2016年12月26日
永観二年十月の実資〈上〉(十二月廿三日)
前回の最後、天元五年六月から二年三か月分の記事が欠けている。この間実資は、右少将から左中将に出世している。また地方官でも、備後介だったのが、美濃権守に転任している。いずれにしても名前だけの遙任ではあろうが。
政治的な状況としては、天元五年の時点で譲位の準備を始めていた円融天皇が、永観二年八月に譲位し花山天皇が誕生している。冷泉天皇の皇子だから、円融天皇は、甥に譲位したということになる。冷泉、花山の父子は、共に在位二年未満で退位しており、また奇行が多いことでも知られていた。一説によると藤原南家の出身で娘が村上天皇の後宮に入って産んだ第一皇子が、天皇になれなかったことに絶望して怨霊になった藤原元方の祟りによるものかとも言われる。
天元五年の時点では、円融天皇が関白藤原頼忠の娘遵子を立后したことに反発して、出仕しなくなっていた右大臣の兼家が、花山天皇の登極と共に再び出仕するようになり、儀式に手を出しては、やり方が間違っていると実資に日記で批判されることになる。
さて、十月は四月と並んで一日に「旬」と呼ばれる儀式の行なわれる月である。本来は毎月一日、十一日、十六日、廿一日に天皇が紫宸殿に出御して、政務をとり、その後祝宴が行なわれたらしいが、実資の時代には、四月の十月の一日にしか行なわれなくなっており、しかも天皇の出御のない平座という略儀が儀陽殿で行なわれることが多かった。この年の十月一日も天皇の出御はなく略儀である。天元五年時点ではほとんど登場していなかった右大臣の藤原兼家が儀式を挙行している。息子の道兼をして出席者の名簿を天皇に奏上させているが、前例に反するやり方をしたのか返されている。いや、返した天皇が前例を知らないということかもしれない。左近の官人が欠席しているのは、天皇の代替わりはしても官人の怠慢は変わらなかったということか。
実資個人としては、旧知の僧慶円の弟子を賀茂社に送って奉幣させている。神社への使いに僧の弟子を送るというのは、神仏習合ということでいいのかな。
二日は、早朝に内裏を退出して、譲位して上皇となったばかりの円融院の元に向かっている。円融上皇は、父の村上天皇の陵墓への参拝を計画していて、その予定を決めるために左大臣の源雅信を実資を連絡係として参入するように申し付けているが、雅信の答は明後日参上するというものであった。途中で太政大臣藤原頼忠のところに顔を出している。
外記の菅野忠輔の話で、一日に行なわれた旬の際の兼家の失敗が明らかになる。出席者の名簿を間違えて外記に渡してしまったあと、周囲の人に言われて取り返すという失態を犯したのである。
三日は、まず内裏に参り、退出した後、室町殿に向かっている。この邸宅が誰のものなのかが問題であるが保留にしておく。その後、円融上皇の元に向かっている。次の部分がいまいちよくわからないのだが、どうも右近衛府の官人である兼茂が何か失態を起こして円融上皇の勘気を蒙っていたらしい。それを今日になって許すというのである。兼茂についても何が起こったのかについても、九月の分が残っていないのが残念である。
そして、深夜頼忠の元に向かったところで、実資の身上に「奇驚すべき事」があったというのだが、詳細は不明。今後の記事に出てくるのだろうか。
東宮大夫の藤原為光が息子の誠信を遣わして馬を二匹献上している。献上先は行間注によれば円融上皇のようである。
四日は、円融院で御読経が始まり関係者が参入し、ついでに村上天皇の山陵を訪れる際のことをあれこれ決めている。この日は花山天皇が即位したことを、過去の天皇に報告するための使いが発遣されている。数は七だが、天智・桓武・嵯峨・仁明・光孝・醍醐・村上の七人の天皇の陵墓ということでいいのかな。
左大臣の源雅信が、息子の時通を遣わして車と馬を二匹献上しているが、謙譲先はこれも円融上皇であろう。
五日も、頼忠の元に出向いた後は、円融上皇のところに向う。その後、上皇が朱雀院の建物を見るために出かけるのに同行している。記述から考えると現時点で円融上皇が後院として暮らしているのは藤原基経の邸宅であった堀川院のようである。天皇在位中にも里内裏としたことがあるようだし。左右の近衛大将初め多くの臣下が同行しているが、左大臣は上皇が朱雀院の寝殿を見学している時に到着したようだ。どうも、急な仰せだったようで、椅子の準備が間に合っていない。また朱雀院で馬をご覧になる儀式が行なわれ、随身たちが馬を馳せさせている。すべてが終わって上皇が戻られたのは酉の刻であった。
六日は、久しぶりに上皇のところには出向かず参内している。この日は天皇が馬をご覧になる儀式である。従兄弟の公任が、剣を持つ役をしているのを不審がっている。犬狩というのが行なわれているが、内裏を囲む塀が崩れていることが多く、野良犬が入り込んで巣くっていたらしい。それを定期的に、狩りだしていたようだ。
七日は早朝に内裏を出て頼忠のところに向かう。頼忠の話しでは花山天皇が、公任を通じて頼忠に出仕するように求めたようだ。頼忠ももちろん参入すると答えている。また上皇のところで、四日に始まった御読経が結願するので、公卿たちが参入して宴会が行なわれている。みんな酔っ払って、歌を朗詠したり、歌ったりしている。その後、夕方になって再び参内する。太政大臣の頼忠も参内して天皇の御前に候じている。「晩景」と「秉燭」の時間的関係がよくわからない。
12月23日22時。
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