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2018年02月05日

実資の和歌1(二月二日)



 藤原実資は歌を作るのがそれほど得意ではなかった。小野宮家からは実頼、公任など歌人として名を残した人物も輩出しているが、実資は、頼忠とならんで歌才には恵まれていなかったようで、勅撰集にもほとんど作品が収録されていないし、『小右記』でも実資本人が歌を作ったという記事は読んだことがない。逆に歌を求められて断ったというのは何回かある。

 一つは、道長が批判されることも多い例の屏風和歌で、当時の公卿の中で実資だけが断固として断ったとして高く評価されるのだが、歌の名手である公任が断るのならともかく、実資が断るのはあまり意外でもない。道長としても、実資の地位、名声をれば実資の歌はほしかっただろうけれども、歌のできの面から言えば、それほど期待していなかったのではないだろうか。
 また「この世をば」の歌が詠まれ実資が記録した祝宴においても、道長は歌を実資に披露した後、お前も詠めと求めているのだが、実資は自分では歌を作らずに、道長の歌をみんなで詠唱することを提案している。そして道長に対して「御歌優美なり」という評を与えて、元慎と白居易の故事を引いてまで自分が歌を作らない言い訳をしているのである。それを日記に記しているのだから、そこに批判する意図があったとは思えない。実資が批判するとすれば、それは盛大に過ぎる祝宴を開くことや、前例を無視した行動であって、和歌を作ることやその内容は批判の対象にはならないのである。所詮は酒席での戯言だと言う『道長と宮廷社会』の指摘は正しい。

 与謝野晶子は、日本古典全集版の『御堂関白記』の末尾に寄せた「御堂関白歌集の後に」と題した文章で、「この世をば」の歌は、道長の歓びのあまり飛び出した誇張表現であって、それを実資に見せたのは戯れにすぎないのに、江戸時代の儒学者が驕りの表れだと解釈し、その考えを今でも踏襲している人が道長のことを批判するのだと語っている。その点では、現在もあまり変わっていないかもしれない。高校の日本史なんかであの歌を自らの栄華を歌ったものとして紹介されれば、驕慢だなという印象を持ってしまうだろう。
 晶子は、さらに公任について、この道長の歌のような高いレベルの歌は一首も作れていないと言い、実資についても有職故実の才はあったかもしれないけれども詩人ではないと、二人が道長の歌を批判したわけでもないのに、ぼろくそである。道長の歌の評価はともかく、実資が詩人、つまりは歌人ではないと言う評価にはもろ手を挙げて賛成する。

 しかし、実資の歌は、新古今集をはじめとする勅撰集にいくつか収録されているのである。中世まで歌が残っていたということは、どこかに実資の歌を収めた歌集、記録があったということなのだろうが、原典については調査していない。


1新古今和歌集巻第八哀傷歌

   すみ侍ける女なくなりにけるころ、藤原為頼朝臣妻
   身まかりにけるに、つかはしける
                        小野宮右大臣
 773よそなれどおなじ心ぞかよふべき誰も思ひのひとつならねば

 通っていた女性を亡くした実資が、妻を亡くして同じように悲しんでいるであろう藤原為頼に贈った歌だという。藤原為頼は藤原北家の傍流の人で、紫式部の伯父として知られる。実資とも縁があった冷泉天皇皇后の昌子内親王の太皇太后宮職で官人を務めている。『為頼集』という家集も残されているらしい。為頼の没年は998年なので実資が通っていた女性というのは誰だろう。正室とされる婉子女王が亡くなったのは998年と為頼と同年なので、あわなさそうである。


2新勅撰和歌集巻第七賀歌

   円融院御時、中将公任と碁つかうまつりてまけわさに、
   しろかねのこに虫いれて弘徽殿に奉らせ侍ける
                        小野宮右大臣
 474万世の秋をまちつゝなきわたれ岩ほに根さす松むしのこゑ

 円融天皇の時代に、公任と碁を打って負けたので、銀で作った籠に松虫を入れて弘徽殿の女御に献上したときの歌のようである。弘徽殿は、公任に負けて献上するのだから、公任の姉で、円融天皇の中宮になった遵子であろう。
 『新勅撰和歌集』は、鎌倉時代はじめの1230年に藤原定家を撰者として成立した九番目の勅撰和歌集。承久の乱の後の編纂で武家の歌人の入集が多いといわれる。


3続後撰和歌集巻第十六雑歌上

   思ふこと侍ける比
                       小野宮右大臣
 1093世中に吹よるかたもなき物は木葉ちりぬる木からしの風

 詞書が簡潔で詠まれた事情はよくわからないが、歌の内容とあわせると、あれこれ悩んでいたころ、もしくは無常感にさいなまれていたころに読んだ歌だということになる。娘を亡くして悲しみに沈んでいた頃か、小野宮家の筆頭の公卿として摂関の地位を諦めざるを得なくなった時期かなどと想像をたくましくしてしまう。
 実資がそもそも摂関の地位を望んでいたのかという問には、九条流のように摂関になるためであれば、かなりの無茶をするというような望み方ではなくても、頼忠のような時機を待つ望みかたはしていたのではないかと答えておく。新たな摂関が必要になるときに、大臣の地位に昇っておくというのが大切だったようなのだが、その辺は道長と頼通に封じられてしまったところがある。
『続後撰和歌集』は十番目の勅撰和歌集。この辺りになると、『国歌大観』で用例を探すのに使ったことはあるけれども、収録された歌をちゃんと読んだことはない。
2018年2月3日24時。




新編日本古典文学全集(43) 新古今和歌集












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