金剛心とは、ダイヤモンドのような心。
ダイヤモンドというのは、もっとも固い石。
固いということは、変わらない。
金剛心とは、変わらない心。
「いかなる人来りて云い妨ぐともすこしも変わらざる心を金剛心という」
(隆寛律師)
どんな人が非難攻撃しても、変わらない心になれます。
心は他人の言葉ぐらいでぐらぐらしますが、
それが金剛心になれる。
分かりやすく、善導大師は、四重の破人と教えられています。
知者や学者が総攻撃しても、聖者が総攻撃しても、
菩薩が総攻撃しても、仏が攻撃しても。
愚禿鈔に出ています。
知者や学者とは、ノーベル賞をとったような、物知り、知識人です。
あなたの考え方は浅い、このように言われると吹っ飛んでしまいますが、
それもビリッともしない。
どうしてそういうことが言えるのかというと、
信心徹到したというのは、
悟りには52段ありますが、いろいろあります。
仏は52段目です。
この地球上では、お釈迦様以外にはいまだかつてありません。
頭がいいと言っても、一段も悟っていません。
しかし、信心徹到したというのは、五十一段高飛びします。
頭がいいといっても、一番下の人、その人から言われても、ビリッともしない。
親鸞聖人も、知者や学者から攻撃されました。
信心徹到していなくても、少々の非難攻撃ではぐらつかなくなっていきます。
この道に間違いないと知らされていく道です。
金剛の信心とまではいかなくても、簡単に動揺するようでは、
とても臨終の関所は越えられません。
聖者や菩薩から攻撃されても、大変高い悟りをさとっていても、ビリッともしません。
仏から攻撃されても、本師本仏とのお約束、
あなた方とのお約束ではありませんと、ビリッともしません。
人の言葉でぐらつくような信心では、とても臨終越えられません。
それで崩れるような信心では、真実の信心ではないのです。
それなら崩れたほうがよいのかもしれません。
続かない信心、本当の幸せにはなれませんよ。
苦しいことがやってくると崩壊する信心、それでは幸せになれないのです。
真実の信心は、どんな非難をされても、破りようがありません。
かたちのないものは、壊すことができません。
金剛の信心。
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