2018年10月02日
チェコ史の8 其の三(九月廿九日)
三つ目の8の付く年は第二次世界大戦修了直後の1948年である。政権与党だった共産党がクーデターを起して全権を獲得し、以後50年にわたる独裁体制を確立した。政権与党がクーデターというのも変な話だが、軍、警察を把握していた共産党が武力行使を示唆しつつ、連立政権内の他党の閣僚を辞任に追い込み、ヤン・マサリク外相を暗殺し、ベネシュ大統領をも辞任させて権力を握った過程は、合法的なものとは言えず、クーデターと呼んでも間違いではあるまい。
ベネシュ大統領は、ミュンヘン協定に続いて、このときも共産党の要求を受け入れて、閣僚の辞任を認めるという譲歩をしたことで、弱腰に過ぎたのではないかと批判されることもある。ソ連と西側諸国の対立の高まる中、ソ連の軍事力を背景にしていた共産党の圧力にいずれは抵抗できなくなっていたのは明らかだし、戦争で荒廃した西欧からの支援はあまり期待できなかったし、ミュンヘン協定の記憶も新しいこの時期、期待できたとしても信じきることはできなかったのだろう。大統領自身すでに病身で抵抗するだけの気力を持ち得なかったのだという話もある。
当初の構想では、ソ連との関係も維持しつつ、西側のマーシャルプランにも参加して、ソ連と西側を仲介する役、もしくは東側から西側に伸びる長い架け橋になるはずだったチェコスロバキアは、ソ連の勢力圏に残りそうな国の中では随一の工業国であったせいもあって、西側に近づくことが許されなかったのである。かくて、チェコスロバキアは西側に大きく突き出した東側の国となった。チェコの人たちがかつてオーストリアに感じていた複雑な感情は、チェコスロバキアが望んだ位置をオーストリアが占めていたことにも起因する。
チェコスロバキアの共産党を少しだけ弁護しておけば、共産党が政権を獲得した、単独与党ではなかったが首相などの重要ボストを獲得したのは、民主的に行われた選挙の結果である。これは他の旧共産圏の国、ハンガリーやポーランドでは起こらなかったはずである。チェコスロバキアの共産党は、民主的に政権を獲得した後、暴力的に一党独裁体制に持ち込んだのである。ここまで民主的な選挙の結果として達成できていれば以後の共産党政権に対する評価も変わったのだろうが、英仏に裏切られたとはいえ伝統的に西欧的な民主主義の信奉者の多いチェコでは難しかっただろうし、何よりもスターリンが待つのを嫌ったというのが大きそうである。
では、戦後のチェコスロバキアの選挙で、過半数は取れなかったとはいえ、共産党が40パーセント近くの票を獲得して第一党になった原因を考えると、一つはやはり、ミュンヘン協定の際に英仏が印象付けた肝心なときには頼りにならないという印象だろうか。そのため共産党員ではなくても一定以上の人がソ連との友好関係を重視しなければならないと考えていたはずである。
もう一つは、チェコスロバキアの大半の地域がソ連軍の侵攻によってナチスドイツによる占領から解放されたという事実だろうか。実際には西ボヘミアはプルゼニュまでアメリカ軍によって解放されていたのだが、事前の連合国軍内の話し合いによって、チェコスロバキアはソ連軍の担当、つまり戦後はソ連圏の国になるとされていたため、アメリカ軍は余力があったにもかかわらず、そこで進軍を止めたのだという。ここでもチェコスロバキアは大国の取引の材料にされてしまったのである。
実は、スターリンがチェコスロバキア戦線に投入したのは、ウクライナ人を中心とする軍隊というよりはならず者の集団といったほうがいいぐらいの質の悪い軍団で、各地で蛮行を繰り返して、ドイツ人だけでなくチェコ人、スロバキア人も被害に遭っていたという話もある。それでも、ソ連軍によって解放されたという事実が重かったのか、ドイツ軍よりはましだったのか。
最後は、チェコスロバキア共産党自身の活動で、共産党はチェコスロバキアでは非合法化されることなく大戦間期の第一次共和国の時代に合法政党として民主主義の枠内で活動していた。財務大臣のラシーンを更新的な共産党員が暗殺するという事件も起こしてはいるが、工業化が進んで労働運動も盛んだったチェコスロバキアでは一定の支持者を集めて国会にも議席を有していたのである。共産党が非合法化されたのはナチスドイツによるチェコスロバキアの解体以後のことであり、共産党は地下にもぐって非合法組織として抵抗運動を展開することになる。ベネシュの亡命政権とは違い、実際にナチスドイツに国内で抵抗しパルチザンとしてドイツ軍と戦ったという実績も共産党への支持を集める、戦前よりも得票率を伸ばすのに寄与したはずである。
こんな事情で集めた国民の支持を共産党は1948年のクーデターで裏切ることになるわけだが、それに対して西側からの反共産党勢力への具体的な支援はなかったのである。一方全権を獲得した共産党では、スターリンの恋人とまで言われたゴトバルトが、スターリンに習って国内に、党内に敵を作り出し、国家の敵とされた人たちが粛清されることになる。処刑された人、亡命を余儀なくされた人も多かったが、運がよければウラン鉱山での強制労働だったのだとか。世界選手権でソ連を破って優勝したチームのメンバーが、強制労働の刑に処された結果、次の世界選手権に出場できずチェコスロバキアが二連覇を逃したなんて話も聞いたことがある。
がちがちのスターリン的な国内支配は次の重要な8の年まで続いていくことになる。正確にはもう少し前から緩和が始まっていたかな。とまれチェコスロバキアは、旧共産圏の中でもスターリンと決別するのが一番遅かった国なのである。
2018年10月1日24時。
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