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2016年10月10日
右と左がわからない2――ある左利きの半生(十月七日)
一体に文目もわかぬ稚いガキにとって、「右/左」の区別は、観念的なものではなく、即物的である。即ち、鉛筆を持って字を書いたり絵を描いたりする手、ボールを投げたり食べるときに箸を持ったりする手、それが右手である。だから左利きの子供が頭の中で右手だと思う手は、現実には左手である。
左利きの子供にそうではないことを教えようとする良心的な保育園、幼稚園もあるかもしれないが、自分一人だけが他と異なることを恐れる子供の心情を考えると、違うと言われても、違わないと主張する子供が出てくるのではなかろうか。また異物をいじめがちな子供の世界のこと考えて、あえて指摘しないという考え方もあるだろう。この辺は、我がたわごとの守備範囲から大きく外れるので、教育関係者の話を聞いてみたいところであるが、左利きの人間にとっては、「右/左」問題との格闘は幼少期から始まるのである。
近年は、右手で字を書くように矯正することは減り、左利きの子供には左手で書かせているようだが、我がガキの頃にはまだ、右に矯正するという考え方が主流だったので、右で書くように強制され、小学校に通い始めるぐらいから、字が汚いからという理由で書道塾に通わされることになった。実際には、鉛筆で書く字が書道のおかげで綺麗になるなんてこともなく、筆で書く字と鉛筆で書く字の差の大きさに親を嘆かせるようになるのだが、効果が出たのは書道を始めてから、何年もたった後のことだった。今でも丁寧に書こうと思えば、綺麗な字を書くことができるのは、このときの書道のおかげである。
この右手で字を書き始めた時点が、「右手=字を書く手」で実際に書くのも右手という一致を見たので、我が生涯のうちで、右と左を一番正確に判別できていた時期かもしれない。しかし、それも小学校五年の或る日悲劇が起こるまでのことだった。
何の授業だったかは覚えていないが、当てられてせっせと答を板書していたら、後から頭を小突かれた。
「お前は、何で左手で書いているんだ?」
「えっ、何言ってるんですが、右で書いてますよ」
と言ってチョークを持つ手を振り回したのだが、どうも左手だったらしい。このあたりで笑い始めている同級生もいたようだ。
「お前は小学校の高学年にもなって右と左もわからないのか。しょうがない奴だなあ」
先生に罵られて同級生に大笑いされて、この右利きのくそ先公め、と当時ドラマか何かの影響ではやっていた汚い言葉まで使って心の中で叫んだ。この恨みは一生忘れないぞと心に復讐を誓ったのだった。この文章を書き始めるまではすっかり忘れていたけど。
この事件以来、あれこれ調査した結果、机の上のノートなど水平面に書く場合には、右手を使うほうが自然で、黒板などの垂直面に書く場合には、左手で書くのが自然だということが確認できた。水平面に左で書くのはできなくはないが、少し窮屈で油断すると鏡文字になるのだった。垂直面に右で書くのは問題なくできたが、左で書くのに比べると、手が震えて線が真っ直ぐにならないという傾向があった。ついつい書道的な書き方をしてしまったのがいけないのかな。
つまり、それぞれに得手不得手はあっても、両手で字が書けるようになってしまった、これが右と左の判別がすぐに付けられなくなった理由なのである。今でも右、左と言われると、とっさに手を見てしまう。そして、判別がつかず、訣別したはずの文学趣味が頭をもたげてきて、ついつい石川啄木になってしまう。
かんがへど、かんがへど
なほ、みぎひだり、わくをもえざり
ぢつとてをみる
たくほく(偽)
右でも左でも字が書けるようになると、器用だなどと言って褒められたりうらやましがられたりするのだが、両手が使えるという意味での器用であって、それぞれの手が本当の意味で器用なのではないのだ。それに、なりたいと思ってできるようになったわけではなく必要に迫られてできるようになったに過ぎないのだ。左手でノートを抱え込むような姿勢で字を書ける左利きは器用だと左利きの人間が見ても思うが、あれとて試行錯誤の末にたどり着いた左手で字を書く方法であろう。我々は苦労しているのだよ。
字を書く以外の普通の人が右と左を使い分けるものについて、自分がどちらを使うか見ていくと、絵を描くときに色を塗るのは左手だった。細かい線を引くようなところは右、色を塗るのは左と無意識に使い分けていた。食事のときの箸は、幸いに矯正されなかったので左手だが、希少価値を考えるとガキのころに練習しておけばよかったと思わなくもない。
洋食でスプーンは当然左手を使う。右でも食べられなくはないけれども、あくまで緊急避難的な使い方しかしない。ナイフとフォークはナイフが右手でフォークが左手である。日本では滅多に使わなかったし、まったく意識していなかったのだが、どうもこれは右利きの人と同じらしい。こちらに来て、左利きなのにどうして右聞きと同じもち方なのと指摘されて自分でもびっくりしてしまった。何故なんだろう。いろいろ試した結果、左手でナイフを使うのが苦手であるようだ。包丁は左手で持つのに、我ながら不思議な話である。
足の場合には、どちらを使っても下手糞であることは同じと言う意味で両利きである。いや、利き足はないといったほうがいいのか。ただサッカーなんかで確実にボールに当てたいときには右足、当たれば儲け物で蹴るときには左足を使っていた。右で蹴ると確実に当たるけど、ひょろっと力なく飛んでいくだけで、左で蹴ろうとすると十回に一回ぐらいしか当たらないけど、当たるうちの十回に一回つまり百回に一回ぐらいは強烈なボールを蹴ることができた。思ったところに飛んでいくのはさらに確率が下がるので、どっちでけっても下手糞という点では大差なかった。
目は、片目で見るときにつぶるのは左目だから、右目で見ることになるのか。利き目は見るほうの目だったっけ、つぶるほうの目だったっけ。あまり覚えていないけれども、こうやって並べ上げてみると自分でもややこしい右と左の使い分けをしていると思う。だから、右と左の判別がつかないのは仕方がないのだ。右と左の判別がつかない人間に言葉で道案内ができるわけがないのだ。だから、道を教えるために英会話になんて通う必要はない。と、ようやく、発端に戻ってくることができた。
10月8日12時。