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2019年07月25日

シュムニー・シュンペルク続(七月廿三日)



承前
 旧市街の入り口にある教会の建物は、現在では教会としては使われておらず、いろいろな展示や、学校の入学式などのイベントに使われているという。その事情にもカトリックとプロテスタントの争いがかかわっているのだが、それよりも大事なのは後で足を踏み入れて見たら、プラハの春に対するワルシャワ条約機構軍の侵攻に抗議して、焼身自殺を遂げた二人目のヤン、ヤン・ザイーツに関するパネル展示が行われていたことだ。
 ザイーツの出身はビートコフという町だが、シュンペルクの工業高校に通っていた。その在学中にプラハの春の事件に際会し、1969年に抗議の焼身自殺を遂げたのだ。展示のところにいた女性に場所を教えてもらって工業高校を探したら、建物の正面にどこかで見たことのあるザイーツを悼むモニュメントが設置されていてた。もちろん「シュムナー・ムニェスタ」で見たのだ。

 案内の途中でいくつか、魔女裁判の犠牲者たちの住んでいた家というのを教えてもらったのだが、一番衝撃的だったのは、シュンペルクのカトリック教会の大物だったラウトネルという人物(この人の役職、大学の学部長と同じ名称なんだけど日本語で何というかわからん)が、疑いをかけられ拷問の果てに容疑を認めて火刑に処されたという話だった。魔女裁判で男がというのはおくにしても、17世紀の後半に、カトリックの教会の高位の聖職者が、魔女裁判にかけられたというのは意外だった。最終的には領主のリヒテンシュテイン家と、オロモウツの大司教の許可が必要だったというから、カトリック内での権力争いの側面もあったのかもしれない。
 ラウトネルは、捕えられた後、影響力を持つシュンペルクではなく、現在でも刑務所として使用されているミーロフの城館に監禁されて拷問を受け、モヘルニツェで火刑に処された。ブルノのシュピルベルク城がハプスブルクの時代に牢獄として使われたことで名高いが、ミーロフも17世紀から牢獄として使用されていたということなのだろう。

 シュンペルクで魔女狩りを主導したのは、現在のポーランドとの国境近くズラテー・ホリ出身のフランティシェク・インドジフ・ボブリクという人物。ただし当時シュンペルク周辺の住民は圧倒的にドイツ系が多かったし、ズラテー・ホリというのは第二次世界大戦後につけられた名前だから、ドイツ語の地名を使ったほうがいいのだろうけど、覚えられない。人名はフランツ・ハインリッヒ・ボブリクかな?
 ドイツでは猖獗を極めた魔女狩りだが、チェコでは16世紀にナーホットとプシェロフで起こっただけだった。それを、ドイツで発明された容疑者の資産を裁判費用に当てて処刑の後は資産を没収するという金稼ぎの方法を、ボブリクはまずジェロティーン家の本拠地のあったベルケー・ロシニで試したあと、より豊かなリヒテンシュテイン家のシュンペルクに、犠牲者、もしくは金ずるを求めて移ってきたらしい。

 犠牲者の数は、二十人ちょっととドイツなんかと比べたら、たいした数ではないと言えるのだろうが、そのすべてをたった一人の人物ボブリクが主導し、自らの恣意で、もしくはカトリックの教会の上のほうからの声にしたがって、確実に火刑にまで導いたさまにはぞっとさせられる。裁判の途中で裁判を維持するだけの資産がないことがわかった女性を釈放したなんて話もあったなあ。どうにもこうにも救いのない話である。罪を認めずに獄死したのは一人だけ。その人の邸宅のあったところの地下室で魔女裁判に関する展示が行われている。
 この魔女裁判の話を聞いていて、1948年に共産党がクーデターで政権を獲得した後の、政治裁判を思い出してしまった。あれも秘密警察の担当者が、上からの指示を疑うことなく、政治犯として指定された人物を、あらゆる手段を使って追い詰めていき、最終的には自らの罪を認めさせたのだった。その芸術的とまで言いたくなる手法は、魔女裁判につながるというと言いすぎだろうか。

 実は案内付きの散歩に申し込んだときは、小ウィーンと呼ばれる理由となった近代建築を見て歩くものだと思い込んでいた。途中で違うことに気づいたけれども、話は面白かったし今まで知らなかった意外な事実をいくつも教えてもらえたから、満足、満足である。これでもうちょっと小ウィーンの建物の前に設置されている説明が詳しかったら完璧なのだけど。

 最後にもう一点、書いておくとすれば、シュンペルクでシュンペラークを見たことだろうか。これは60年代だったか、70年代だったかに開発されたタイプの二階建ての住宅で、ベランダの側面の壁の形と丸い穴が特徴的である。屋根の上面が水平ではなく緩やかに傾斜しているのも特徴かな。シュンペルクで最初に建てられて、それがチェコスロバキア中に広がったから、シュンペラークだっただろうか。「シュムニー・シュンペルク」で復習せねばなるまい。
 最初は、朝旧市街に向かいながら、駅前の住宅街で探したのだが、古い、邸宅と言いたくなるタイプの家が多く見つけることができなかった。それが、ザイーツの工業高校を探して、旧市街を出ようとしたら、典型的なシュンペラークが旧市街のすぐ外に建っていた。個人の家なので、中に入って見ることはできなかったけど、外から見られただけでも感動ものである。問題はこの感動を共有してくれそうな知り合いが、チェコ人の中にもいそうにないことか。

 さあ、次はモラビアを離れてしまうけど、大戦間期に「共和国のサロン」とまで呼ばれた近代建築の宝庫、シュムニー・フラデツ・クラーロベーだ。シュンペラークを見るまでは、ウヘルスキー・ブロトが一番の候補だったのだけど、今年のテーマは、シュムニー、シュムネー、シュムナーになってしまった。
2019年7月23日22時20分










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