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2016年10月22日
師に逆らうわけではないけど1−−「新しい」をめぐって(十月十九日)
著書を通じてこちらが勝手に師と呼んでいる黒田龍之助師の言語学に関する著書には、しばしば日本語における現象の言語学的な説明が登場する。もちろんこの部分は師が自ら研究されたことではなくて、言語学的な日本語の研究の業績の中から引用したものであろう。だから、直接師に逆らうというわけでもないし、無頼派を気取っている以上は、師の書かれたこと、言われたことを、はいはいとありがたくすべて受け入れてはいけないのだ。ということで、気になる部分に別な解釈を施すことにする。
最初に取り上げるのは「あたらし」と「あらたし」の問題だと言えば、国語学(断じて日本語学ではない)を多少かじった人なら、何のことだかわかるだろう。新しいという意味の言葉は、本来「あらたし」であって、それが後に「あたらし」に変わったという例の話だ。これについて、言語学の用語で音位転換という小難しい言葉で説明されているのを読んで、首を傾げるしかなかった。
今では、この説明は現象を説明する言葉としては、それで十分なのかもしれないと思えるようになった。しかし、それが何になるのだろうか。いろいろ調べてみたら、音の入れ替わりが起こっていましたで満足なのだろうか。ここはやはり、どうしてそんな変化が起こったのかを知りたいと思うのが人情というものだろう。
かつてかじった国語学の世界では、以下のように説明されていた。新しいという意味で使われた形容詞は本来「あらたし」であるが、これとは別に「あたらし」という、残念だとかもったいないというような使い手の惜しむ気持ちを表す形容詞が存在した。その両者が混同されて、新しいという意味でも「あたらし」が使われるようになり、「あらたし」と惜しむ気持ちを表す「あたらし」は次第に忘れられていった結果現代日本語では、新しいという意味で「あたらしい」を使うのだと。
本来新しいが「あらたし」であった痕跡は現代日本語にも残っていて、形容動詞となっている「新たな」は、「あたら」ではなく、「あらた」と読むし、新しくすること、新しくなることを示す動詞も、「あらためる」「あらたまる」であって、「あたら」ではない。この辺の派生表現は、「あたらし」が新しいという意味で使われるようになる以前に派生していたために、混同に巻き込まれずにすんだと考えていいのだろうか。
一方、惜しむ気持ちを表す「あたらし」の痕跡としては、特に戦争などで若い命を散らすことを惜しんで使われる「あたら若い命を」の「あたら」を挙げることができよう。使われると言っても、日常的に使われるわけではないので、聞いたことがないという人や、後の「若い」からの連想で、「あたら」を新しいという意味で理解してしまう人もいそうな気もする。
それから、大半のと言うと実際よりも多くなってしまうかもしれないが、中学、高校の国語の教科書に載っているはずの折口信夫ではなくて、釈迢空の短歌「葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きしひとあり」(句読点は覚えていないので省略)の「あたらし」も現代語の新しいではなく、古語なので、踏み潰されて飛び散った花の色を惜しむ気持ちを表現している。でも、現代語の新しいで理解して、ついさっきこの道を通った人がいるというふうに解釈する人もいそうだなあ。この新しいの意味でも解釈できそうな「あたらし」の用例があることも、「あたらし」と「あらたし」の混同を起こりやすくしたのだろう。
以上が、かつて国語学の範囲で学んだ「あたらし」をめぐる説明である。初めてこの話を聞いたときには、「新」の訓読みである「あたらしい」と「あらたな」が、どうして形容詞と形容動詞で語幹が違うのかだけでなく、よくわかっていなかった「あたら」についても言及されていて、目を開かれる思いがしたものだ。
では、「あらたし」が「あたらし」になったのは、音位転換という現象なんだよと言われて、感動できるかとというと首をかしげざるを得ない。言語学的な説明だと、こういう場合には発音上の要請で変化が起こると説明されることが多いような気がするが、「あたらし」「あらたし」の場合に発音のしにくさが原因だというのなら、「あらたな」「あらためる」はなぜ変化しなかったのかという疑問が出てくる。
「あらたし」が「あたらし」に変わったという現象の表面的な部分を捉えて、音位転換という名称で呼ぶことまで否定する気はない。ただそれがどうしたのという感想を持つことを禁じえないのである。この現象に名前をつけることで満足しているような印象が言語学的な日本語の研究にはつき物で、いまだに亡霊のようにしばしばよみがえる主語論争にしても、日本語のあれが、主語であれなかれ、主語と呼ぼうが呼ぶまいが、学校文法で主語と呼んでいる現象は日本語に存在するのである。呼び方や定義が変わったからといって、日本語そのものが変わるわけではない。敬語の分類にしてもそうだけれども、無駄に命名することに意義を見出していているように見えてしまう。
この点に関しては、かつて形容動詞をどう扱うかということをあれこれ考え、形容動詞というものを廃して、名詞扱いにしたとしても、ほかの名詞とは違う特別な名詞として扱う必要が出てくることに気づいたとき、名称が形容動詞であっても、名詞の特別なグループであっても、日本語の本質は変わらないことを思い知らされた。若かったからね。学校文法に反発してみたかったのだよ。しかし、その結果理解させられたのは、いろいろな問題をはらみながらも、学校文法、いや橋本文法を超える日本語を体系的に記述した文法は存在しないということだった。
10月20日23時。