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2019年07月24日

シュムニー・シュンペルク(七月廿二日)



 ホドニーンで、「シュムナー・ムニェスタ」で紹介された場所を巡ろうと思いついた時点で、次の目的地はシュンペルクに決まったようなものだった。この町についてはすでに書いたことがあるのだが(実は昨日のホドニーンについてもすでに書いたことがあるのを忘れていた)、十数年ぶりになるのであれこれ変わっているはずである。当時は「小ウィーンの跡をたどって」なんて観光コースはなかったし、市庁舎の塔にも登れなかったはずである。
 この日は九時ちょっと前のシュンペルク行きに乗った。ザーブジェフ経由なので、一時間かからない。ただ6両編成のうち、後半の三両はシュンペルクに行かず、ザーブジェフで切り離してイェセニーク行きになると、検札に来た車掌が言っていた。始発駅を出たときは同じ電車なのに一部の車両が目的地が違うというのもチェコ鉄道ではよくあることなので、チェコ語ができないとわけのわからないまま車掌に別の車両に追いやられることになる。

 シュンペルクの「小ウィーンの散歩道」(訳が前と違うかも)は駅前から始まる。しかし、最初に向かうべきはインフォメーションセンターである。一時間ごとに解説付きのお散歩ツアーを行っているというので、最初にそれに申し込むのだ。人数が多すぎて次の回にまわされるのは避けたい。駅前の通りをまっすぐ進んで突き当たった大通りを左に折れる。その右の角にある建物も小ウィーンの名残のホテル・グラントなのだけど、手入れが行き届いておらず、うらびれた印象を与えていた。
 インフォメーションセンターでガイド付きの散歩に申し込んだら、一緒に市庁舎の塔に登ることを勧められた。ブジェツラフでもホドニーンでも登ったし、毒を食らはば皿までではないけれども、お願いしてしまった。そして自分が「シュムナー・ムニェスタ」でドイツ民族主義的な様式で建てられたと言っていた劇場の建物にいることを知らされ、思わず驚きの声を上げたら、笑われてしまった。残念ながら劇場が夏季休暇に入って改修工事中だったために他の部分を診ることはできなかったけど。

 お散歩ツアーまで時間があったので、それに含まれていない建物を見に行った。博物館の建物の前に噴水があるのだけど、以前はそこに日本人の芸術家の龍の像が置かれていたらしい。現在では別のよくわからないものに置き換えられているが、龍の像がどこに行ったのかについては説明が書かれていなかった。
 時間になって案内所にもどると、今回は一人だけでなく全部で5人の集団だった。案内を担当するのはまだ若いアルバイトと思しきお姉ちゃん。大丈夫かなと思ったのだけど、あれこれ質問しても、答えに詰まることなく、場合によっては自分の考えを披露してくれて、単にガイド用のテキストを丸暗記しただけではないことが明らかだった。その町の出身でその町のことを愛している人に案内してもらうのはこれもまた楽しかるかなである。

 まず、平和広場の市庁舎に向かう。古くからあった市庁舎を完全に破壊して、20世紀のはじめに新たに建設されたのが、この新市庁舎だという。19世紀末から20世紀はじめは、工業化に伴う町の再開発がチェコ各地で行われたのだが、その際に古い市庁舎と別に新しい市庁舎を建てたところもあれば、古いのは壊してしまって同じ場所に新しい市庁舎を建設したところもある。オロモウツのように新しい市庁舎を建てなかったところもあるけど。
 最近全面的な改修工事が終わったばかりの市庁舎は、今でも市の役所として機能しているため、途中の階までは、邪魔にならないようにエレベーターを使った。ガラス張りのエレベーターで建物の中庭に突き出すような形で後付されていた。歴史的な建築物に対する配慮なのだろうか。階段もこれまでの二つとは違って快適に登ることができた。ただ一番上のフロアに出て、展望のために外に出ようとしたら、背中にしょっていたバッグが引っかかってしまった。

 東西南北の四面に、遠景に見える山の形と名前が書いてあるのだけど、チェコの山は一体になだらかで、形に特徴がないものが多く、区別が付けにくい。山頂にテレビの電波塔のあるモラビアの最高峰プラデットだけは確認できたから文句はない。シュンペルクからなだらかな山の稜線が幾重にも重なってイェセニークの奥に連なっているのを見ると、シュンペルクが入り口であるというのもむべなるかなである。
 塔を降りると他の見学者たちは消え、観光案内は一対一になった。一人でも希望者がいれば案内を実施してくれるというのはありがたい。多いほうの定員を超えることを心配したのが、少ないほうの定員を心配するべきだった。シュンペルクの街を歩いていると、観光客自体は多いようだったけど、ドイツ語やポーランド語と思しき言葉が聞こえてくることも多かったから、チェコ語での案内への需要はそれほど多くないのだろう。

 出発点の広場では簡潔にシュンペルクの歴史について話してくれたのだが、この町もまたジェロティーン家のものだったのである。シュンペルクの城館を居城にしていたジェロティーン家は、経済的な問題から城館を市民に売却し、居城をちょっと北に行ったところにあるベルケー・ロシニに移した。そして三十年戦争のあと、シュンペルクはジェロティーン家の手を離れ、またまたリヒテンシュテイン家のものになる。
 三十年戦争による社会の混乱と、フス派の流れをくむプロテスタントからカトリックという領主家の交代というのも、シュンペルクで魔女狩りが起こった原因になっているようだ。魔女狩りの犠牲になったのは当時から豊かな町だったシュンペルクの中でも資産家として知られた人たちが多く、宗教的な理由ではなく、経済的な理由で犠牲者として選ばれたのだとガイドさんは強調していた。また一方で、カトリックによる隠れプロテスタントのあぶり出しという側面もあったのだという。

 広場には、前面にローマ人の女性の像を装飾にした建物があるのだが、それについては、以下のような伝説があるらしい。その家の主人が若いころイタリアに旅行して、イタリアで知り合った女性を妻として連れて帰ってきた。寒い北の国で無聊をかこつ妻のために、寂しさを和らげるために家の前に設置したのが、故郷のイタリアの女性の像だったという。ただし、後の調査によって、その伝説が伝説に過ぎないことが明らかになっているそうだ。
 以下次号。
2019年7月22日22時。








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