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2018年02月10日

寛和元年六月の実資〈下〉(二月七日)



 十八日は、早朝退出する。この日は子供が生まれて五十日目ということで、餅を口に含ませるお祝いの儀式を行っている。そのためか、毎月恒例の清水寺参拝は中止。頼忠からの呼び出しは断れずに参入している。

 十九日は、まず三日分の休暇願を提出。今日から六日の物忌である。この前物忌が明けたばかりなのだけど。今日の物忌は軽かったようだが、参内はせずに夕方になって上皇の許に出向いている。

 廿日は、特別に門戸を閉じたというから、特別に固い物忌だったのだろうか。

 廿一日は、前日とは違って軽い物忌で、門を開けている。この日円融上皇が円融寺に行幸して仏事を行っている。実資もお供に候じているが、軽い物忌なら仏事はかまわないのかもしれない。付き従った人たちのうち、右大弁の大江斉光は騎馬で、右大将の藤原済時は牛車に乗って円融寺に向かったようだ。実資は候宿はせず夜になるころには戻ってきている。上皇は廿九日まで円融寺に滞在したようである。
 伝聞で、左大臣源雅信の孫にあたる源信時が亡くなったことが記される。「頓滅す」とあるから、急死だったのだろう。父親は内蔵頭源時中である。この日の夜には子供を源遠業の邸宅に行かせている。これは「四十五日の方」を違えるためだというのだけど、どこから数えて「四十五日」なのかがわからない。生まれてから五十日目を十八日にお祝いしたばかりだし。

 廿二日も軽い物忌。それで、中宮のところに出向いた後、参内。この日は花山天皇が新たに源時叙と藤原斉信に昇殿を許している。源時叙は左大臣雅信の息子で、藤原斉信は大納言為光の子である。また滝口の陣に詰める武士として実資が推挙した人物が五人で、これまで候じていた十名に加えて合計十五人になっている。もともとの定員は十人だったらしいけど、この実資の推挙で定員が増えたということはあるのかなあ。

 廿三日も物忌は軽く、内裏を退出した後、円融寺の上皇の許へ。明日廿四日の物忌が固いものなので、候宿はせず夕方には戻っている。
 この日は先日亡くなった源信時の父親の内蔵頭源時中のところに弔問の使いを送っている。使いを務めたのは内蔵属、つまりは源時中の部下に当たる文部保実。
 また、皇太后宮権大夫を務める藤原国章が亡くなったことを知らされている。こちらにも弔問の使いを送っている。夜になって中宮の許に出向いているけれども、円融寺と同様の理由ですぐに退出。

 廿四日は、重い物忌だとの予言通り閉門して閉じこもる。二日分の休暇届を提出。十九日に始まった六日の物忌は、今日終わるはずなのだけど……。

 廿五日は、朝早くから円融寺に出向き、そこにいた人たちと大堰川に、納涼のために出向いている。物忌は終わったはずなのに今日の分も仮文を出したのはこのためだったか。夕方、涼しくなってから円融寺に戻って候宿。

 廿六日は、夜明け前に退出し、頼忠の許を経て参内。最近暑さのせいか花山天皇がおとなしく感じられるのは気のせいだろうか。

 廿七日は、早朝内裏を退出した後、中宮の許に出向いて、再び参内。「三位中将」からの手紙でというのだが、藤原義懐、藤原道隆のどちらだろうか。藤原義懐は参議になっているし、単独の場合には「正三位中将」として登場することが多いのだけど、後に出てくる「彼の亜相」が大納言の藤原為光だとすれば、藤原義懐の可能性が高くなる。内裏では大納言の恐らく為光とあれこれ話し込んで、子の刻、つまりは深夜になって退出。
 退出して中宮の許で候宿。中宮は夜中から病気を発したようである。

 廿八日は、中宮の許を退出して、頼忠のところに寄って、再び中宮の許へ。その後、「猪熊」に出向くのだが、これは大日本古記録の行間注によれば、藤原尹忠。906年の生まれだからかなりの恒例である。読経と経文の講釈が行われたようである。その後再び中宮の許へ向かい、夜になってから、修理大夫の藤原懐遠と左近権中将藤原公任と共に円融寺に向かう。この二人は小野宮家の人なので、中宮遵子のところにいたのだろう。公任は遵子の弟だし。
 この日から神泉苑で雨乞いの儀式が始まる。担当するのは雨乞いの能力があるとして知られていた元杲僧都。他にも東大寺や奈良の室生の龍穴でも祈雨の儀式がお紺われている。「炎旱旬に渉る」とあるけれども、今月も何回か雨の記事を見た記憶がある。「天下愁を致す」だから、平安京だけでなく日本中で日照りの害が発生していたのだろうか。

 廿九日は、円融上皇が、円融寺での仏事を終えて、朱雀院に戻っている。行きに付き従ったのは右大将の藤原済時だったが、今回は左大将の藤原朝光である。他にも右大弁の大江斉光、参議藤原佐理が同行している。
 中宮のところに出向いて、春の季御読経の発願に参列。夏の終わりに春の季御読経というのもなあ。上皇や、中宮、貴族家での季御読経は内裏の者よりも遅れがちで、この時期内裏の季御読経が大きく遅れがちであることを考えると仕方がないのかもしれない。僧たちの方もやる気が出ないのか欠席者が多く出ている。怠慢なのは公卿だけではないのである。中宮大夫の藤原済時はちゃんと参入している。

 卅日は、頼忠のところを経て参内。諸国から施薬院についての不平不満が上がってきたようである。天皇はそれを関白太政大臣頼忠のところに送ってしまう。頼忠からは意見の奏上が行われたようだが、こんな問題のあるときだけ関白として頼りにされても、頼忠としてもやる気は出るまい。
2018年2月8日23時。









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