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2019年07月23日

ホドニーン、もしくはシュムナー美術館(七月廿日)



 暑さで頭をやられて投稿する順番を間違えてしまった。いろいろ並行して書いているのがいけないのだよなあ。一日のお出かけを分割することもあるから、お出かけの日と名目上の日がずれてしまうし。それは、意図的なものではあるのだけど。
 さて、ホドニーンは、マサリク大統領の生地として名高いのだが、これまで観光目的で訪れたことはない。一度自転車でスロバキアに行って戻ってきたときに通過し、ミニピボバルの流行り始めのころに、ホドニーンのミニピボバルまで飲みに行ったことがあるぐらいである。もちろんオロモウツからわざわざ飲むためだけに行ったわけではなく、バルティツェに行った帰りに、一緒に行った奴の勧めで途中下車したのである。

 ホドニーンの駅でホームに降りて最初に目に入ってきたのは、油田の汲み上げ用の設備がカラフルに彩色されて駅裏の線路脇に設置されているさまだった。設置されてから長いのか色あせしているけれども、ホドニーンと油田には密接な関係があるのだ。あまり知られていないがチェコは産油国である。特に南モラビアのホドニーン周辺のモラビアのサハラと呼ばれる一帯で細々とながら石油の生産が続いている。
 中学時代に世界地図のチェコスロバキアのところに油田のマークを見つけて、こんなところに油田があるんだと驚いたのを覚えているが、ホドニーンに本拠を置く石油会社は、この地の産油だけでなくいろいろな投資を通じて大企業になっているようで、近代的な本社ビルが「シュムナー・ムニェスタ」で、珍しくうまくいった現代建築の例として紹介されていた。

 ホドニーンには残念ながら旧市街と呼ばれるようなものは残っていない。駅前からまっすぐ伸びている大通りの先に、教会と市庁舎のある広場があって、口の悪い言い方をすれば、それ以外に見るべきところはほとんどない。その広場までも交通量の多い道路で、建物を見上げながら歩くのには向いていない。
 通りの左側に、この町に来た目的の一つ、民族的なモチーフで装飾された美術館の建物が見えてくる。ここは帰りによることにして、そのまま先に進む。同じく左側に一回がガラス張りになった大きな建物があって、インフォメーションセンターが入っていた。両隣のギャラリーみたいになっている部分と、市民向けのインターネットコーナーと一続きになっていた。

 1904年に新しい市庁舎としてニュルブルク風セセッションで建てられたという広場の市庁舎の入り口には、塔に登れるようなことが書いてあった。チケットを買いに同じ広場の別の建物の二つ目のインフォメーションセンターに行ったら、勝手に入って登るのではなく、案内つきだった。わざわざ一人の客のために、一緒に塔に登ってあれこれ説明してくれた。塔の高さは、ブジェツラフの廃墟の塔と同じく32メートル、階段の数はこちらのほうが少し少なかったかな。最後の部分の木でできた階段がめちゃくちゃ急で一段一段の幅も狭く、特に降りるときは足を踏み外しそうで怖かった。
 塔の上で案内の人が言っていたのは、ホドニーンにあるものはほとんどすべて「昔の」という形容詞がつくということだった。昔の製糖工場は、今ではショッピングセンターになり、ただ精糖設備の高い塔だけはなぜだか残されている。かつてのホドニーン城のあったところに設立されたタバコ工場は、70年代に倒産し、建物は今では私営企業のものになってしまっている。昔の発電所は、市内にパイプラインで供給する暖房のための熱湯を生産する製湯所(意味はわかるよね)になっている。いい点を挙げるとすれば、化石燃料ではなく、バイオマスを使用していることらしい。

 塔に入る前の部分は市役所の一部として機能しているフロアを二つほど通ったのだが、二つ目のフロアにマサリクの胸像と並んで、マーラーの像も置かれていた。マーラーが生まれたのは、イフラバの近くだから、ホドニーン生まれということはありえないのだが、ホドニーンに滞在したことがあるらしい。そして、有名な「大地の歌」を最後の部分を書き上げて完成させたのだという。劇場で仕事をしていたというだけのオロモウツよりもマーラーとの縁が深そうである。
 彫刻家のロダンが滞在したというのは、マサリク大統領の関係だろうか。こんなところにも、マサリク大統領、ひいては第一共和国とフランスの間の密接な関係が反映されているというと言いすぎになるだろうか。ロダンを介してマサリク大統領と、与謝野晶子がつながってしまった。歴史を勉強しただけでは、同時代の人だということはわかっても、それが実感を伴わないのだけど、こういう意外な場所でで意外な人名に出会うと、ドキッとさせられる。晶子とロダンを結び付けてしまうのはこちらの事情というか知識なのだけど。

 マサリクの生家は残念ながら残っておらす、昔のタバコ工場の近くの小さな城館にマサリク博物館が入っているだけだというので、覗いてみたら、ちょうど案内をしているところらしく受付のドアには鍵がかかっていた。次の解説付きの見学時間まで時間がかなりあったのでマサリクはあきらめて、美術館に戻ることにした。「シュムナー・ムニェスタ」で取り上げられた建物を外から見るだけでなく、中も見られるというのはめったにないことである。マサリクよりも優先するのは当然だろう。
 別名「芸術家の家」ともいう美術館に入り切符を買うときに受付の人に美術にはあんまり興味ないんだけど、この建物にはあると、ちょっと失礼なことをいったら、建物について解説してくれた。このあたりの田舎の普通の家に見られるような装飾が施されているので、この建物の建築様式を「田舎のセセッション」、もしくは「田舎風アールヌーボー」というらしい。

 またこの建物を建設して所有していたのは、1907年に設立されたモラビアで最初のチェコ人芸術家の団体なのだが、自分たちの作品を展示する場がなかったので、作品展示会場を確保するために、作品でもあるこの美術館を建てたのだという。他の展示施設ではドイツ人の作品が優先されたとか時代的にはありそうである。建設が始まったのが1911年で完成したのが世界大戦前夜の1913年のことだった。設計はブルノの建築家ブラジェク。ホドニーンには他にもいくつかこの人の作品が残っているようだ。
 現在でも地下にあった工芸用の工房を除けば、屋根の天辺から床の木組みまで、すべて建設当時の姿を保っているという。もちろんこれまでに何度か改修工事を受けていて、来年からまた改修が始まることになっているらしい。来年だと入れなかった可能性もあるわけだから、今年にしておいてよかった。芸術家の団体にはあのアルフォンス・ムハも入っていたらしく、小品ながらムハの作品を見かけたような気もする。

 この美術館に入れただけでも、ハバニの陶器もあったし、この日、モラビアの南の端まで出かけた甲斐があったというものである。その結果、大モラバの遺跡を巡るはずが、「シュムナー・ムニェスタ」の後を巡ることになってしまった。これもまた「シュムネー・ストピ」という奴である。これをわかってくれる人が一人でもいたら嬉しいんだけど、美術館の人も「シュムナー・ムニェスタ」で見たと言ったら驚いていたからなあ……。
2019年7月20日22時50分。










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