2018年10月01日
チェコ史の8 其の二(九月廿八日)
8のつく年でも、独立から十年後の1928年には、特に取り上げられるべき出来事は起こっていないようで、二番目の重要な8の年は1938年ということになる。いわずと知れたミュンヘン協定の結ばれた年、チェコスロバキアがフランスとイギリスに捨石にされた年である。チェコではすでに建国の父マサリク大統領は没しており、その右腕として特に外交の分野で活躍したベネシュが大統領を務めていた。
このときのチェコスロバキア第一共和国の解体の過程には、ナチスとつながったドイツ系の住民の活動があったことはよく知られているが、ポーランドとの国境地帯では、ポーランド人、ポーランド系の住民たちも暴れていたらしい。最近のニュースでは、ミュンヘン協定が結ばれる何日か前にシレジア地方で起こった、ポーランド人によって警察官(軍警察、憲兵かも)が何人か殺害された事件について報道されていた。
「チェトニツケー・フモレスキ」では、ミュンヘン協定以前から国境地帯で策動するポーランド人たちのの様子も描かれていたし、ミュンヘン協定の後に主要登場人物の一人の所有する農場を襲ったのはポーランド系の民兵組織だった。ミュンヘン協定をチェコスロバキア政府が受け入れたことで国境を越えて侵攻してきたのはドイツ軍だけではなかったのである。ポーランドはアウシュビッツなどの件もあって、第二次世界大戦ではナチスドイツの被害者扱いをされることが多いが、ことミュンヘン協定によるチェコスロバキア領の分割に関しては、完全にナチスドイツに加担した共犯者だったと言える。南スロバキアを占領したハンガリーも同様である。その結果チェコスロバキアは領土の30パーセントを失ったと言われている。
このとき、チェコスロバキアから割譲された地域に住んでいたチェコ人、スロバキア人たちは暴力的に住居を奪われ追放された。中にはチェコ人としての民族意識を持ちながらドイツ人として登録することで(民族的にどちらともつかない人も多かったらしい)、追放を逃れた人たちもいたようだが、徴兵されて戦争で命を失った人が多いという。第二次世界大戦後のドイツ系住民の追放は、このチェコ系住民の追放に対する報復という意味も持っているのである。
ポーランド系、ハンガリー系の住民が第二次世界大戦後に追放されたという話はあまり聞かないが、終戦直後の国際関係が反映しているのだろうか。同じソ連軍の援助でナチスドイツから開放された民族に対する配慮とかね。ただ、H先生の話では、プシェロフ郊外でスロバキアに戻る途中のドイツ系住民を虐殺した部隊が、スロバキアのブラチスラバでハンガリー系のボーイスカウトの子供たちを虐殺するという事件を起こしているというから、制度としての追放はなかったにしても、各地で復讐劇は起こったに違いない。
ミュンヘン協定は1938年9月30日に締結されたのだが、イギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相はすでに29日にミュンヘン入りし、ナチスドイツによって歓迎されたのに対して、当事者であるはずのチェコスロバキアはヒトラーの招集した会談に招待すらされず、チェコスロバキア政府が派遣した二人の外交官をミュンヘンの空港で待ち受けていたのはゲシュタポだったという。二人は、フランスやイギリスの代表団と接触できないように、そのままホテルに軟禁され、ズデーテン問題に対するチェコスロバキア政府の見解を述べることさえ許されなかったらしい。
実は1938年に入って、ベネシュ大統領は最悪の事態を避けるために。ズデーテン地方のドイツ人たちに対して大幅に譲歩することを決定していたという。ヘンラインに指導されたズデーテンドイツ人党の求めていた三つのドイツ人自治区の成立を認めることで、ナチスドイツが主張するズデーテン問題を解消しようとしたようだが、ヒトラーの指令を受けたヘンラインはこれを拒否した。その結果としてミュンヘン会談が行われたわけである。ナチスに対して譲歩しても何の意味もないことは、すでにこの時点で明らかだったのだというと、チェンバレンやダラディエには酷に過ぎるだろうか。
この二人の政治家は、ミュンヘン協定を締結したことで欧州大戦の危機を回避できたと自画自賛したようだが、帰国した二人を迎えたのは喝采だったらしい。つまり政治家だけでなくイギリスとフランスの世論もまた、チェコスロバキアを見捨てることで、ドイツとの戦争を回避することを望んだのである。このとき、チェコスロバキアを対価に買い取ったはずの平和はたったの一年ほどしか持たなかった。この事実が、イギリス、フランスへの不信につながり、10年後の8の年の出来事を導くことになる。
ミュンヘン協定の締結を受け、ベネシュ大統領は戦うことなく無条件で受け入れることを選んだ。国境地帯にドイツ軍の侵攻を防ぐために設置されていた要塞群も使用されることなく明け渡された。チェコでは現在でもこのときの大統領の決定が正しかったのかどうか議論されることがある。ドイツ対策はしてあったわけだし、シュコダの兵器も優秀だったらしいから、外国からの支援が期待できれば何とかなったんじゃないかと思わなくもない。ミュンヘン協定の締結でイギリス、フランスからの支援が得られないことが明らかになっていたことが、ベネシュ大統領をして受け入れの決断をさせたのだろうけどさ。
2018年9月30日23時。
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