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2018年02月02日

寛和元年五月の実資〈下〉(正月卅日)



 大統領選挙のせいで泣き別れになってしまったけれども、実資の続きである。

 十七日は、治病のために三日分の休暇願を提出。二年後の永延元年には赤痢かなんかに襲われて秘蔵の呵梨勒丸という薬を飲んでいるけれども、ここはそこまで悪くはなっていない。何度も呼び出しを受けて上皇のところに出向くことにして、頼忠のところに寄ったら、上皇は円融寺に行幸してしまったので、実資も遅れて行幸に向かっている。実資にとっては祖父で養父である実頼の祥月命日が明日だということで、その事情を上皇に伝える女房に伝えてそのまま退出している。一度出向くというのが大切だったのだろうか。

 十八日は、実頼の忌日で、まず、自分の身代わりに内供奉僧の定興に仏事を行わせている。斎食というのはその後に供した食事であろうか。実資は体調がよくないと言いながら、実頼が法性寺内に建立した東北院に出かけて、実頼の供養を行っている。清水寺に行っているのは、十八日だからである。

 十九日は、円融上皇のいる円融寺に出かける。近くの仁和寺に移って、左大臣以下の公卿が参入してくる。その後、馬場に出て競馬である。出場する者も、応援だけの者も左右に分かれている。上皇は車の中から競馬の様子を見ている。終わった後は円融寺へ帰還である。
 この日は皇太子の護衛役の帯刀たちの騎射も行われたようである。

 廿日は、激しい雨と強風。円融上皇は午後になって院に戻る。付き従うのは左大臣の源雅信と参議の藤原佐理。左大臣は上皇が行う法華経の読経の儀式に参加する僧を決めている。みな天台僧だったようだ。夜に入って上皇は罪を懺悔するための懺法を行なっている。

 廿一日は、参内して、夜になって上皇のところに向かう。十六日に信濃国から献上された白い雉は、北野の奥山に放たれている。担当したのは右近衛府の下級官人の二人。

 廿二日は、早朝上皇のところを出て帰宅。頼忠の息子の公任がやってきて、一緒に頼忠の所有する山科の山荘に向かう。途中、皇太后宮権大夫の藤原国章所有の音羽、つまり清水寺の裏手のやまにある家で、休憩を取ったようである。山科の山荘では、留守居の男が酒肴を準備してくれたので、同行した藤原師長が服を脱いで与えている。酒飲んで、下の者に脱いだ服を与えるというのはどうなんだろう。その後帰途について、鴨川の東にあった白河院で休息をとろうとしたら、図らずも数人の伝上人とばったりあったようである。お互いに食べ物を出し合って食事をしたというけど、酒も出ているだろうなあ。最後に二日分の休暇願いを出したことが記されるが、今日の遠足と明日のお疲れ休みということか。廿三日は記事すらなかった。

 廿四日は、上皇の許を経て参内し、候宿。天皇はまたまた清涼殿で馬寮の馬を見ている。気になるのは毎回同じ馬で満足したのか、別な馬を連れてこさせていたのかである。これだけひんぱんだと、毎回違う馬というのは難しそうである。

 廿五日は、早朝内裏を退出して、また「堀河の頬に詣で」ている。後に続く文を見ると、実資の子供が病気の療養をしていたようである。これが四月に生まれた子なのか、その前にちらほら出てきた別の小児なのかはわからない。よく見たら、その後上皇の許に出かけて、もう一度子供を見舞っている。この日は、村上天皇の忌日で、円融上皇のところでも仏事が行なわれたようである。

 廿六日には、二度目の参内をして、候宿しているだけである。

 廿七日は、頼忠のところに出向き、頼忠が山科に所有する山荘を見に行くのに同行している。廿二日に公任らとともに出かけたのは下見だったのかもしれない。昼ごろには戻り、上皇のところで始まった法華経の御読経の開始に参入している。左右の大臣以下公卿が合わせて十三人参入したというから、この時期には珍しく出席率が高い。途中から競馬の話になるのだけど、この日競馬が行なわれているわけではなく、参入した公卿たちが予定されている競馬の組み分けについて話し合っているのかな。
 最後に今月二日に亡くなった尊子内親王の薨奏が行われたことが伝聞の形式で記される。なくなってから廿五日目、ここまで遅れたのはどうなんだろうと考えるのは実資だけではあるまい。

 廿八日は、連絡を受けて左大臣の源雅信のところに出向く。競馬を開催するにあたっての細々としたことを話し合っている。その後、右近衛大将で中宮大夫でもある藤原済時から白河院に来いという連絡が入っている。白河院は辞書では摂関家の別業ということになっているが、大日本古記録の頭注によれば、このとき管理していたのは済時だったようだ。白河院には左大将の藤原朝光をはじめ二三人の公卿や伝上人が集まって、夜まで飲み食いしている。実資が馬を一頭済時に献上しているのは、宴席を設けてくれたことに対する謝礼だったのだろうか。済時は、多分酔っ払って着ていた服を脱いで隋身に与えている。

 廿九日は、参内して候宿する。蔵人の一人藤原挙直から、花山天皇が今日親族の喪に服する際に身につける錫紵という衣服を脱ぐことになるのだが、陰陽師の安倍晴明が最初は戌の時がいいだろうと言ってきたのに、後から、今日は月と日の五行が重なる日だから明日の卯の時の方がいいと訂正してきたという話を聞いて、それを実資が天皇に奏上したら、お前が決めろと言われている。
 実資の答えは、明日、六月一日は特別に清めた火で料理した食事「忌火の御膳」を供する日であり、六月は神今食が行なわれる月でもあるから、明日まで引き伸ばすのはどうだろうか。それに喪に服すべき日数を越えるのどうかと思う。ただ天皇の仰せのままにするのがいいだろうというものだった。藤原宣孝が、延喜年間に期日を過ぎて錫紵を脱いだ例があるはずだというので、調べてみたところ延喜九年にその例があった。しかし今回は、明日はすでに神今食の行なわれる斎月になるから、この例は適用できない。深夜子の時過ぎに脱ぐのはどうだろうかと奏上すると、天皇は晴明を呼び出して聞けという。晴明は明日の寅の時の最初がいいと言う。実資はそれには賛成できないようである。
 祓が行なわれたようだが、天皇の御座は御簾の中に置かれていた、それは天皇が袍を着ておらず、直衣を着ていたからだという。つまり実資があれ考えたのも、晴明が占ったのも無視して天皇はすでに錫紵を脱ぎ捨てていたわけである。
2018年1月31日23時。




藤原道長の日常生活 (講談社現代新書)









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