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2016年01月11日

バーツラフ広場(一月七日)


 日本人でもチェコに旅行した人など、チェコに関心のある人に、バーツラフ広場と言うと、たいてい、ああ、あのプラハの、とわかってもらえるはずである。プラハの中央駅の近く、国立博物館の前から、旧市街広場のほうへ緩やかに下っていく広場である。広場と言うよりは、大通りと言ったほうがいいかもしれない。大晦日の夜に外国人も含めてチェコ中からたくさんの人が集まって大騒ぎをするようなにぎやかな場所である。
 この広場では、これまでさまざまな機会に、抗議集会やデモ行進などが行われてきたらしいが、記憶に新しいのが、1989年のビロード革命の際の抗議集会である。当時オロモウツに住んでいたチェコ語の師匠の旦那は、1968年のプラハの春のことを生々しく覚えていて、「まだ早い、早すぎる、もう少し待つべきだ」と繰り返していたという。ソ連が、東側ブロックが、完全には崩壊していなかった当時、68年と同じようにソ連が見せしめのために、またチェコスロバキアを軍事的に制圧するのではないかと恐れていたという。プラハ近郊と、オロモウツを中心に国内には多くのソ連兵が駐屯していたし、東でソ連に直接し、西で西ドイツに接していたチェコスロバキアは、ソ連が西側に圧力をかけるのに格好の位置にあったのである。

 バーツラフ広場の名前の由来は、チェコの守護聖人である聖バーツラフなのだが、その騎馬像が広場の博物館よりにあって、観光名所のひとつになっている。聖バーツラフはボヘミア最初の王朝であるプシェミスル家の王で、聖人になっているぐらいだから、キリスト教関係で業績を残しているはずだが、一番有名なのは、弟のボレスラフに暗殺されたというその非業の死である。最期の地であるスタラー・ボレスラフには教会が建てられ、巡礼の地となっている。
 聖バーツラフの騎馬像について、以前ヤン・ジシカの像だと書いてある本を読んだことがあるのだが、フス派戦争の時代のフス派の軍事指導者である片目のジシカの像は、駅を挟んで反対側、ジシカから名前が付けられたジシコフ地区のビートコフの丘の上にある。この丘を舞台に大規模な戦闘が行われたことを記念しているのだ。
 像の後ろにある大きな建物は、現在は軍の歴史関係の博物館になっているようだが、もともとは第一次世界大戦でオーストリア軍の兵士としてロシア戦線に参戦し、ロシア革命で停戦した後も、ロシア国内に残ってチェコスロバキア軍団として活動を続けた兵士たちを記念したものだったという。ちなみにこのチェコスロバキア軍団は、シベリアから日本を経由してヨーロッパに戻ってきたのだが、そのために後にチェコスロバキア初代大統領となるマサリクが日本を訪れて交渉を行ったらしい。
 ところで、この建物は、共産主義時代の一時期には、スターリンと非常に仲がよくその後を追うように他界した大統領ゴットワルトの廟となっていた。ブルタバ川の対岸にあるレトナーの丘の上には巨大なレーニンスターリン像が建っていたので、その時期のプラハはレーニンとゴットワルトに、挟まれて守られた町だったということになる。共産主義を信じている人たちにとっては魅力的だったのだろうか。

 話をバーツラフ広場に戻そう。
 バーツラフ広場はプラハだけのものではないのである。チェコ人全体のものだとかそういう意味ではなくて、バーツラフ広場はここオロモウツにもあるのである。
 オロモウツの駅前から、トラムでも歩いてでもいいのだが、マサリク通りを抜けて旧市街に近づくと、右手前方上方に教会の尖塔が目に入って来る。これがオロモウツ大司教座に属するカテドラル、聖バーツラフ大聖堂である。この教会の前に、プラハの物に比べれば圧倒的に控えめに広がっているのがオロモウツのバーツラフ広場である。
 このバーツラフ広場は、プラハのものとは違って、聖バーツラフにちなむのではなく、プシェミスル家最後の王バーツラフ三世にちなんでいる。ポーランドに向かう途中で、プシェミスル家のモラビア支配の拠点であったオロモウツに立ち寄った際に、この広場で暗殺されたといわれている。これによって、プシェミスル家は、男系で断絶し、ボヘミアの王位は、ドイツ系のルクセンブルク家に移り、チェコが誇る神聖ローマ帝国皇帝カレル四世の登場につながっていくことになる。もっとも、実は幼い男の子が生き残っていたのだが、山中の修道院に幽閉されて殺されたというありがちな伝説もないわけではないのだが。
 ところで、このバーツラフ三世の暗殺を巡っては、いろいろな説が唱えられていて、この前見たテレビ映画では、カトリックの修道院内の秘密結社の連中が悪魔をこの世に呼び込むために、魔方陣を作り、それぞれの数字に該当する名前の人物を一人づつ殺し死者の血を魔法陣に吸わせていくという儀式の一環として、バーツラフの名を持つバーツラフ三世が殺されたと言うことになっていた。儀式自体は完結することなく、いくつかの数字を残して暗殺者は死ぬのだが、その暗殺者の生まれ変わりを自任する人物が現代のチェコで、数字に基づく殺人を続けていくという内容で、なかなか面白かった。要はこんなフィクションのネタにできるぐらい謎だということなのだろう。
 とまれ、チェコ語の師匠に、バーツラフ広場は、プラハだけでなくオロモウツにも存在することを日本人にも周知するように言われているので、こんな文章を書いてみたのだが、いろんな情報を入れすぎて読みにくく、わかりにくくなってしまった感がある。こういう文章を、さらっと綺麗にまとめられるようになりたいものである。
1月8日22時30分
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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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