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2017年06月09日

ズデーテンドイツ人(六月六日)



 週末にドイツのアウグスブルクで、第二次世界大戦後にベネシュ大統領の発した大統領令に基づいて、今日のチェコの領域からドイツに追放された人々とその子孫たちが作っている団体の大会が行われた。この団体は完全に政党というわけではないようだが、有力な圧力団体として、特に追放された人々の子孫の多いバイエルン州などの地方政界で重きを成しているようである。
 いわゆるズデーテンドイツ人たちの集まりだから、チェコスロバキア第一共和国の崩壊に大きく寄与したヘンライン党の残党だと短絡するつもりはない。ただ、この団体が、数年前までは、チェコスロバキアの戦後経営の基本となった、いや今でも基本であり続けているベネシュ大統領が発した大統領令の無効化を主張していたことは忘れてはならない。
 この大統領令によって、ナチスに協力したドイツ人たちの追放と資産の没収が決定されたことから、ズデーテンドイツ人たちは、不動産も含めた失われた資産の返還をも求めていたのである。チェコ政府の基本方針は、共産党によって没収された資産の返還には応じる余地があるけれども、ベネシュの大統領令によって没収された資産に関しては、交渉にすら応じないというものである。

 問題は、追放時のドサクサで、ナチス協力者以外のドイツ人も追放されたことと、しばしばチェコ人たちの復讐心が暴走して、虐待や虐殺などの事件が起こったことである。一説によればこのとき追放されたドイツ人の数は三百万人にのぼるというのだが、その数の中に、自らドイツに逃亡した人たちが含まれているのかどうかは不明である。
 一方で、このときに全てのドイツ人が追放されたわけではないという事実も重要である。かつてサマースクールで知り合ったドイツ人は、幼少期をチェコで過ごしたと言っていた。チェコに暮らしていたドイツ人の一家が、共産主義の時代になってから、それも確か70年代か80年代に入ってから、ドイツに移ったと言っていた。ナチスの時代にもチェコ人を虐待することのなかったドイツ人の中には、チェコに残ることを許された人たちもいたということなのだろう。残念なのは、東ドイツに行ったのか、西ドイツに行ったのかを聞き損ねたことである。

 敗戦によって失われた領土から、しばしば暴力的に入植者たちが追放されたという事実から、第二次世界大戦後の満洲国、朝鮮半島から逃げてきた日本人と比較したくなるが、それは正しくない。旧東欧圏のドイツ系の住民は、中世のいわゆるゲルマン人の当方植民の時代に起源を持つことが多く、何世代にもわたって、定住していたのである。だから日本の場合と比較するなら、北方領土に江戸時代から生活していたアイヌ系の、戦後ソ連によって追放された人々ぐらいだろうか。
 この歴史的に世代を超えてその地に住んでいたというのが、新たな問題となる。追放されたのは本当にドイツ人だったのだろうか。何世代にもわたって周囲のスラブ人たちとの間に交流があった結果、血統的にはドイツ人ともチェコ人とも言い切れない人びとも多かったのではなかろうか。チェコ人であってもナチスへの協力者は処罰されたことを考えると、追放されたこと自体はとやかく言う必要はないのだろうが、誰が追放されてされないのか、何を基準に決められていたのかは気になる。
 ヨーロッパ近代の発明である国民国家が、このあたりを席巻するまでは、住民の民族性はさして重要視されていなかったようにも見える。もちろんドイツ系が有利な時期、チェコ系が有利な時期を経て、ドイツ系でなければ人間ではない的なナチスの時代を迎えるわけであるが、それまでは必要に応じて二つの民族の間を行き来する人びともいたのではないかと想像してしまう。

 話を元に戻そう。ズデーテンドイツ人の団体は、ベネシュ大統領令の無効を求めて、チェコのEU加盟にも反対していたと聞いた記憶があるのだが、その後、その要求を撤回し、穏健化したことで、チェコ側との融和が進んでいる。ズデーテンドイツ人たちの団体と政治的な信条が近い両国の政党、キリスト教民主同盟が仲介する形で、チェコのキリスト教民主同盟、別名人民党の政治家が、最近しばしば集会に顔を出すようになっている。
 昨年はダライラマと面会して物議をかもしたヘルマン文化大臣が、今年はよくわからない担当の大臣で同時に副首相を務める党首のベロブラーデク氏が、集会に参加して演説までした。演説の内容はいつまでも過去の怨念にとらわれていないで、将来を見据えて協力していく必要があるという穏当なものだったようだが、チェコ人の現役閣僚が参加して演説までしたという事実自体が、ズデーテンドイツ人団体のプロパガンダに使われるという恐れは否定できない。
 それでなのだろうが、社会民主党の閣僚、特に外務大臣のザオラーレク氏の反応は冷淡なものだった。あれは閣僚としてではなくキリスト教民主同盟の党首として出席したのだから内閣とは何の関係もないと一言で切り捨てていた。連立与党内にこの団体に対する対応で合意ができているのかどうかは知らないが、ダライラマ問題のときとの温度差に驚いてしまう。

 個人的には、日本では過度に理想化されることの多いドイツの戦後処理に関して、この手の戦争で失った資産の回復を、他国の政府に求めるような団体の存在が許されていたこと自体が大きな驚きであった。この辺も含めて、日本ではドイツというものを評価しなおす必要があるのではないだろうか。こっちに来てドイツに被害を受けた国の側から見ると、日本の戦後処理というものも、日本で批判されるほどにはひどくなかったのではないかと思えてくるのである。
6月8日12時。


 何か中途半端な文章になってしまった。6月8日追記。



posted by olomoučan at 06:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言
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