2018年02月09日
寛和元年六月の実資〈上〉(二月六日)
一日は前日候宿した内裏を退出して、上皇の元で候宿する。夜雨が降って暁方に雷がなっている。一日なので、恒例の賀茂社への奉幣を、平実という恐らく僧にさせている。憚るところがあって奉幣を避けていた月の分も合わせて八か月分を奉納している。憚るところというのは妻のお産であろうか。
二日は、またまた三日分の休暇の申請である。夕方上皇のところに出向いているが、座には着さず恐らく退出。その後夜になって左大臣源雅信から呼び出されて参入し、九日に行なわれる予定の競馬についてあれこれ定めている。左右に分かれた同じ方に入った人たちとみんなで決めたようである。実資自身は騎射のことを担当することになっている。
三日は、昨日出した休暇願いの原因となったであろう物忌である。重い物忌で閉門して外出来客を忌んでいる。昨日二日の夜に、大納言為光の妻である藤原伊尹の娘が亡くなったことが伝えられる。先月の孫に当たる尊子内親王に続いて、今回は娘ということで、伊尹の子孫があいついで亡くなっていることを世の人は奇怪なことだと不思議がっているという。この日もまた夜になって雨が降っている。
四日は、中務丞の藤原師長と門を挟んで会話。物忌で訪問客を避けるべき日だったのだろう。内容は、藤原為光の妻がなくなった関係で、公卿たちの中に現代の忌引き休暇をとるものが多く、上皇が計画していた競馬が十六日に延期になったという話である。
五日は、頼忠のところを経て参内。上皇から呼び出されている。上皇はこの日、女御で皇太子(後の一条天皇)の生母である藤原詮子の滞在する邸宅に出向いている。これは詮子の父、右大臣兼家との関係を改善する目的があるのだろう。頼忠の娘の遵子が中宮になって以降、円融天皇在位中の兼家は出仕をサボることが多くなっていたのだ。
六日は内裏を退出して呼び出しを受けて頼忠の許へ。中宮の遵子が実資の住む二条第に引越しをする件に関して相談。必要な物がたくさんあるのに費用が足りないという。中宮大夫の藤原済時のところに出向いて相談したら、実行しにくいことばかり言う。それで頼忠のところに戻ってその話をしたら、中宮に伝えろと言われて、今度は中宮のところに出向いて事情を申し上げている。
七日は、小雨のちらつく中、上皇の許へ。その後、予定されている競馬で左方に振り分けられた人たち(左近と右近で分けただけかもしれないけど)は、左近衛大将藤原朝光の住む邸宅閑院に集まって、あれこれ相談をしている。右方も右大将の許で相談していたのかもしれない。それが終わって参内して候宿。
八日は、内裏を早朝退出して、またまた競馬の準備である。今回は左方の人々が左近衛府の馬場に集まり、馬の走りぶりを確認している。昨日に続いて「食の儲」があったということだが、大将の藤原朝光が準備したものであろうか。それが終わって上皇の許へ出向く。
九日は、内裏と上皇の許に出向いて、夕方帰宅。今日から六日間の物忌だというが、今日は軽い物忌だったので参内したということのようだ。そして、ここしばらく病気を患っている子供を本殿である寝殿から東の対に移している。これは病気をもたらすと考えられていた邪気を払うための方違えのようなものであろうか。
十日は、物忌だけど軽い物忌。ただし九日とは違って外出は避けるべきで、来客は問題ないという。この辺の物忌のレベルの基準というものを実資が書き残してくれていたらよかったんだけど。後世の人間としては、頻繁に正当な理由があって仕事が休めてうらやましいとしか思えない。実資も物忌でも参内できるレベルのときには参内するようで、昨日から六日の物忌だというのに、今日提出した休暇願は二日分だけである。僧たちには病の子供を回復させるための祈祷を行わせている。この子は数年後に病気で亡くなってしまうのだけど、生まれたときから病弱だったようである。
十一日は物忌が重く閉門。夕方になって僧の清範師を招いて病の子供のために祈祷をお願いしている。この日は、来客は問題なかったのか、それとも僧だから例外的に招いてもよかったのか、微妙なところである。
十二日は物忌は続いているはずだが、軽いのか参内する。そして三日に妻を亡くした大納言藤原為光のもとを弔問している。初七日も過ぎたし、物忌でも弔問してもいいのかな。その後、左大臣の許へ。恐らくはまた競馬のことであろうか。左大臣だから左方ってことはないのか。
十三日は、一転して固い物忌で、閉門して閉じこもっている。仮文は出していないけれどもいいのかな。
十四日も、固い物忌で、頼忠から呼び出しを受けているけれども、出向いていない。
十五日は、九日から始まった物忌が十四日に終わって参内できるはずなのだけど、「夢想の告」によって、つまりは夢見が悪かったからとかいう理由で参内していない。ただ、昨日呼び出されて行かなかった頼忠のところには出向いている。その後、室町と上皇の許へ。
この日はいつも通り祇園社に奉幣したというのだけど、六月十五日に定期的に奉幣する理由は、例祭だからだろうか。また夏季の聖天供も始まっている。こちらもいつも通り覚慶にお願いしている。この二つはどちらも実資の個人的な儀式のようである。
十六日は、参内して候宿した以外には何もなし。
十七日は、早朝内裏を退出。伝聞で五月二日に亡くなった尊子内親王の四十九日の法要が法性寺で行われたことが記される。内裏でも二人の上皇のところでも供養のための読経が行われたようである。夜になって再び参内して候宿。
十八日は、早朝退出する。この日は子供が生まれて五十日目ということで、餅を口に含ませるお祝いの儀式を行っている。そのためか、毎月恒例の清水寺参拝は中止。頼忠からの呼び出しは断れずに参入している。
十九日は、まず三日分の休暇願を提出。今日から六日の物忌である。この前物忌が明けたばかりなのだけど。今日の物忌は軽かったようだが、参内はせずに夕方になって上皇の許に出向いている。
廿日は、特別に門戸を閉じたというから、特別に固い物忌だったのだろうか。
2018年2月7日23時
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