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2017年09月24日
マサリク大統領あれこれ(九月廿一日)
今から80年前、1937年9月21日に、チェコスロバキア第一共和国の初代大統領トマーシュ・ガリク・マサリクの葬儀が行われた。亡くなったのは一週間前の9月14日のことで、場所は大統領の別邸となっていたプラハから西に30キロほど離れたラーニの城館である。ラーニの城館はもともとハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ二世によって建設されたものらしい。
マサリク大統領の墓も同地の墓地にあり、共産主義の時代には、墓参が禁止されていたわけではないが、秘密警察によって厳重に監視され誰が墓参したのかがチェックされていたのだと言う。チェコテレビのニュースによれば、マサリク大統領が残した最後の言葉が封印して残されており、それは今から8年後、没後88年目になららないと開けられないのだとか。
マサリク大統領は、モラビアのスロバキアとの国境の近くホドニーンの町にスロバキア人の父とチェコ人の母の間に生まれ、両親がドイツ系の農場主のもとで働いていたこともあって、マサリク自身もドイツ語で教育を受けたらしい。その後ウィーンの大学を卒業してプラハの大学の教授になるのだが、政治運動に身を投じることになる。
オーストリア議会議員の選挙にモラビアのバラシュシュコ地方から立候補したのだが、そのときに発送された支援を訴える葉書を見たことがある。コメンスキー研究者のH先生の曾祖父さんがマサリク大統領と懇意で、残されていた手紙を見せてくれたのである。チェコ語の筆記体が達筆すぎて外国人には内容までは読み取れなかったのだけど。
その後、国を出てチェコ、チェコとスロバキアを合わせての独立運動の中心人物となっていくわけだが、マサリク大統領が日本を訪れたことがあるのを知っている人はどれだけいるだろうか。日本滞在時には、日本ではそれほど話題にならなかったようだが、マサリク大統領と出会ってその行動に感動して伝記を執筆して出版したという人がいた。今手元にはないのだけど、昔神田の古本市で手に入れて読んだことがある。
第一次世界大戦直後に起こったシベリア出兵の口実とされたのがチェコスロバキア軍団だった。チェコスロバキア軍団は、オーストリア・ハンガリー帝国軍に従軍していたチェコ人、スロバキア人の捕虜の中から同じスラブのロシアとともに戦う義勇兵を募って編成した部隊である。ドイツ軍、オーストリア軍との戦いで戦果を挙げ、部隊の規模も大きくなっていくわけだが、ロシア革命が起こってはしごをはずされてしまう。
チェコスロバキア軍団は、ソビエト政府との交渉の結果、シベリアを経由してウラジオストックに向かいそこから船でヨーロッパへと戻ることになっていた。しかし、移動が予定通りに行かなかったこともあって、対立が生じ暴動からソ連軍との戦闘が発生してしまう。そのチェコスロバキア軍団を救出するという名目で、日本、、アメリカなどがシベリアに軍を送ってソ連と戦ったのがシベリア出兵で、ロシア革命の影響が広がることを防ぐことを目的としていたと言われる。
マサリク大統領は、このチェコスロバキア軍団の名目上の指導者となっていたので、軍団がヨーロッパに戻るのに日本を経由することができるように交渉するために日本を訪れたらしい。シベリア出兵が始まる前で、チェコスロバキアの独立も達成されていなかったし、日本側はそれほど重要な人物だとは考えていなかったようだ。
それでも、チェコスロバキア軍団の一部は日本を経由してヨーロッパに戻っている。そのうちの一人が、ドラマ「チェコニツケー・フモレスキ」の主人公アラジムで、ウラジオストックから日本に向かうときに日本の役人に繰り返し聞かされた日本語の文を覚えていて、それがある事件の解決のきっかけになるというエピソードがあったりする。その日本語の文について、チェコ語から日本語にするのを手伝ったのは、ちょっと自慢である。嬉しさをわかってくれる人はあんまりいないだろうけど。
それにしても、マサリク大統領がもう少し長生きしていたら、1938年のミュンヘン協定はどうなっていただろうか。ドイツ系の住民の中からも尊敬を勝ち得ていた大統領が健在だったら、ドイツもあそこまで強引な手は取れず、友好国だったフランスも簡単にはチェコスロバキアを見捨てたりはしなかったのではないかなどと考えてしまう。考えてみてもせん無きことではあるのだけど。
ハベル大統領と並んで、チェコ人にとって最高の大統領であったマサリク大統領の衣鉢を継ぐような大統領が、来年の大統領選挙で選ばれることを願ってやまないのだが、候補者を見渡す限り、難しそうである。
いつも以上にぐだぐだになってしまった。
2017年9月23日24時。