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2018年10月03日

チェコ史の8 其の四(九月卅日)



 四つ目の8のつく重要な年は、共産党独裁政権が誕生してから廿年目の1968年である。この年、大統領を務めていたのは、第二次世界大戦末に再建されたチェコスロバキア軍の将軍として活躍したスボボダで、共産党の第一書記を務めていたのは、スロバキア出身のドゥプチェクだった。チェコスロバキアの場合は、現在のチェコもそうだが、大統領の権限はそれほど強くないから、この年に頂点をむかえた「プラハの春」を主導したのはドゥプチェクだったと考えていい。

「人間の顔をした社会主義」という目にも耳にも優しく響くスローガンが、どこまで「プラハの春」で実現したのか、改革が社会主義の枠内で収まるものだったのか、評価するだけの知識も能力もないが、スターリンを批判して、緊張緩和をもたらしたフルシチョフが失脚し、ブレジネフが全権を握った後のソ連には見逃せない動きであったというのは想像に難くない。もちろん、フルシチョフも50年代のハンガリーの改革運動、いわゆるハンガリー動乱の際には軍を派遣して弾圧しているわけだから、フルシチョフが健在であっても、「プラハの春」の運動は弾圧されていた可能性は高い。
 フルシチョフは、西側向けには寛容な顔を見せ冷戦の緩和をもたらしたが、内側、ソ連の支配圏である東欧諸国に対して強権的であったという点では、スターリンやブレジネフと大差なかったのである。クリミア半島を含む現在のウクライナ東部のロシア人共住地域を、ロシアからウクライナに移して現在のロシア、ウクライナ紛争の原因を作ったのもフルシチョフだしさ。

 1968年のチェコ史における重大な出来事は、「プラハの春」そのものではなく、8月にワルシャワ条約機構軍の侵攻によって、チェコスロバキアで勧められていた社会主義の改革の試みが強制的に終了させられたことにある。共産党の指導部内に現状の行きすぎを憂える人がいて、モスクワに直訴したのだとか。その救援要請にこたえるという名目でチェコスロバキアに侵攻してきたソ連軍は、ドゥプチェクなどの指導部をモスクワに連れ去り、ソ連の描いた筋書きが正しい、つまりワルシャワ条約機構軍の侵攻は、侵攻ではなく友好国による救援であることを認めるように強要したらしい。
 ここでドゥプチェクは、最終的には認めることを選びスボボダ大統領たちと共にチェコスロバキアに帰国するのだが、ほとぼりがさめたころに党の第一書記を解任され失脚する。その後を襲ったのが、これもスロバキア出身のフサークで、いわゆる「標準化」を推し進めていくことになる。フサーク自身も実は、1948年の政変の後、スロバキア民族主義者として批判され一時失脚していた時期があるらしい。「プラハの春」の事件を上手く利用して出世を遂げたというところだろうか。ソ連軍に救援を求めた裏切り者の中には入っていなかったようである。
 さて、このときのドゥプチェクも圧力に負けてソ連の筋書きを認めてしまうわけだが、認めていなかったとしたらどうなっていただろうか。ソ連軍が撤退したとは考えられないから、せいぜいドゥプチェクの処遇が変わったぐらいだろうか。ビロード革命の際に、ドゥプチェクは大統領の座を望んだのに、ハベルの人気の前にあきらめざるを得なかったという話があるが、このとき、最後まで認めるのを拒否し、帰国後も抵抗を続けていれば、結果はまた変わったかもしれない。いや、その場合には粛清されていた可能性が高いか。

 その後、ビロード革命によって復権したドゥプチェクは、連邦議会の議長に就任している。そしてチェコとスロバキアの連邦解消の動きが進む中、チェコ国内の高速道路で交通事故にあって命を落としている。一説によれば、連邦解消にかたくなに反対していたドゥプチェクが邪魔になった連邦解消派による暗殺だったのだとか。真相は藪の中である。
 ドゥプチェクの人となりについては、ビロード革命後にブラチスラバのどこかの役所でたまたまばったり会ったことがあるらしい(知り合いではない)H先生が、そのときのことを、あまりいい印象を受けなかったと話していた。日本の報道ではいい面ばかりが強調されるドゥプチェクだけれども、ただのいい人が共産党の第一書記になって改革を主導するなんて出来るわけがないのである。

 ところで、チェコ史における8、つまり8で終わる年に歴史的に重要な出来事が起こるという理論、もしくは偶然に瑕疵があるとすれば、ビロード革命が1988年ではなく、89年に起こったことである。後一年早ければ完璧だったのだが……。

 廿世紀最後の重要な8で終わる年は、1998年である。これも最初の1918年と同様に日本と関係がある。しかも、こちらの方が直接的な関係である。スポーツファンならわかるだろうか。長野オリンピックのアイスホッケーでチェコ代表が優勝したのがこの年なのである。かくて長野はチェコで最も知られている日本の町の一つとなった。同じオリンピック開催都市でも、札幌は忘れられつつあるが、長野はチェコ人の民族的記憶の中に深く刻み込まれているので、忘れられることはないだろう。確か宿敵ロシアに勝手の優勝だったし。
 スポーツに政治は持ち込まないというのがIOCあたりの掲げる原則であり理想なのだが、ヨーロッパの政教分離と同じで、そんなものは絵に描いた餅である。共産党政権の時代は、特にプラハのは以後の正常化の時代には、ソ連に勝つことが大きな意味を持っていた。ソ連との関係を重視しすぎるあまり、勝ってしまったスポーツ選手を共産主義の敵と認定して強制労働させたなんて話もあるし、1968年のメキシコオリンピックで、ソ連の選手と同点で金メダルを獲得したチャースラフスカーが、プラハの春弾圧に対する抗議のために、ソ連の選手と顔を合わせなかったとかいう話もある。同点優勝になった採点事態がソ連に対する配慮だったなんてことを言う人もいたかな。

 他にも探せば、独立前の時代も含めて8で終わる重要な年はあるだろうけれども、普通に重要な8の年というとここまで取り上げた五つの年をさすことが多い。ということで予想外に長くなった8についてのお話はこれでお仕舞いである。
2018年10月2日23時55分。






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