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2019年03月13日

チェコ宗教事情、或は何故チェコのキリスト教徒の少なきか(三月十一日)



 オロモウツの知り合いから、チェコにキリスト教徒が少ない理由を尋ねられて、これについては一度書いた記憶があったので、過去の記事を検索してみたら、出てきたのはこんな中途半端な記事だけだった。追記に書いたように、チェコの宗教についてよりは、政教分離について書こうとして迷走した記事だから、ああなったのは仕方がないのだ。ということで、「宗教にある意味で裏切られ続けてきた」と書いたことの具体的な内容を、もう少し詳しく書いておこう。

 チェコ民族のキリスト教への失望の発端に宗教改革の先駆者ヤン・フスが存在するのは間違いない。1415年のコンスタンツの宗教会議で、事前の約束に反する形でフスは拘束され、カトリックから異端の認定を受けて処刑されてしまう。これに怒ったフスの支持者たちが、ボヘミアで起こした反乱がいわゆるフス派戦争と呼ばれるものである。これは単にフスが処刑されたからというだけではなく、教会による収奪に堪えられなくなったという面もあるはずである。
 フス派戦争は、しばしばそのいい面だけを取り上げて、チェコ民族のドイツ民族に対する抵抗だとか、貧民層の支配階級である教会に対する反乱だとか言われることがある。それはそれで正しいのだが、負の側面に目を向ければ、略奪のために反乱を起こしたということもいえる。略奪を避けるためにフス派に加わったという話もあるし、国内各地でフス派の反乱軍による略奪が起きたために国の経済は大きく落ち込み、回復するまでに長い時間がかかったと言われる。国内に略奪すべき場所がなくなった後は、遠征と称して周辺のカトリック諸国、諸侯領にまで略奪の足を延ばしていたというから、十字軍の派遣の対象になったのは、単に宗教的な異端性だけが理由ではないのだろう。
 軍事的には優秀な指導者を輩出したフス派は、各地でカトリックの十字軍を打ち破ったが、絶対的な数でははるかに劣っていたことと、フス派内部の権力争いによって、分裂し崩壊してしまう。その辺の事情はこの本に詳しい。



 結果としてハプスブルク家がチェコ領を獲得して、再カトリック化を進めていくわけだが、それが簡単には進まない。諸侯の中には教会と対立してフス派に鞍替えしていたものも少なくなく、外来の王家であったハプスブルク家には、当初はすべての臣民にカトリックを強要するだけの力はなかったし、王位を独占できていたわけでもないのである。しばしばカトリック側とフス派側の対立が起こっていた。

 16世紀の初めにハプスブルク家が完全にチェコの王位をわがものとした後は、チェコ領内のフス派の諸侯も生き残りに苦労していたようで現在のチェコ領の再カトリック化が進むかに見えていた。話をややこしくしたのは、北の隣国で起こったルターの宗教改革で、その結果として成立した新教プロテスタント側の諸侯の動きが、チェコ内のフス派の諸侯に刺激を与え(具体的な結びつきもあったことであろう)、ハプスブルク家の宗教政策に対する反発が高まっていく。
 それが爆発したのが、1620年にプラハ郊外で起こったビーラー・ホラの戦いである。この戦い自体はハプスブルク家の勝利に終わるが、チェコ全土はプロテスタントとカトリックの軍隊の戦いの舞台となってしまう。フス派戦争による壊滅的な打撃から回復途上にあったチェコは、再び壊滅的な被害を受けてしまうのである。特にこのときモラビアを蹂躙したスウェーデン軍は、カトリック側のものであれフス派側のものであれ、数多くの貴重な財産を略奪して持ち帰ったため、チェコにあったはずの文化財の多くがスウェーデンの博物館に収められているのである。フス派が印刷した聖書とかさ。
 とまれ、三十年戦争の結果、チェコはハプスブルク家の領土としてカトリック側に取り入れられ、全土で強制的なカトリック化が行われた。その結果フス派の流れをくむボヘミア兄弟団なんかは弾圧され亡命を余儀なくされてしまう。もしくは解体を余儀なくされ、国外で再結成することになる。地下に潜った隠れキリシタンならぬ、隠れフス派なんてのもいたのかもしれないけどよくわからない。この時点で、チェコからは公式にはフス派のキリスト教はいったん姿を消すのである。

 次にキリスト教が政治的な問題になるのは、1918年のチェコスロバキア第一共和国建国の際である。マサリク大統領はバチカンとの関係を重視して、慎重に外交関係を築き上げたようだが、同時にフス派の流れをくむ(ように思われる)チェコスロバキアのキリスト教会を設立させ、自らそこに所属した。これが、現在のエバンゲリステーとよばれる宗派なのか、フシツカーと呼ばれる宗派なのかは判然としない。とにかくこのときに、ハプスブルク家に強要されたカトリックを離れて、新しい宗派に移った人が多かったという。

 第二次世界大戦後は、共産党が政権を握り、キリスト教は宗派はどうあれ公式には禁止されることになる。実際には細々と活動を続けることが許されており、活動を続ける見返りに、秘密警察の情報提供者になって、信者を売っていたキリスト教関係者も多いのである。今ではなかったことにされているけど、これもまたキリスト教に対する信頼が失われた原因の一つである。もちろん、信者を守るために信を曲げなかった人もいなかったわけでないらしいけれども、熱狂的なカトリックの国であるポーランドあたりと比べると、その数ははるかに少なかったと言われる。
 そして、神を失った左翼のための宗教であった共産主義が、チェコでは1968年の「プラハの春」事件で、完全に馬脚を現し、これもまた信じられるものではないことを示してしまった。その結果、チェコ人に残ったのは、見事なまでのアメリカ的な資本主義へのあこがれだけで、それは1993年のビロード革命直後にチェコを覆った拝金主義として結実する。

 以上を簡単にまとめてしまえば、他の旧共産圏では、共産党体制が倒れた後、共産主義からもとのキリスト教に再改宗した人が多かったのに対して、宗教が原因で国が荒れた経験を他の国以上に繰り返してきた上に、改宗させられた回数も多かったチェコでは、今更キリスト教に戻ろうという気持ちになれなかった人が多かったというのが、キリスト教徒が少ない理由であろう。民族の記憶の中に宗教の危険性が刻み込まれているのである、というと大げさすぎるかな。親の世代にキリスト教徒が少なければ、子供たちが宗教に走る理由も少なくなり、信者の割合はビロード革命後も減り続けることになる。
 宗教に蹂躙される機会の少なかったスロバキアは、チェコよりもキリスト教徒がずっと多いという事実も、この推測を裏付けているといえる。また、ドイツなどで猛威を振るっている緑の党が、チェコではほとんど支持が広げられていないのは、その主張に宗教的なファナティズムが感じ取れるからだろう。現在のチェコは日本と似たところがあって、宗教臭の強すぎるものは嫌われる傾向があるのである。
2019年3月12日15時45分。






プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)














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