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2018年02月06日

実資の和歌2(二月三日)



承前
4続古今和歌集巻第九離別歌

   太宰大弐高遠つくしにくだりけるに装束つかはすとて
                        小野宮右大臣
 830行めくりあひ見まほしき別には命もともにおしまるゝかな

 兄で歌人としても有名な藤原高遠が九州の大宰府に大弐として赴任する際に、餞別として装束を贈ったときに添えた歌だという。高遠は実資の兄で、参議にはなれなかったが正三位にまで位階を上げ非参議として公卿に昇った。その後、大宰大弐として九州に赴任し、任を解かれて帰京後没。没年は65歳だから、実資に比べると短命であるが、九条流の人々と比べると十分に長命である。それでも参議になれなかったところに、当時九条流による公卿の地位の独占が進んでいたことが伺える。あちらは子供の数が多く、互いに争って公卿の地位を求めていたからなあ。実資と同じぐらい長生きできていたら参議、中納言ぐらいまではいけたかもしれない。
『続古今和歌集』は鎌倉時代に成立した十一番目の勅撰和歌集。


5続古今和歌集巻第十七雑歌上

   前中納言隆家、雲林院の花みにまかりて、
   おかしかりける枝をおりて、見せにつかはしたりけれは
                          小野宮右大臣
 1534折ふしの行衛も今はしらぬ身に春こそかゝる花はみえしか

 藤原隆家といえば、道長と摂関の地位を争ってまけたことで知られる伊周の弟で、どう見ても兄の伊周よりも優秀だった人物である。この家、中関白家の不幸の一つは、道隆の子供たちの兄弟の順番だったと言ってもいい。隆家は、伊周とともに花山法皇に矢を射かけた罪で左遷された後、公卿として復帰。大宰権帥として刀伊の入寇を撃退したことでも知られる。この歌が詠まれたのは、大宰権帥を辞して都に戻り、中納言も辞した後のことであろうか。


6続後拾遺和歌集巻第一春歌上 

   だいしらず
                         小野宮右大臣
 21春たてば霞をわけて野べごとに若なつみにと出ぬ日ぞなき

 『続後拾遺和歌集』は十六番目の勅撰和歌集で、鎌倉時代末期に後醍醐天皇の勅命で編纂され、1326年に完成した。角川の『日本史辞典』(旧版1966初版)によれば、「平板な歌が多い」という。実資の歌もそんな感じである。


7新千載和歌集巻第十九
   女御うせ給うてのころ
小野宮右大臣
 2181見るからに袂ぞぬるゝ桜花空より外の露やをくらん

 女御が誰を指すのかが問題であるが、実資と関係のあった女御で、その死後に実資が嘆きのあまり苦手な歌を作ってしまうような人物というと、花山天皇の女御で後に実資の正室となった為平親王の娘婉子女王だろうか。
『新千載和歌集』は十八番目の勅撰和歌集。南北朝期に成立している。



 同時代の公任と花山天皇が編纂にかかわったとされる『拾遺和歌集』をはじめとする平安時代に編纂された勅撰集には一首も撰ばれていない。ただし、『拾遺和歌集』の巻第十八雑賀に源致方と共に作ったらしい連歌が一首収録されている。

  中将にはべりける時、右大弁源致方朝臣のもとへ八重紅梅を折りて遣はすとて
                 右大将実資
 1179流俗の色にはあらず梅花
                 致方朝臣
    珍重すべき物とこそ見れ

 実資と致方がそれぞれ上の句と下の句を作ったということだろうか。連歌的なものの芽生えが見えて興味深くはあるのだけど、評価のしようもない。
 源致方は、後に左大臣にまで昇った源重信の子であるが、公卿に昇進する前に39歳で、父に先立つ形で急逝した。『小右記』の永延三年三月廿日条に前日亡くなったことと辞表を提出したことが記されている。

 さて以上詞書の解説はしたけれども、歌の訳はしなかったのは、訳すほどもなくわかりやすい歌ばかりだからである。このわかりやすさは、実資が歌人ではなかったことの反映でもある。実資自身も自らを歌人だとは任じていなかったはずだから、歌人として評価されなくても、勅撰集に入集しなくても特に気にすることはなかっただろう。興が乗ったときにそれなりの歌を詠むぐらいのことはできたのだろうけど、いついつまでにこんなテーマで歌を作って提出しろとか、この場で歌を詠めとか、実資にとっては無理難題だったに違いない。
2018年2月4日24時。





道長と宮廷社会 日本の歴史 06 (講談社学術文庫)












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