2016年12月28日
永観二年十月の実資〈下〉(十二月廿五日)
承前
廿一日には、中宮になって二年ほどで天皇が退位してしまった藤原遵子のところに出向いている。頼忠の主宰する定例の仏事が中宮のところで行われたのである。また中宮の滞在する四条宮(?)で、院の庁の仕事をしている。それとも書かれていないだけで院に参入しているのか。上皇と中宮が同じ邸宅に滞在している可能性もあるのか。この辺は『小右記』の記述だけで読み進めていくときの限界だな。調べる時間は、とりあえずないので放置して進もう。
伝聞で、内裏で競馬のようなものである左右近衛府の官人が馬を走らせる十列などの儀式が行われているが、天皇は紫宸殿には出御せず、仁寿殿からご覧になっている。実資がいないせいか、行事に不備があったようで、天皇が突然何か口を出したとか、左大臣源雅信の息子の時仲が余計な口を出したとか推測が述べられている。この十列は、賀茂の臨時祭に関係するものだろうか。
廿二日には、甲斐の国の牧場から献上されてきた馬を受け取りに粟田口に向かっている。一体にこの年の十月、十一月の記述には、馬に関するものが多い。天皇の即位を祝う意味での献上であろうか。普通は馬を連れてきた者たちに、褒美を渡すのであろうが、今回は天皇から贅沢を禁じる命令が出ているので与えていない。
内裏で馬を天皇の御覧に入れる儀式が行われている。詳細は省くが、右馬助藤原実正が和徳門までは出てきたものの体調不良を訴えているのが気になる。「忽ち胸病を煩」うってどういうことなのだろうか。実資が粟田口で受け取ってきた廿頭の馬は、上皇や皇太子、太政大臣などに分け与えられている。最後の「国の騎士」というのがよくわからないのだけど、馬をもらった人のうちの誰かを指しているのだろうか。
廿三日は、内裏を出て頼忠のところに行って、上皇のところに向かう。廿七日の村上天皇の陵墓への参拝の件をなまけずにちゃんとやれよと言われているけれども、実資が手を抜いていると、天皇は考えていたのだろうか。実資のことだから手は抜かないと思う。ただ、内裏でもあれこれ仕事させられているから、大変そうではある。
廿四日は、内裏で賀茂臨時祭のあれこれを決めてから、天皇の即位後に行われる射場始の儀式である。これは天皇が紫宸殿に出御する前には行えないので、この日になったと説明されている。簡単に言えば、天皇の御覧の許、官人たちが射場で次々に弓を射る儀式なのだが、その進行にまたまた問題があって、今回はどうも右大臣藤原兼家のせいらしい。花山天皇の仰せにもいろいろありそうな感じはするけれども、それはあまりあからさまには書けないのかな。とまれ小野宮流からは頼忠の息子の公任が参加している。
廿五日は、左大臣源雅信に手紙で呼び出されて、円融上皇の村上天皇陵墓参詣についての打ち合わせ。その後、頼忠のところに向かっている。
廿六日は、雨の中円融上皇の許に出向いて、翌日の準備である。伝聞で、本来は廿八日に行われるべき除目の召仰が行われたらしいことが記される。悪いのは藤原為光か。
廿七日は、いよいよ円融上皇の村上天皇陵墓への行幸である。道中の安全を記念してか、お寺で七日間にわたる読経を始めさせ、陰陽師の道光に反閇をさせてから出発である。左大臣と右大臣は牛車に乗ったようだが、それ以外の公卿はみな騎馬で、メンバーを見るとなかなかの行列になっていそうである。
参詣が終わると今度は円融上皇の御願寺である円融寺に場所を移して、今度は酒宴である。仁和寺、その後円融寺で読経を行わせ、その褒美に布を与えている。最後に僧の寛朝が粉熟というお菓子をふるまっている。穀物を粉にしてから作ったお菓子であろうけれども、どんなものかは知らない。
廿八日は、内裏で除目の準備として申文などの処理をしている。この日から除目の議が始まっている。今回の除目に関して、皇族などの御給で任官させるかどうか、先例を調べさせている。村上天皇が即位した天慶の例は、京官、地方官共に御給があり、円融天皇の即位した安和の例は京官のみに御給が認められていたようだ。
最後に賀茂の臨時祭の準備行事である調楽が行われたことが伝聞の形で記される。実資は亥の時に退出しているが、子の時に雨が降ったとの記述がある。これは帰り道に雨に降られたのか、自邸に帰って寝るまでの間に雨が降り出したのか、気になる。いやその前に、内裏から自邸まで、おそらく牛車でどのぐらいかかったのだろうか。
廿九日は前夜から引き続いて雨である。内裏に向かうと、公卿たちが天皇の呼び出しに応じて参内してくる。明日の巳の時に参入するように命令が下る。
前夜大納言の藤原為光の娘忯子が、入内したことが記される。この女性は花山天皇にことのほか寵愛されたのだが、次の年の寛和元年に亡くなってしまう。これが花山天皇が出家し退位する原因のひとつだといわれている。忯子は妊娠していたこともあって、皇子の誕生を願っていた為光にとっては、大きなショックであったに違いない。徒歩で内裏に参入しているのは、輦の使用を許されていなかったからだというのだが、夜だけにほかにやりようはなかったのかと思ってしまう。
卅日は、前日に巳の時と言われているにもかかわらず、公卿たちが参入したのは、午の時であった。それから亥の時まで、おそらく除目の儀式が続いているから、文字通り半日仕事である。結局円融上皇と皇太子には御給が認められたようだ。ただし、受領、つまり国司を兼任することは禁止され、他の人を任じたり、任官を停止したりしている。この辺が花山天皇即位後の新政策ということになろうか。珍しく細かいことを書いていない。中宮の許には候じているが、上皇のところには出向いていない。廿八日に犬が死ぬという穢があったからだという。
12月26日12時。
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