2019年03月16日
理想の学校を作るためには
「これは自分の仕事ではないから動かない、という考え方がセクショナリズムなのです。」
職員会議の冒頭で、校長がそう訴えた。
「誰かがやるだろう、ではなく、自分がやるのです。この学校が、こんな風に自分から動ける集団になっていけば、さらに素晴らしい学校になるはずです。」
と結んだ。
確かにその通りだろう。
「自分は関係ありません。」
という態度の先生がいれば、結局その仕事は別の先生の負担となり、一体化した協力体制のある組織にはならない。
しかし一方で、「自分でやる」ためには、当然責任が伴い、それが上手くいかなかった場合、今度は逆の管理職側がフォローしてくれなければいけないのだ。
「本当はこれ以上の指導が必要だが、それをすれば、クレームが起こるかも知れないな。」
などと、いつも保身に入ってしまえば、生活指導など行えない。
いざというときには、大きな声で叱責することだって必要だ。
その時に、状況も分からないまま、
「大きな声を出すことだけだ指導ではないのです。」
などと、とんちんかんな、暗にその方法は間違っている、というような事を、管理職が言ってしまうのならば、残念ながら、この理想は吹き飛んでしまうだろう。
「精一杯やってください。直接生徒と関わっているのは先生たちなのですから、正しいと思うことは思いっきり指導してください。その結果、何か反作用が出たとしても、私たちが何とかしますから…。安心してください。」
この一言が、現場を一体化させ、先生たちを安堵させるのだ。
私はこれまで数多くの校長と出会ってきたが、こうした校長は今までに一度しか出会ったことはない。誰もが、保身に走り、口にこそ出さないけれども、「私の立場が危うくなる」、と一歩引いてしまう校長ばかりだった。
今の校長もややその傾向があったが、この数ヶ月は変わってきたと思う。
やはり、どこか思うところがあったのだろう。
昨今は、保護者からのクレームがエスカレートし、場合によっては顧問弁護士に相談という事案すらある。
それでも、そうした保護者をも救っていこうと、校長は全力を尽くす。
生徒の行動の背景には、保護者の考え方が大きく影響しているからだ。
セクショナリズムを越えた組織になったとき、他の範となる素晴らしい学校組織になることは間違いあるまい…。
職員会議の冒頭で、校長がそう訴えた。
「誰かがやるだろう、ではなく、自分がやるのです。この学校が、こんな風に自分から動ける集団になっていけば、さらに素晴らしい学校になるはずです。」
と結んだ。
確かにその通りだろう。
「自分は関係ありません。」
という態度の先生がいれば、結局その仕事は別の先生の負担となり、一体化した協力体制のある組織にはならない。
しかし一方で、「自分でやる」ためには、当然責任が伴い、それが上手くいかなかった場合、今度は逆の管理職側がフォローしてくれなければいけないのだ。
「本当はこれ以上の指導が必要だが、それをすれば、クレームが起こるかも知れないな。」
などと、いつも保身に入ってしまえば、生活指導など行えない。
いざというときには、大きな声で叱責することだって必要だ。
その時に、状況も分からないまま、
「大きな声を出すことだけだ指導ではないのです。」
などと、とんちんかんな、暗にその方法は間違っている、というような事を、管理職が言ってしまうのならば、残念ながら、この理想は吹き飛んでしまうだろう。
「精一杯やってください。直接生徒と関わっているのは先生たちなのですから、正しいと思うことは思いっきり指導してください。その結果、何か反作用が出たとしても、私たちが何とかしますから…。安心してください。」
この一言が、現場を一体化させ、先生たちを安堵させるのだ。
私はこれまで数多くの校長と出会ってきたが、こうした校長は今までに一度しか出会ったことはない。誰もが、保身に走り、口にこそ出さないけれども、「私の立場が危うくなる」、と一歩引いてしまう校長ばかりだった。
今の校長もややその傾向があったが、この数ヶ月は変わってきたと思う。
やはり、どこか思うところがあったのだろう。
昨今は、保護者からのクレームがエスカレートし、場合によっては顧問弁護士に相談という事案すらある。
それでも、そうした保護者をも救っていこうと、校長は全力を尽くす。
生徒の行動の背景には、保護者の考え方が大きく影響しているからだ。
セクショナリズムを越えた組織になったとき、他の範となる素晴らしい学校組織になることは間違いあるまい…。
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/8643384
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック