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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2024年12月18日

人工知能研究の第一人者も認めた仏教の深い教え

最近、AIが飛躍的に進歩しています。
AIというのは人工知能のことですね。

人工知能の研究と言えば、アメリカのマサチューセッツ工科大学が有名ですが、
人工的に人間の知能に近いものを作るという、その研究の第一人者が
マービンミンスキー教授です。

この人は、機械でもって人間の知能にどれだけ近づけるか、
人間の知能とは一体何か、
人間が何かを考えたり、何かを思ったりするのは
一体どういうことなのかを研究しました。

人工知能の研究というのは、つまり人間の心の研究とも言えます。

そのマービンミンスキー教授が世界のあらゆる哲学書、宗教書を読んで
人間の心の仕組みを知ろうとした時に、

「古代ギリシアの哲学書もキリスト教も何の役にも立たなかった。
 人間の心を知る上で最も役立ったのは、仏教のお経だった。
 人間の心の仕組みを最も精細に教えてくれたのは、釈迦という人物だ」

このようにマービンミンスキー教授が言っています。

あるいは、心の研究をするのが心理学ですが、
心理学という学問は、まだ始まってから100年ほど。
ジークムント・フロイトという人がその出発点です。

フロイトが『夢判断』という本を出したのは、1900年です。
この本は、もの凄く画期的な本で、

人間の心というのは、そんな単純なものではない。
2重の構造を持っていて、意識の下にもう一つ、無意識というのがある。
例えていうと、太平洋という無意識の中に、浮かんでいる島が意識。

こういう表現をしています。

無意識という大海の上に浮かぶ島、それが意識。
あるいは、ちょっと変わった表現の仕方では、
無意識という岩盤の上に、意識という豆腐が乗っている、と言っています。

私たちが本当の自分と思っていたのは意識ではなく、どうも無意識。
またリビドーだと言っています。
これは性的欲求、性的な欲望ということで使われています。

夢判断というのは、フロイトが抱えた多くの精神的な病気を持つ人や心の病を訴える人が、
どういう夢を見るのか。
その人達の話を聞くうちに、彼らの夢の中に悩みの原因が表れたというものです。

それは例えば、小さな時に受けた心の傷、これをトラウマと言いますが、
特に強烈なのは性的な傷で、それがその人を傷付けているということなんですね。

本人は忘れたくて仕舞い込むけれど、それが夢の中でフッとあらわれて
自分を苦しめる元になるということを言っています。

その苦しみの元になる本質、これがリビドーだと言っているんですね。

ところが、フロイトがこういう学説を発表すると
ヨーロッパの学者が猛反発しました。

何てことを言うのだ。
馬鹿なこと言うな。
人間は神に作られたのだ。
神は神聖で絶対。
私たちは神によって作られたのだ。
神が粘土をこねあわせて人間を作って息を吹き込む。
その神の吐いた息が、私たちの生命だという。

神から与えられた、そんな神聖なる私たちの精神が、
リビドーということで性的欲求。
これはやばいだろうと。

人間はそれまで神によって作られた聖なる存在だったのが、
性なる存在になってしまった。
これはいかんということで、当時の学者から総すかんを食ったんですね。

ところが、このフロイトに大賛成した人がいました。
画家や詩人といった人たちです。

そういう人たちは、理性よりも感性で人間を捉えるので、
「フロイト、お前の言うとおりだ。自分にそういう心あるもん」
と賛成したんですね。

というわけで、フロイトは学者としては猛反発されたけれど
隠れた支持者が沢山いました。

フロイトの後、ユングという人がさらに一歩進めて、

フロイト先生、確かに心が二重構造だと言ったのはなるほど。
でも無意識がリビドー、性的欲求というのは言い過ぎ。
私たちの心はもっと複雑極まる。
リビドーは変容する、色んなものに形を変える。
固定されたものではない。

さらに言っているのは、私たちの抱えている無意識は
過去数世紀に渡る意識の集積体だと。
数百年に渡っている私たちの意識の集積過去だと言っているんですね。

となると、肉体が数百年も生きている人はないので、
肉体とは別なものということになります。

その後、フランスのジャック・ラカンという人が
蔵のような心だと言っています。

ここまで来ると、だいぶ仏教の阿頼耶識に近いですね。
それが今、深層心理と言われて盛んに研究されています。

こんな風に、人工知能の分野でも心理学の分野でも
ヨーロッパ的なものから東洋の思想に
大きな学問の流れがそうなりつつあるんです。

20世紀に発達した学問で、分子生物学というのがあります。
遺伝子の研究ですね。

2000年に入ってから、人間の遺伝情報、ヒトゲノムがすべて解析され、
それは、アメリカの民間会社が解析したのですが、
その解析したものは、全人類の共通の財産だから
一企業が独占するものではないからと言って、独占できなくなった。

ヒトゲノムは、当初10万くらいあるといわれていたのが、
実際は35,000しかなかった。

回虫のゲノムが、何と20,000。
そうすると回虫と人間のゲノムの違いは、わずか15,000。
これは、多くのキリスト教者にとっては凄くショック。

人間も本質的には動物と一緒。
また、ショウジョウバエの遺伝子と人間の遺伝子の65%が同じ。
遺伝子的には変わらない。

これもヨーロッパの学者には大ショック。
こんな結果は信じられない。
人間は最も神に近いのではないのか、他の動物達を支配する存在。
旧約聖書の創世記に、神が人間を創った時の様子が書かれています。

神が人間を創って、自分の意志を人間にこう言っています。
「産めよ、増えよ、地に満てよ、そして大地を支配せよ。
 他の一切の動物を支配しなさい」

これが、神が人間に与えた意志だと聖書に書かれているんですね。
つまり、人間こそが他の動植物とは違う別格の生命体というのが原始生物学です。

仏教では、生命は同根、根っこは同じだと言います。
これが東洋的な考え方です。
全くその通りだということが学問によって明らかになったんですね。

そして、決定的にヨーロッパの学者たちの信念が崩れたのが1972年。
エディンバラ大学の2人の教授が、人間の細胞の中に
「アポトーシス」というのを発見しました。

これは、自殺する遺伝子ということです。
つまり、私たちの細胞は自殺するようにできている、
細胞そのものが自ら死に向かっていると。
そういう細胞を「アポトーシス」と名付けたんですね。

これは全く神の意志に反する発見です。
自殺は、キリスト教では神に対する反逆で、自殺はです。

ところが、私たちの細胞には自殺が組み込まれている。
これは彼らにとってみれば、天動説が地動説になったような大ショックです。
それまでの信念が大地から崩れるような発見なんですね。

日本の私たちからすれば、
「ああそうか、やっぱり諸行無常だ」
と受け入れられますが、彼らはどうしても受け入れられない。
だから、あらゆる学問から見ても
どうもヨーロッパの考え方、キリスト教の考え方はおかしい、
やっぱり私たちの発想自体がおかしかったのだと気づかざるを得なかった。

それが哲学の世界でも、今から100年程前に、ニーチェという人が
今日の思想界を予言するように、
「神は死せり」
と言ったんですね。

ニーチェが亡くなったのは1900年。
ちょうど19世紀最後の年に亡くなりました。

いまだにニーチェの思想に打ち勝つ思想は、ヨーロッパにはありません。
これはどういう意味かというと、東洋に目を向ける以外にはないということ。

お釈迦様は、すでに2600年前に、人類の到達した最も深い思想といわれる
仏教を明らかにされています。
なので、人間とはどういうものかを知るには、
仏教に勝るものはないということなんですね。
posted by 陽葵 at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2024年12月05日

お釈迦様の本当の教えは『大無量寿経』の中にある

お釈迦様は何のために地球上にお生まれになられたのか、
その出世本懐といわれるお経が『大無量寿経』です。
その根拠は『大無量寿経』の中に2箇所あります。

1つ目は、『大無量寿経』の上巻にある、こちらの部分です。

「如来、世に出興する所以は道教を光闡し、群萌を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり」

2つ目は、下巻のこちらのお言葉です。
「当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲を以て哀愍し、特にこの経を留めて止住すること百歳せん」

1つ目の根拠の「如来」というのは、
狭い意味では、釈迦如来ということで、お釈迦様のことです。
広く言えば、大宇宙に在します仏方のことです。

「出興」というのは、お釈迦様がこの地球に生まれられた目的は
ということです。

「群萌」というのは、苦しみ悩んでいるすべての人、ということで
私たちのことですね。

道教というのは聖道仏教のことで、修行して悟りを開く道のことです。

つまり、聖道仏教とは、因果の道理のこと。
すべての人を因果の道理で統一し、統合されます。
そして、本来の目的である阿弥陀仏の本願へ導かれるんですね。
そのように、まず方便を説かれたということです。

まず、外道を信じている人たち、因果の道理に反した色々な信心を持っている人を
因果の道理で統一され、苦しみ悩んでいる私たちを救い、助けるということです。

私たちを本当の幸せにするために、本当の救いである阿弥陀仏の本願を
『大無量寿経』でハッキリと教えられています。

お釈迦様の説かれたお経は、7千冊以上にもなりますが、
それらのお経を探しても、「真実の利」というお言葉はありません。
そしてその後に、阿弥陀仏の48願が説かれます。

なので、初めのお言葉だけで出世の本懐ということが分かるんですね。
ですが、最後に留めを指されているお言葉が、下巻の先程のお言葉です。

上巻のお言葉については、親鸞聖人が『一念多念証文』で解釈されています。
それがこちら。

大経出世本懐の文。
「如来」と申すは諸仏を申すなり。
「所以」はゆえという語なり。
「興於出世」というは仏のよにいでたもうと申すなり。
「欲」はおぼしめすと申すなり。
「拯」はすくうという。
「羣萌」はよろずの衆生という。
「恵」はめぐむと申す。
「真実之利」と申すは弥陀の誓願を申すなり。
然れば諸仏の世々に出でたまう故は、弥陀の願力をと来て、
よろすの衆生をめぐみすくわんと思召すを本懐とせんとしたもうが故に、
「真実之利」とは申すなり。
然ればこれを「諸仏出世の直説」と申すなり。


このようにハッキリと解釈を施されています。

如来と申すは、広く言えば三世諸仏。
所以は故、故とは目的のこと。
興出は、仏様がこの世に出られたということを言う。
欲、これは欲する。
羣萌は、よろずの衆生という意味。
恵は恵むということ。
真実之利、これは、弥陀の誓願のことを言う。
然れば諸仏が世々に出でたまう、それぞれの世界に生まれ出られる
その目的は、すべての衆生を恵み救おうとされているのが目的ですから、
然れば、これが諸仏出世の直説、諸仏方の出世本懐も
弥陀の本願一つを説くため、地球上に現れられたということです。

これだけでも留めですが、下巻に

「当来の世に」の「当来」というのは、法滅のこと。
お釈迦様がお亡くなりになってからの時代を、3つの時期に分けて三時と言いますが、
正法、像法、末法、そしてそれが終わると法滅を迎えます。
法滅というのは、仏法の滅びることです。

正法とは、お釈迦様がお亡くなりになってから500年間のことで、
お釈迦様の説かれた教えがあり、教えの通り実行する人があり、
ある程度悟りを開く人もいる時期で、最も良い時期とされます。

ところが、正法の後1000年を像法と言います。
インドで高い悟りを開かれた龍樹菩薩や天親菩薩の時代ですね。
そういう時代には、一切経は勿論あって、修行する人もいるけれど、
悟りを開く人がほとんどいない。
厳密に言えば、龍樹菩薩も悟りを開いていられますが、
そういう人がほとんどいない時代になります。

そしてその後の末法の時代になると、一切経はあっても、
真面目に実行する人がいなくなります。
だから当然、悟りを開く人もいなくなる。
ところが、末法は1万年あるので、今だとあと何千年か続きます。

その後に法滅です。
この時期になると、一切経はなくなってしまいます。
このことは『大集経』や、その他多くの経典に説かれていることです。

ですが、やがて一切経が滅びると予言されているのは、聖道仏教であって、
阿弥陀仏の本願を説かれた浄土三部経は別です。
『正信偈』にも「像末法滅導悲引」とあります。

正法は、修行すれば、救われる可能性も高いけれど、
その正法は除かれて、「像末法滅導悲引」と教えられています。
像法の人も、末法の人も、時代に関係なく、
真実というのは、滞ったり、変わったりしない、三世十方を貫くものです。
こういうことからも、聖道仏教は方便であるということが分かります。

大慈悲によって、決勝点まで私たちを救い摂ってくだされる。
いつの時代の人も関係なく救われるのが弥陀の本願です。

下巻のお言葉は、
やがて私の説いた一切経が滅尽する、滅びてしまうだろう。
しかし私は、何とか助けてやりたいという大慈悲をもって哀れみ、
特にこの『大無量寿経』だけは、ずーっと永久に残るのだ
ということです。

法滅の時期が来ても、滅びることはない。
これを特留止経の文と言います。
とくに阿弥陀仏の48願が説かれている『大無量寿経』は留めるぞと
出世本懐の留めを刺されたお言葉です。

ところが、ある人は、「百歳せん」というのは100年間だけ残るのであって、
その後は滅びるのだ、と言っていました。

これは、100年ということではありません。
漢文で100年のことは壱百歳と言いますので。
百歳とは、無窮ということで、限りない年月を言います。
これは仏教の常識となっています。

ところが、そういうことが全く通じない人には
百歳が永遠不滅であることを、どのように説明すればいいのでしょうか。

『大無量寿経』は何人もの三蔵法師が翻訳しているので、異訳本を示してあげればいいと思います。

『大無量寿経』は、中国で12回翻訳されて、今残っているのは5つです。
あとの7つは、訳した人の名前は残っているけれど欠けています。
なので、五存七欠と言われます。
今私たちが読んでいるのは、康僧鎧という人が翻訳したものです。

『大無量寿経』以外に残っているのは、
『無量寿如来会』
『無量寿荘厳経』
『平等覚経』
『大阿弥陀経』

時代とか微妙な書き方は違いますが、いずれも同じお経です。

その中の一つ、『無量寿如来会』というお経には、
このように書かれています。

「久しく住して滅せざらしむべし」

この『大無量寿経』だけは、久しく永久に留まる。
滅せざらしむべし。
不滅なんだと、如来会にハッキリと説かれています。
百歳は永遠であるということは明らかなんですね。

また、サンスクリット語の『無量寿経』も残っています。
それを見ても明らかです。
「私は、この教えが滅びないように、偉大な贈り物をするぞ」
こういう訳し方ができます。

『大無量寿経』の訳が一番素晴らしく、仏意が鮮明になっています。
五存ある中で親鸞聖人は、
「真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」
とおっしゃっています。

だから私たちも、『大無量寿経』を読ませていただく。
そこに弥陀の本願が明らかに説き明かされています。
posted by 陽葵 at 15:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2024年11月23日

父母恩重経に説かれた親の心と親の恩

今回は「親の恩」の話。

「恩」というのは、原因を知る心、
今自分が幸せな原因を知る、
今私がこんなに幸せなのはあの人のおかげなのだなと
原因を知って感謝する心をいいます。

人生の目的を果たす上で、凄く大切な心、
それがこの「恩」ということだし、「感謝の心」です。

こういう言葉もあります。

「この世で最も不幸な人は、感謝の心のない人である」

その人がどれくらい幸せかは、
どれだけ恩を知り、恩を感じ、恩に報いる気持ちが強いかで決まる
といわれます。

お金持ちの家に生まれて、大きなお屋敷に住み、育ちもよくて、
自分の車、それもベンツに乗っていて、苦労知らずの御曹司でも、
口さえ開けば、「あんな親は親じゃない」と
怨み呪いの人生を送っている人もいます。

逆に、お父さんを若くして亡くし、お母さん1人で一生懸命育ててくれた、
お世辞にも裕福とはいえない生活をしている人もいる。
仕送りも他の人の半分くらいしかないけれど、それでも
自分に期待して、頑張って勉強して来いと、大学に行かせてくれたと、
親に感謝して、毎日をイキイキと過ごしている人。
そのお母さんから、わずか千円のお小遣いをもらって、
もの凄く喜んで、感謝している。

それだと、やっぱり後の人の方が幸せそう。

このように、その人がどれだけ幸せかは、
物質的にどのくらい恵まれているかとは全く別で、
どのくらい満足しているか、どのくらい感謝の気持ちがあるかによって決まる
といわれるんですね。

たまに
「何で恩に報いなきゃいけないんですか。
 それって強制ですか?」
という人があります。

でも本当に幸せな人は、恩に報いるままが幸せ。
私のためにこんなことをしてくれた、その人に恩返しをするまんまが
自分の幸せとなるんです。

知恩、感恩、報恩。
これが人格の基準といわれます。

物知りだったり、お金をたくさん持っている人が偉い
というわけでもないんですね。

この逆は、忘恩、背恩、逆恩。
こうなってはいけません。

「恩を知らざる者は、畜生にも劣る」
といわれます。

ところが、最近は「恩」ということが、あまり教えられていません。

女人禁制で有名な大和の大峰山に「西の覗き」という行があります。
命綱で支えられた体を、絶壁から千尋の谷底へ突き出されるというもの。

その状態で「親孝行するか」と言われると、
どんな男性でも、その恐ろしさに、
「親孝行します!」と叫ぶそう。

「麻雀は?」と聞かれれば、
「やめます」

「パチンコは?」
「やめます」

やがて、無事に引き上げられるのですが、
ある子供が、この行をした時に
「親孝行するか?」と聞かれて、
「親孝行って何ですか?」と尋ねたらしい。

また、学校で、先生が「親の恩って分かる人~?」と尋ねました。
1人の生徒が
「親のオンはお父さんで、親のメンはお母さんです」
と答えたそう。

どうもオンドリ、メンドリと間違っている。。
学校や家庭教育で「親の恩」「親孝行」などが欠けていることが分かります。

それで、家庭内暴力や、親殺しが増えている。
これは悲しいことです。

私たちは1人では生きられません。
漢字でも、人という字は支え合っている。
有情・非情の恩を受けているんですね。
有情というのは、命あるもので、
非情というのは、天地とか自然、空気、大地、植物
そういうものがなければ生きていけない。

そんな中で、一番身近な恩が親の恩です。
お釈迦様が、この親の恩について、
父母恩重経』というお経で詳しく教えられています。

以前、『バガボンド』という漫画が売れましたが、
その原作の吉川英治の小説『宮本武蔵』にも、この経典が出てきます。

武蔵の旧友、本位伝又八の母親が江戸のならず者たちに、この経典を読ませると、
いつもはケンカばかりしている荒くれ者たちが
涙を流して、それぞれの母親を想う。
「俺、涙が出てきちまったよ」と。

この経典によって、今までどれだけの「ならず者」が
真人間に生まれ変わったか。
「父母」26箇所「父」1箇所「母」33箇所。
この経典の眼目は「親の大恩十種」、
親から受けた、極まりのない恩を10種類教えられています。

1つ目が「懐胎守護(かいたいしゅご)の恩」

胎教のためにと、いい音楽を聞いたり、タバコやめたり。
あと、酸っぱいものが食べたくなるのは、自分の骨を溶かして
子供に与えるためなんだとか。
養分をすべて子供にとられる。

そういうのを表した孔子の言葉がこちら。

「心に邪なことを思わず、
 耳に淫声を聞かず、
 目に邪色を見ず、
 形正しからざれば食らわず」(孔子)

生まれる前から子供のことを考えて、
色々心をかけてくれるご恩ですね。

2つ目は、「臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩」

出産に臨んで、苦しみを甘んじて受けてくだされるご恩です。
この苦しみ、ハンパじゃないらしい。
青竹を持たせると、バキッと折ってしまうくらいといわれます。

陣痛の陣は、陣地の陣であり、陣羽織の陣、陣構えの陣です。
陣というのは、戦場のこと。
命のやりとりをする戦場におもむく気持ちで、ということ。

お釈迦様のお母さん、マーヤー夫人は出産後に亡くなりました。
それだけ危険もあるということです。

水戸光圀公は自分の誕生日に質素なものを食べたそう。
それは、自分の誕生日というのは、自分の母親が大変な思いをした日だからだとか。
「諸人よ 思い知れかし 己が身の誕生の日は 母苦難の日」

このように言われると、確かにそうだなぁと思いますね。

3つ目は、「生子忘憂(しょうじぼうゆう)の恩」

子供が生まれると、それまでの苦労を忘れてくだされるご恩です。

言ってみれば、自分を死ぬほど苦しめた張本人が生まれてきたことになるので、
「よくも苦しめてくれたな。ホント死ぬかと思った。たっぷりお礼をしてやる」
なんて親はいません。
それまでの苦労をみんな忘れて、喜んでくれる。
ちょうど貧しい人がダイヤをもらったような、そんな喜びに包まれるんですね。

こんな歌もあります。
「銀(しろがね)も金(こがね)も玉も何せむに
 まされる宝子にしかめやも」(万葉の歌人)

最高の宝を得た喜びで、それまでの苦しみを忘れてくだされるご恩は
一通りや二通りではありません。

4つ目は、「乳哺養育(にゅうほよういく)の恩」

母乳を与えて養い育ててくだされたご恩です。

母乳をコップに入れておくと、薄いピンク色になります。
母親の血液でできているからなんですね。
まさに血肉を分けて育ててくださっている。

母親の愛情がなければ、赤ちゃんは1日として生きていけません。
泣き声だけで、お腹がすいたとか、オムツを交換して欲しいとかが分かる。
これは、父親では難しいらしい。

だんだん大きくなってくると、ストーブにも近づいたり、刃物にも手を出す。
何でも口に入れる。
親の監視がなければケガだらけで、五体満足ではいられません。

5つ目は、「廻乾就湿(えかんしゅうしつ)の恩」

乾いているところにまわし、湿ったところに就いてくだされるご恩です。

これは何のことかというと、おねしょのことですね。
夢を見て、失敗する。
どんなに叱られるかと思ったけれど、反省している時には叱られない。
そして、濡れてしまったところには自分が寝て、
乾いているところに子供を寝かせてくださるご恩です。

6つ目は、「洗潅不浄(せんかんふじょう)の恩」

最近は紙オムツですが、昔は布のオムツで、みんな手洗いしていたそうです。
そういう汚れたものも、嫌な顔せず、洗ってくだされたご恩です。
親が寝たきりになって、そういうお世話も必要になった時は恩返しのチャンス。

7つ目は、「嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩」

美味しくないところは自分が食べて、
美味しいところを食べさせてくだされたご恩です。

小学生の作文で「お母さんは魚の骨が好きだ」というのがあります。

私4人家族ですが、魚を焼くと、一つはコゲがつき過ぎたものができる。
それを母親が食べていた。
5歳くらいの時「お母さん、コゲたのばかり食べてたら癌になるよ」
と言ったのを覚えています。

失敗作は自分が食べていたということです。

吉川英治は幼少のころ、父親が私書偽造横領罪で監獄。
母に連れられて父親に面会に行く時、
電車賃がないため、家から30キロを歩いて行った。

途中空腹で、そばや、うどんを食べるのだけれど、
2杯たのむお金がなくて、いつもかけうどん一杯だけ。
うどんを英治に食べさせ、母親は残り汁を吸ったといいます。
自分は苦しい目にあっても、子供を幸せにしたいと念じてくれるんですね。

火事場に取り残された子供を救うために、焼け死んだ親もいます。
飛行機事故で、子供が1人だけ生き残った。
親が子供を抱え込み、焼かれずに済んだんですね。
母親の背中は真っ黒に焼けていたといいます。

8つ目は、「為造悪業(いぞうあくごう)の恩」

『レ・ミゼラブル』の主人公、ジャン・ヴァルジャンは、
子供のためにパンを盗んで、19年間投獄されていました。

悪いことと分かっていても、子供のために、
あえて悪いことをしてくだされるご恩です。

9つ目は、「遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩」

子供が遠くに行けば行くほど、親は子供のことを思ってくださる。
普通は、去るもの日々に疎しで忘れ去られますが、親は違います。

子供が離れたところで困っていた時、電話がかかってきた。
出てみると母親だった。
なぜか胸騒ぎがして心配になり、電話してきたとのこと。
そんなこともあります。

「ああ悲し、母は私を思いがち、私は母を忘れがちとは」
という歌もあります。

「木の上に立って見る親心」ともいわれます。
大きな志を抱いて故郷を離れる子供、船で出かけたわけですが、
その時、港で船が見えなくなると、山に登って見送った。
それでも見えなくなると、木株にのぼって見えなくなるまで見送ってくださる。

逆に、帰ってくると知らせがあると、
早い時間から木株の上に乗って、船を待ってくださるということで、
「木の上に立って見る親心」といわれるんですね。

「忘られぬ 父と母との ましませば 遠く学ぶも 便り忘るな」
両親がいるのなら、メールとか手紙とか送りましょう、ということです。

最後は、「究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩」

究竟というのは、最後までということ、
憐は、あわれみ、
愍は、いつくしむ
ということです。
子供が何歳になっても、心配してくだされるご恩です。

こんな漫画もありました。
デパートで、
「お子さんが迷子にならぬよう、お母さんはお子さんの手をしっかり握ってください」
というアナウンスが流れると、
おばあちゃんが、もう50も過ぎた息子の手をギュッと握るというもの。
印象深い漫画でした。

「ソロモン王の裁判」というのもあります。
1人の迷子に2人の母親が名乗り出ました。
決定的証拠がなかった。
それで王様は、
「ならば致し方ない、子供を真っ二つに切り、双方に分け与えよ」
と言った。
まさに刀が子供の頭上に振り下ろされた時、
思わず知らず、一方の母親が子供に覆いかぶさった。
身を挺して可愛いわが子を守ろうとした。
賢明なソロモン王は、その母親に子供を返したという話。

他の生き物でもそう。
長崎の捕鯨心得帳には「まず子鯨を打て」と書かれてあるそうです。
子鯨が捕まると、必ず親鯨も戻ってくるからだというのです。
自分が死ぬかもしれないのに、鯨は子供を助けに戻ってくるのです。

すべての人は、このような恩を受けているんですね。
海よりも深く、山よりも高いといわれるこのご恩に、
どうしたら報いることができるのでしょうか。

お土産とかお金もいいですが、まずメールや手紙。
ありがとう」という感謝の言葉が大切。
実家に住んでいるなら、ちょっとしたお手伝いとかでもいいですね。
感謝の心を伝えることが大事です。

そして一番の親孝行は、仏教を伝えることだと
お釈迦様は教えられています。

なぜかというと、お土産やお金の喜びは続きませんが、
仏教に説かれる本当の生きる目的を達成した喜びは
決して色あせることも、薄れることもないからです。

まず『父母恩重経』で親の恩をよく知って、
親の恩を感じ、少しでも親孝行ができるように
心がけていきましょう。
posted by 陽葵 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 実践

2024年11月11日

迷信や占いを信じるよりも、論理的な思考とスキルを身につける方がいい

孫子の兵法と言われる『孫子』は、約2500年前に
中国で書かれた兵法書。

二千年以上前の書物にも関わらず、
「孫子の前に兵書なく、孫子の後に兵書なし」
と最高に評価されています。

西洋の兵書で『孫子』に匹敵するのは、
クラウゼヴィッツの『戦争論』のみと言われますが、
評価は世界的にも『孫子』の方が高いんですよね。

ナポレオンや、ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世、
中国の毛沢東や武田信玄など、数多くの有名人にも影響を与え、
1990年代の湾岸戦争でも、アメリカ、イラク、両国ともに、
孫子の兵法を基本に戦ったそう。

『孫子』の英語版は『The Art of War』(戦いの技術)。

ビジネスマンは必ず、この『孫子』を読まなければならない
とまで言われるので、昔の書物ではあるけれど、
それだけ現代にも通用することが記されているということですね。

『孫子』の中で最も知られている言葉は、
「彼(敵)を知り、己を知れば、百戦殆(あやう)からず」という言葉。

また『孫子』は、迷信を排斥したことでも知られています。

それがこちら。
「祥(しょう)を禁じ、疑いを去らば、死に至るまでゆく所なし」

「祥」というのは、占いのこと。
「疑いを去らば」とは、迷いの心をなくすということ。
「死に至るまでゆく所なし」というのは、
死ぬまで迷うことなく戦うことができる、ということです。

孫子の兵法をもとに戦った、武田信玄は強かった。
武田信玄が旗印とした「風林火山」も、出典は『孫子の兵法』

風林火山

疾(と)きことの如く
徐(しず)かなることの如く
侵掠(しんりゃく)することの如く
動かざることの如し

あの家康をして
「私も海道一の弓取りなら、ああいう戦いを指揮してみたい」
と言わしめたほど。

もう少し長生きすれば、天下は信玄のものであったというのが、
歴史家の共通した見解。
その強さの秘訣が、この孫子の兵法にあると言われているんですね。

『孫子の兵法』にあるとおり、信玄は一切の占いを禁じました。
六曜のような日の善悪みたいなものも。

今日は日が悪いから戦はやめようとか、日がいいから戦おうとか
方角がいいとか悪いとかいう考えは、愚中の愚として禁止しています。

その他で有名な言葉は、
「呉越同舟」
元々の意味は、呉の人と越の人は仲が悪いけれど、
同じ舟に乗り、嵐にあえば、互いに協力しあうということ。

協力しあう環境をつくることが大切だと書かれています。

他にも、ためになる言葉が色々。

「算多きは勝ち、算少なきは勝たず。況んや算無きにおいてをや」
勝利の条件が多ければ勝ち、少なければ負ける。
まして、勝算がなければ言うに及ばない。

「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」
戦わないで敵を降服させるのが最善。

「上下の欲を同じくする者は勝つ」
上の人と下の人が、目的を同じくしているなら勝つ。

「勝ち易きに勝つ者なり」
勝ちやすいところで勝った者。

「善く戦う者は、之を勢に求めて、人に責(もと)めず」
戦いが上手な人は、勢いによって勝利を目指し、
個々の兵士の能力には頼らない。

「兵の形は水に象(かたど)る」
軍隊の形は水に似ている。

「始めは処女の如く、後には脱兎の如くにして」
最初は素直に従い、後には逃げ出すウサギのように素早く攻撃。

これらはどれも、策で勝つというものばかり。
何かに頼ったり、他の何かのせいにしたり、
ということはないんですね。
タグ:迷信 占い 六曜
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2024年11月04日

すべての仏が認めた、智慧の力が最強の仏

大宇宙に在します、すべての
共通して褒め称える仏があります。

それは、仏方の本師本仏といわれる阿弥陀如来という仏です。

浄土真宗親鸞聖人は、大宇宙のすべての仏が
阿弥陀仏を本師本仏と褒める理由を
『ご和讃』に分かりやすく教えられています。

無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり(浄土和讃)

「無明の闇を破するゆえ」というのは、
心の闇を破る力があるから、ということで、
その心の闇を破る力は「智慧」というお力なので、
それで智慧光仏と名付けるのだと言われています。

智慧イコール光明。
これは仏教の決まりみたいなものです。

阿弥陀仏は智慧の光の仏だと。

「一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉したまえり」
心の闇を破る力があるのは阿弥陀仏だけだから
一切の仏方が褒め称えられるのだと言われています。

阿弥陀仏の建てられた本願を褒め称えない仏はありません。
大宇宙のすべての尊い方々が褒められる。

「一切諸仏三乗衆」とは、声聞衆、縁覚衆、菩薩衆のことをいいます。
一切の諸仏方、またその下の声聞、縁覚、菩薩。
そういう方々も阿弥陀仏のことを褒め称えられている。

それはなぜかというと、自分たちにはない力を
阿弥陀仏はお持ちだからです。
弥陀の本願を褒め称えない諸仏、菩薩はありません。

ちなみに声聞、縁覚、菩薩とは何かというと、
仏教で十界という言葉があります。

六道というのは、
地獄界餓鬼界畜生界修羅界、人間界、天上界のこと。

これにあと、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界。
これを十界といいます。

六道は死んだ後だけではなく、
この世の人間の心の状態を言われることがある。
この世も常に心は六道輪廻しているんですね。

また声聞、縁覚、菩薩も人間の心と言えます。
文字通り言うなら、声を聞いて悟る人、縁で悟る人。

ですが今日の末法では、声聞も縁覚も菩薩も
ずっと高い悟りの人たちだから縁がない。
一切諸仏三乗衆とは、
実際に仏の声を聞いて悟る人、
縁にふれて悟る人、
末法の現代人の誰よりも、ずっと高い悟りの人です。

しかし十界は、私たちの心ということで言われます。
どういう状態かというと、
まず地獄界は、泣くに泣からぬ逆境に立ち、
人を呪い、恨んでいるのが地獄の心。

こういう状態では、なかなか仏法は聞けません。

次に餓鬼界。
我はなりとあるように、あっても欲しい、なければないでまだ欲しい、
食欲、色欲、あってもなくても欲しい。

財があっても財がなくても餓鬼です。
食欲、色欲、名誉欲、常に満たされないのが餓鬼の心。

次が畜生の心。
恐怖心が強く、戦々恐々としているのが畜生の心。

犬とか猫でも休めない。
ぴくっと耳を動かしたりする。
動物は本能のままに生きている。

次に修羅の心。
己の意志に背く者を心の中でたたき合い、殺し合っている心。

そして人間界。
これは、他人に迷惑をかけず、因果の道理を信じて
正しく生きようとするのが人間界の心。

因果の道理を信じて、正しく生きようとする。
これが人間の心。
努力しましょう。
相手の立場に立った生活を心がけましょう。

我利我利亡者ではダメですよ。

最後に天上界。
これは、物質や健康に恵まれて、花見遊山、
一時我を忘れているのが天上の心。

花を見たり、山で遊んだり楽しい。
一時の間、我を忘れています。

楽しいときは我を忘れています。
心の闇を持っていてもそれを忘れて、楽しんでいる状態。

声聞界というのは、苦集滅道の四聖諦の道理を弁え
向上の道を進んでいく。
苦集滅道の四聖諦の道理を弁えなさい。

向上の道に進んでいくのが声聞の心。
どういうことかというと、声聞とは声を聞いてとあるように
声を聞いて悟ろうとする。
私たちなら仏の教えを聞く。

苦集滅道とは四聖諦のこと。
四つの聖なる真理。
この苦しみ悩みの原因と結果。

まず苦諦とは、人生は苦なり、という真理。
どうして苦しみが起きてくるのか、苦悩の原因は何なのか
というのは集諦。

ではどうしたら幸せになれるのか。
滅諦とは幸せな世界。
道諦は解決の道。
これが四聖諦です。

苦集滅道の四聖諦の道理を弁えなければならない。
向上の道を進むのが声聞の心。
だから常に仏法を聞かせていただいて
向上の道を進まなければなりません。

縁覚の心とは、世の中の無常を悟り魂の解決を急ぐことです。
この縁覚の心、私たちも持たなければなりませんね。

縁覚とは縁にふれて悟る人。
あなたに無常を教えてくれる人はたくさんあります。

だから失恋も、そういう意味ではいいご縁です。
ふられるというのは、世の中の無常を教えてくれている説法だと受け取れば。

世の中の無常を悟って、ますますこの道しかないと進むんですね。

菩薩の心というのは、身を捨てて利他の行をせずにおれない心。
これも私たち持たなければならない心です。
自利利他の道が菩薩道です。
自分の身を捨ててでも、我利我利であってはならない。
利他に徹するままが自利になります。

他に尽くす行。
身を捨てて、利他の行を行わずにおれないのが菩薩の行。
菩薩の心と仏の心は、共に身を捨てて、利他の行をせずにおれない。
我利我利亡者は地獄行きとなります。

私たちの心は常に揺れ動いていますが、天台宗でいわれる
「十界互具」と言えないこともない。

ですから、あなたも約束を破ったり、他人に迷惑をかけない。
こういう心があって進めるということです。

この阿弥陀仏の本願によってのみ、心の闇を破っていただけます。
そういうお力は、阿弥陀仏にしかありません。

だから、菩薩や声聞や縁覚といった
私たちよりもずっと優れた方々も
共に嘆誉して、弥陀の本願一つを教えてくださっている
と言われているご和讃です。
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2024年10月12日

さとり、仏、真理は誤解されやすい

仏教というのは、仏の説かれた教えということ。

では、仏とは何か。

世間では、仏といえば、亡くなった人だと思われています。
誰かが亡くなると、「成仏した」といわれるように
死んだら仏になると思っている人が多くあります。

でも、これはとんでもない誤解。
仏が死んだ人のことであれば、仏教は死人の教えということになるので
かなり怖いですよね。

というのは、正しくは「さとり」のことです。
「人生悟った」と言っている人もありますが、
さとりというのは、そういうものではありません。

「さとり」とは智慧のこと。
一口にさとりといっても、全部で52あります。

大相撲でも、ピンからキリまです。
序の口から始まって、一番上は横綱。

そのように、さとりにも52の位があります。
その一番上が、仏覚。
妙なる覚りということで「妙覚」とも、
これ以上ないので「無上覚」ともいわれます。

天台宗を開いた天台の智顗という人は、臨終に弟子に
「私は五品弟子位までさとった」と言ったといいます。

龍樹菩薩という人は、41位までさとったといわれています。

仏といったら、耳がのびたり、頭が大きくなったり
という仏の三十二相というのがありますが、
このさとりさえ開けば、誰でも仏なんです。

これは智慧であって、知識ではない。
ちょうど山に登るようなもので、高く登れば、
それだけ遠くが見えるようなもの。

でも、どんなに高く登っても、反対側は見れない。
頂上に立って初めて、すべてが見えるわけです。

お釈迦様は
「一切の智者なり」
と言われましたが、大宇宙の真理を知るわけです。

真理といっても、ここでは
「私たちが本当の幸せになる真理」のことです。
これを「真如」ともいいます。

どうすれば、すべての人の苦しみを抜き取ることができるのか。
どうすれば、すべての人の望む幸せを与えることができるのか。

抜苦与楽の真理の内容を、山に登って頂上に立って
お釈迦様が発見された「真如」を、私たちに教えられたものが仏教なんです。

本来「真如」は絶対のものですから、言葉で表すことはできません。
仏典の言葉では、「離言真如」といいます。
言葉を離れた境地ということです。

言葉自体が相対なもので、人間の智慧も相対的なものでしかありません。

このことについて、有名なエピソードがあります。

お釈迦様のお弟子たちが、在家の信者・維摩居士から
「真如とはどういうものか」と聞かれた。
誰が答えても、維摩は納得できない。

そして、文殊菩薩という智慧のすぐれた菩薩が
「真如とは言葉にのらない世界です」と答えた。

その後、文殊菩薩が、逆にその維摩に尋ねた。
すると維摩は何も答えない。
言葉で表せない世界だから。

そのエピソードから
「維摩の一黙百雷の如し」といわれる。

これが『維摩経』というお経に説かれています。

阿弥陀仏の本願というのは、「真如」です。
なので、言葉にはのらない。

それだと、私たちは知ることできません。
お釈迦様も最初は、言っても分からない、
謗らせるだけだということで、あきらめようとされたほど。

それでも、百里の道も一歩からということで、説き始められたのです。
それが一切経になったんですね。
言葉によって真如を表す「依言真如」ということです。

一切経は七千余巻と沢山ありますが、お釈迦様が説かれたかったことは
阿弥陀仏の本願、これ一つです。
そして、私たちに分かりやすいようにして教えられました。

アインシュタインが相対性理論を発見した。
それを幼稚園児に教えたい。
見つけたものは素晴らしいけれど、そのまま言っても分からない。

たとえていうと、子供と将棋をしたい親がいる。
ところが、幼稚園児と将棋をさそうとしても、とてもできない。
いつまでたっても、桂馬の動かし方が覚えられない。
「それじゃ将棋にならんだろ!!」と子供の手を叩いてたら、
子供はグレてしまう。
そしたら、そのまま成長しても、将棋なんてさしてくれない。

だから、最初は将棋の駒を崩すので遊ぶ。
そうやって将棋をさせるように導く。

これを「対機説法」とか「応病与薬」といいます。

頭が痛いのに、病院に行ったら
いきなり足をもまれたとなったら、どうでしょうか。

「やめてください」となるし、不審がられてしまう。
なので、最初は頭をもんであげる。
そしてそのうちに、
「あなたの頭痛は、本当は足に原因があるんです」と言えば、
足をもまれることにも納得する。

夫婦喧嘩で苦しんでいる人に、
「苦悩の根元は心の闇です!!」と教えても、納得できない。

そういう人にあわせて話されたお経があります。
「夫婦のすすめ」みたいなものが。

これは大変な忍耐です。
機に応じて教えを説かれたんですね。

そうやって、すべての人を真如へ導こうとされたのが仏教なんです。
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2024年09月27日

人間に生まれたことに感謝

地獄へ堕ちる者は多く、人間に生まれる者は極めて少ない
ということを教えられたお経があります。
『涅槃経』というお経です。

「地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
 人間に生れる者は爪の上の土の如し」(涅槃経)

『涅槃経』は、お釈迦様の最後の説法。
特にお亡くなりになる直前のご説法は『遺教経』に説かれていますが、
それも含めて『涅槃経』には説かれています。

人間は地獄に堕ちる者。
ほとんどの人が死後、地獄に堕ちることに。
この地獄というのは、実は自分の業によって堕ちるんですね。

地獄へ堕ちるというのは、「落ちる」ではなく「堕ちる」。
落下ではないからです。

地獄に堕ちる者は、大宇宙の土の数ほど多くの者たちである。
それに対して、あなたのように人間界に生を受けた人、
お釈迦様は爪の上に土を乗せられて、
爪の上の土ほど少ないのが人間界の人なのだと言われています。

いかに人間界に生まれることが有難いことなのか分かります。
多くの人は、三悪道(地獄、餓鬼、畜生の三つの苦しみの世界)に堕ちて
苦しんでいる。
こういうことからも、人間に生まれたことを喜ばなければならないんですね。

人間に生まれたことを喜ぶべきだと教えられた
源信僧都という高僧のお言葉。

「まず三悪道を離れて人間に生るること大きなるよろこびなり。
 身は賤しくとも畜生に劣らんや、家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
 心におもうことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず」(横川法語)

これは、横川というところで、源信僧都が書き表した有名な本です。

まず、私たちは三悪道を離れることができた。
ほとんどの人が、地獄、餓鬼、畜生の世界で苦しんでいる中、
私たちは人間界に生まれることができたんですね。

これは、まだ信心決定していなくても、
飛び上がって喜ばなければならないことです。

最初に畜生と比べられています。
いくら自分が人間界で身は卑しいといっても、
どんなにお粗末な人間だったとしても
畜生と比べたら、ずっと幸せではないか。

そして、次は餓鬼界との比較。
家が貧しく、衣食住で生活はやっとという人でも
餓鬼界と比べたら、ずっと幸せではないか。

餓鬼界の苦しみは、食べたくても食べられない。
自分さえよければ、人はどうなってもいい
という心が餓鬼を生み出すといわれます。

食べたくても食べられず、飲みたくても飲めない。
それと比べれば、食べることができる、飲むこともできる。
餓鬼界の苦しみと比べたら、ずっと幸せなのだぞ
と言われています。

そして最後は地獄界。
思い通りにならないことはたくさんあるけれど、
地獄の苦しみと比べたら、比較にならないのだよ。
人間界に生を受けて生活をしていると
思い通りにならずに、苦しい苦しいと言っているが、
地獄の苦しみと比べたら比較にならない。

この世の苦しみをひとすくいの水としたなら、
死んだ後、後生の苦しみは大きな海のようなもの。
また、人生を1㎜としたら、後生は地球10.6周になります。

こういう桁違いの苦しみが後生に待ち構えているのです。
これを一大事といわずに、何を一大事というのか。

その一大事解決の絶好のチャンスが来ているのだから、
たとえ未だ信心決定できていなくても
真実を知らされた喜び、求める喜びがあっていいんですよ。

感謝の心で聴聞するのと、イヤイヤ聞くのとでは大違い。
なので、あなたも感謝の心で聞かれると
受け取るものも大きくなります。

信前でも大きな喜びとともに求道の勝縁にする。
覚えているだけでも、非常にプラスになります。
これを口ずさむことで仏縁になるんですね。
思い出すことで、全部善業力が阿頼耶識におさまります。
求道の糧になるということです。

「人間に生まれたことを喜ぶべき」
これが源信僧都のお言葉。

人間に生まれたことを喜びなさい、喜びいっぱい求めなさい。
たとえ、未だ信心決定できなくても。

三定死のときは苦しいけれど、それまでは喜びいっぱいで求めていける。
求道の障害は色々あっても、教えの徹底によって
マイナス思考ではなくプラス思考になっていくから。

常に前向き、常に善果のときは感謝、努力。
悪果のときは懺悔。
できない理由もたくさんあるけれど、できる理由も無限にある。

仏教が唯一救われる教えですが、このすばらしい仏教にあえない人もあります。
今あなたは、この八つの難を乗り越えることができた、
けれど、いつまた八難に陥るか分からない。

①在地獄の難
②在餓鬼の難
③在畜生の難
④在長寿天の難
⑤在辺地の難
⑥聾盲瘖瘂の難
⑦世智弁聡の難
⑧仏前仏後の難

①②③⑥は、苦にせめられて聞けない。
④⑤は、楽におぼれて聞けない。

この信心決定というのは、五趣八難の道を超えさせていただけるんですね。
『教行信証』でこの根拠をあげると、
五趣八難の道を超えさせていただける、とありますね。

仏法力不思議で、五趣八難の道を超えるのが仏法。
そして、現生に十種の利益を得る。

金剛心を体得する者は、横に。
横にとは、大願業力、阿弥陀仏の大願業力によって
五趣八難の道を超えさせていただけるのだとおっしゃっていますね。
これは信心決定の体験です。

五趣とは六道のこと。
修羅界を人間界に含めて言われることがあるんですね。
その迷いの世界を超える。
そして八難。
八難を超えさせていただける。
これが信心決定。

人間界以外に生まれていたら、仏法は聞けない。
人間界に生まれて、八難を超えさせていただける喜びを
具体的に見ていきます。

まず最初は在地獄の難。
これは、今現在地獄に堕ちている人。
そういう人は仏法を聞けません。

もちろんこれは死後のことでもありますが、現在の人でもあります。
今生活が苦しいとか、病気などで体が非常につらいとか。
今地獄の人も、仏法はなかなか聞けない。
苦しみに迫られて聞けないんですね。

そして、在餓鬼の難。
餓鬼界の人も仏法を聞けません。
生活で汲々としている人は仏法を聞けない。

また、在畜生の難。
欲ばかり追い求め、快楽のままに生きている人。
そういう生活をしていたら、仏法はなかなか聞けません。

これは、死んでからだけのことではなくて、
生きている人でも、そういう人が多いですね。

次に、在長寿天の難と在辺地の難。
これは天上界のことです。
天上界は楽しみが多すぎて聞けないんですね。
今だったら、芸能界に入った人は、おそらく仏法が聞けないと思います。
今スポットライトを浴びている人は、なかなか聞けない。
また、彼氏彼女ができて、ルンルン気分の人は聞けない。

だから仏法を聞くには
あまりに苦しくても、あまりに楽しくても聞けないんですね。
今聞いているのは、そんなに苦しいことも楽しいこともないということ。
それがいい。

次に、聾盲瘖瘂の難。
聾とは耳が聞こえない方、盲とは眼が見えない方。
瘖瘂とは、音が病、口が病ですから、いわゆる口が聞けない人。
こういうことがあると、とても大変ですよね。
だから、苦しみにせめられて聞けない。
もし、そういうことがなかったとしたら、
今五体満足で生まれたことを心から感謝したいですね。

そして、世智弁聡の難。
世智とは世間の智慧のこと。
世間ごとには非常に長けています。
弁えて、聡明。
頭がいいと。
世間ごとはよく知っていて、屁理屈ばかり言う。
そうすると、なかなか素直に仏法が聞けない。
頭はいいけれど、屁理屈ばかり言うという人、結構あるんですね。

以前、学生さんで、こういう人がありました。
生死一如、これは裏と表の関係だ。
どんな紙にも裏と表がある。

それを聞いて、メビウスの輪みたいなもの。
こういう紙は表、裏が分かりませんよと。

生と死に密接な関係があるということを言いたいためのたとえ話。
なのに、メビウスの輪を持ち出した。
こんな感じで、なかなか聞けない人もあります。

そして最後は、仏前仏後の難。
これは、仏様の前に生まれた人、
そして、仏様がお亡くなりになった後に生まれた人のこと。
こういう人は仏法が聞けない。

私たちでいえば、善知識。
善知識の生まれられる前に生まれたら仏法は聞けませんし、
亡くなられた後は仏法を聞くのは難しいです。
だから一座一座を大事に聴聞する。

善知識はこれを「微善なるが故に聞けない」とおっしゃいます。
あなたはその点、宿善があったのですから、
それに感謝して仏教を聞く。

今あなたは人間界に生まれた絶好のチャンス。
そして、これらを乗り越えて仏法を聞けますから。

でも、信前は油断できません。
いつ八難に襲われるか分からない。
誘惑もたくさんあります。

また眼が見えない、話が聞こえない、
こういうことが襲ってくることもある。

疑問を残したまま、疑問を抱えたままだと、
真剣に求められないことがある。

でも、どうでもいいことばかり気になってしまう
という人もあります。

今は善知識がおられる、
だから今しかチャンスがないのです。
善知識に巡り会えたチャンスをものにすることが大事。
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2024年09月16日

人生が好転するキッカケは自分探し

何事においても目的は大事。
人生においても、一番大切なのは目的。

そして、この人生の目的が何かを知るには、
まず前提として、自分を知らなければならないんです。

最近話題の本、『人生の目的』。
これは誰もが一番関心のあることですよね。

人生の目的というのは、
人は何のために生まれてきたのか
何のために生きるのか
ということなので、これを知るにはまず
人間とは、自分とは何かを知らなければなりません。

自分が分からないままで、自分が生きる目的が分かるはずがないんですね。

昔から「汝自身を知れ」といわれます。
これは、知らない人はないと言ってもいいほど有名な言葉で、
ギリシアにあるデルファイの神殿の第一の扉に刻まれている不朽の名言。

これを言ったのは、古代ギリシアの哲学者・ソクラテスといわれています。
哲学の父といわれ、世界の偉人・聖人といわれている人です。

そして、東大の和辻哲郎が選んだ四大聖人の一人。
トップがブッダ、次いでキリスト、孔子、そしてソクラテス。
あなた自身はどういうものなのか、あなた自身がよく知らなければならない。

「自分自身はどういうものか」
これは、昔から色んな人が考え主張していること。

フランスの哲学者・パスカルの『パンセ』には
「人間は考える葦である」
という有名な文章があります。

その後に「思考の順序は、自己とその目的である」と続く。

世界的にベストセラーとなった哲学書『ソフィーの世界』は
「私は誰?」と、一通の手紙を通して、自己の探求から始まっています。

私たちが仕事を選ぶ時も、
自分はどんなことをやっている時に一番楽しいか、生き甲斐を感じるか、
ということで、自分のことを振り返ると思います。

体調が悪くて病院へ行くと、
医師がいきなり手術を始めたり、薬を処方したり、ということはなくて
診察をして、まずどこが悪いのかを調べます。

なので、私たちが本当の人生の目的を知り、本当の幸せになる時には、
まず自分とは何か、私とは一体どんな姿をしているのか、
これを知らなければならない、ということです。

病気にかかっている場合、
その病気を正しく見て、適切に治療しないと健康にはなれません。

お腹が痛いと言っても、食あたりか盲腸か、原因は何か。
ある時はお腹を温めなければならないし、
ある時は冷やさなければならない。

医療の世界で今日、最も恐ろしいといわれているのは誤診です。
以前東京で、こういう誤った診断が問題になったことがありました。

夏祭りに来ていた小さい男の子が、綿菓子をなめている時に転んでしまった。
帰宅した後、その子は頭が痛いと言い出した。
病院に行ったけれども、大丈夫と言われたので帰宅。
そして、次の日に亡くなった。

遺体を解剖してみて分かったのが、綿菓子の割りばしがのどを貫通して、
脳まで届いていたそうです。
このことは大変な社会問題になりました。

これは医療の話ですが、
医療ではなくても、日常的に自分自身を見誤ることは結構あります。

例えば、就職。
大学を卒業して就職した後、転職をする人が
昔と比べると増えたといわれます。

バイトを転々として定職に就かないフリーターとか。
そうなってくると、社会的には信用できない人と見なされる。

反対に、どんな仕事でも、10年20年続ける人は信用できる人。

転職の理由には色々ありますが、その1つに適性があります。
大きく分けるとポイントは2つ。

1.意欲・やる気が本当にあるかどうか
  誰かに言われたからだと続けるのは厳しい。

2.気持ちがあっても向いているかどうか
  全然向いていないのに、ただ好きだからだと続かない。

こういうことを自分で見誤っていると
長続きしないということになるんですね。

なので、若いうちに、自分を正しく見る力、コントロールする力を
身につけることが大事。
これがなくて社会に適応できない人が増えているそう。

結婚も同じようなところがあります。

若い人が持つ結婚観。
相手に対する理想高すぎ問題。

男性に聞いてみると、
性格がよくて、優しくて、顔は松嶋菜々子で……
果たして自分が、それに相応しいかどうかは考えない。

依存する人は自分に対する反省が弱いので、事が進まない。
これは自信過剰。
期待が裏切られるとクラッシュ。

反対に自虐的な人。
自分なんて必要とされてないんだ……
すぐに自信を喪失する。
自分をダメにする。
自分には1つもいい面はないと思い詰める。
精神的な浮き沈みが激しい。
これも自分が分かっていない。

結婚前に相手を徹底的に調査する人がある。
でも、自分のことは調査しない。
自分のことは分かっていると思っている。
それでなかなか上手くいかないんですね。

日常生活で、どの場面でも、
自分自身を知ることがいかに大事なことかが分かります。

ところが、自分自身が全く知られていない。

この自分自身を知るということで有名なのが、
エジプトのスフィンクスの話。

上半身は人間で、下半身はライオン。
ピラミッドのそばにいる守護神。

スフィンクスは行き交う旅人に、なぞなぞを出す。

「生まれた時は4本足で、大きくなったら2本足、
 年をとったら3本足になる生き物は?」

これに答えられない旅人を食べてしまったといわれます。

このなぞなぞの答えは人間。
ここには、自分のことが分からないなんて、我が身知らずも甚だしい
という教訓が込められています。

「人間よ、あなた自身のことを知りなさい」と指南している説話。
そして、答えられない旅人を食べてしまう、というところがミソ。
自分のことも知らずに生きていて、生きる価値はないぞというわけなんですね。

中国の孔子も四大聖人の一人。
有名な著書に『論語』がありますが、
これに勝るとも劣らない内容といわれているものに、『孔子家語』があります。

その中のやりとりの1つ。
弟子:「先生、世の中には大変な慌て者がいるものですね。
私の友人に、家財道具をみんな、一つの漏れもないように、新しい家に運んだのですが、
気がつくと奥さんを忘れていた。
奥さんは明かりの消えた家で泣いていたそうです。
大切な家財道具を持っていっても奥さんを忘れるとは慌て者ですね」

孔子:「いやいや、妻を忘れるくらいはいい。
世の中には自分の姿を忘れていて、あら忙しいと飛び回っているものばかりでないか」

忙しいという字は、りっしんべんに亡くすと書く。
自分とはどういうものかを忘れて、突っ走っているのが現代人の姿ではないか。
学生は勉強で忙しい、バイトで忙しい。
主婦なら家事、会社に行けば仕事。

では、忙しがっている自分はいかなるものか、考える時間がない。
そのくせ、妻がこう、子どもがこうと言っている。
それなら、あなた自身はいかなる者か。
それを忘れている。
こういう教訓を2000年の昔に、孔子は語りかけています。

インドで誕生した、世界最高の偉人はブッダ。
ご在世中にも有名な説話。

あるお金持ちの貴公子が30人くらいご婦人同伴で宴会をしていた。
飲むほどに、勢いで歌い始める。
インドは暖かいところだから、そこら辺で寝てしまう。

いい気持ちになったところで貴公子達は居眠りをしてしまい、
一人が目を覚ましてみると、金目のものがなくなっている。
「おかしいぞ、一人怪しい女がいた。
 きっとあの女が、俺たちの財布を持っていったに違いない」
貴公子達は森中を捜索した。

森の中で、ブッダが半眼の眼で、座禅しておられた。
「こちらに変な女が逃げてきませんでしたか?」

「それは大変だな、だが一女を求めることと、汝自身を知ることと、
 どちらが大切かな?」
と大喝され、貴公子達は夢から覚めた心地がした。

男たちは仕返しに燃えたぎっていた。
そもそも、そんなお金持ってこなければよかった。
でも、自分たちに落ち度はなかったか、とは考えない。

インドの世界最高の偉人、ブッダが、貴公子達に
いかに自分の姿を知ることが大切か言われている話です。

仏教の言葉に
「仏道を習うというは自己を習うなり」
というのがあります。

仏教といっても、自己のすがたを学ぶものなんですね。

自分のすがたを正しく知らないと、
病気も治らない、結婚もできない、ひいては人生をダメにしてしまう。

自己を知ること、自分探しは大事なことだということです。
posted by 陽葵 at 16:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2024年05月01日

自己の無常を見つめると、人生の方向性が見えてくる

人生の目的を知るためには重要な心がけがあります。

そもそも目的は大切なもの。

アメリカの歴代大統領の中でも人気が高い、リンカーン大統領は
「Where there is a will, there is a way」と言っていて、
これは、意志あるところに道は開かれる、という意味です。

強い意思、信念、私はこのために生きているんだという意思があれば、
どんな困難なことにぶち当たっても道は開ける、ということです。

また、ゲーテという人は、
「人類史上始まって以来の天才」と自分で言うほどの人ですが、
実際、歴史に名を残す人物。
そのゲーテが
「目的さえあれば、どんな困難なことでも乗り越えることができる」
と言っています。

では、人生の目的は何でしょうか。

その人生の目的を知るに当たって大切な言葉
「無常を観ずるは菩提心の一なり」

常がない、無常、ということ、中でも死を見つめることが、
損得抜きの、純粋な本当の幸せを見つけたいという菩提心の出発点なのだ
と言われています。

ヨーロッパでも「メメント・モリ」と言われますが、
仏教では「生死一如」という言葉があります。

生と死は一つの如し。
紙の表と裏のようなもの。
コインの裏と表のような、密接不離な関係にあります。

「生」については考えたい。
生き生きとしている、というと良いイメージ。
「死」については考えたくない。
死に死にの状態というのは、嫌なイメージですね。

だから「死」という言葉さえ聞くのが嫌という人が多い。
ついでに数字の「4」まで嫌われてしまうことも。

ホテルでも、4号室がなかったり、4階がなかったり。
子供の頃、不思議で仕方なかった。
エレベーターに乗ったら、
1階、2階、3階、「・」(ちょん)、5階となっている。
おかしいな、3の次は4だと習ったのに。
バスも1号車、2号車、3号車、次になぜか寿(ことぶき)号車、
そして5号車。
とことん嫌われています。

病院へ行くともっとそうですよね。
「今日から入院してもらいますが、あなたの部屋は
 第4病棟の、4階の444号室の第4ベットです。
 ついでに手術の日は、4月4日の4時4分4秒ね」
と言われると、
「やめてー」
となる。

入院している人に、シクラメンを持っていくと怒られる。
死暗面と読んでしまうとか。
シクラメンの香りっていいのに、とかそんなの関係ない。
みんな「死」を嫌い、「死」を考えないようにします。

ですが、「死」を避けて「人生」は語れない。
哲学は死の準備ともいわれます。

なぜか、これを例えでいうと
「生」は台所
「死」はトイレに例えられます。

台所は好きな所。
おいしいものが食べられるから。
子供の頃、帰ってきたら冷蔵庫に直行していました。

それに対して、トイレは嫌いな所。
うちは一家団欒、トイレでやってます
という家族はすごーく危ない。
昔のトイレは、もっとひどい。

それでも「トイレ」なくして「台所」なし。
トイレがないと、みんな困ります。

徳川家光にこんな話があります。
将軍家光が「この世で一番、気持ちのよいことは何か?」
と家来たちに尋ねた。
みな、色々に答えたが、ある家来が
「それは野糞をすることでございます」と答えた。

みんな、「お前、将軍様の前で、なんと不埒な!」といさめた。
家光も機嫌を損ねて、その家来を解雇した。

ところが、ある時、鷹狩りにでかけた家光が、急にもよおしてきた。
しかし、まわりに民家もない。
そこで、穴を掘らせて仮説トイレを作らせた。
「まだか、まだできぬのかー、まあだできぬのかぁーーっ!!」
「殿、今しばし、今しばしーーぃ!!」
戦場以上の気合いがお互い入っている。
そして、ようやくことを済ませた。
その時に、フッとあの家来の言ったことを思い出し、
「なるほど、このことであったか」と、よ~く分かった。

そして、その家来は、役職に復帰することができたとさ。
メデタシメデタシ。
って話なんですが。

ここで分かりますように、トイレがないと、ものすごーく困るんですね。
家のトイレの水が出なくなった時は本当に困りました。

長距離バスのトイレが壊れて、しかも渋滞中。
サービス・エリアになかなか着かない。
そうなると、「まぁだ着かぬのかぁー」となる。

普段「死」を考えることをしないけれども、
それは「トイレ」を考えずに、食事をするようなもの。
片手おちも甚だしいのです。

そして「死」を通して初めて「人生」が浮き彫りになってくる。
命の重さ、大切さ、が分かってくる。
「死んだら死んだ時」とか、
「人生失敗してもいいです」
なんて言葉は出なくなる。

だからこそ
「無常を観ずるは菩提心の一なり」
と言われるんですね。

posted by 陽葵 at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2024年04月08日

地獄行きの人は誰?

「念仏というと、仏教という感じがしない」
そんな風に思っている人は多いと思いますが、これは完全に間違いです。

ある仏教の先生が
「私はよく、若い頃、臨終説法というのを進んでさせていただいていた」
と言われていました。

臨終説法というのは、今日死ぬかもしれないという人が、
今生最後に仏法を聞かせてくださいと言って、その人に法を説くことです。
聞く方がド真剣なので、話す方もド真剣だそうです。
次の日は、半日何もできなかったとか。

その先生が、こんな話をされていました。
「私がある公民館で説法していた時、聞きに来ていた人で、
 涙をボロボロ流されながら話を聞いている人がいた。大の大人が……
 よほど何かあったのかと思った」
昼休みにその人が控え室にやって来て、
「私には14才の息子がいるんです」
その子は日本脳炎にかかって、更に悪化して脳膜炎になっていて、
今日死んでも、明日死んでもおかしくない状態になっていたそうです。

そして、有名な布教使が来たら連れていくということになっていた。
ちょうど都合がついたので、ご説法が終わった後、
その人の家へ行くことになった。

息子さんと、両親が同席して、部屋に通されたそうです。
まず、子供さんの顔を見て、白目だったので驚かれたそうで。
病気で目が見えなくなって、耳も遠くなっていて。

自分も時間がないし、この子もそんなに長い間聞くこともできない。
お互い時間がないということで、相手の質問に答えることにされました。
一切経でも、問答形式というのは非常に多いんですね。

それで先生が聞かれたところ、
「僕、死んだらどこ行くの?」
と胸を押さえて聞いたそうです。
「暗い、暗い」と。

それにどう答えればいいか、
初めて仏法を聞く子供にどう話したらいいか、
先生も悩まれたそうですが、因果の道理の話をされました。

次に
「じゃあ、君は今までどんな種まきをしてきたかな?」
と聞かれたそうです。
「ザリガニを捕まえてきて、足にひもをつけて遊んだ。
 蛙を捕まえてきて、握りつぶして殺した」など、
子供なりの罪悪で、悪いことをしてきたと。
そういうことばかり言い出したんですね。

ベルグソンという人は
「臨終に悪い種まきばかりが思い出されてくる」
と言ったそうです。

先生はどうおっしゃったかというと、
「悪い種まきをしてきたなら、因果の道理によって
 悪い世界に行かなければならない。
 死ねば地獄である」と。

すると、向かいで聞いていたお母さんが先生の手をつかんで
別の部屋に連れて行かれたそうです。
「先生、なんて事言われるんですか。
 地獄に堕ちるなんて言わないでください。
 念仏称えたら極楽に往けると言ってあげてください」

先生も、そのまま言うというのは
その子の立場になれば、つらいことだというのも分かるし、
お母さんの気持ちも分かるということで譲歩されました。

それで
「念仏称えたら極楽に往けるから、今から念仏称えなさい」
と言われた。
するとその子は、3回称えたんですね。
するとお母さんが、
「もう少し多く称えるように言ってもらえませんか」
と言うので、そのように繰り返して、合計30回くらい称えた。

そうすると、お母さんが御法礼を持ってこられた。
これを受け取ったら、親鸞聖人に申し訳ないと思い、
受け取られないでいると、
その子が「あの先生、行ってしまったの?」と聞いた。
それを聞いたお父さんが、
「まだだよ。何でも聞きたいこと聞きなさい」と。

そうするとまた
「僕、死んだらどこ行くの?暗い、暗い」
と聞いたそうです。
先生は、ご両親の顔色も見られず、この子の仏縁を念じて、
ひたすら真実の仏法をお説きになられたそうです。
結局、その子がどうなったかはお聞きしていませんが。

因果の道理は曲げられません。
罪悪深重の私たちのすがたも曲げられません。
無常迅速の機も曲げられません。

そこから導き出されるのは、後生は一大事ということです。
これを「従苦入苦 従冥入冥」といわれます。
苦より苦に入り、冥より冥に入るということです。

人は、己の造った過去の悪い種まきによって、
悪因悪果、次の世界に沈むのだと。

『大無量寿経』には、このように教えられています。
________________________________

大命将に終わらんとして悔懼交至る。
悪人は悪を行じて、苦より苦に入り、冥より冥に入る。
(中略)
其の中に展転し、世々劫を累ねて出づる期有ること無し、
解脱を得難し。
痛言う可らず。
(大無量寿経)
________________________________

真っ暗な後生に泣くんですね。
一生懸命叫んでいるんだけれども、少しも信用してくれる人がいない
という、お釈迦様の嘆きです。
大変な一大事があると、ハッキリ説いておられますね。

『観無量寿経』にもあります。
_______________________________

悪業を以ての故に応に地獄に堕すべし。
命終らんと欲する時、地獄の衆火一時に倶に至らん。
(観無量寿経)
_______________________________

釈尊がハッキリ説いておられます。

現在苦しい人は、死ねば当然苦しい世界に行かなければなりません。
未来永劫の浮沈は現在にかかっているんです。
現在、闇を断ち切る。
これが大切なんです。

大切なのは、正しい教えを真剣に聞くということです。
先生は、急いで急がず、急がずに急げとおっしゃっています。
しっかりとした教学を身につけて、聴聞させて頂くのが大事です。
間違ったことを言う人がやって来ても、自分の頭できちんと理解していれば、
間違っていると分かります。

間違った教えを信じて、おかしな考えでいたら、
とんでもない方向に行ってしまいますので。
仏教というのは、必ず分かる教えです。

そして、ハッキリするところがありますので、
そこまで仏教を真剣に聞かなければならないんですね。
タグ:聴聞 解脱 地獄
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