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2016年10月23日
師に逆らうわけではないけど2――「秋葉原」をめぐる問題(十月廿日)
「秋葉原」が「あきはばら」なのか、「あきばはら」なのかについては、大学時代の国語学の授業で話に出てきた記憶がある。日本語の新しい言葉の作り方の原則に、は行転呼音とも絡めてなかなか面白い話を聞いたのだが、具体的な内容が思い出せない。もしかしたら、これから書くことは、その授業で聞いたことが、ほとんどそのままになっているかもしれない。
さて、各種辞書にも、秋葉原は、かつては「あきばはら」と読まれていたということが書いてあり、本来誤読であった「あきはばら」がそれにとってかわったというのだけれども、誤読、誤記がどんなものでも定着して正しいものにとってかわるわけではないことを考えると、この「あきはばら」が定着した理由を知りたいと思ってしまう。正確な場所は記憶していないが、役人が勝手に読み間違えた地名を登録したことに反対して、住民が裁判を起こしたなんてことも聞いたことがあるから、地名の問題はデリケートであるはずである。
ただ、国語学を多少かじった人間の目から見ると、「あきはばら」でも「あきばはら」でも、どちらも落ち着かないというか、ケチをつけてしまいたくなる読み方なのだが、これについては後述する。まずは、日本語に於ける連濁という現象から話を始めよう。
連濁というのは、二つの言葉(漢字の場合もある)をつなげて一つの言葉を作るときに、後ろに来る言葉の語頭の清音が濁音化する現象で、日本語ではよく見られる。ただし、どんな言葉でも連濁を起こすというわけではなく、起こしやすいものと起こしにくいものがあるようである。例としては、会社を挙げておこう。自動車と会社を併せると自動車会社になるわけである。
今年の春にチェコに来られた方の名字が「井ノ口」で、「いのくち」「いのぐち」、どちらもありうる読み方なので、恥を忍んで聞いてみた。そうしたら、かつては「いのぐち」のほうを使っていたが、ある国語学者の話を聞いて「いのくち」に変えたのだと言う。それは日本語の原則として、「口」が前の言葉に直接するときには、「ぐち」と濁るが、「の」を入れるのは連濁を避けるためなのだから、井ノ口は「いのくち」と清音で読むほうが国語学的見地からは正しいという話である。固有名詞なのでどう読んでも間違いということはないのだが、国語学の原則から言えばその通りで、また「の」を書き加えずとも、井口で「いのくち」と読むことも可能なのである。
この「の」を入れた場合には連濁しないというのには、川の名前を思い出せばいい。日本中のほとんどの川は、「○○川」と書いて、「がわ」と読むが、紀ノ川、江の川は、「かわ」である。例外的に形容詞的な漢字を使った大川は、「おおかわ」と「の」は入っていなくても清音で読むか。
それから島も同様で、島の名称は原則として「○○じま」となる。ただし「の」ではなく、「が」を間に入れた場合には、佐渡島、鬼ヶ島のように、清音で読むことになる。
ここで秋葉原に戻ろう。この地名は本来三つの言葉からできている。「秋」「葉」「原」である。まず秋と葉を組み合わせて「秋葉」という言葉ができたとき、日本語の原則から考えれば、読み方は「の」を入れて「あきのは」、入れずに「あきば」である。ここまでは問題ない。次は「秋葉」に「原」を付けるわけだが、連濁を起こして「あきばばら」というのは、いかにも語呂が悪いし言いにくい。となれば、高天原、青木ヶ原の例に習って、秋葉原で「あきばがはら」と読むのが、日本語としては最も自然な読み方であろう。
それが青木ヶ原とは違い、高天原と同様に、「ヶ」などの「が」とよむ文字を間に入れずに「秋葉原」と書かれ続けたために、読む際に「あきばはら」と読むようになってしまったのだと考えることができる。
では、「あきはばら」という誤読が受け入れられて定着した理由と考えてみると、今度はは行転呼音に行きつく。語末に原の字が、助詞を介さずに付く人名や地名を考えると、「わら」若しくは「ばら」と読むものが多いことに気づく。松原、塩原は、濁って「ばら」と読むし、藤原、在原、佐土原などは、ハ行転呼を起こして「わら」と読むのである。
歴史的カナ遣いが使われていた時代、語中のハ行音は、ワ行で読まれていた。ならば、「あきばはら」というひらがな表記は、「あきばわら」と読まれる危険性をはらんでいる。それよりは、「まつばら」などの例に習って、「ばら」と読みたいという心理が働いたとしても、おかしくはなかろう。そしてその場合、「あきばばら」が、「ば」の連続で使いにくい以上、「あきはばら」と読んでしまうのはある意味必然であった。もちろんこちらも「あきわばら」と読まれる可能性がなかったわけではなかろうが、「原」が「わら」と読まれる例のほうが、「葉」が「わ」と読まれる例よりもはるかに多いので……。なんてことを、秋葉原に関しては考えてしまうのである。
ついでに言えば、ハ行転呼音は語頭には発生しないので、「あきばはら」と読んだ場合には、「あきば」+「はら」で二語のように認識していることになり、「あきはばら」と読んだ場合には、「あき」+「はばら」という分離を意識していることになる。だから、本来は「あきばはら」だったのだ。
というのが、国語学の先生の話だっただろうか。しかし、一度思いつくと、どうしても「あきばがはら」というのが存在したような気がしてならないのである。もちろんそんな呼称があった証拠はないし、実証しようという気もない。ただあれこれ言葉をいじくりまわして、さまざまな可能性を考えて楽しむのみである。
だから、いずれは、もうひとつの山茶花についても、何とかしたいと、あれこれ考えているのだが、現時点ではこっちも一筋縄ではいきそうにない。「さんざか」が「さざんか」になったというだけの、単純な変化ではなさそうな気がする。
10月21日18時30分。