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2018年02月04日

花山天皇(二月一日)



 花山天皇は永観三年(984)に円融天皇の跡を襲って即位した第65代の天皇である。生年は西暦で968年だから、数え年で17歳で即位したことになる。『拾遺和歌集』の最終的な編者と目されているように、和歌などの芸術分野に才能を発揮した人物なのは確かであるが、天皇としてはどうだったのだろう。
 『大鏡』などに劇的に描き出されたために、退位したときの事情のほうが、天皇としての業績よりも有名になってしまっているところがある。寵愛した女御忯子の死を嘆いて出家の意志を漏らしたところ、右大臣兼家の息子たちが、寺に連れていって出家させたというのだが、どこまで事実を反映しているのだろうか。また、花山天皇の退位は、兼家と息子たちだけの意向だったのだろうか。

 花山天皇の治世(と呼べるほど長くはないが)は、一般に意外なほど高く評価されている。円融天皇の時代からの関白藤原頼忠を疎外して、「政治の実権を握ったのは天皇の叔父(伊尹の男)権中納言藤原義懐で、左中弁藤原惟成(天皇の乳母の子)とともに気鋭な政治を行なった」(国史大辞典)というのだが、即位時点で参議にもなっていなかった義懐と、蔵人で左中弁でしかなかった惟成にどれだけのことができたであろうか。
 むしろ、関白の頼忠を排してあれこれやろうとしたことが、後の花山天皇の退位につながっていったのではないかとも思われる。摂関とうまく協力関係を作れない天皇というのは、当時の社会においては、困りものだったはずである。

 東京大学の史料編纂所が「大日本史料」の花山天皇即位の時期にあたる「第一編之二十一」を出版した際に所報に載せられた紹介文では、いくつかの例を挙げて「政務への意欲的な姿勢を示している」と評し、翌年の分をまとめた「第一編之二十二」でも、「依然として政務に意欲的な姿勢を見せている」とあるのだが、この政務にいそしむ天皇像と、『小右記』に出てくる天皇像が一致しないのである。

 例えば、即位直後に「五節舞姫の過差を禁じ」じたというのも、この時期、公卿の過差と懈怠が慢性的に問題となっており、代替わりを機に改めて命じたものであって、円融天皇時代の方針を変えたとは言い切れないようにも思われる。何しろ五節の舞姫の様子を、密かにのぞき見するために常寧殿にまで行ってしまう天皇なのである。過差の禁制が出たからと言って、官人たちの過差が治まったわけでもないし、懈怠が減ったわけでもない。
 十一月には「同月二十八日破銭法を定め格後の荘園を停め」というのだが、銭の問題や、荘園の問題など、国家の運営にかかわる重大な問題を、即位直後の天皇が側近たちとの話し合いだけで決定断行できたとは思えない。これも円融天皇の時代から関白頼忠を中心に検討されていたことが、即位というめでたい機会に発布されたと考えたほうが自然である。この点、講談社の『道長と宮廷社会』で大津氏が指摘されている通りである。
 『小右記』の記述によれば、十月、十一月の花山天皇は、五節の舞姫と諸国から献上されてきた馬を見るのに忙しく、本来いるべきではないところにまで足を延ばして見ることもあったようなので、政務にかける時間がそれほどあったとも思えない。即位の儀式や新嘗祭など、八月の即位以来儀式の準備に追われていたことは想像に難くない。

 そして、年が明けて永観三年の正月の儀式について、「正月一日小朝拝を停め」たのも、花山天皇の政務に積極的にかかわる姿勢だとしているが、これも実資によれば、小朝拝を停めたこと自体は前例もあって問題はないのだが、それについて天皇からの言葉がなかったのが問題だという。この唐突さが花山天皇が何かをやろうとするときの特徴で、その場の思い付きでやるやらないを決めているのではないかと思わされるところもある。
 この年の天皇について「一方、御遊に関する記事も多く」と評しているのは正しいが、実資が、正月十日の記事で「一日の内、事甚だ繁多にして、頻に音楽の事有り」と花山天皇の音楽付きの酒宴好きを痛烈に批判しているのは見逃せない。他にも実資は何度も天皇の言い出す宴会や馬見に対して批判を加えている。この意見は日記に記された実資個人的なもので、官人たちの一般的な意見だとは断言できないが、花山天皇への批判は強かったはずである。
 寛和元年の九月に行われた臨時の除目では、義懐が実資の言葉によれば公卿の定員である「十六人」を越える十七人目の公卿として参議に就任する一方で、本来昇進する方向への任官であるはずの除目で、左遷のような異動がいくつも見受けられたようである。花山天皇のもとでは、これ以外にも関白の頼忠を排除して除目を行う(永観三年正月二八日)など、これまでの官界の前例を破るような政治が行われていたわけである。

 繰り返しになるが、これまでの天皇と関白の関係を無視して、関白との協力関係を作り出そうとしなかったところは、多くの官人たちにとっては不満であり不安であったはずである。官人たちにとっては関白と天皇の対立が政治に混乱を巻き起こすのは避けるべきことである。
 即位以来花山天皇の周囲で不幸が相次いだのも、当時の人たちにとっては恐れるべきことであったはずである。五月二日には天皇の同母の姉で賀茂の斎院を務めた後、円融天皇の女御になっていた尊子内親王が亡くなり、六月三日には、天皇の祖父の伊尹の娘である藤原の為光の娘がなくなる。天皇が寵愛した女御の為光の娘は、この伊尹の娘ではないが、七月十八日には、この為光の娘忯子も亡くなってしまうのである。

 そう考えると、翌寛和二年に花山天皇が退位した際に、退位に反対した官人がどれぐらいいたのかが気になる。残念なことにこの時期の『小右記』が残っていないので、実資の意見も知ることはできないのだが、花山天皇の行状を見る限り、父の冷泉天皇、弟の三条天皇と並んで退位させられても仕方のない天皇だったのではないかと思われる。
 つまり、寛和二年六月に出家の意志を漏らした天皇を出家させるという兼家と息子たちの陰謀がなくとも、いずれは一条天皇への譲位を迫られていたのではないかと考えるのである。時機を得た兼家たちの行動はそれを多少早めたに過ぎない。この件で、一番得をしたのはもちろん兼家とその子供たちだけれども、花山天皇の退位は多くの官人たちの望むところだったのではないだろうか。だからこそ、その後の兼家の摂政就任も、息子たちの強引な昇進も黙認されたのではないかと考えている。

 そもそも遊び好きの花山天皇にとっては、義務が多い天皇よりも、比較的自由に動き回れる上皇のほうが向いていたはずである。円融天皇も退位して上皇になってからは、在位中とはうってかわって奔放に様々な活動をしているし。譲位後の花山天皇が芸術面で多彩な才能を発揮したのも退位した故と言えそうである。
2018年1月1日23時。





今井源衛著作集〈第9巻〉花山院と清少納言









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