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2020年08月14日

ツィムルマンの夏4(八月十一日)





9.Hospoda na mýtince
 題名の「mýtinka」は、恐らく「mýtina」の指小形で、森の中を切り開いた土地を指すと考えておこう。森の中のホスポダ、つまりは飲み屋ということになる。ホスポダ文化の国の生んだ天才ツィムルマンもまたホスポダにこだわるのである。
 研究発表の部分でテーマになるのは、ツィムルマンがはじめて書いたとされる「zpěvohra」というから、直訳すると歌劇、オペラなのかオペレッタなのかわからないけれども、「Proso」という作品についてである。この7時間にも及ぶという作品は、ウィーンの歌劇場が開設記念に募集したコンテストに応募したもので、ちょっとけちなところのあったツィムルマンが書留で送らなかったために、審査員達によってなかったことにされたらしい。審査員達が決定稿である郵送された楽譜を私物化して自作に取り入れたと言うのだけどね。

 結果として、残された未定稿から復元されたのが、「Hospoda na mýtince」らしい。しかし、本来の題名の「Proso」は「黍」を意味する名詞である。それがどうして、森の中の飲み屋の話になってしまうのだろう。まあツィムルマンだから、何が出てきても不思議はない。
 初演は正常化が始まったばかりの1969年。こんなのを通した共産党政権の検閲制度を懐が深いと評するべきか、内容が理解できなかったのだろうと評するべきか。後者だとすれば、いまいち笑えない身としては親近感を持ってしまう。


10. Afrika
 チェコのアフリカ探検家というとエミル・ホルプの名前が上がるのだが、実はツィムルマンもアフリカの地を踏んだことがあるらしい。多分そのときの経験を基に書かれたのが戯曲「アフリカ、もしくは食人部族の中のチェコ人」である。
 内容は、簡単にまとめると、四人のチェコ人からなるアフリカ探検隊が、人肉食の風習を持つ部族と出会って、チェコ語やキリスト教を教え、部族の長をプラハに連れ帰るまでのどたばた劇というところ。この部族のキリスト教化の中で、11番目の戒律、「汝の隣人を食してはならない」というのが生まれたのだとか。

 隊員の名前もチェコ人には笑えるのだろうけど、こちらが笑えたのは二人だけ、一人は宣教師のツィリル・メトデイと冒険のスポンサーでもある男爵のルドビク・フォン・ウーバリ・ウ・プラヒ。前者は、大モラバにキリスト教をもたらした兄弟の名前をつなげたもの。肩書きも「ブラトル」で兄か弟を表す言葉が使われている。カトリックで神父を「オテツ(父)」と呼ぶのにもあてつけているのかな。後者は、途中までは完全にドイツ語の名前なのに、名字の地の地名が典型的なチェコ語というのがおかしいのだと思う。
 それから、エミル・ホルプを思わせるのかなとも思わなくはないエミル・ジャーバ。ホルプが鳩なら、ジャーバは蛙である。最後の一人はボフスラフ・プフマイェル。名字の響きが可笑しいような気もするけどチェコ人がどう感じるのかはわからない。
 この劇は2004年に初演されたもので、インターネットの時代になっていたことを反映して、最初の研究発表の部分では、インターネットの発明者が、実はツィムルマンだったことが明らかにされる。どうしてそうなるなんて疑問の答えは、ツィムルマンだからである。


11. Švestka
 題名のシュベストカは、スリボビツェの原料になる果物である。スリーフカとかトルンカとか似たような果物を指す言葉はいくつもあって、同じものなのか微妙に違うのかよくわからない。日本の梅もこの果物の仲間として扱われるので、日本から梅の木が贈られて植樹なんてニュースがあると、シュベストカかスリボニュが木の名前として使われることが多い。
 今回の放送ではじめてみたのだけど、衝撃の事実を知ってしまった。ツィムルマンは日本に行ったことがあるというのである。日本ではナイフとフォークの使い方を教えるという仕事をしていたようで、東京のレストランで箸で食べるのと、ナイフとフォークで食べるのを比較する実演をして見せ、ナイフとフォークで食べる際には、箸で食べるのと違ってタイプライターを打つだけの余裕があるなんて余興もあったという。あれ、そもそもツィムルマンは箸が使えたのか? ツィムルマンの生きた時代なら、日本でも洋食にはナイフとフォークを使っていたような気もする。

 演劇のほうは、年を取ったことによって作品のレベルが下がったというのがテーマの一つになっているようで、そのできの悪さもまた笑いを呼ぶようだ。天才も年齢という敵には勝てなかったのであるって、ツィムルマンの映画によればツィムルマンがリプターコフを離れたときには、そんなに年寄りじゃなかったんだけどなあ。その後も生き続けて記念館のお婆さんがツィムルマン本人だとすると、最晩年は共産党政権下で創作活動をしていたということにならないか? 
2020年8月12日14時。











2020年08月01日

ツィムルマンの夏3(七月廿九日)



承前

7.Vražda v salonním coupé
 これまでの作品の中で、一番ちゃんと最後まで見たのがこの作品。題名は「客室における殺人」とでも訳しておこうか。「coupé」はすでにチェコ語化した外来語で「kupé」と書くことが多いが、鉄道の客車のコンパートメントを指す。「salonní」はサロンの形容詞形なので、恐らくは普通のコンパートメントよりも豪華なものを指すのだと思う。
 冒頭の研究発表の部分では、犯罪とツィムルマンの関係が語られるんだっただろうか。それを受けて、ツィムルマンが書いたとされる探偵小説ならぬ探偵戯曲が演じられる。その劇中劇はクリスティの『オリエント急行殺人事件』のパロディのような作品で、たしか舞台はオリエント急行的なイスタンブール発の国際列車だったと思う。その列車の中で起こったチェコ人殺人事件をチェコ人の警察の捜査官が解決するのだけど、何でこの人が乗っているのかよくわからなかった。トンネルに入ったシーンで、舞台だけでなく劇場全体の照明を落とすとかやっていたような記憶もある。ちゃんと見たはずなのだけど、誰が犯人でどうやって殺したのかなんてのは思い出せない。そもそも本当に誰か死んだのか?

 とまれ、この探偵戯曲、スモリャクとスビェラークが組んで制作した傑作映画「解けて流れ出した者」の原作になっている。両者の記憶が交じり合ってどちらがどちらだったか思い出せないのではなく、映画のほうを何度も繰り返し見たので、そちらに記憶が引きずられるのである。
 舞台では劇場のメンバーしか登場しないが、映画のほうはツィムルマン系の映画には欠かせないヨゼフ・アブルハームやペトル・チェペクに加えて、第二次世界大戦後のチェコの二大名優とも言うべきルドルフ・フルシンスキーとブラディミールブラスティミル・ブロツキーも登場するという豪華な配役になっている。因みにブロツキーの息子も主要な役のひとつである捜査官の助手として出演している。

 こちらもツィムルマン的にややこしい話で、すべてを理解できているわけではないが、警察組織の出鱈目さに負けずに、捜査を続ける捜査官のトラフタ氏のいい意味でとんでもない捜査や犯人逮捕の方法とか、助手として研修を受けている(ように見える)フラバーチェクくん(氏にはしたくない)との掛け合いとか、見所は多い。身代わりを務めさせるための等身大の、一定の動きしかできない人形の扱いなんて、そこまでやるかである。鉄道の駅で逃げる犯人を逮捕するための巨大なトランクなんてのもあったなあ。
 でも、よく考えてみたら、映画のほうでもどうして殺人事件が起こったのか、動機が思い出せない。推理小説ファンはファンでも、ただのファンでしかないので、話が面白ければ細かいことは気にしないのである。


8.AKT
 最古のツィムルマン劇だというこの作品の題名は日本語にすると「裸婦画」とでもなるだろうか。作品が生まれたのは1967年、劇場での公演がテレビ放送用に撮影されたのは1998年で、30年も間が開いている。劇中劇の登場人物には画家とその妻がいるので、画家が描いた妻の裸像が主要なテーマになっているのかな。
 問題はツィムルマン劇場のメンバーは皆男性だというところで、江戸時代の歌舞伎と同様に女性の役も男性が演じるのである。歌舞伎との違いは、この作品の画家の妻だけではないけれども、女性を演じる役者がまともな女装をしない点である。服は女物になり、場合によっては長い髪の鬘をかぶることもあるけど、それ以外は男のまま演じるのである。ひげを生やしている役者もひげはそのまま女性を演じるし、声もあからさまに男が女性の声色を使っていることがわかるものになっている。

 チェコテレビの解説は歌と踊りのある劇というけど、歌は覚えているけど踊るシーンかあったかな? とまれ、この作中劇は、ツィムルマンの残したいくつかの詩篇と、「画家とその妻が、自分たちの人生について語り、どうして画家の作品が完成しなかったのかという質問をするために三人の男を招く」という文から再現されたものだという。
 うーん。さすがツィムルマンというべきか。なければとりあえず作ってしまえとか、別なもので代用してしまえというのは極めて典型的なチェコである。
2020年7月29日24時。













2020年07月31日

ツィムルマンの夏2(七月廿八日)



 せっかく思いついたネタなので、忘れないように続ける。全部まとめてになるか、一部は後日回しになるかは、それぞれの演目にどれだけ書けるねたがあるか次第である。


4.Lijavec
 これ以前の三作は、以前から存在を知っていて、部分的に見たこともあったのだが、この作品は存在すら知らなかった。題名も聞いたことのない言葉だけど、「liják」と関係がありそうなので、土砂降りの雨ということだろうか。念のために最近出た『チェコ語日本語辞典』(成文社)で確認したら当りだった。
 この作品がほかの作品と違うのは、チェコテレビのHP上でオンライン視聴が可能になっていることである。以前はユーチューブに、ツィムルマン劇場のページがあって、演劇を視聴することができたらしいのだが、関係者が権利関係でもめて、全部消されたという話も聞いたことがあるので、他の作品と違って、この作品はもめる対象にならなかったから、オンラインで見られるのかななんてことを想像している。

 内容は、戯曲を書けども書けども誰からも評価されないツィムルマンが、自分の名前で発表するのをやめて匿名で民俗芸能の作家になるということが書かれているけれども、これが劇中で演じられる劇とどう関連するのかはわからない。「アネクドタ」と呼ばれるチェコの冗談、もしくは小話が重要な役を果たすらしい。チェコの冗談自体が外国人には理解できないものが多いから、この「戯曲」が理解できなくてもしかたないのだろう。


5.Posel z Liptákova
 題名は「リプターコフからの使節」なのだが、リプターコフはツィムルマンが生前最後に姿を見られたとされる村の名前で、リベレツの近くのイゼラ山地の山中にあるらしい。ただし、映画「ツィムルマン、横たわりて眠りし者」の撮影の舞台になったのはフラデツ・クラーロベー地方のベセツ・ウ・ソボトキという村なのだとか。
 セズナムの地図で「Liptákov」を検索すると、この村にあるらしい「filmový Liptákov」という記念物が出てくる。村にある建物が、ツィムルマンが教鞭をとった小学校やツィムルマン記念博物館として使われたようだ。また村全体が景観保護地区に指定されていて、さまざまな映画やテレビ番組の撮影に利用されているという。因みに、「トルハーク」の舞台になる村も、ついついリプターコフだと思ってしまうのだが、実際にはリポベツだった。同名の村はチェコ各地に何箇所かあるようなので、そのうちのどこで撮影されたのか、いや、そもそもリポベツで撮影されたのかどうかはわからないけど。

 劇中で演じられるツィムルマン作の演劇の題名は「光の使節」と「予言者」となっているのだが、ツィムルマン研究者たちがリプターコフに調査に出かけて発見した資料の中にあったものだという。つまりは没後の初演ということでいいのかな。これも部分的には見たんだけどねえ。
 

6.Němý Bobeš
 題名の「němý」は、ドイツ人「Němec」の語源になった(と思われる)形容詞で、言葉がわからない人、口がきけない人を指す言葉である。だから直訳すると「口のきけないボベシュ」とでもなろうか。これまで一度もまともに見たことがないので内容についてはよくわからない。
 チェコテレビの解説のページに拠れば、失われた、もしくは部分的にしかテキストの残っていないツィムルマン作の戯曲の再現を試みたものだというのだけど、ツィムルマンなので、オリジナルの戯曲もとんでもないものだろうし。再現するのがスモリャクとスビェラークなのでそちらもまたとんでもないものであるに違いない。


 最後はちょっと短くなったけれども、次のを入れると長すぎるので、とりあえず今日はここまで。
2020年7月29日9時。





チェコ語日本語辞典: チェコ語の宝──コメンスキーの追憶に (第1巻 A-N)












2020年07月30日

ツィムルマンの夏1(七月廿七日)



 このチェコの誇る偉人については、こんなことを書いたことがある。「ヤーラ・ツィムルマンは、チェコの偉大な発明家であり、思想家であり、作家であり、画家であり、一言で言えばあらゆることに才能を持った万能の人であった」(「最も偉大なチェコ人」)。その偉大さについて語られたのが、チェコ映画史上最高の傑作のひとつ(だと思う)「ヤーラ・ツィムルマン、横たわりて眠りし者」である。
 そして、この映画でツィムルマンを演じる、日本でも「コリャ」の主役で知られる俳優ズデニェク・スビェラークは、盟友のラディスラフ・スモリャク(残念ながら亡くなってしまったが)などとともに、「ヤーラ・ツィムルマン劇場」で活動を続けている。この劇場はツィムルマンの劇作家としての側面に光を当てており、すべての演目はツィムルマン本人と発見された戯曲についての研究発表とその戯曲の上演という形で行われている。さらにこの劇場の活動を題材にした映画「不安定な季節」が制作されている。

 このツィムルマン劇場については、これまでも何度か書こうと考えたことがあるのだが、踏み切れずにいた。映画以上に我がチェコ語では歯が立たないのである。たまにテレビで放送される演劇を見ていると観客達は頻繁に大声で笑っているのだけど、自分もいっしょに笑える部分は少ないし、頭で考えて何がおかしいか理解できる(ような気がする)ものまで含めても、半分にも届かない。そもそもストーリーがよくわからないというものもある。
 ただ、七月に入ってチェコテレビが、武漢風邪騒ぎで劇場なんかにいけなくなってしまった演劇好きのチェコ人のために、これまで放送してきたツィムルマン劇場の演目をまとめて放映してくれている。集中して見てはいないけど、録画はしているし、せっかくの機会なのでどんな作品が存在するのかだけでも簡単に紹介しよう。

1. Vyšetřování ztráty třídní knihy
 直訳すると「失われた学習記録の捜索」とでもなろうか。「třídní knihy」というのは、学校で使われる(もしくは使われた)もので、クラスの出席簿とそれぞれの科目の授業の進捗状況を記すことになっている日誌のようなものらしい。正確には覚えていないけれども、とある学級のその日誌が何年も前に失われて云々という話だったと思う。
 チェコテレビの番組紹介ページに拠れば、この演劇はツィムルマンを、チェコの誇る教育者であるコメンスキーの後継者に位置づけたというのだけどね。この夏最初の作品だし頑張って最後まで見ようと思っていたのだが、すでに前半の研究発表の部分で挫折した。以後は部分部分見ただけである。思わず笑ってしまったところや、にやっとさせられたところはあったのだけど、全体としてはやっぱりよくわからなかった。冗談言う前から笑っている観客がいるのは、常連で何を言うかもう覚えてしまっているのだろうなあ。


2.Záskok
 題名は「代理」とか「代役」とか訳せるだろうか。ツィムルマンの戯曲「Vlasta」の初演の失敗についてというのだけど、後半の上演の部分では、その失敗した初演の様子を再現していたのかな。これも想像の入った解釈だけど、誰かの代役として呼んだ高名な俳優が、実は全く使えない奴で舞台に混乱を引き起こす様子が描かれているのだと思う。ツィムルマンのことなので、その混乱自体が戯曲に描かれていたとも解釈できそうだけど、実際のところはよくわからない。
 研究発表の部分では、ツィムルマンが主宰していた劇団のあまりに馬鹿らしい終焉の迎え方だけは理解できた。冬休みの前に解散する時に、次に集まる日時も場所も発表されなかったので、そのまま二度と集まることがなかったのだとか。文字で読むとあれだけど、演劇の中では語り方のうまさもあって、外国人でも思わず噴出してしまう場面になっている。
 翻訳されて英語でも上演されているというのだけど、チェコ語の冗談が英語でどこまで伝わるのか疑問である。そもそも、誰が翻訳してどこの劇団が公演しているのだろう。奇特な人もいたものである。


3. Blaník

 簡単に言えばツィムルマンの伝説、歴史を題材にした戯曲の話である。ブラニークの騎士たちの伝説と、モラフスケー・ポレやビーラー・ホラなどの実際に起こり、チェコの軍隊が手痛い敗戦を喫した三つの戦いを結びつけて極めてツィムルマン的に解釈されている。
 研究発表の部分では、ツィムルマンの考えによるブラニーク山の構造というのがあって、山の中には騎士たちのいる空洞が開いていることになっていた。それは三つの階層に分かれていて、一番上には、騎士たちを率いる聖バーツラフの部屋、二番目には指揮官たちの部屋、三番目は三つの部屋に分かれていてそれそれの戦いで敗れた騎士たちが待機している。騎士たちの中にはろくでなしもいたので二番目の階層には営倉も準備されているのだとか。

 演劇のほうは、入り口を発見して中に入ってきた歴史の先生だか、歴史学者だかが登場したのは覚えているが、後はブラニークの騎士たちの、チェコを守るという意志のなさそうな投げやりな様子が印象に残っているだけである。だから、今までチェコ民族が苦難に陥ってもブラニークの騎士たちが救いに現れなかったんだなんていわれたら納得してしまいそうだった。

 最初の三つで、予定の分量を越えたので、残りは次回回しにしよう。部分的にでも見てから書いたほうがいいかな?
2020年7月28日10時。




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2019年12月05日

ビール巡礼(十二月二日)



 先日何気なくチェコテレビを見ていたら、とんでもない番組に出会ってしまった。その名も「ビール巡礼」、気分的には「ビール巡礼の旅」と訳したくなるけど、チェコ各地のビール醸造業について歴史的に紹介し、また現存するビール工場を訪問して、紹介する番組である。たまたま第一回に気付いて、それがオロモウツ地方のリトベルやプシェロフのビール工場を紹介していたので、作業をしながら見ていたのだが、いいのかこれと言いたくなるような番組だった。
 一言で言えば、ビールを擁護するためにありとあらゆる言説を利用するというもので、チェコにおけるすべてのすばらしいことは、ビールのおかげだと主張していた。コメンスキーもちょっと引用されていたのだが、古いチェコ語だったのかなんだったのか、ビールとの関係性が読み取れない引用だった。ビールの専門家なら理解できたのかな。

 もちろん、そんなとんでもない話ばかりではなく、チェコ人の一人当たりのビール消費量が世界最高だと言うのには気をつけなければならないところもあるなんてことも言っていた。最近はチェコ人一人当たり一年間に150リットル弱のビールを消費するというデータが紹介されることが多い。ただ、そのチェコ人の中には、未成年でビールを飲んではいけない人や、体質的に飲めない人など、ビールを飲まない人も含まれている。だから、そんな人たちを除外して飲む人だけの平均値を出せばはるかに大きい数字が出てくるはずである。
 同時に、消費量のほうには、チェコに来た外国人が飲んだ量も含まれている。チェコに来る外国人の多くがビールを飲むことを目的にチェコに来ることを考えると、観光客が平均的なチェコ人以上に呑んでいる可能性も高い。そんなことを考えると、この平均値に大きな意味を与えるのは危険だとか何とか言っていた。それでも、チェコ人が世界で有数のビール好きであることには疑いの余地はない。こんな番組作ってしまうぐらいだし。

 チェスケー・ブデヨビツェの回では、今のサムソンにつながるドイツ系の市民の設立したビール会社と、チェコ系の市民が設立した現在のブドバルの関係について解説してくれて、この問題に新たな始点を得ることができた。チェコ系の市民がブドバルを設立したのは市政におけるチェコ系の発言力を強化するためだったのだと言う。当時は納税額によって市政に与える影響力が変わっていたらしいのである。その計画は成功し、ビールのおかげでチェスケー・ブデヨビツェにおけるチェコ系市民の発言力が高まったのだというオチが付く。

 この時点で、この番組であれこれビールについて解説している爺さんをどこかで見たことがあるのに気付いた。やさしげな風貌でゆっくりしゃべるのはありがたいのだけど、ちょっと発音が微妙で聞き取りにくいところがある。カレル・シープか、ヤン・クラウスのトークショーだったと思うのだけど、ビールに関するとんでも理論、ありえなくはないけど証明の仕様のない説を披瀝していた人だ。本業は医者だったかな。
 確かカレル・ヒネク・マーハだったと思うが、チェコの誇る詩人、特に自然の美しさを描かせたら右に出るもののない詩人が、北東ボヘミアのリベレツ地方からフラデツ・クラーロベー地方のあたりを旅してすばらしい紀行文を残しているらしい。定説によれば、というか内容に即すと、詩人は有名なお城いくつも巡り歩いて、そのときの感動を文章にしたことになっている。

 しかし、この爺さまは違うと言う。詩人が本当に訪ね歩いたのは、お城ではなく、ビール工場だと言うのだ。証拠としては、詩人が訪れたお城、もしくはその近くに必ずビール工場があったこと、ビール工場が近くになかったお城には、訪れる甲斐がありそうなところにも訪れていないことを挙げている。
 つまり、詩人は城を訪問するとまずビール工場に行ってビールを飲み、ほろ酔いの状態でお城を見、ビール工場からビール工場へ向かう間に見た自然の美しさを書き留めたのだと。うーん。チェコ人ならやりかねないとは思うけど、これで証明になるのかね。地図を持ち出して、ビール工場のあったこの城は行っているけど、なかったこっちは行っていないなんて説明を受けると、説得されたくなってしまう。とりあえず飲み屋の馬鹿話としては最高だということで最終的な評価にしておく。

 この爺さまと組んで番組をやっているのは、最近チェコテレビに重用されているマテイ・ルップルト(読み方違うかも)という歌手。ビールを飲みながら二人で掛け合いをするシーンも多く、酔っ払いの与太話は多少わからないところはあっても楽しいよなあと思わせてくれる。番組表で時間を確認してまで見ようとは思わないけど、たまたまチャンネルが合うとしばらく見てしまう。
 興味のある方はチェコテレビのネット放送で見られると思うのでぜひ、ここから。何これとあきれて見るのをやめてしまう人が多いと思うけど。
2019年12月2日22時。











タグ:ビール

2019年11月28日

お蔵入り映画の日3(十一月廿六日)



承前
 七本目が始まったのは午後8時。この夕食後の一番いい時間にミロシュ・フォルマンの作品を持ってきたのは、チェコテレビも視聴率を多少は意識しているということだろうか。選ばれた作品は、「火事だよ! カワイコちゃん」という邦題で日本でも公開されたらしい「Hoří, má panenko」である。この邦題については、黒田龍之助師が「センスを疑いたくなる」と『チェコ語の隙間』で評している。

 1967年末に国内で公開された、この映画が後に禁止された理由は、フォルマンがアメリカに亡命したことだと思っていたのだが、チェコ語版のウィキペディアによると、亡命ではなく、クンデラと同様に合法的に出国し、アメリカに移住したということになるらしい。クンデラの場合とは違って、チェコスロバキアの国籍を剥奪されることはなかったから、以後もチェコの映画関係者と協力して仕事をすることができたし、「アマデウス」の撮影をチェコ国内で行うこともできたのだという。それでよかったのか、共産党政権、と叫びたくなるような事実を確認してしまった。
 クンデラが小説を書いても、外貨稼ぎにはならないけど、フォルマンの映画のためにチェコの映画関係者が仕事をすれば、外貨で謝礼がもらえるというのも、経済的に行き詰りつつあった東側の国の国としては考慮しなければならなかったのかもしれない。その結果というわけでもないだろうけど、チェコでは今でも外国の映画撮影に多額の補助金を出してまで誘致している。外国の映画撮影隊が、チェコ国内で使うお金の十分の一が政府から補助されるんだったかな。

 では、仮にフォルマンが原因ではないとするなら、禁止された理由は内容ということになるのだろうか。田舎の山村の消防士たちの都会へのあこがれと、それによって引き起こされる舞踏会でのドタバタ劇はそれほど問題になったとは思えない。問題になったとすれば、参加者がくじを引いてもらえることになっていた賞品が、会場の電気が消えるたびに盗まれて数を減らすというシーンだろうか。ここには、機会があれば盗むという共産党政権下のチェコ人の民族性が描き出されているわけだが、政府としてはそれを認めるわけにもいかなかったのかな。
 でも、合法的だったとはいえ、外国に出てしまったフォルマンの存在感を消すために、作品をお蔵入りにしたと考える方が、やはり自然だろう。


 八本目は、現代チェコ文学最高の作家ボフミール・フラバルの作品を、イジー・メンツルが映画化した「Skřivánci na niti」。日本でも「つながれたヒバリ」という題名で知られている。制作されたのは1969年で、関係者の前で上映された後すぐにお蔵入り決定。その内容が問題にされたようである。チェコ語が拙かったころに見ても、いいのかと言いたくなるような風刺というか、共産党関係者の悪いところをそのまま描き出したシーンが多かったから、上映禁止だったという話を聞いてすぐに納得したのを覚えている。
 当時のロマ人のあり方とか、共産党員の不正を上に報告したら、上の人も一緒になって不正に加担するとか、見どころはいろいろあるのだけど、一番印象に残るのは、最後のネツカーシュ演じる若者が、視察に来た共産党の大物(役職までは覚えていない)に、何気ない質問をしたら、その場で捕まって、炭鉱送りにされたシーンである。なんで、何が問題で捕まったのかよくわからなかったんだけど、軽い、一見何の問題もない言葉であっても、共産党に悪く取られたら逮捕される理由になるという、当時の共産党政権下の現実を見事に描き出したシーンだった。

 原作のフラバルと監督のメンツルという組み合わせは、チェコの映画界における黄金コンビとでもいうべき存在なのだが、ここに繊細な若者を演じさせたら右に出る者のいなかった若き日のネツカーシュが主演として加わったらもう最強で、この三人の組み合わせで「つながれたヒバリ」と「厳重に監視された列車」の二作が世に送り出されている。


 この日最後の作品は「Kladivo na čarodějnice(魔女への鉄槌)」。以前にもどこかに書いたが、シュンペルク周辺で勃発した魔女狩りの様子を描いた作品である。監督はオタカル・バーブラ。この人は「ヤン・フス」や「ヤン・ジシカ」などの歴史的な人物を描いた長編映画の監督としても知られている。監督としてのキャリアを始めたのは第二次世界大戦前のことで、ヒティロバーなどの「ノバー・ブルナ」の監督たちよりも上の世代になる。
 監督のバーブラは、第一共和国の時代からビロード革命後の資本主義の時代まで、そのときどきの政権と対立することなく、長期にわたって監督として作品を送り出してきた人物である。出演している役者の中にも特に共産党政権と問題を起こしたことで知られるような人物は存在しない。そうなると内容が問題だったということになる。

 魔女裁判がテーマのこの映画では、魔女として認定、もしくは指名された人を捕らえて、拷問などの様々な手法で、魔女であることを自白させる様子が描き出されている。捕らえた資産家の財産を没収して、それで宴会を開いている様子も出てきたかな。それはともかく、罪もない人に言いがかりをつけて、あらゆる手段を使って自白を強要するところが、1950年代のチェコスロバキアに吹き荒れたスターリン主義を思い起こさせるというクレームがついてお蔵入りになったらしい。
 この作品が禁止された事実は、スターリン主義の否定から始まって「プラハの春」に行きついた自由化を、否定し「正常化」された共産党政権が、スターリン主義に回帰したということを示しているのだろう。秘密警察の暗躍する魔女狩りの時代、つまり階級の敵を見つけてレッテルを貼りつけ弾圧する時代が戻ってきたのである。
 この作品も、完成は1969年だが、「プラハの春」の自由化の中で企画が立てられ撮影も進められた考えてよさそうだ。


 この最後の「魔女への鉄槌」が終わったのが、12時半ごろだっただろうか。好きな人は最初から最後まで見通したのだろうなあ。それはともかく、関係者が問題を起こすと、撮影済みの作品であってもお蔵入りにしてしまう日本のテレビ業界ってのは、共産主義政権下のチェコスロバキアにおける検閲と同じレベルの自主規制をやっているわけだ。こんな連中に報道の自由とか何とか偉そうなことを宣う資格はあるのかね。監督や出演者の人格と作品の評価は別物だとして、いくら抗議が来ようとも放送するのが報道の自由ってやつじゃないのかね。まあ、演技力よりも人気を優先して、アイドル上がりやらモデル上がりやらを起用する日本の映画やドラマにそれだけの価値があるかどうかは別問題だけどさ。
 日本には、表現の自由、報道の自由が侵害されているとして騒いでいる人たちがいるようだけど、実態はメディアの側が自由を求めていないというのが正しいように見える。報道の自由があろうがなかろうが、スポンサーからの経済的な圧力やら、政治的な圧力やらがかかるのは当然のことだろう。問題はメディアの側にそれを跳ね除けるだけの気概があるかどうかだが、日本のマスコミには期待できそうもない。
2019年11月27日17時。




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タグ:映画

2019年11月27日

お蔵入り映画の日2(十一月廿五日)



承前
 四つ目は、日本ではすでにフランスの作家になってしまったクンデラの同名の小説を映画化した「Žert(冗談)」。完成は、1968年だが、「プラハの春」がワルシャワ条約機構軍に踏みにじられた8月下旬以降のようだ。この作品は1969年に一度は公開されているから、即座にお蔵入りしたわけではない。それが、最終的に禁止された理由は、恐らく原作者で脚本にもかかわっていたクンデラの存在である。
 クンデラは、もともとバリバリの共産党員で、第二次世界大戦直後のインテリの若手作家が左翼に傾倒するなんてチェコスロバキアに限らず世界中のどこでも起こったことだが、さらにスターリン主義者でもあったらしい。ただ1968年の「プラハの春」のころにはすでに転向を済ませており、「プラハの春」を秘密警察に頼らない世界初の共産党政権として高く評価し、チェコ人のソ連軍の弾圧に対する抵抗運動を、チェコ民族のフス以来の抵抗の歴史の中に位置づけた上で、チェコ人ほど他民族の圧政に対して抵抗してきた民族はいないなんて発言を残しているらしい。
 こんな発言を、スターリン主義の時代にやっていたら、正常化を主導したスロバキア人のフサーク同様、民族主義者のレッテルを張られて投獄されていたはずである。個人的にはこういうクンデラのほうが、小難しい小説理論を書くクンデラよりも、親近感を持ちやすいのだけど。もちろん正常化の時代のフサーク政権にとっても歓迎できることではなく、クンデラは作品の発表の場を失っていくのだが、同時にこの映画の放送も禁止されたと考えておく。
 1975年にクンデラが、フランスの大学の招聘に応えて、チェコスロバキアを出た時点では亡命ではなかったようだが、その3年後にチェコスロバキアの国籍を剥奪される。一般の亡命者が国を捨てたのに対して、クンデラは国に捨てられたのである。その捨てられたという意識が、クンデラをしてチェコへの帰国、チェコ国籍の再取得を拒否せしめているのかもしれない。

冗談 (岩波文庫) [ ミラン・クンデラ ]





 五つ目の禁じられた作品は、『火葬人』というタイトルで原作の日本語訳も出版されている「Spalovač mrtvol」。直訳すると「死体を焼く者」ということになる。火葬場で仕事をしている主人公を、チェコ最高の名優ルドルフ・フルシンスキーが怪しさたっぷりに演じきった作品で、チェコ映画の中でこれが一番好きだというチェコ人も多い。猟奇的な殺人犯人を主人公とする映画のようなので、現時点では手を出しかねている。
 完成したのは1968年だが、公開されたのは翌年の1969年。公開直後に、上映禁止となってお蔵入りしてしまった。チェコ語版のウィキペディアによると、公的な禁止の理由は内容があまりにも病的だというものだったらしい。フルシンスキー演じる殺人犯が病的だったのは確かだけれども、そんな理由で禁止していたら、ホラーとかスリラーなんてジャンルの映画は軒並み禁止になってしまう。
 実際には、映画の時代背景が、1930年代末のボヘミア・モラビア保護領の成立した時代で、主人公たちが、ナチスの支持者に変わっていくのが、1969年当時のチェコスロバキアの状況をなぞっているように思われ、禁止されたのだという。当時は、「プラハの春」を支持していたはずの共産党の指導部が、軍隊の侵攻を受けて変節し、ソ連の指導の下でいわゆる「正常化」に向かっていたわけだから、言われてみれば納得できなくもない。
 このウィキペディアの記事を見つけるまでは、重要な役を演じているブラスタ・フラモストバーの存在が、禁止につながったのかと思っていた。この人も、憲章77に署名したことで演劇の世界から追放されて、ビロード革命後に復帰している。秘密警察に協力を強要されたけれども、密告したのは自分のことだけなんて話もあったなあ。とにかく「プラハの春」が弾圧されて以後も、体制に抵抗し続けた数少ないチェコ人の一人であった。10月の始めに92歳で亡くなったばかりである。
 今回はチラ見をしながら、最後の部分だけはあるていど集中して見た。見たんだけど、気が付いたら死体が増えていて、棺桶の中に収められているという印象しか残っていない。フルシンスキーの嬉しそうな顔も夢に出てきそうと言えば出てきそうか。チェコの人は、例外を除くと、これをコメディーとしてみるらしいのだけど、ちょっと無理だなあ。
 監督はスロバキア出身のユライ・ヘルツ。

火葬人 (東欧の想像力) [ ラジスラフ・フクス ]






 六本目は「Ucho(耳)」。他の作品が見たことはなくても題名だけは聞いたことがあったのに対して、これは存在すら知らなかった。主役のペア、夫婦かもを演じているのは、ブルゾボハティーとボフダロバーという共産主義の時代から活躍する二人。チラ見した限りでは、共産党政権内の権力闘争を描いた作品のようだった。
 ブルゾボハティー演ずる男は、失脚寸前の高官なのかな。これまでやってきた悪事の証拠になりそうな書類を夜中にトイレで焼いている間に、その書類に関わる過去の出来事を回想するという形で話が進む。ながら見だったせいか、途中で現実なのか回想なのかわからなくなることも多かったが、共産党体制下ではしばしば投獄、もしくは死を意味した失脚を恐れる気持ちは読み取れたような気がする。
 完成したのが1970年で、即座にお蔵入りが決まったようだから、党内の権力闘争を描いたところが問題にされたのだろう。全体主義体制下の権力闘争というのは、薄氷を踏むようなものだったのだ。それを描き出した作品の上映を許可することが、自らの失脚につながりかねないと考えると、許可を出せる人はいなかったのだろう。
 監督は「ノバー・ブルナ」を代表する監督の一人カレル・カヒニャ。オタ・パベルの原作を映画化した「黄金のウナギ」と「美しき鹿の死」あたりは、日本でも知っている人がいるかもしれない。

 終わらなかったのでまた明日。
2019年11月26日17時。







美しい鹿の死 [ オタ・パヴェル ]











タグ:映画

2019年11月26日

お蔵入り映画の日1(十一月廿四日)



 1989年までの共産主義体制下のチェコスロバキアでは、戦前の日本と同様に厳しい検閲が行われていたことを知っている人も多いだろう。その検閲のせいで、制作はされたもののそのままお蔵入りになった映画や、公開はされたもののテレビでの放送を禁止されたものなど、チェコスロバキアでは長きにわたって見ることができなかったチェコスロバキア映画というものが存在する。
 お蔵入りになる理由はいろいろあるが、一番多いのは監督、出演者に問題があるという事例だろうか。特に監督や主役級の俳優が亡命した場合には、問答無用で放送禁止にされていたらしい。「トルハーク」がその素晴らしさのわりに見たことがないというチェコ人が多いのも、重要な役を演じたマトゥシュカが亡命したため、ビロード革命まではテレビで放映されなかったからである。

 もちろん、内容に問題があってお蔵入りになる映画もないわけではないが、チェコスロバキアの場合にも戦前の日本と同様、脚本の時点で検閲が入り、撮影中も共産党の人間が監視役として送り込まれていたから、完成した後で上映禁止になった映画はそれほど多くないはずである。ただし、例外がある。
 チェコスロバキアにおけるスターリニズムが終焉を迎えた1960年代も後半に入ると、「プラハの春」につながる自由化の動きが映画界にも波及し、映画の脚本に関しても検閲があってないようなものになる。その結果、この時代に制作された映画の中には、内容を問題にされて上映禁止、放送禁止にされたものもいくつかある。
 中には撮影に入った時点では、検閲が緩かったのに、完成したときには正常化が始まっていたために、そのままお蔵入りしたものもあるし、外国の映画祭には出品されたものの、国内では日の目を見なかったものもある。外国での評価の高いチェコスロバキア映画における「ノバー・ブルナ(新しい波)」に属する作品は、ほとんどが一時的な自由化、規制緩和の中で生まれたものなのだ。

 今日、廿四日が、ビロード革命のさなかに検閲が廃止された日なのかどうかは知らないが、チェコテレビでは、「検閲の終わった日」と銘打って、朝から夜中まで放送禁止にされた映画を、ところどころドキュメントなんかを挟みながら、放送し続けた。全部見たわけではないけど、どんなのが放送されたか紹介しておこう。


 朝九時から、このイベントの最初の作品として放送されたのは、日本でも特に女性の間にファンが多いらしい「Sedmikrásky(ひなぎく)」である。この作品が制作され公開されたのは1966年で「プラハの春」の自由化の走りともいうべきものなのだが、1967年の時点で、国会の審議で取り上げられ、上映禁止を求められている。このときは完全な上映禁止には至らなかったが、配給先やテレビでの放送などが大きく制限されることになった。
 70年代に入ると、監督のヒティロバーがテレビでの仕事に関して、共産党体制ともめ、六年もの間テレビ、映画業界での仕事を禁じられている。これが、この「ひなぎく」を最終的にお蔵入りにしたと見ていいだろう。その後、ヒティロバーは、秘密警察からの圧力を受けながらも最後まで協力を拒否し、憲章77に反対するアンチ憲章への署名も拒否した。個人的には、「ひなぎく」という作品よりも、ヒティロバー本人に対する賞賛の気持ちのほうが大きい。お近づきになりたいとは思わんけどさ。

ひなぎく [DVD]





 二つ目の作品は、「Případ pro začínajícího kata」。あえて訳せば、「新人首切り役人の事件」とか、「首切り役人の仕事始め」なんてことになるのかもしれないけど、実はこれスイフトの『ガリバー旅行記』をもじったものらしい。原作にあたるものが風刺的な作品だから、映画も当然風刺にあふれていたのが共産党政権に嫌われたのだろう。
 作品が完成したのは、「プラハの春」が終結して正常化に向かいつつあった1969年。何度かの上映を経て1970年には、バランドフの配給作品から外されお蔵入りすることになる。その一因としては、監督のユラーチェクが、ソ連軍によるチェコスロバキア侵攻に反対する姿勢を撤回しなかったため、務めていたバランドフ映画製作所を解雇されたことが考えられる。
 またユラーチェクは、後に憲章77に署名しているが、映画監督で署名した人はほとんどいないはずである。そのせいでチェコスロバキア国内では仕事ができなくなり、仕事を求めて西ドイツに出国したらしい。その後帰国しているから、亡命ではないようだが、仕事を求めて西側に出られたというのも不思議な話である。一般の人が亡命しようとすると、殺してでも阻止しようとしたくせに、有名人で体制と強調できそうにない人の場合には、亡命しろと言わんばかりの対応を取っていたのが、当時の共産党政権なのだ。
 ユラーチェクは、1989年の5月に亡くなっているから、ビロード革命後にこの作品が再度上映されたり、テレビで放送されたりするのは残念ながら見ることができなかったようだ。

ガリバー旅行記 (角川文庫)




 三つ目も1969年に完成した「Smutečný slavnost(葬祭)」。強制的に移住させられた元パルチザンの農民を描いた作品は、完成した時点で内容に問題があるということで、お蔵入りになったようだ。元パルチザンが共産党員として活躍するという話なら、問題なかったのだろうけど、共産党ともめて生まれた村から強制的に移住させられ、亡くなった後も、生家のある村で葬儀をおこなったり墓に入れたりするのも拒否された男を描く作品だというから、これは共産党政権には認められんよなあ。
 監督のズデネク・シロビーは、その後も監督として仕事を続けているが、一番有名な作品は、ビロード革命後、チェコスロバキアの分離直前の1992年に制作された「Černí baroni(黒い男爵たち)」であろう。これはビロード革命後に企画され撮影が始まった最初の映画の一つで、共産党政権初期に存在したPTPと呼ばれる軍の部隊を描いた作品である。PTPというのは、出自や職業、思想性などの理由で、いわゆる階級の敵に認定された人たちを集めて強制労働に従事させたものだが、表面上は軍の一部隊の体裁をとっていた。
 この作品については黒田龍之助師の『チェコ語の隙間』に詳しい。ただし登場人物のスロバキア語への考察がなされているため、チェコではなくスロバキアの部分に収録されている。

 長くなったので、残りはまた明日。
2019年11月25日20時。



チェコ語の隙間―東欧のいろんなことばの話













2019年11月02日

チェコ映画を見るなら(十月卅一日)



 ネタがないわけではないのだけど、時間の変化に伴う気力の低下でやる気が起きず、難しいことは書きたくない。何か簡単に書けることはないかなと考えていたら、チェコ語の師匠に、チェコで一番人気のあるコメディだといって授業の代わりに見せられた映画のことをまだ書いていないことを思い出した。知る人ぞ知るチェコの映画を何本も紹介している黒田師の『チェコ語の隙間』にもなぜか取り上げられていない。

 その映画の題名は「S tebou mě baví svět」という1982年に公開された作品である。『チェコ語の隙間』にあげられていた批評家が選んだ名作のランキングでは5位以内に入っていないが、一般の人たちによるアンケートで、20世紀最高の映画、コメディ限定だったかもしれないけど、に選ばれており、今でも毎年何回かテレビで放送されている。「トルハーク」と違って、ついつい全部見てしまうということはないけど、ところどころ名場面をつまみ食い的に見してしまう。
 監督と脚本はマリア・ポレドニャーコバー。天才子役のトマーシュ・ホリ―の登山家の父親二部作もこの人の作品だったかな。映画監督としての作品数はそれほど多くないけれども、特に子供向けの作品に名作と呼ばれるものが多い。その頂点が、この直訳風に訳すとすると「お前と一緒なら世界は楽しい」である。

 チェコ的な、あれこれ非常にややこしいドタバタコメディなのだが、簡単にまとめると3つの家族の親子の冬休みの物語である。家族ぐるみで付き合いのあるプラハ在住の3家では、共同でベスキディの山中に別荘を持っていて(多分)、冬休みになると父親3人だけがその電気も水道もつながっていない山小屋に出かけるという習慣になっていた。毎年子供たちの面倒を見させられる母親たちが、それに文句をつけるところから話が始まる。
 妻たちの結託した本気を感じ取った男たちは、男の子だけは連れて行って面倒を見るという妥協案を出すのだが、女の子が、自分も男の子になって行くと言って泣きながら髪の毛を切ってしまったものだから母親の怒りが爆発。男3人で、オムツの取れない赤ん坊一人を含めて計6人の子供たちをつれて山小屋に向かうことになる。おまけに、怒りの収まらない妻たちが自動車は自分たちが使うと言い張ったために、男三人、子供六人で、スキーやそりなど山のような荷物を担いで、電車に乗るのである。

 電車の中では、何度も見たチェコ人の多くが覚えてしまっている名場面が何箇所か出てくるのだが、例を挙げるとすれば、男の子が唐突に、「ヘビっておならするの?」と父親に尋ねるシーンと、子供たちのコンパートメントに置かれた赤ん坊が、お漏らしをして、というかオムツの中に出してしまって、臭くて眠れないと、父親達のところに不満を述べに来るシーンだろうか。大物俳優ぞろいの父親たちと子供たちが見事な掛け合いを演じているのが素晴らしい。
 駅から山小屋までも大変そうだけど、そこは描かれず、山小屋での生活に入る。最初は元気一杯の子供たちに付き合っていた父親たちも、三日目ぐらいになると疲れ果てて何をする気力もなくなり、一日中小屋の中でのんびりするために、かくれんぼ大会を開催する。一日親たちに見つからないように隠れた子供が優勝でメダルをもらえるというものなのだけど、親たちは部屋で寝ているのである。

 父親たちが疲れているのは、三人のうちの一人の奥さんが歌手で地方巡業で近くの町に滞在していたので、夜な夜な山小屋を抜け出して会いに出かけていたのに、残りの二人に地元の若い女の子たちと知り合ってと嘘をついたために、二人は抜け出す男を夜中に追跡することになったからである。この辺りから、嘘やらいたずらやらが飛び交って、誰が誰に嘘をついているのかしばしばわからなくなる。
 それはともかく、子供たちにかくれんぼをさせて、面倒を見るのを放棄しているところに、三人の母親のうちの二人が、差し入れを持って陣中見舞いにやってきて、父親たちが子供の面倒を見るのを放棄した惨状を発見して、再び怒りを爆発させるのである。母親達はもう帰るぞと宣言するけど、子供たちは帰りたがらない。それがまた母親達の怒りを増幅して……。
 プラハの自宅に戻った後は、各家庭で、歌手の女性の家はそれほどでもないけど、夫婦が冷戦状態に陥る。夫婦の対立が男同士の対立につながったり、仲直りのために男たちのやらかすことが悉く裏目に出たり、とにかくどたばたコメディーと呼ぶにふさわしい内容である。最後は、友人を罠にかけるために赤ん坊を隠した洗濯籠を、友人たちにゴミ捨て場に捨てられた父親が、ごみの回収車を必死で追いかけているのに、後で笑っている母親の腕の中には赤ん坊がいるというシーンで終わるんだったかな。お母さんがいつも一番賢くて強いのである。

 共産主義の時代に、これだけ見事に家族愛、夫婦愛、そして友情を描き出した作品が製作されたのは軌跡のようにも思える。同時に、共産主義の時代だったからこそ、ここまで突き抜けたコメディーが撮影できたのではないとも言いたくなる。ビロード革命後の作品には、ここまでよくできた作品はない。「トルハーク」がちゃんと公開されていたら、最高の作品として選ばれたのは間違いないけどね。
 ちなみに、主役の一人を演じているのはスロバキア人のサティンスキーなのだが、そのチェコ語は完璧で、スロバキアの臭いはまったくしない。最近の俳優はスロバキア人がチェコ人を演じると、明らかにスロバキア人だと言うことがわかるチェコ語しか使えないらしい。昔は俳優に対する教育も厳しかったのだろう。
2019年10月31日24時。


 








タグ:映画

2019年09月29日

カレル・シープ(九月廿七日)



 チェコの芸能界には、共産党政権の時代から、ビロード革命を経て、現在に至るまで、変わらぬ人気を誇る人たちが何人もいる。その筆頭が黒田龍之助師が『チェコ語の時間』で、「チェコのサブちゃん」と評した神のカーヤことカレル・ゴットである。そのゴットに、歌の歌詞を提供するなど作詞家として「も」活躍しているのが、カレル・シープである。
 ただし、シープの本業は作詞家ではなく、何だろう? テレビ番組の司会者というのが一番いいだろうか。80年代から作曲家のヤロスラフ・ウフリーシュと組んで音楽番組の司会をしたり、大晦日恒例の特別番組(日本の紅白と同じで伝統的らしいのだけどそのよさがいまだにわからない)の司会をしたりしてきたようだ。現在はチェコテレビで「フシェフノパールティ」というトーク番組を持っている。たまたまそれを見たから、書くことにしたのである。

 シープが最初にテレビに出たのは、子どものころらしいけれども、最初に仕事としてテレビにかかわったのは、番組の制作側としてで60年代前半のことだったようだ。その後70年代の初めに、ウフリーシュと組んでファラオンというグループで音楽界にデビューした。ウフリーシュとの作詞家と作曲家のコンビは73年にグループが解散した後も続き、さまざまなチェコの歌手達に歌を提供してきた。

 テレビの司会者として活躍をしていたシープが音楽界に戻ってきたのは、82年のことで、ウフリーシュとのコンビに、歌手のペトラ・ヤヌーを加えて「トリキ・ア・ポビェリ」というグループを結成したのである。ただし、普通の音楽グループではなく、当時チェコスロバキアで流行っていたらしい、イタリアのディスコ音楽のパロディだった。
 グループ名は、「Ricchi e Poveri」というイタリアのグループから取ったらしい。「リキ・エ・ポベリ」と読むのかな。この名称はどんな意味になるのか知らないが、チェコ語のほうは、「トリックと迷信」という意味になる。そして「トリックと迷信」の代表的な歌の歌詞がなんとも妙な迷信っぽい内容なのである。

 全文引用するのはあれなので、一番有名な部分、何度か繰り返される部分だけ上げておく。

Ital nezná ten zázrak,
イタリア人はその奇跡を知らない。
a tak mu chátrá těéééélo .
だから体がぼろぼろになっていく。
Ital nezná ten zázrak,
イタリア人はその奇跡を知らない。
Vepřo knedlo zelo.
ベプショ・クネドロ・ゼロ


 最後の行はチェコの伝統料理で、豚肉とクネドリーキに酸っぱいキャベツをあわせたもの。レストランによっては三つの言葉の順番が変わることもある。チェコの伝統料理の例に漏れず、脂っこくて健康にいいとは思えないのだが、イタリア人はこれを知らないから、体が壊れていくんだ、つまり不健康なんだと言っているようだ。続きの部分では、マカロニとかスパゲッティにケチャップばっかり食べているなんてイタリア人の食生活を揶揄している。
 この歌のもとになったのは、トト・クトゥーニョ(Toto Cutugno)という歌手の歌らしい。イタリア語の題名まではわからんかった。でも、ブロード革命後だと思うけど、この人、チェコにやってきて、シープたちと共演したことがある。チェコ語の歌詞の意味がわかっていたのかどうか、嬉しそうに一緒に歌っていたのだという。

 一体に、共産党支配時代のチェコスロバキアでは、西側のヒット曲のカバーが盛んだった。歌詞だけチェコ語に訳したり、新たにチェコ語の詞が書かれたようなものが横行していて、外国の曲のカバーだということを知らない人も多かったのだとか。そうなるとカバーの許可も取っていないだろうし、著作権料も払っていないだろうなあ。
2019年9月27日24時。










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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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