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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2024年11月11日

迷信や占いを信じるよりも、論理的な思考とスキルを身につける方がいい

孫子の兵法と言われる『孫子』は、約2500年前に
中国で書かれた兵法書。

二千年以上前の書物にも関わらず、
「孫子の前に兵書なく、孫子の後に兵書なし」
と最高に評価されています。

西洋の兵書で『孫子』に匹敵するのは、
クラウゼヴィッツの『戦争論』のみと言われますが、
評価は世界的にも『孫子』の方が高いんですよね。

ナポレオンや、ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世、
中国の毛沢東や武田信玄など、数多くの有名人にも影響を与え、
1990年代の湾岸戦争でも、アメリカ、イラク、両国ともに、
孫子の兵法を基本に戦ったそう。

『孫子』の英語版は『The Art of War』(戦いの技術)。

ビジネスマンは必ず、この『孫子』を読まなければならない
とまで言われるので、昔の書物ではあるけれど、
それだけ現代にも通用することが記されているということですね。

『孫子』の中で最も知られている言葉は、
「彼(敵)を知り、己を知れば、百戦殆(あやう)からず」という言葉。

また『孫子』は、迷信を排斥したことでも知られています。

それがこちら。
「祥(しょう)を禁じ、疑いを去らば、死に至るまでゆく所なし」

「祥」というのは、占いのこと。
「疑いを去らば」とは、迷いの心をなくすということ。
「死に至るまでゆく所なし」というのは、
死ぬまで迷うことなく戦うことができる、ということです。

孫子の兵法をもとに戦った、武田信玄は強かった。
武田信玄が旗印とした「風林火山」も、出典は『孫子の兵法』

風林火山

疾(と)きことの如く
徐(しず)かなることの如く
侵掠(しんりゃく)することの如く
動かざることの如し

あの家康をして
「私も海道一の弓取りなら、ああいう戦いを指揮してみたい」
と言わしめたほど。

もう少し長生きすれば、天下は信玄のものであったというのが、
歴史家の共通した見解。
その強さの秘訣が、この孫子の兵法にあると言われているんですね。

『孫子の兵法』にあるとおり、信玄は一切の占いを禁じました。
六曜のような日の善悪みたいなものも。

今日は日が悪いから戦はやめようとか、日がいいから戦おうとか
方角がいいとか悪いとかいう考えは、愚中の愚として禁止しています。

その他で有名な言葉は、
「呉越同舟」
元々の意味は、呉の人と越の人は仲が悪いけれど、
同じ舟に乗り、嵐にあえば、互いに協力しあうということ。

協力しあう環境をつくることが大切だと書かれています。

他にも、ためになる言葉が色々。

「算多きは勝ち、算少なきは勝たず。況んや算無きにおいてをや」
勝利の条件が多ければ勝ち、少なければ負ける。
まして、勝算がなければ言うに及ばない。

「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」
戦わないで敵を降服させるのが最善。

「上下の欲を同じくする者は勝つ」
上の人と下の人が、目的を同じくしているなら勝つ。

「勝ち易きに勝つ者なり」
勝ちやすいところで勝った者。

「善く戦う者は、之を勢に求めて、人に責(もと)めず」
戦いが上手な人は、勢いによって勝利を目指し、
個々の兵士の能力には頼らない。

「兵の形は水に象(かたど)る」
軍隊の形は水に似ている。

「始めは処女の如く、後には脱兎の如くにして」
最初は素直に従い、後には逃げ出すウサギのように素早く攻撃。

これらはどれも、策で勝つというものばかり。
何かに頼ったり、他の何かのせいにしたり、
ということはないんですね。
タグ:迷信 占い 六曜
posted by 陽葵 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2024年11月04日

すべての仏が認めた、智慧の力が最強の仏

大宇宙に在します、すべての
共通して褒め称える仏があります。

それは、仏方の本師本仏といわれる阿弥陀如来という仏です。

浄土真宗親鸞聖人は、大宇宙のすべての仏が
阿弥陀仏を本師本仏と褒める理由を
『ご和讃』に分かりやすく教えられています。

無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり(浄土和讃)

「無明の闇を破するゆえ」というのは、
心の闇を破る力があるから、ということで、
その心の闇を破る力は「智慧」というお力なので、
それで智慧光仏と名付けるのだと言われています。

智慧イコール光明。
これは仏教の決まりみたいなものです。

阿弥陀仏は智慧の光の仏だと。

「一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉したまえり」
心の闇を破る力があるのは阿弥陀仏だけだから
一切の仏方が褒め称えられるのだと言われています。

阿弥陀仏の建てられた本願を褒め称えない仏はありません。
大宇宙のすべての尊い方々が褒められる。

「一切諸仏三乗衆」とは、声聞衆、縁覚衆、菩薩衆のことをいいます。
一切の諸仏方、またその下の声聞、縁覚、菩薩。
そういう方々も阿弥陀仏のことを褒め称えられている。

それはなぜかというと、自分たちにはない力を
阿弥陀仏はお持ちだからです。
弥陀の本願を褒め称えない諸仏、菩薩はありません。

ちなみに声聞、縁覚、菩薩とは何かというと、
仏教で十界という言葉があります。

六道というのは、
地獄界餓鬼界畜生界修羅界、人間界、天上界のこと。

これにあと、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界。
これを十界といいます。

六道は死んだ後だけではなく、
この世の人間の心の状態を言われることがある。
この世も常に心は六道輪廻しているんですね。

また声聞、縁覚、菩薩も人間の心と言えます。
文字通り言うなら、声を聞いて悟る人、縁で悟る人。

ですが今日の末法では、声聞も縁覚も菩薩も
ずっと高い悟りの人たちだから縁がない。
一切諸仏三乗衆とは、
実際に仏の声を聞いて悟る人、
縁にふれて悟る人、
末法の現代人の誰よりも、ずっと高い悟りの人です。

しかし十界は、私たちの心ということで言われます。
どういう状態かというと、
まず地獄界は、泣くに泣からぬ逆境に立ち、
人を呪い、恨んでいるのが地獄の心。

こういう状態では、なかなか仏法は聞けません。

次に餓鬼界。
我はなりとあるように、あっても欲しい、なければないでまだ欲しい、
食欲、色欲、あってもなくても欲しい。

財があっても財がなくても餓鬼です。
食欲、色欲、名誉欲、常に満たされないのが餓鬼の心。

次が畜生の心。
恐怖心が強く、戦々恐々としているのが畜生の心。

犬とか猫でも休めない。
ぴくっと耳を動かしたりする。
動物は本能のままに生きている。

次に修羅の心。
己の意志に背く者を心の中でたたき合い、殺し合っている心。

そして人間界。
これは、他人に迷惑をかけず、因果の道理を信じて
正しく生きようとするのが人間界の心。

因果の道理を信じて、正しく生きようとする。
これが人間の心。
努力しましょう。
相手の立場に立った生活を心がけましょう。

我利我利亡者ではダメですよ。

最後に天上界。
これは、物質や健康に恵まれて、花見遊山、
一時我を忘れているのが天上の心。

花を見たり、山で遊んだり楽しい。
一時の間、我を忘れています。

楽しいときは我を忘れています。
心の闇を持っていてもそれを忘れて、楽しんでいる状態。

声聞界というのは、苦集滅道の四聖諦の道理を弁え
向上の道を進んでいく。
苦集滅道の四聖諦の道理を弁えなさい。

向上の道に進んでいくのが声聞の心。
どういうことかというと、声聞とは声を聞いてとあるように
声を聞いて悟ろうとする。
私たちなら仏の教えを聞く。

苦集滅道とは四聖諦のこと。
四つの聖なる真理。
この苦しみ悩みの原因と結果。

まず苦諦とは、人生は苦なり、という真理。
どうして苦しみが起きてくるのか、苦悩の原因は何なのか
というのは集諦。

ではどうしたら幸せになれるのか。
滅諦とは幸せな世界。
道諦は解決の道。
これが四聖諦です。

苦集滅道の四聖諦の道理を弁えなければならない。
向上の道を進むのが声聞の心。
だから常に仏法を聞かせていただいて
向上の道を進まなければなりません。

縁覚の心とは、世の中の無常を悟り魂の解決を急ぐことです。
この縁覚の心、私たちも持たなければなりませんね。

縁覚とは縁にふれて悟る人。
あなたに無常を教えてくれる人はたくさんあります。

だから失恋も、そういう意味ではいいご縁です。
ふられるというのは、世の中の無常を教えてくれている説法だと受け取れば。

世の中の無常を悟って、ますますこの道しかないと進むんですね。

菩薩の心というのは、身を捨てて利他の行をせずにおれない心。
これも私たち持たなければならない心です。
自利利他の道が菩薩道です。
自分の身を捨ててでも、我利我利であってはならない。
利他に徹するままが自利になります。

他に尽くす行。
身を捨てて、利他の行を行わずにおれないのが菩薩の行。
菩薩の心と仏の心は、共に身を捨てて、利他の行をせずにおれない。
我利我利亡者は地獄行きとなります。

私たちの心は常に揺れ動いていますが、天台宗でいわれる
「十界互具」と言えないこともない。

ですから、あなたも約束を破ったり、他人に迷惑をかけない。
こういう心があって進めるということです。

この阿弥陀仏の本願によってのみ、心の闇を破っていただけます。
そういうお力は、阿弥陀仏にしかありません。

だから、菩薩や声聞や縁覚といった
私たちよりもずっと優れた方々も
共に嘆誉して、弥陀の本願一つを教えてくださっている
と言われているご和讃です。
posted by 陽葵 at 14:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2024年10月12日

さとり、仏、真理は誤解されやすい

仏教というのは、仏の説かれた教えということ。

では、仏とは何か。

世間では、仏といえば、亡くなった人だと思われています。
誰かが亡くなると、「成仏した」といわれるように
死んだら仏になると思っている人が多くあります。

でも、これはとんでもない誤解。
仏が死んだ人のことであれば、仏教は死人の教えということになるので
かなり怖いですよね。

というのは、正しくは「さとり」のことです。
「人生悟った」と言っている人もありますが、
さとりというのは、そういうものではありません。

「さとり」とは智慧のこと。
一口にさとりといっても、全部で52あります。

大相撲でも、ピンからキリまです。
序の口から始まって、一番上は横綱。

そのように、さとりにも52の位があります。
その一番上が、仏覚。
妙なる覚りということで「妙覚」とも、
これ以上ないので「無上覚」ともいわれます。

天台宗を開いた天台の智という人は、臨終に弟子に
「私は五品弟子位までさとった」と言ったといいます。

龍樹菩薩という人は、41位までさとったといわれています。

仏といったら、耳がのびたり、頭が大きくなったり
という仏の三十二相というのがありますが、
このさとりさえ開けば、誰でも仏なんです。

これは智慧であって、知識ではない。
ちょうど山に登るようなもので、高く登れば、
それだけ遠くが見えるようなもの。

でも、どんなに高く登っても、反対側は見れない。
頂上に立って初めて、すべてが見えるわけです。

お釈迦様は
「一切の智者なり」
と言われましたが、大宇宙の真理を知るわけです。

真理といっても、ここでは
「私たちが本当の幸せになる真理」のことです。
これを「真如」ともいいます。

どうすれば、すべての人の苦しみを抜き取ることができるのか。
どうすれば、すべての人の望む幸せを与えることができるのか。

抜苦与楽の真理の内容を、山に登って頂上に立って
お釈迦様が発見された「真如」を、私たちに教えられたものが仏教なんです。

本来「真如」は絶対のものですから、言葉で表すことはできません。
仏典の言葉では、「離言真如」といいます。
言葉を離れた境地ということです。

言葉自体が相対なもので、人間の智慧も相対的なものでしかありません。

このことについて、有名なエピソードがあります。

お釈迦様のお弟子たちが、在家の信者・維摩居士から
「真如とはどういうものか」と聞かれた。
誰が答えても、維摩は納得できない。

そして、文殊菩薩という智慧のすぐれた菩薩が
「真如とは言葉にのらない世界です」と答えた。

その後、文殊菩薩が、逆にその維摩に尋ねた。
すると維摩は何も答えない。
言葉で表せない世界だから。

そのエピソードから
「維摩の一黙百雷の如し」といわれる。

これが『維摩経』というお経に説かれています。

阿弥陀仏の本願というのは、「真如」です。
なので、言葉にはのらない。

それだと、私たちは知ることできません。
お釈迦様も最初は、言っても分からない、
謗らせるだけだということで、あきらめようとされたほど。

それでも、百里の道も一歩からということで、説き始められたのです。
それが一切経になったんですね。
言葉によって真如を表す「依言真如」ということです。

一切経は七千余巻と沢山ありますが、お釈迦様が説かれたかったことは
阿弥陀仏の本願、これ一つです。
そして、私たちに分かりやすいようにして教えられました。

アインシュタインが相対性理論を発見した。
それを幼稚園児に教えたい。
見つけたものは素晴らしいけれど、そのまま言っても分からない。

たとえていうと、子供と将棋をしたい親がいる。
ところが、幼稚園児と将棋をさそうとしても、とてもできない。
いつまでたっても、桂馬の動かし方が覚えられない。
「それじゃ将棋にならんだろ!!」と子供の手を叩いてたら、
子供はグレてしまう。
そしたら、そのまま成長しても、将棋なんてさしてくれない。

だから、最初は将棋の駒を崩すので遊ぶ。
そうやって将棋をさせるように導く。

これを「対機説法」とか「応病与薬」といいます。

頭が痛いのに、病院に行ったら
いきなり足をもまれたとなったら、どうでしょうか。

「やめてください」となるし、不審がられてしまう。
なので、最初は頭をもんであげる。
そしてそのうちに、
「あなたの頭痛は、本当は足に原因があるんです」と言えば、
足をもまれることにも納得する。

夫婦喧嘩で苦しんでいる人に、
「苦悩の根元は心の闇です!!」と教えても、納得できない。

そういう人にあわせて話されたお経があります。
「夫婦のすすめ」みたいなものが。

これは大変な忍耐です。
機に応じて教えを説かれたんですね。

そうやって、すべての人を真如へ導こうとされたのが仏教なんです。
posted by 陽葵 at 18:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2024年09月27日

人間に生まれたことに感謝

地獄へ堕ちる者は多く、人間に生まれる者は極めて少ない
ということを教えられたお経があります。
『涅槃経』というお経です。

「地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
 人間に生れる者は爪の上の土の如し」(涅槃経)

『涅槃経』は、お釈迦様の最後の説法。
特にお亡くなりになる直前のご説法は『遺教経』に説かれていますが、
それも含めて『涅槃経』には説かれています。

人間は地獄に堕ちる者。
ほとんどの人が死後、地獄に堕ちることに。
この地獄というのは、実は自分の業によって堕ちるんですね。

地獄へ堕ちるというのは、「落ちる」ではなく「堕ちる」。
落下ではないからです。

地獄に堕ちる者は、大宇宙の土の数ほど多くの者たちである。
それに対して、あなたのように人間界に生を受けた人、
お釈迦様は爪の上に土を乗せられて、
爪の上の土ほど少ないのが人間界の人なのだと言われています。

いかに人間界に生まれることが有難いことなのか分かります。
多くの人は、三悪道(地獄、餓鬼、畜生の三つの苦しみの世界)に堕ちて
苦しんでいる。
こういうことからも、人間に生まれたことを喜ばなければならないんですね。

人間に生まれたことを喜ぶべきだと教えられた
源信僧都という高僧のお言葉。

「まず三悪道を離れて人間に生るること大きなるよろこびなり。
 身は賤しくとも畜生に劣らんや、家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
 心におもうことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず」(横川法語)

これは、横川というところで、源信僧都が書き表した有名な本です。

まず、私たちは三悪道を離れることができた。
ほとんどの人が、地獄、餓鬼、畜生の世界で苦しんでいる中、
私たちは人間界に生まれることができたんですね。

これは、まだ信心決定していなくても、
飛び上がって喜ばなければならないことです。

最初に畜生と比べられています。
いくら自分が人間界で身は卑しいといっても、
どんなにお粗末な人間だったとしても
畜生と比べたら、ずっと幸せではないか。

そして、次は餓鬼界との比較。
家が貧しく、衣食住で生活はやっとという人でも
餓鬼界と比べたら、ずっと幸せではないか。

餓鬼界の苦しみは、食べたくても食べられない。
自分さえよければ、人はどうなってもいい
という心が餓鬼を生み出すといわれます。

食べたくても食べられず、飲みたくても飲めない。
それと比べれば、食べることができる、飲むこともできる。
餓鬼界の苦しみと比べたら、ずっと幸せなのだぞ
と言われています。

そして最後は地獄界。
思い通りにならないことはたくさんあるけれど、
地獄の苦しみと比べたら、比較にならないのだよ。
人間界に生を受けて生活をしていると
思い通りにならずに、苦しい苦しいと言っているが、
地獄の苦しみと比べたら比較にならない。

この世の苦しみをひとすくいの水としたなら、
死んだ後、後生の苦しみは大きな海のようなもの。
また、人生を1oとしたら、後生は地球10.6周になります。

こういう桁違いの苦しみが後生に待ち構えているのです。
これを一大事といわずに、何を一大事というのか。

その一大事解決の絶好のチャンスが来ているのだから、
たとえ未だ信心決定できていなくても
真実を知らされた喜び、求める喜びがあっていいんですよ。

感謝の心で聴聞するのと、イヤイヤ聞くのとでは大違い。
なので、あなたも感謝の心で聞かれると
受け取るものも大きくなります。

信前でも大きな喜びとともに求道の勝縁にする。
覚えているだけでも、非常にプラスになります。
これを口ずさむことで仏縁になるんですね。
思い出すことで、全部善業力が阿頼耶識におさまります。
求道の糧になるということです。

「人間に生まれたことを喜ぶべき」
これが源信僧都のお言葉。

人間に生まれたことを喜びなさい、喜びいっぱい求めなさい。
たとえ、未だ信心決定できなくても。

三定死のときは苦しいけれど、それまでは喜びいっぱいで求めていける。
求道の障害は色々あっても、教えの徹底によって
マイナス思考ではなくプラス思考になっていくから。

常に前向き、常に善果のときは感謝、努力。
悪果のときは懺悔。
できない理由もたくさんあるけれど、できる理由も無限にある。

仏教が唯一救われる教えですが、このすばらしい仏教にあえない人もあります。
今あなたは、この八つの難を乗り越えることができた、
けれど、いつまた八難に陥るか分からない。

@在地獄の難
A在餓鬼の難
B在畜生の難
C在長寿天の難
D在辺地の難
E聾盲瘖瘂の難
F世智弁聡の難
G仏前仏後の難

@ABEは、苦にせめられて聞けない。
CDは、楽におぼれて聞けない。

この信心決定というのは、五趣八難の道を超えさせていただけるんですね。
『教行信証』でこの根拠をあげると、
五趣八難の道を超えさせていただける、とありますね。

仏法力不思議で、五趣八難の道を超えるのが仏法。
そして、現生に十種の利益を得る。

金剛心を体得する者は、横に。
横にとは、大願業力、阿弥陀仏の大願業力によって
五趣八難の道を超えさせていただけるのだとおっしゃっていますね。
これは信心決定の体験です。

五趣とは六道のこと。
修羅界を人間界に含めて言われることがあるんですね。
その迷いの世界を超える。
そして八難。
八難を超えさせていただける。
これが信心決定。

人間界以外に生まれていたら、仏法は聞けない。
人間界に生まれて、八難を超えさせていただける喜びを
具体的に見ていきます。

まず最初は在地獄の難。
これは、今現在地獄に堕ちている人。
そういう人は仏法を聞けません。

もちろんこれは死後のことでもありますが、現在の人でもあります。
今生活が苦しいとか、病気などで体が非常につらいとか。
今地獄の人も、仏法はなかなか聞けない。
苦しみに迫られて聞けないんですね。

そして、在餓鬼の難。
餓鬼界の人も仏法を聞けません。
生活で汲々としている人は仏法を聞けない。

また、在畜生の難。
欲ばかり追い求め、快楽のままに生きている人。
そういう生活をしていたら、仏法はなかなか聞けません。

これは、死んでからだけのことではなくて、
生きている人でも、そういう人が多いですね。

次に、在長寿天の難と在辺地の難。
これは天上界のことです。
天上界は楽しみが多すぎて聞けないんですね。
今だったら、芸能界に入った人は、おそらく仏法が聞けないと思います。
今スポットライトを浴びている人は、なかなか聞けない。
また、彼氏彼女ができて、ルンルン気分の人は聞けない。

だから仏法を聞くには
あまりに苦しくても、あまりに楽しくても聞けないんですね。
今聞いているのは、そんなに苦しいことも楽しいこともないということ。
それがいい。

次に、聾盲瘖瘂の難。
聾とは耳が聞こえない方、盲とは眼が見えない方。
瘖瘂とは、音が病、口が病ですから、いわゆる口が聞けない人。
こういうことがあると、とても大変ですよね。
だから、苦しみにせめられて聞けない。
もし、そういうことがなかったとしたら、
今五体満足で生まれたことを心から感謝したいですね。

そして、世智弁聡の難。
世智とは世間の智慧のこと。
世間ごとには非常に長けています。
弁えて、聡明。
頭がいいと。
世間ごとはよく知っていて、屁理屈ばかり言う。
そうすると、なかなか素直に仏法が聞けない。
頭はいいけれど、屁理屈ばかり言うという人、結構あるんですね。

以前、学生さんで、こういう人がありました。
生死一如、これは裏と表の関係だ。
どんな紙にも裏と表がある。

それを聞いて、メビウスの輪みたいなもの。
こういう紙は表、裏が分かりませんよと。

生と死に密接な関係があるということを言いたいためのたとえ話。
なのに、メビウスの輪を持ち出した。
こんな感じで、なかなか聞けない人もあります。

そして最後は、仏前仏後の難。
これは、仏様の前に生まれた人、
そして、仏様がお亡くなりになった後に生まれた人のこと。
こういう人は仏法が聞けない。

私たちでいえば、善知識。
善知識の生まれられる前に生まれたら仏法は聞けませんし、
亡くなられた後は仏法を聞くのは難しいです。
だから一座一座を大事に聴聞する。

善知識はこれを「微善なるが故に聞けない」とおっしゃいます。
あなたはその点、宿善があったのですから、
それに感謝して仏教を聞く。

今あなたは人間界に生まれた絶好のチャンス。
そして、これらを乗り越えて仏法を聞けますから。

でも、信前は油断できません。
いつ八難に襲われるか分からない。
誘惑もたくさんあります。

また眼が見えない、話が聞こえない、
こういうことが襲ってくることもある。

疑問を残したまま、疑問を抱えたままだと、
真剣に求められないことがある。

でも、どうでもいいことばかり気になってしまう
という人もあります。

今は善知識がおられる、
だから今しかチャンスがないのです。
善知識に巡り会えたチャンスをものにすることが大事。
posted by 陽葵 at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2024年09月16日

人生が好転するキッカケは自分探し

何事においても目的は大事。
人生においても、一番大切なのは目的。

そして、この人生の目的が何かを知るには、
まず前提として、自分を知らなければならないんです。

最近話題の本、『人生の目的』。
これは誰もが一番関心のあることですよね。

人生の目的というのは、
人は何のために生まれてきたのか
何のために生きるのか
ということなので、これを知るにはまず
人間とは、自分とは何かを知らなければなりません。

自分が分からないままで、自分が生きる目的が分かるはずがないんですね。

昔から「汝自身を知れ」といわれます。
これは、知らない人はないと言ってもいいほど有名な言葉で、
ギリシアにあるデルファイの神殿の第一の扉に刻まれている不朽の名言。

これを言ったのは、古代ギリシアの哲学者・ソクラテスといわれています。
哲学の父といわれ、世界の偉人・聖人といわれている人です。

そして、東大の和辻哲郎が選んだ四大聖人の一人。
トップがブッダ、次いでキリスト、孔子、そしてソクラテス。
あなた自身はどういうものなのか、あなた自身がよく知らなければならない。

「自分自身はどういうものか」
これは、昔から色んな人が考え主張していること。

フランスの哲学者・パスカルの『パンセ』には
「人間は考える葦である」
という有名な文章があります。

その後に「思考の順序は、自己とその目的である」と続く。

世界的にベストセラーとなった哲学書『ソフィーの世界』は
「私は誰?」と、一通の手紙を通して、自己の探求から始まっています。

私たちが仕事を選ぶ時も、
自分はどんなことをやっている時に一番楽しいか、生き甲斐を感じるか、
ということで、自分のことを振り返ると思います。

体調が悪くて病院へ行くと、
医師がいきなり手術を始めたり、薬を処方したり、ということはなくて
診察をして、まずどこが悪いのかを調べます。

なので、私たちが本当の人生の目的を知り、本当の幸せになる時には、
まず自分とは何か、私とは一体どんな姿をしているのか、
これを知らなければならない、ということです。

病気にかかっている場合、
その病気を正しく見て、適切に治療しないと健康にはなれません。

お腹が痛いと言っても、食あたりか盲腸か、原因は何か。
ある時はお腹を温めなければならないし、
ある時は冷やさなければならない。

医療の世界で今日、最も恐ろしいといわれているのは誤診です。
以前東京で、こういう誤った診断が問題になったことがありました。

夏祭りに来ていた小さい男の子が、綿菓子をなめている時に転んでしまった。
帰宅した後、その子は頭が痛いと言い出した。
病院に行ったけれども、大丈夫と言われたので帰宅。
そして、次の日に亡くなった。

遺体を解剖してみて分かったのが、綿菓子の割りばしがのどを貫通して、
脳まで届いていたそうです。
このことは大変な社会問題になりました。

これは医療の話ですが、
医療ではなくても、日常的に自分自身を見誤ることは結構あります。

例えば、就職。
大学を卒業して就職した後、転職をする人が
昔と比べると増えたといわれます。

バイトを転々として定職に就かないフリーターとか。
そうなってくると、社会的には信用できない人と見なされる。

反対に、どんな仕事でも、10年20年続ける人は信用できる人。

転職の理由には色々ありますが、その1つに適性があります。
大きく分けるとポイントは2つ。

1.意欲・やる気が本当にあるかどうか
  誰かに言われたからだと続けるのは厳しい。

2.気持ちがあっても向いているかどうか
  全然向いていないのに、ただ好きだからだと続かない。

こういうことを自分で見誤っていると
長続きしないということになるんですね。

なので、若いうちに、自分を正しく見る力、コントロールする力を
身につけることが大事。
これがなくて社会に適応できない人が増えているそう。

結婚も同じようなところがあります。

若い人が持つ結婚観。
相手に対する理想高すぎ問題。

男性に聞いてみると、
性格がよくて、優しくて、顔は松嶋菜々子で……
果たして自分が、それに相応しいかどうかは考えない。

依存する人は自分に対する反省が弱いので、事が進まない。
これは自信過剰。
期待が裏切られるとクラッシュ。

反対に自虐的な人。
自分なんて必要とされてないんだ……
すぐに自信を喪失する。
自分をダメにする。
自分には1つもいい面はないと思い詰める。
精神的な浮き沈みが激しい。
これも自分が分かっていない。

結婚前に相手を徹底的に調査する人がある。
でも、自分のことは調査しない。
自分のことは分かっていると思っている。
それでなかなか上手くいかないんですね。

日常生活で、どの場面でも、
自分自身を知ることがいかに大事なことかが分かります。

ところが、自分自身が全く知られていない。

この自分自身を知るということで有名なのが、
エジプトのスフィンクスの話。

上半身は人間で、下半身はライオン。
ピラミッドのそばにいる守護神。

スフィンクスは行き交う旅人に、なぞなぞを出す。

「生まれた時は4本足で、大きくなったら2本足、
 年をとったら3本足になる生き物は?」

これに答えられない旅人を食べてしまったといわれます。

このなぞなぞの答えは人間。
ここには、自分のことが分からないなんて、我が身知らずも甚だしい
という教訓が込められています。

「人間よ、あなた自身のことを知りなさい」と指南している説話。
そして、答えられない旅人を食べてしまう、というところがミソ。
自分のことも知らずに生きていて、生きる価値はないぞというわけなんですね。

中国の孔子も四大聖人の一人。
有名な著書に『論語』がありますが、
これに勝るとも劣らない内容といわれているものに、『孔子家語』があります。

その中のやりとりの1つ。
弟子:「先生、世の中には大変な慌て者がいるものですね。
私の友人に、家財道具をみんな、一つの漏れもないように、新しい家に運んだのですが、
気がつくと奥さんを忘れていた。
奥さんは明かりの消えた家で泣いていたそうです。
大切な家財道具を持っていっても奥さんを忘れるとは慌て者ですね」

孔子:「いやいや、妻を忘れるくらいはいい。
世の中には自分の姿を忘れていて、あら忙しいと飛び回っているものばかりでないか」

忙しいという字は、りっしんべんに亡くすと書く。
自分とはどういうものかを忘れて、突っ走っているのが現代人の姿ではないか。
学生は勉強で忙しい、バイトで忙しい。
主婦なら家事、会社に行けば仕事。

では、忙しがっている自分はいかなるものか、考える時間がない。
そのくせ、妻がこう、子どもがこうと言っている。
それなら、あなた自身はいかなる者か。
それを忘れている。
こういう教訓を2000年の昔に、孔子は語りかけています。

インドで誕生した、世界最高の偉人はブッダ。
ご在世中にも有名な説話。

あるお金持ちの貴公子が30人くらいご婦人同伴で宴会をしていた。
飲むほどに、勢いで歌い始める。
インドは暖かいところだから、そこら辺で寝てしまう。

いい気持ちになったところで貴公子達は居眠りをしてしまい、
一人が目を覚ましてみると、金目のものがなくなっている。
「おかしいぞ、一人怪しい女がいた。
 きっとあの女が、俺たちの財布を持っていったに違いない」
貴公子達は森中を捜索した。

森の中で、ブッダが半眼の眼で、座禅しておられた。
「こちらに変な女が逃げてきませんでしたか?」

「それは大変だな、だが一女を求めることと、汝自身を知ることと、
 どちらが大切かな?」
と大喝され、貴公子達は夢から覚めた心地がした。

男たちは仕返しに燃えたぎっていた。
そもそも、そんなお金持ってこなければよかった。
でも、自分たちに落ち度はなかったか、とは考えない。

インドの世界最高の偉人、ブッダが、貴公子達に
いかに自分の姿を知ることが大切か言われている話です。

仏教の言葉に
「仏道を習うというは自己を習うなり」
というのがあります。

仏教といっても、自己のすがたを学ぶものなんですね。

自分のすがたを正しく知らないと、
病気も治らない、結婚もできない、ひいては人生をダメにしてしまう。

自己を知ること、自分探しは大事なことだということです。
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2024年05月01日

自己の無常を見つめると、人生の方向性が見えてくる

人生の目的を知るためには重要な心がけがあります。

そもそも目的は大切なもの。

アメリカの歴代大統領の中でも人気が高い、リンカーン大統領は
「Where there is a will, there is a way」と言っていて、
これは、意志あるところに道は開かれる、という意味です。

強い意思、信念、私はこのために生きているんだという意思があれば、
どんな困難なことにぶち当たっても道は開ける、ということです。

また、ゲーテという人は、
「人類史上始まって以来の天才」と自分で言うほどの人ですが、
実際、歴史に名を残す人物。
そのゲーテが
「目的さえあれば、どんな困難なことでも乗り越えることができる」
と言っています。

では、人生の目的は何でしょうか。

その人生の目的を知るに当たって大切な言葉
「無常を観ずるは菩提心の一なり」

常がない、無常、ということ、中でも死を見つめることが、
損得抜きの、純粋な本当の幸せを見つけたいという菩提心の出発点なのだ
と言われています。

ヨーロッパでも「メメント・モリ」と言われますが、
仏教では「生死一如」という言葉があります。

生と死は一つの如し。
紙の表と裏のようなもの。
コインの裏と表のような、密接不離な関係にあります。

「生」については考えたい。
生き生きとしている、というと良いイメージ。
「死」については考えたくない。
死に死にの状態というのは、嫌なイメージですね。

だから「死」という言葉さえ聞くのが嫌という人が多い。
ついでに数字の「4」まで嫌われてしまうことも。

ホテルでも、4号室がなかったり、4階がなかったり。
子供の頃、不思議で仕方なかった。
エレベーターに乗ったら、
1階、2階、3階、「・」(ちょん)、5階となっている。
おかしいな、3の次は4だと習ったのに。
バスも1号車、2号車、3号車、次になぜか寿(ことぶき)号車、
そして5号車。
とことん嫌われています。

病院へ行くともっとそうですよね。
「今日から入院してもらいますが、あなたの部屋は
 第4病棟の、4階の444号室の第4ベットです。
 ついでに手術の日は、4月4日の4時4分4秒ね」
と言われると、
「やめてー」
となる。

入院している人に、シクラメンを持っていくと怒られる。
死暗面と読んでしまうとか。
シクラメンの香りっていいのに、とかそんなの関係ない。
みんな「死」を嫌い、「死」を考えないようにします。

ですが、「死」を避けて「人生」は語れない。
哲学は死の準備ともいわれます。

なぜか、これを例えでいうと
「生」は台所
「死」はトイレに例えられます。

台所は好きな所。
おいしいものが食べられるから。
子供の頃、帰ってきたら冷蔵庫に直行していました。

それに対して、トイレは嫌いな所。
うちは一家団欒、トイレでやってます
という家族はすごーく危ない。
昔のトイレは、もっとひどい。

それでも「トイレ」なくして「台所」なし。
トイレがないと、みんな困ります。

徳川家光にこんな話があります。
将軍家光が「この世で一番、気持ちのよいことは何か?」
と家来たちに尋ねた。
みな、色々に答えたが、ある家来が
「それは野糞をすることでございます」と答えた。

みんな、「お前、将軍様の前で、なんと不埒な!」といさめた。
家光も機嫌を損ねて、その家来を解雇した。

ところが、ある時、鷹狩りにでかけた家光が、急にもよおしてきた。
しかし、まわりに民家もない。
そこで、穴を掘らせて仮説トイレを作らせた。
「まだか、まだできぬのかー、まあだできぬのかぁーーっ!!」
「殿、今しばし、今しばしーーぃ!!」
戦場以上の気合いがお互い入っている。
そして、ようやくことを済ませた。
その時に、フッとあの家来の言ったことを思い出し、
「なるほど、このことであったか」と、よ〜く分かった。

そして、その家来は、役職に復帰することができたとさ。
メデタシメデタシ。
って話なんですが。

ここで分かりますように、トイレがないと、ものすごーく困るんですね。
家のトイレの水が出なくなった時は本当に困りました。

長距離バスのトイレが壊れて、しかも渋滞中。
サービス・エリアになかなか着かない。
そうなると、「まぁだ着かぬのかぁー」となる。

普段「死」を考えることをしないけれども、
それは「トイレ」を考えずに、食事をするようなもの。
片手おちも甚だしいのです。

そして「死」を通して初めて「人生」が浮き彫りになってくる。
命の重さ、大切さ、が分かってくる。
「死んだら死んだ時」とか、
「人生失敗してもいいです」
なんて言葉は出なくなる。

だからこそ
「無常を観ずるは菩提心の一なり」
と言われるんですね。

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2024年04月08日

地獄行きの人は誰?

「念仏というと、仏教という感じがしない」
そんな風に思っている人は多いと思いますが、これは完全に間違いです。

ある仏教の先生が
「私はよく、若い頃、臨終説法というのを進んでさせていただいていた」
と言われていました。

臨終説法というのは、今日死ぬかもしれないという人が、
今生最後に仏法を聞かせてくださいと言って、その人に法を説くことです。
聞く方がド真剣なので、話す方もド真剣だそうです。
次の日は、半日何もできなかったとか。

その先生が、こんな話をされていました。
「私がある公民館で説法していた時、聞きに来ていた人で、
 涙をボロボロ流されながら話を聞いている人がいた。大の大人が……
 よほど何かあったのかと思った」
昼休みにその人が控え室にやって来て、
「私には14才の息子がいるんです」
その子は日本脳炎にかかって、更に悪化して脳膜炎になっていて、
今日死んでも、明日死んでもおかしくない状態になっていたそうです。

そして、有名な布教使が来たら連れていくということになっていた。
ちょうど都合がついたので、ご説法が終わった後、
その人の家へ行くことになった。

息子さんと、両親が同席して、部屋に通されたそうです。
まず、子供さんの顔を見て、白目だったので驚かれたそうで。
病気で目が見えなくなって、耳も遠くなっていて。

自分も時間がないし、この子もそんなに長い間聞くこともできない。
お互い時間がないということで、相手の質問に答えることにされました。
一切経でも、問答形式というのは非常に多いんですね。

それで先生が聞かれたところ、
「僕、死んだらどこ行くの?」
と胸を押さえて聞いたそうです。
「暗い、暗い」と。

それにどう答えればいいか、
初めて仏法を聞く子供にどう話したらいいか、
先生も悩まれたそうですが、因果の道理の話をされました。

次に
「じゃあ、君は今までどんな種まきをしてきたかな?」
と聞かれたそうです。
「ザリガニを捕まえてきて、足にひもをつけて遊んだ。
 蛙を捕まえてきて、握りつぶして殺した」など、
子供なりの罪悪で、悪いことをしてきたと。
そういうことばかり言い出したんですね。

ベルグソンという人は
「臨終に悪い種まきばかりが思い出されてくる」
と言ったそうです。

先生はどうおっしゃったかというと、
「悪い種まきをしてきたなら、因果の道理によって
 悪い世界に行かなければならない。
 死ねば地獄である」と。

すると、向かいで聞いていたお母さんが先生の手をつかんで
別の部屋に連れて行かれたそうです。
「先生、なんて事言われるんですか。
 地獄に堕ちるなんて言わないでください。
 念仏称えたら極楽に往けると言ってあげてください」

先生も、そのまま言うというのは
その子の立場になれば、つらいことだというのも分かるし、
お母さんの気持ちも分かるということで譲歩されました。

それで
「念仏称えたら極楽に往けるから、今から念仏称えなさい」
と言われた。
するとその子は、3回称えたんですね。
するとお母さんが、
「もう少し多く称えるように言ってもらえませんか」
と言うので、そのように繰り返して、合計30回くらい称えた。

そうすると、お母さんが御法礼を持ってこられた。
これを受け取ったら、親鸞聖人に申し訳ないと思い、
受け取られないでいると、
その子が「あの先生、行ってしまったの?」と聞いた。
それを聞いたお父さんが、
「まだだよ。何でも聞きたいこと聞きなさい」と。

そうするとまた
「僕、死んだらどこ行くの?暗い、暗い」
と聞いたそうです。
先生は、ご両親の顔色も見られず、この子の仏縁を念じて、
ひたすら真実の仏法をお説きになられたそうです。
結局、その子がどうなったかはお聞きしていませんが。

因果の道理は曲げられません。
罪悪深重の私たちのすがたも曲げられません。
無常迅速の機も曲げられません。

そこから導き出されるのは、後生は一大事ということです。
これを「従苦入苦 従冥入冥」といわれます。
苦より苦に入り、冥より冥に入るということです。

人は、己の造った過去の悪い種まきによって、
悪因悪果、次の世界に沈むのだと。

『大無量寿経』には、このように教えられています。
________________________________

大命将に終わらんとして悔懼交至る。
悪人は悪を行じて、苦より苦に入り、冥より冥に入る。
(中略)
其の中に展転し、世々劫を累ねて出づる期有ること無し、
解脱を得難し。
痛言う可らず。
(大無量寿経)
________________________________

真っ暗な後生に泣くんですね。
一生懸命叫んでいるんだけれども、少しも信用してくれる人がいない
という、お釈迦様の嘆きです。
大変な一大事があると、ハッキリ説いておられますね。

『観無量寿経』にもあります。
_______________________________

悪業を以ての故に応に地獄に堕すべし。
命終らんと欲する時、地獄の衆火一時に倶に至らん。
(観無量寿経)
_______________________________

釈尊がハッキリ説いておられます。

現在苦しい人は、死ねば当然苦しい世界に行かなければなりません。
未来永劫の浮沈は現在にかかっているんです。
現在、闇を断ち切る。
これが大切なんです。

大切なのは、正しい教えを真剣に聞くということです。
先生は、急いで急がず、急がずに急げとおっしゃっています。
しっかりとした教学を身につけて、聴聞させて頂くのが大事です。
間違ったことを言う人がやって来ても、自分の頭できちんと理解していれば、
間違っていると分かります。

間違った教えを信じて、おかしな考えでいたら、
とんでもない方向に行ってしまいますので。
仏教というのは、必ず分かる教えです。

そして、ハッキリするところがありますので、
そこまで仏教を真剣に聞かなければならないんですね。
タグ:聴聞 解脱 地獄

2024年03月23日

仏法を聞くことが難しいわけ

お釈迦様は
「仏法聞き難し」
と教えられています。
仏法を聞くことは難しいと。

なぜ難しいのか、聞けない理由として8つの障りを挙げられて
八難と言われます。

地獄界、餓鬼界、畜生界というのは三悪道といわれる世界で、
六道の中でも特に苦しみの激しい世界です。

それらの世界では、苦しすぎて仏法が聞けない。

六道というのは、6つの迷いの世界ということです。

1. 地獄界
2. 餓鬼界
3. 畜生界
4. 修羅界
5. 人間界
6. 天上界

これが六道です。

私たちは、その6つの世界を生まれ変わり死に変わりしています。
これを六道輪廻と言います。

六道輪廻は、生死輪廻とか、生死輪転、流転輪廻とも言われます。

私たちの肉体は常に移り変わっています。
細胞は7年間ですべて変わるそうです。

中学校では真面目な人が、大学ではアフロ。
モンシロチョウはチョウチョとなった時、羽を広げて飛んでいく。

仏教では、生まれてきてから死ぬまで肉体は変わっていくけれども
死んだ後も、地獄でも、畜生でも、6つの世界を生死生死と繰り返し、
グルグル回っている。
これを生死輪転と言われています。

そういう中にあって、私たちがたまたま人間界に生まれるというのは
有り難いことだと。
これについては、「盲亀浮木の譬え」で教えられています。

また、お釈迦様が『涅槃経』というお経の中で、教えられています。

「人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。
 三途に堕つるものは、十方の土のごとし」

これは、その世界に住まいをしている数を言われているんですね。

人口爆発といっても、畜生界の数には遠く及びません。
マンボウは1回に何十億という卵を産みます。
ネズミは1回に5匹。
その1匹が1年間に産むのは5回。
1年間で276億になるそう。

人間界の衆生よりも圧倒的に多いのが畜生界の衆生。

ところが、その畜生界の数よりも多いのが餓鬼界の衆生で、
それよりも圧倒的に多いのが地獄界の衆生です。

ですから、人間界の衆生と地獄界の衆生は全然違います。
それを言われているんですね。

その有り難い人間に生まれたことを、
「人身受け難し、今すでに受く」
と言われています。
これは『華厳経』に説かれています。

「人身受け難し、今すでに受く」というのは、
難いという言葉は無理ということではありません。
難しい教えを聞かせて頂いているのだから、素晴らしいということです。

人間に生まれてこなければ仏法は聞けない。
その仏法を聞いている。
「有り難い仏法を今聞けているんですよ」と言われているんですね。

また、苦しみの激しさを言われています。
人間界で苦しんでいる。
これを娑婆世界と言われています。
中国では「堪忍土」と言われます。

お釈迦様は「人生は苦なり」と言われているのですが、
人間界よりももっとひどいのが畜生界、
それよりもっと苦しみがひどいのが餓鬼界、
それよりももっとひどいのが地獄界。

畜生はいつも戦々恐々としています。
畜生界は弱肉強食の世界なので。

お釈迦様が出家された動機の一つですね。
常に斬るか斬られるかの世界。

ハエが飛んでいるのをカエルが狙っている。
そのカエルをヘビが狙っている。
そのヘビのことをイノシシが狙っている。
そのイノシシを人間が狙っている。

この畜生界というのは、ここでは肉体が畜生のことを言っているのですが、
人間界に生まれていても、心が畜生界に堕ちている人がいます。
いつも不安でビクビクしている人。
心が畜生さながらで、仏法を聞けない人。

餓鬼界に墜ちる人というのは、我利我利亡者。
食事の時、何にも話さない人。
食べたいよ、飲みたいよ、と常に求めて苦しんでいる。
だから人の立場に立つことって大事です。
地獄界の苦しみはもっと苦しいんです。

等活地獄
黒縄地獄
衆合地獄

衆合地獄の中に刀葉林地獄があります。
人それぞれ造った業が違う。
それぞれ、違った業が生み出した苦しみの世界に墜ちる
ということです。

また、蓮如上人という方の『御文章』2帖目12通に
「人間五十年・四王天」というものがあります。

人生50年を1ミリとすると、地獄の長さは地球10.8周。
それなのに、何とまあ、呑気にのんびりと聞いているのか。
極楽浄土に往けると聞いても、何とも思わないで、
ボヤボヤっといたずらに月日が過ぎ去っていってしまう。
まあそのうち何とかなれると思って、
エヴァンゲリオンを3回読んで線を引いている。
知らされた仏法を誰にも語らない。
眠りこける。
楽するだけ楽をする。

私たちの墜ちる地獄は等活地獄どころではありません。
八大地獄と言われますが、地獄には8段階あって、
その最後にあるのが無間地獄です。

だから聞いてくれよ、知ってくれよと書かれたのが
『御文章』2帖目12通なんですね。

八難の続き。
長寿天や辺地というのは天上界のこと。
楽しさにおぼれて仏法が聞けない。

苦しい時には投げ出す。
楽しい時には自惚れる。
それで仏法が聞けないということです。

まず人間に生まれたことが有り難い。
人間に生まれてこなければ仏法は聞けない。
人間に生まれたことが有り難いというのは、
苦しみの激しい三悪道ではないという点で有り難い。
そして人間に生まれてこなければ仏法が聞けないから有り難い。

「天上天下唯我独尊」とは、誕生偈に書かれている。
お釈迦様が出産と同時に、東西南北に7歩ずつ歩かれて、
手を上下に指して、言われた言葉。
ただ私たち人間にだけに、たった一つの尊い目的がある。
六道輪廻してきた私たちがたまたま人間界に生を受けた。
そして、少しも仏法を聞けない人たちばかりの中で、
仏法を聞かせて頂いている。

だから、多生の目的なんですね。
これを一生参学の大事といわれて、
たとえ息の切れ際になっても達成したならば万々歳なんですよと。
しかし本当は、多生参学の大事なんですよと。

では、その多生参学の大事とは何かというと、
この六道を出離することなんですよ
このための命なんですよ
だから自殺をするなんてとんでもないことなんですよと。

ところが、そんなことが分からず苦しんでいるのが三界です。
そこでお釈迦様は、グルグル回って苦しんでいる人に
そこを出離することを教えられているのが仏法なんです。

それなのに、法事があるとか、親戚が来るからと言って
仏法を聞かないなんてとんでもないことなんですよ。
それを見てお釈迦様は居ても立っても居られないんですよ。

せっかく、真実の教えを聞く耳、真実の仏法を聞く目、
真実の教えを語る口を持っているのに、
なんて勿体ないことに使っているの。
こういう意味もあります。

「世智弁聡の難」
弁聡とは自惚れ。
何でも知っている人は、自惚れが強いので仏法が聞けないということ。
何が正しくて何が間違っているか分からないから聞かせて頂くんですね。

「仏前仏後の難」
仏の在世に遇わなければ聞けないということ。

お釈迦様がお生まれになられて、その行く末を占ってもらうために
お城へ呼ばれたアシダ仙人。
お釈迦様を見て、無上のさとりを開かれる仏陀となられるだろうけれども
自分は、その頃に生きていないので悲しいと涙を流しました。

どんなに素晴らしい説法をされる方があっても、
その前に生まれたならば、その後に生まれたならば
仏法は聞けないんですよ。
そういう聞き難い仏法を聞かせて頂いてるんですよ、と教えられています。
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2024年03月18日

生まれ変わりを繰り返す中で初めて出会ったこと

これまで出会ったことのないものに会った時、
人はどんな反応をするでしょうか。

浄土真宗の親鸞聖人は、救いとられた一念で、
「噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にもあいがたく真実の浄信は億劫にもえがたし」
と言われています。

まず、「噫(ああ)」と言われた。

すぐに「弘誓の業縁は・・・」と出てくる気持ちではなくて、
一念は、言うこと絶えてこと絶えて、
「ああ」のほかに言葉は出てこない。
ただ、「ああ」と言う。

あとは何も言わずに合掌しているだけでは分からないので、
「私が救われた驚き、喜びを何とか伝えたい」
ということで言われたお言葉なんですね。

世の中のことでも、本当に驚いた時には
そんなふうに言います。

「あらからと、言うはあとなり唐辛子」

赤ピーマンと間違えて頬張って、ガブっと食べた時に
まず出る言葉は
「あー!」でしょ。

「あー、辛かった」
大変な驚きの時は、まず「あー」と言います。

そして「辛ーい」でしょ。
頬張って、「からい!あー!」と言う人は
あまりいません。

「あら」は、「あー」の昔の表現。
「あらからと、言うはあとなり唐辛子」
こういう歌があるそうです。

みんなそうですよね。
思ってもないことが起きた時、
「あー」と言ってしまいます。

たとえば、中学・高校の同級生で、大学で離れ離れになった人に、
たまたま街ですれ違った。
ただの友達じゃなくて、笑ったり喧嘩したり、一緒の思い出がたくさんある。
そういう人と出会ったら、どうでしょうか?

「えっ」でしょ?
「最近どう?」みたいな会話にはなりません。

「どうしたの?」
「実は・・・」
そういうことありますよね。

実は私、東京の同級生と、岐阜でばったり会いました。
高校時代、昼休みも一緒に遊んでた人で、今も長い付き合いですが。

そこから「どうした、何でここに」という言葉が出てくる。
まず「あー」と出るのが当然で、
聖人は今まで、あったことないことだから、
この驚きは亡者の開眼の一刹那、といわれます。
あるいは世々生々の初事。

生まれてこのかた目の見えなかった人が、目の開いた一刹那、
手術によって世の中を見た時、どんなに驚くか。
今までは空想でしかなかった、色んなもの。
お父さん、お母さん、声では知っているけれど、
生まれてこのかた見たことがなかった。
それをパッと見た時、一切の情報が入ってくる。

その時の驚き、これが私の母親なんだと、びっくりしませんか?
人は知らないもの、一切の情報が入ってきたの驚きは、
言葉にはならないと思います。

その亡者の開眼の一刹那の驚きよりも凄い。
まず光も知らない、今まで真っ暗闇にいた。
闇の中いる時は、闇も分からない
自分が闇にいるという自覚もない。

光を知って始めて闇を闇と知ることができる。
目の見えない人は闇の世界、
光の世界を知りません。
目の開いた瞬間に、全部知らされる。

これを仏教で世々生々の初事、
今まで生まれ変わり死に変わりしてきた私たちが
今まで会ったことのないような初事、
今まで私たちは生まれ変わり死に変わり
輪廻を繰り返してきました。

その中に色んな経験してきた、
色んな殺され方、殺し方、
ありとあらゆる経験をしてきた。

女性に生まれ、妊娠して、子供を生んだ経験もある。
していない経験はないほど、悠久の生命の流れで、あらゆる事をしてきた。

世々生々の初事とは、いまだかつて一度も経験したことのないこと。
いまだかつて魂が経験したことないこと、これが世々生々の初事。
だから大変な驚き、この間のあの経験に似ている、というものでない。

だから「ああ」と驚かずにおれない。
その驚きが、知らなかった、こんな世界とは知らなかった、
考えもしなかった世界に言葉も心も絶えた。
それが「ああ」に込められています。

阿弥陀仏に救われた時に知らなかった、ということが一気に知らされて、
言葉にできない驚きが、「ああ」という一文字にあります。
「ああ」という中に、万感言い尽くせぬ思いが、込められている。
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2024年03月08日

本当に智慧のある人が考えていること

失業率の高い時代。
他の人がぼやぼやしているときに、どれくらい先が読めるか?
それが先見性のある智慧のある人。

他の人がみんな考えているようなことを、その人だけ考えていない。
そういう人は鈍感な人、鈍い人ということになります。

IT関連企業がどんどん倒産しています。
ゲーム産業では、任天堂が新しいゲーム機を発売する。

そういう中、大学を出て、どの会社に就職するか?
株取引なら、どの株が上がるか下がるか?
また、これからの時代、一体何が問題となるか?

最近の若者は、引きこもり、対人恐怖症、
子どものころから甘やかされていて、他の人と話もできない。

では、こういう時代に自分はどういう選択をするべきか?
こういうことを読める人が智慧のある人ということができる。

「居安思危」を知ってますか?

これは中国の歴史の中ですぐれた皇帝といえば、唐の太宗。
その政治を貞観の治といわれます。
『貞観政要』という本があり、その中に書いてあるのが「居安思危」。

安きにありて危うきを思う、思えば即ち備えあり、備えあれば憂い無し。

「安きにありて」というのは、まだ安全なときに。
安全地帯にいるときに、ということです。

「危うきを思う」というのは、未来にやってくる危険。
他の人がまだ肘をついて安穏としているときに、
未来にやってくる危険を思いなさい。
思えば備えをしようとなる。
「備えあれば憂い無し」ということです。

未来にやってくる危険、先に起きる一大事、
こういうことをあなたがどれほど先が読めるか。
これを『貞観政要』に太宗皇帝が示しているんですね。
posted by 陽葵 at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教