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2017年06月25日

森雅裕『感傷戦士』『漂泊戦士』part2(六月廿二日)



承前
 一冊目の『感傷戦士』がノベルズとしても比較的薄かったから、これは一冊辺りの厚さを薄めにして刊行ペースを上げ、冊数を稼ぐ方向で行くのだろうと考えていた。早川の「グイン・サーガ」とか、「ペリー・ローダン」辺りを見ればわかるように、大長編シリーズにするには、一冊辺りのページ数を少なめに、そしてほぼ一定にして、短い間隔で次々に出すというのが常套手段である。しゃべるように書く栗本薫や、人間業とも思えないスピードで翻訳するらしい松谷健二あたりと同じ刊行スピードを期待したわけではないけど、3ヶ月か4ヶ月に一回のペースで、最低でも五巻、いやpart5ぐらいまでは出るんじゃないかと期待していたのだ。
 それなのに、part2が出たのは、8ヵ月後の1987年4月のことだった。題名は『漂泊戦士』、ルビは「ワンダー・エニュオ」である。驚いたのが三点、まず『感傷戦士』よりも遥に分厚かったこと。倍は行かなかったけれども、五割り増しぐらいにはなっていた。二つ目が表紙の絵に色が一色しか使われておらず、塗られていたのは髪の毛と、ズボンの片足だけだったことだ。この表紙はどう見ても大失敗で、本の魅力を大きく下げていた。それでも続きが読みたくて買ってしまった辺り、この時点で森雅裕の熱狂的なファンになる下地はできていたと言えよう。最後の三つ目の驚きは、この巻で完結するということだった。

 内容は、もう前巻と同じく、死、死、死である。敵も味方もある意味平等に死んでいくのは、いさぎいいと言うか何と言うか。「少年ジャンプ」的に、困難を乗り越えるたびにさらに大きな困難が現れ、それにあわせて主人公の強さも上がっていくという能力のインフレーションが起こった結果、主人公はもはや人間ではなくなってしまう。そんな死の女神のような主人公がふと見せる人間くささというものを、どう評価するかで、この小説への評価は変わるかもしれない。
 そして敵であれ、味方であれ、誰かが死ぬごとに積み重なっていく恨みと悲しみが、これでもかと言うぐらいエスカレートしたところで物語りは唐突に終幕、主人公の死に向かう。観念的で申し訳ないけれどもそんな印象を持った。死んだという直接の描写はなかったけれども、生きる理由を失ってなお生き続けられる主人公とも思えない。どことなく大薮春彦の『野獣死すべし』を思い起こさせる幕切れだった。伊達邦彦は後に復活したけどさ。

 最後の最後に、蛇足のように付け加えられる一つの死によって、飛騨の山奥から始まったこの物語は幕を下ろす。読後感は、アガサ・クリスティの小説ではないけれども、「そして誰もいなくなった」である。いや「何もなくなった」のほうがいいかもしれない。見事なまでに、誰も、そして何も残らないのである。日本という国も自衛隊のクーデターも、この小説の中に描かれてきた世界が、死の前に全てかき消されてしまう。茫漠たる荒野すらそこには残らない。
 この小説を書いていたとき、全てをぶち壊しにしたいという思いが作者をとらえていたのだろうか。それに共鳴できる状態のときに読めば、傑作になりうる、かもしれない。真の森雅裕ファンにとっては、森雅裕が書いたと言うだけで、数多の欠点も含めて傑作になるんだけどさ。

 それにしても、この手のある意味超人が主人公となる小説で、米軍が悪役でマッドサイエンティストが出てきて、人体実験をするのはお約束みたいなものなのだろうか。「ウルフガイ」にも犬神明が米軍に狙われるシーンがあったような気がするし、田中芳樹の竜神の化身が主人公の『創竜伝』にも、主人公が切り刻まれるシーンがあった。
 『創竜伝』が、同じ講談社ノベルズから出ていることを考えると、森雅裕と軋轢のあった編集者の仕掛けの可能性もなくはない。かくて作品に私憤をぶちまけ登場人物を文字通り皆殺しにしてしまう森雅裕から、作品に義憤をぶちまけるけれども人死には意外と出さない田中芳樹に、講談社ノベルズの人ならざるものを主人公にした作品の系譜が受け継がれたのである。どちらが、一般の読者受けがいいかというのは、言うまでもないことである。

 森雅裕の小説に繰り返し登場するモチーフにいまどき流行らない苦学生というものがある。『画狂人ラプソディ』の亀浦にしても、『歩くと星がこわれる』の巽にしても、作者本人の自己投影が強すぎて、読んでいる時の気分次第では、作品の中に入っていけなくなる。だけど、この『漂泊戦士』の冒頭に登場する新聞社でバイクに乗って原稿取りをしながら大学を目指して勉強している人物には、名前も覚えていないのだけれども、妙に愛着を感じる。
 自らの分身を主人公に据えた作品でもこのぐらいの突き放した感じで書けていたら、広い範囲に読者を獲得できていて、作家生命も延びて刊行冊数も増えていたのではないかと妄想する。その一方で、一般受けする森雅裕なんて森雅裕じゃないから、自分はここまで熱心なファンにはなれなかっただろうとも思う。森雅裕ファンてのはね、新刊が出ない慰みに、こんな妄想をしてしまうのだよ。そして、森雅裕が変わらなければ新刊が読めない、売れる方向に変わってしまったらそれは真の森雅裕ではないというジレンマに、苦しみはしない。その妄想の中のジレンマさえも楽しむ、それが森雅裕ファンとして生きていくコツである。

 初めて森雅裕を読んですでに卅年、熱狂的なファンになってからでも廿数年を閲してなお、新刊の出なくて久しい作家のファンでい続けるというのは、こういうことなのだよ。最近は森雅裕を発見した若い人たちの文章をネット上で読むのも楽しい。以前は見たくない聞きたくないと思っていた森雅裕の悪口も、森雅裕について書かれているというだけで珠玉の詩篇に一変する。すでに知っていることしかかかれていなかったり、短すぎたり、事実誤認があったりしても全く気にならないのである。
 ここまで来ると病膏肓に入るで、自分でも遠くまで来てしまったなあと思う。高校時代に、『モーツァルトは子守唄を歌わない』から始まって、『感傷戦士』『漂泊戦士』を読んだときには、何人書いた好きな作家の一人に過ぎなかったのだけど……。

 再読している暇がなかったので思い出し思い出し書いていたら、またまた暴走して他人にはわからない文章になってしまった。でも、せっかく時間と労力をかけて書いたのだから、恥をさらすことにする。毎日さらしているって言えばその通りなんだけど、昨日今日の恥はいつもより少し大きいのである。
6月23日22時。


 この二冊でこれだけの分量書くことになるとは……。6月24日追記。



posted by olomoučan at 07:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 森雅裕
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