費を払えないようになっているのだ。
日本を出てくるときに銀行の人に、外国では身分証明の代わりにも使えるとかで、作ることを勧められたのだが、いらないと答えてしまった。クレジットカードで買い物をすることにいいイメージを持っていなかったし、銀行の口座残高を超えてまで買い物をする危険は冒したくなかったというのがその理由である。正直に言えば、現金がなくても買い物ができるという便利さが、浪費につながるような気がして、現金払いでさえ、本などついつい本当に必要ではないものまで購入してしまうことが多い自分のことを考えると、自制できる自信はなかったのだ。
もっとも、学生時代には、学生専用のキャッシュカードにクレジット機能がついているのを持っていたのに、たったの一度しか使わなかったことを考えると、乱用するかもというのは杞憂でしかなかったのだろうが、初めての海外での長期滞在、危険はできるだけ排除しておきたかった。そして、こちらに来て数年、電子書籍の存在を知ってクレジットカードがあれば買えることがわかったときに、杞憂が杞憂ではなかったことを知った。ウェブマネーのようなややこしい手続きのいらないクレジットカードを持っていたら、実際の購入したものの何倍、いや何十倍もの本を購入して、銀行口座の残高を大きく減らしていたに違いない。
チェコのビザを新規で申請するときと同じように、延長の申請をするときにも銀行の残高証明を求められる。日本の銀行に英語で書類を出してもらって翻訳を法廷通訳の資格を持つ人にお願いするのは手間なので、チェコの銀行に口座を開くことにした。そしたら、キャッシュカードにVISAのマークがついていた。クレジットカードだと思っていたのだ。今日までは。
チェコで発行されたクレジットカードでは、日本の電子書籍販売店では使用することはできなかったし、パピレスで国外発行のクレジットカードでも購入可能だということを知ったときには、新しいコンピューターを購入したせいで、すでにモニター上で日本の電子書籍を読む魅力はほとんどなくなっていたので、クレジットカード=浪費の罠に陥ることはなかった。
だから、ジャパンナレッジの年会費を支払うのが、チェコで作ったクレジットカードの使い初めということになる。慎重に必要事項を記入して支払いのボタンを押したのだが、無情にもこのカードは使えませんという宣告が画面に浮かんだ。これが今月半ば、二週間ほど前のことである。原因として真っ先に思いついたのが、カードの有効期限が2016年6月、つまり今月になっていたことだ。
そういえば、銀行から新しいカードの発行が済んだから発送するという連絡を受けていたのだ。それで、新しいカードを受け取ってから再度挑戦することにして、このときカードが使えなかった原因については、深くは考えなかった。カードが届いてからも、一回お店かATMで使わないと、有効にならないということだったので、忙しさにかまけて後回しにしてしまい、本日ようやく再挑戦という次第である。
再挑戦に当たって、ジャパンナレッジの前に、パピレスでポイントを購入してみることにした。ここで買うことができれば、ジャパンナレッジでうまくいかなかったのは、カードの有効期限が原因だという仮説の蓋然性が高まる。絶対に行けると思っていたのだよ。だから試すことにしたのに。
パピレスでポイントの購入の手続きをして、カードの情報を入れて支払いのボタンを押したら、チェコの銀行のマークのついたページが出てきたので、これは成功するだろうと思ったのだ。それなのに、しばらくして出てきたメッセージは、このカードは使えませんだった。
ここで初めて、カードをしっかり見たのだが、VISAのマークの下に書かれていたのは、「Debit」だった。そういえばニュースでデビットカードがどうしたとかこうしたとか言っていたのを思い出して、あれこれ調べてみたら、クレジットカードとは別物らしい。機能としては、口座にある以上の金額の買い物はできないらしいから、こちらのほうが利用者にやさしいと思うのだけど、日本ではデビットカードはクレジットカードほど普及していないという。ということは、海外発行のクレジットカードで支払えると書いてあっても、デビットカードでは支払いはできないということだろうか。
とりあえず、七月になったら、新しいカードでジャパンナレッジの年会費の支払いを試してみようと思う。ダメだったら、どうしよう。あきらめてクレジットカードを作りに銀行に行くしかないのか。いや、その前に、ジャパンナレッジ関係で仕事をしたことがあると言っていた友人に泣きついてみよう。
6月30日15時30分。